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第1部 伯爵邸での日々
さよなら、動物病院の私
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カン、カン、カン──。
午前7時。静かな住宅街に響くのは、動物病院のステンレス製のケージがぶつかり合う音と、消毒液の微かな匂い。
そして、まだ寝ぼけ眼の動物たちの、遠慮がちな鳴き声。私が働く**『ひだまり動物病院』**の、いつもの朝だ。
「よしよし、みんなおはよう。今日も元気だね」
私はケージの鍵を開け、それぞれの犬や猫に優しく声をかける。ピンと耳を立てる子、尻尾をブンブン振る子、まだ眠くて小さなあくびをする子。彼らの表情一つ一つに、私の心は温かくなる。
私の名前は、天野 梓(あまの あずさ)。この病院で働く、ごく普通の動物看護師だ。
今日の担当は、入院しているモルモットのミルクちゃんと、昨日緊急搬送されてきた野良猫のクロちゃん。
「ミルクちゃん、お薬の時間だよ。偉いね」
ミルクちゃんは心臓病で、今朝も心臓の動きを助ける投薬が必要だ。私は小さなスプーンに慎重に砕いた錠剤とペーストを混ぜ、ミルクちゃんの口元へ運ぶ。小さな体躯に負担をかけないよう、声のトーンも動作も最大限に優しい。薬を飲ませると、ミルクちゃんは私の指に「きゅー」と甘えるように顔を擦り付けた。
この、信頼されていると感じる瞬間が、何よりも私の心を潤す。
次に、クロちゃんのケージに向かう。彼は交通事故の後遺症で、特に頭部への強い衝撃が疑われ、まだ食欲不振が続いている。
「怖がらせてごめんね、クロちゃん。でも、君を助けたいんだ」
私はそっと、ケージの隙間から、温めた高カロリーのウェットフードを差し出した。鼻をピクピクさせながら、クロちゃんは警戒しつつも、少しずつ匂いを嗅ぎ、やがてちゅるちゅると食べ始めた。
「よかった……これで少しは体力が回復するね」
その姿を見て、私は胸を撫で下ろした。
命を救うこと。彼らが健康を取り戻し、家族の元へ帰っていくこと。それが、私の仕事の最大の喜びだ。
診察室からは、院長の優しい声が聞こえてくる。
「レントゲン写真を見る限り、もう大丈夫。これからはしっかりリハビリすれば、完治しますよ」
飼い主さんの安堵した笑顔と、嬉しそうに尻尾を振る犬の姿。この光景を見るたびに、私は思う。
(もし、動物の言葉がわかればいいのに。そうすれば、彼らがどこが痛いのか、何に苦しんでいるのか、正確な症状を、もっと早く理解してあげられるのに……)
それは、私が幼い頃から抱き続けてきた、切なる願いだった。言葉が通じないからこそ、私たちは彼らのわずかなバイタルサインや行動の変化を見逃さないよう、五感を研ぎ澄まさなければならない。
―しかし、それでも限界があることも知っていた。
時計の針は午後8時を指し、長い一日が終わろうとしていた。病院のシャッターが下ろされ、医療機器とパッドの消毒と最後の戸締りを確認する。
ひんやりとした夜風が、私の頬を撫でる。
「ふぅ……」
病院を出て、いつもの帰り道を歩く。街灯の光が途切れ、細い路地に入った時だった。
ガサガサッ!
突然、茂みから飛び出した小さな影が、勢いよく車道へ飛び出して行った。真っ白な毛並みの、小さな子猫だ。
「あ、危ない!」
私の声が、喉からひゅっと漏れる。
同時に、けたたましいエンジンの音が近づいてくる。眩しいヘッドライトが、子猫を捉える。急ブレーキの音が、耳を劈く。
考えるより早く、私の体は動いていた。
一歩、二歩、三歩──。
車道に飛び出し、私は子猫を突き飛ばすように、思い切り抱きかかえて、反対方向へ投げた。
「ニャアッ!」
甲高い猫の声が、一瞬、夜の闇に響き渡る。
その直後。
ドンッ!!
全身を襲う、激しい衝撃。骨がきしむ音、肉が潰れるような嫌な感覚。熱い液体が、口の中に広がる。
視界が、真っ白な閃光に包まれ、そして、ゆっくりと暗転していく。
(あの子猫は……助かったかな……?)
意識が遠のく中、私の耳に、確かに聞こえたのは、無事だった子猫の、驚きと安堵が混じり合った、か細い鳴き声だった。
「ニャ……」
ああ、よかった。あの小さな命を救えたのなら、私の人生も、少しは意味があったのかもしれない。
私は、「言葉は通じなくても、全ての動物を救いたい」という、最期の願いを胸に、意識を手放した。
午前7時。静かな住宅街に響くのは、動物病院のステンレス製のケージがぶつかり合う音と、消毒液の微かな匂い。
そして、まだ寝ぼけ眼の動物たちの、遠慮がちな鳴き声。私が働く**『ひだまり動物病院』**の、いつもの朝だ。
「よしよし、みんなおはよう。今日も元気だね」
私はケージの鍵を開け、それぞれの犬や猫に優しく声をかける。ピンと耳を立てる子、尻尾をブンブン振る子、まだ眠くて小さなあくびをする子。彼らの表情一つ一つに、私の心は温かくなる。
私の名前は、天野 梓(あまの あずさ)。この病院で働く、ごく普通の動物看護師だ。
今日の担当は、入院しているモルモットのミルクちゃんと、昨日緊急搬送されてきた野良猫のクロちゃん。
「ミルクちゃん、お薬の時間だよ。偉いね」
ミルクちゃんは心臓病で、今朝も心臓の動きを助ける投薬が必要だ。私は小さなスプーンに慎重に砕いた錠剤とペーストを混ぜ、ミルクちゃんの口元へ運ぶ。小さな体躯に負担をかけないよう、声のトーンも動作も最大限に優しい。薬を飲ませると、ミルクちゃんは私の指に「きゅー」と甘えるように顔を擦り付けた。
この、信頼されていると感じる瞬間が、何よりも私の心を潤す。
次に、クロちゃんのケージに向かう。彼は交通事故の後遺症で、特に頭部への強い衝撃が疑われ、まだ食欲不振が続いている。
「怖がらせてごめんね、クロちゃん。でも、君を助けたいんだ」
私はそっと、ケージの隙間から、温めた高カロリーのウェットフードを差し出した。鼻をピクピクさせながら、クロちゃんは警戒しつつも、少しずつ匂いを嗅ぎ、やがてちゅるちゅると食べ始めた。
「よかった……これで少しは体力が回復するね」
その姿を見て、私は胸を撫で下ろした。
命を救うこと。彼らが健康を取り戻し、家族の元へ帰っていくこと。それが、私の仕事の最大の喜びだ。
診察室からは、院長の優しい声が聞こえてくる。
「レントゲン写真を見る限り、もう大丈夫。これからはしっかりリハビリすれば、完治しますよ」
飼い主さんの安堵した笑顔と、嬉しそうに尻尾を振る犬の姿。この光景を見るたびに、私は思う。
(もし、動物の言葉がわかればいいのに。そうすれば、彼らがどこが痛いのか、何に苦しんでいるのか、正確な症状を、もっと早く理解してあげられるのに……)
それは、私が幼い頃から抱き続けてきた、切なる願いだった。言葉が通じないからこそ、私たちは彼らのわずかなバイタルサインや行動の変化を見逃さないよう、五感を研ぎ澄まさなければならない。
―しかし、それでも限界があることも知っていた。
時計の針は午後8時を指し、長い一日が終わろうとしていた。病院のシャッターが下ろされ、医療機器とパッドの消毒と最後の戸締りを確認する。
ひんやりとした夜風が、私の頬を撫でる。
「ふぅ……」
病院を出て、いつもの帰り道を歩く。街灯の光が途切れ、細い路地に入った時だった。
ガサガサッ!
突然、茂みから飛び出した小さな影が、勢いよく車道へ飛び出して行った。真っ白な毛並みの、小さな子猫だ。
「あ、危ない!」
私の声が、喉からひゅっと漏れる。
同時に、けたたましいエンジンの音が近づいてくる。眩しいヘッドライトが、子猫を捉える。急ブレーキの音が、耳を劈く。
考えるより早く、私の体は動いていた。
一歩、二歩、三歩──。
車道に飛び出し、私は子猫を突き飛ばすように、思い切り抱きかかえて、反対方向へ投げた。
「ニャアッ!」
甲高い猫の声が、一瞬、夜の闇に響き渡る。
その直後。
ドンッ!!
全身を襲う、激しい衝撃。骨がきしむ音、肉が潰れるような嫌な感覚。熱い液体が、口の中に広がる。
視界が、真っ白な閃光に包まれ、そして、ゆっくりと暗転していく。
(あの子猫は……助かったかな……?)
意識が遠のく中、私の耳に、確かに聞こえたのは、無事だった子猫の、驚きと安堵が混じり合った、か細い鳴き声だった。
「ニャ……」
ああ、よかった。あの小さな命を救えたのなら、私の人生も、少しは意味があったのかもしれない。
私は、「言葉は通じなくても、全ての動物を救いたい」という、最期の願いを胸に、意識を手放した。
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