灰の底で君に出会う

鮭茶漬け

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居場所

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まだ空が夜の色を残している時間だった。

 カーテンの隙間からわずかに差し込む街灯の光が、狭い部屋の床をぼんやりと照らしている。
 神崎透は、その薄暗い光の中でゆっくりと目を開けた。

 枕元の目覚まし時計に視線を向ける。

 四時五十八分。

 アラームが鳴る二分前だった。

 透は布団の中で小さく息を吐き、そっと手を伸ばして目覚ましのスイッチを切った。音が鳴る前に止めるのは、もう何年も続けている習慣だった。

 この家では、音を立てない方がいい。

 ほんの些細なことで機嫌を損ねる人がいることを、透はよく知っている。

 透は静かに体を起こした。

 足を床に下ろすと、ひやりとした冷たさが伝わる。この部屋は三畳ほどしかない。もともとは物置だった場所を無理やり片付けて、透の部屋として使っている。

 壁紙はところどころ剥がれ、窓のサッシも歪んでいて、隙間から冷たい空気が入り込んでくる。夏は蒸し暑く、冬は底冷えする。それでも透にとって、この部屋は決して嫌いな場所ではなかった。

 なぜなら、この家の中で唯一、怒鳴り声が聞こえてこない場所だからだ。

 透は立ち上がり、壁に掛けられた小さな鏡の前に立つ。

 そして一瞬、視線を止めた。

 左の頬が少し赤い。

 昨日、叩かれた場所だった。

 指で触れると、まだ鈍い痛みが残っている。

(……まだ腫れてる)

 透は小さく苦笑した。

 でも、それ以上は気にしない。
 前髪を少し下ろして頬を隠す。
 これでたぶん学校では気づかれない。

 透は制服のシャツを着て、ボタンを一つずつ留めていく。その動作はとても静かで、慎重だった。音を立てないようにするのは、もはや体に染みついた癖だった。

 準備を終えると、透は部屋のドアをそっと開ける。

 廊下はまだ暗く、家全体が眠っている。

 階段を下りるときも、なるべく音を立てないように足を運ぶ。木の階段は古く、踏み方によってはきしむ音がするからだ。

 台所に入ると、透はまず冷蔵庫を開けた。

 中身は、ほとんど空だった。

 卵が三つ。
 ウインナー。
 少しだけ残ったキャベツ。

 それだけ。

(……これで朝ご飯作らないと)

 透は少しだけ考えた。

 義父は目玉焼きが好き。
 義妹の美優(みゆう)は甘い卵焼き。
 義母の沙織(さおり)はパンがいいと言う。

 透はそれぞれの好みを思い出しながら、エプロンを身につけた。

 コンロに火をつける。

 フライパンに油を引くと、ジュッという小さな音が台所に広がる。

 透は卵を割った。
 白身が広がり、黄身が丸く残る。
 もう一つのフライパンでは卵焼きを作る。砂糖を少し多めに入れるのは、美優がその味を好きだからだ。

 味噌汁を温め、パンをトースターに入れる。

 透は慣れた手つきで朝食を作っていく。

 料理は嫌いではなかった。

 むしろ、うまく作れたときは少し嬉しい。

 ただ、それを褒められたことは一度もない。
 それでも透は作り続ける。

 怒られないために。

 この家に置いてもらうために。

 料理を並べ終えた頃、窓の外の空が少し明るくなり始めていた。

 夜がゆっくりと朝に変わっていく時間。
 透は一瞬だけその空を見つめた。

(今日は怒られませんように)

 透の願いは、それだけだった。

 やがて透はリビングに向かって声をかける。

「朝ご飯、できました」

 しばらくして、寝室のドアが開いた。

 最初に出てきたのは叔母の沙織だった。
 寝起きで機嫌が悪いのか、髪も整えずに食卓へ近づく。

 そして料理を見るなり、顔をしかめた。

「……また卵?」

 透は背筋を少し伸ばした。

「冷蔵庫にそれしかなくて」

 言葉を言い終える前だった。

 沙織の手が振り上げられる。

 パァン。

 乾いた音がリビングに響いた。

 透の視界が一瞬だけ揺れる。

 頬が熱い。

「言い訳するな」

 低く吐き捨てる声。

 透はすぐに頭を下げた。

「……すみません」

 謝ることは、もう反射だった。

 理由なんていらない。

 謝れば、少しだけ早く終わる。

 それだけだ。
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