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第1部 伯爵邸での日々
ビジネスの始動と賢き協力者たち
しおりを挟む梓は、セシリアとの会話で得た三つの資金源——石鹸、ハンドクリーム、消臭スプレー——の構想を、一刻も早く具現化する必要があった。
彼女の自由への道は、協力者たちにかかっている。
梓が最初に駆けつけたのは、薬草園で黙々と土と向き合っていた老庭師のサイモンだった。
「サイモン、また新たな相談があります。この地方で育つ『ソーダ草』の入手と、もう一つ、強い香りを持ち、防腐効果もある『ラヴィ・ハーブ』を蒸留するための場所についてです」
梓は、石鹸の構想を説明した。
「現在の伯爵家で使われている石鹸は、動物性の獣脂を使った硬い石鹸が主だと聞きました。洗浄力は高いですが、臭いがきつく、貴婦人やメイドたちは使用を嫌がっています」
サイモンは頷いた。
(確かに、メイドたちは洗濯の度に手が荒れると愚痴をこぼしておる。あの石鹸はきつすぎる)
「そこで、獣脂ではなく、シェフ・ガスパー様からもらう質の良いオリーブオイルを基材に変えます。さらに、ソーダ草を燃やした灰と、アクの強い『木灰(もくはい)』を混ぜてアルカリ液を作ります。こうすることで、洗浄力は保ちつつ、臭いと肌への刺激を抑えた、上質な洗濯石鹸が作れるはずです」
サイモンは目を見開いた。彼もまた、長年園芸のために木灰を使っており、そのアルカリ性の強さを知っていたからだ。
「お嬢様……その知識は、もはや薬草学の域を超えています。オリーブ油と灰の配合は、一歩間違えればただの泥になる。しかし、あなたの論理は理にかなっている……」
「力を貸していただけませんか、サイモン。あなたの持つソーダ草の知識と、薬草園の一角を」
「わかりました。私は、あなたの真剣な知識に賭けてみましょう」
こうして、サイモンは梓の「原材料供給・技術顧問」となった。
次に梓が向かったのは厨房。汗を拭いながら巨大な肉塊を捌いていたガスパーに、梓は蒸留器に関する相談を持ちかけた。
「ガスパー様、この厨房にある蒸留器(アランビック)を、朝食後に数時間お借りできませんでしょうか。そして、料理で出た上質な油脂を、少量分けていただきたいのです」
ガスパーは蒸留器を指差した。この蒸留器は、酒や薬草を煮詰めるために使われる、中世の技術としては高度なものだ。
(蒸留器?あの貴族の娘が?しかし、彼女のくれる『芳香塩』は、私の料理を確かに高めた。彼女の求める油脂は、私の料理で出た最高の油だ。交換条件としては悪くない)
「いいでしょう、お嬢様。その代わり、極上の『芳香オイル』を私に分けていただきたい。それが、お嬢様が油脂を求める目的でしょう」
梓は頷いた。
「もちろんです。その蒸留器を使い、私は『ラヴィ・ハーブ』の香りを抽出します」
梓は、ハンドクリームに使う香りの抽出方法を説明した。
「まず、蒸留器に水と、香りの強い『ラヴィ・ハーブ』などのハーブを入れます。それを加熱し、水蒸気を発生させます。水蒸気はハーブの細胞を破り、芳香成分を巻き込みながら、導管を通って冷却部に送られます。冷却された水蒸気と芳香成分は、水と油の二層に分離します。これがフローラルウォーター(芳香蒸留水)と、濃縮された精油です。」
「この精油と、ガスパー様の上質な油脂(ワックスと混ぜて硬化させる)を混ぜ合わせれば、手荒れに効く『癒やしのハンドクリーム』が完成します」
さらに、梓は消臭スプレーの構想も伝えた。
「このフローラルウォーターと、サイモン様から分けてもらう強い消臭力を持つ『リリーフ・リーフ』のエキスを混ぜます。これを霧吹きで撒けば、動物にも無害で、匂いを根本から消す消臭スプレーになるのです」
ガスパーは、自分の優秀な蒸留器が、料理だけでなく、新しい創造的な用途に使われることに興奮した。
(よし!この娘は、私の油脂や蒸留器の価値を最大限に引き出せる。これは、最高のビジネスだ!)
「お嬢様、蒸留器は朝食後、いつでもお使いください!そして、油脂も最高のものを分けて差し上げましょう!そのハンドクリームと消臭スプレーを、必ず成功させなさい!」
こうして、梓は「技術提供・油脂供給」の最高の協力者を得た。
梓の小さな一歩は、孤独な令嬢の夜明けではなく、一つの小さな産業革命として、伯爵家の裏側で静かに始動したのだった。
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