異世界猫カフェでまったりスローライフ 〜根暗令嬢に憑依した動物看護師、癒しの猫パラダイスを築く〜

第1部 伯爵邸での日々

試作品の完成と、伯爵家で起き始めた小さな変化

地下室での秘密の実験

​梓は、サイモンとガスパーの協力のもと、屋敷の裏側にある使用人専用の小さな物置小屋を、一時的な製造拠点として借り受けた。貴族の令嬢が足を踏み入れるにはあまりに不衛生な場所だが、梓にとっては自由への工房だった。

​日が昇る前と、日が沈んだ後の数時間が、梓と協力者たちにとっての勝負の時間だった。
​まずは石鹸作りだ。

​サイモンから提供されたソーダ草の灰と木灰を慎重に水に溶かし、強力なアルカリ液を作り出す。ガスパーからは、料理の残りではない、鮮度の高い上質なオリーブオイルが提供された。

​「これをゆっくりと混ぜ合わせるのよ、ガスパー。温度が重要です。加熱しすぎると、油が分離してしまう」

​「ほう、お嬢様。まるで錬金術師のようだ」

ガスパーは、梓の指示に従い、巨大なヘラで油とアルカリ液を丁寧に攪拌し続けた。

​梓は前世の知識を総動員し、サイモンが持つ薬草の防腐効果や香りの知識と融合させた。

数日間にわたる熟成と乾燥を経て、従来の獣脂石鹸とは比べ物にならないほど低刺激で、穏やかな香りを持つ洗濯石鹸が完成した。

​（なんだ、この感触は！泡立ちが早く、獣脂のあの嫌な臭いがない！これでメイドたちの手が荒れることも減るだろう！）

サイモンは、試作品を手に取り、興奮気味に心の中で叫んだ。

​
​石鹸が完成すると、梓は次にハンドクリームの製造に取り掛かった。

​朝食後の静かな時間、梓はガスパーの厨房の蒸留器（アランビック）を借り受けた。サイモンから受け取った『ラヴィ・ハーブ』と水を蒸留器に入れ、加熱を始める。

​（いい匂いがしてきたぞ！薔薇とは違う、清々しくも甘い、新しい香りだ！）

 ガスパーは、厨房の片隅で作業を見守りながら、提供した油脂が素晴らしい製品に変わることに期待を募らせる。

​水蒸気とともに抽出された精油と芳香蒸留水を丁寧に集め、事前にサイモンが用意した高い保湿力を持つ薬草エキスと、ガスパーの上質な油脂を混ぜ合わせていく。

​梓は、動物看護師時代、頻繁に手を洗うことによる手荒れに悩まされており、保湿力の計算は正確だった。

​完成したハンドクリームは、硬すぎず、ベタつかず、肌にすっと馴染んだ。香りは、セシリアが纏う華やかな薔薇とは異なり、静かで心落ち着くハーブの香りだった。

​（これは売れる。肌荒れに悩む貴婦人だけでなく、水仕事に励む使用人たちにも、必ず求められるわ）
​

​試作品が完成すると、梓はまず、サイモンとガスパーに報酬として製品の一部を手渡した。

​「これは、貴方方の協力への感謝です。使用人の方々にも、ぜひ使ってあげてください」

​二人は喜んで受け取り、早速メイドや馬丁たちに試させた。

​洗濯係のメイドたちは、石鹸の効果に驚愕した
。

​（嘘でしょ！いつもの半分以下の力で泥汚れが落ちた！これなら手が荒れない！）

​そして、水仕事で手が荒れ放題だったハンナも、ハンドクリームを試した。

​（な、なんて潤うの……。あの陰気なアイリス様が作ったものだなんて信じられない……。でも、手荒れが治るなら……）

​まだ心の声は否定的だが、製品の品質は彼女たちの生活の質を劇的に改善した。

​さらに、馬丁たちは、老馬の手当てに使った消臭スプレーの試作品の副産物である芳香蒸留水を使い、馬小屋の臭いを抑え始めた。

​その結果、伯爵家では、静かな変化が起こり始めていた。メイドたちの愚痴が減り、使用人たちの表情が穏やかになり、裏庭の空気さえも少し清々しくなった。

​そして、その変化に最初に気づいたのは、屋敷の「表」にいるセシリアだった。

​「最近、裏口の方から漂ってくる匂いが、以前のような不快な獣臭ではなく、清々しいハーブの香りになっているわ……なぜ？」

​セシリアの心に、かすかな違和感が芽生え始めていた。