異世界猫カフェでまったりスローライフ 〜根暗令嬢に憑依した動物看護師、癒しの猫パラダイスを築く〜

きよぴの

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第1部 伯爵邸での日々

もふもふの夢と冷たい現実

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​真っ白で、温かい。

​梓は今、雲の上にいるような、柔らかな感覚に包まれていた。周囲には、もふもふの毛並みを持つ、たくさんの羊たち。

​「メエエ……」

​羊たちは、のんびりとした声で鳴きながら、梓の周りに寄り集まってくる。その毛は、太陽の光を吸い込んだように温かく、顔を埋めると、干したての布団のような匂いがした。

​(ああ、なんて幸せなんだろう。ここは天国かな?)

動物病院での激務や、交通事故の痛みは、すべて消え去っていた。

​一匹の、特に大きな羊が、優しく梓の頭を小突いた。梓は、思わずその羊の背中に体を預け、目を閉じる。羊の呼吸に合わせて、体がゆっくりと上下する。

​(私も羊みたいに、のんびり、ただ太陽の下で眠っていたいな……)



​しかし、その安らぎの時間は、唐突に破られた。



​―ザワザワ、ザワザワ……。



​羊たちの穏やかな鳴き声に混ざって、冷たい、人間たちの声が、耳の奥で響き始めた。

​(またアイリス様が騒ぎを起こしたわ。ほんとうに面倒くさい)

(あの顔色、芝居がかった演技ね)

​温かい羊の毛が、一瞬で冷たいシーツに変わるような感覚。

​「……っ!」

​梓は、思わず目を開けた。


​目の前に広がっていたのは、柔らかな草原ではなく、豪華絢爛な、見知らぬ部屋だった。

​絹の天蓋付きベッド、金の装飾が施されたドレッサー。頭に乗せられた、冷たいシルクのハンカチ。

​そして、自分の手の感触がおかしい。細く、白く、絹のように滑らかな肌。薬品で荒れた自身の手を思い出しながら、梓はまじまじと観察した。

​(な、なんだ、この手は?私のじゃない……)

​混乱する梓を、鋭い視線が射抜いた。ベッドサイドの椅子に座っていたのは、豪華なドレスを纏った、中年の女性。

​「あら、目を覚ましたのね。まったく、騒ぎを起こしてくれて」

​女は、心配の色など微塵も見せず、冷ややかな声で言った。その声を聞いた瞬間、梓の耳の奥に、金属音のような不快な音が響く。

​(この子ったら、また人目を引こうとして……)

​(え?今、声が……頭の中で聞こえた?)

​梓は、目眩を感じた。女は、心底うんざりした表情を隠しもせず、立ち上がって部屋を出て行こうとした。

​「ま、待って……ここは、どこですか?」

​掠れた声で尋ねると、母は振り返り、心底蔑むような目で梓を見た。

​「何を馬鹿なことを言っているの?ここはあなたの部屋、ヴァンクール伯爵家よ。まったく、池に飛び込んだショックで記憶までおかしくなったのかしら。心配なのは、あなたではなく、この騒ぎの評判だわ」

​そう言い残し、女は優雅に、しかし冷淡に、部屋を出て行った。

​呆然とする梓は、メイドが残していったであろう、水を張った桶に自分の姿を映した。

​そこにいたのは、自分の知る動物看護師、天野梓ではない。艶やかな黒髪に、青白い肌、そして何よりも、深く陰鬱な瞳を持つ、美しい少女。

​「アイリス・ヴァンクール……」

​その名前を呟いた瞬間、過去の記憶が一気に頭の中に流れ込んできた。

心の声を聞ける能力。それ故に人を心底嫌悪し、陰鬱に過ごしてきた日々。引き換えに天真爛漫で、​誰からも愛される妹のセシリア。婚約者アランの心が妹に向いているという現実。そして、家族からの冷たい視線。

​アイリスは、アランとセシリアの密会を目撃し、絶望のあまり池に身を投げた。だが、その騒動すらも、「周囲の気を引くための芝居」だと、使用人や家族に決めつけられている。 

先ほどの冷たい視線の女性は、自身の実の母。彼女から聞こえた声から察するに、実母からもアイリスは疎まれている。

​「最悪だ……」

​梓は、ベッドの上で崩れ落ちた。

​しかし、その時、もう一つの異変に気づいた。

​梓は、重い身体を引きずり、窓辺へと近づき、外の庭園に目を向けた。新緑の木々の間から、清らかな小鳥のさえずりが聞こえてくる。

​「チュン、チュン、チー……」

​美しい鳴き声だが、梓の耳には、その音に混じって、まるで会話のように意味を持った声が聞こえてきた。

​(うるさいな、さっきから人間の怒鳴り声が聞こえるぞ。早くどこかへ行こう!)

(あっちの木の方にはネコが居る。気をつけなきゃ)


​(え……?今の、鳥の声が、言葉に聞こえた……?)

​梓は、自分の耳を疑った。だが、聞こえた。確かに、小鳥たちが会話している。

​さらに、窓の外の庭にいる、一匹の黒猫が、ゆっくりと伸びをした。

​(ふあぁ……いい天気。このまま日向ぼっこして、夜はアイリス様の部屋に忍び込んで、暖かく眠ろうかな)

​はっきりと、猫の心の声が聞こえたのだ。
​梓は、息を飲んだ。

​そうか、この体が持っていた能力は、他人の心を読む力だけではない。動物の心も、言葉のように理解できる力。

​「天野梓」としての、長年の切なる願い。

​(動物の言葉がわかれば、苦しんでいる子たちを救えるのに……)

​その願いが、この根暗な令嬢の体で、奇跡的に叶えられたのだ。

​窓から差し込む、温かい光。

​梓の心に、一つの確信が湧き上がった。この体は、妹の引き立て役として自滅するための器ではない。

​(この力を使って、私の、本当の人生を生きよう。誰にも縛られず、動物たちと共に……!)

​冷たい現実の部屋の中で、梓は、動物看護師としての新たな夢を、確固たるものにした。
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