灰の底で君に出会う

鮭茶漬け

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 六限目の終わりを告げるチャイムが鳴った瞬間、教室の空気は明らかに変わった。

 それまで机に向かっていた生徒たちがいっせいに顔を上げ、椅子を引く音が重なり合う。張りつめていたものが一気にほどけていくみたいな、騒がしくて、どこか浮ついた空気だった。

 透はその中で一人、まだ机の上のノートを閉じずにいた。

 黒板の右端に残っていた数学の式を、丁寧にノートへ写す。別に今すぐ書かなくてもいい。家へ帰ってからでもできることだった。けれど透は、放課後の教室を誰よりも早く出ることもしなければ、誰かと一緒に教室を出ることもしなかった。ただ、みんなより少しだけ遅れて動き出す方が落ち着いた。

 そうしていれば、誰かに「これからどこ行くの」と聞かれることも少ないし、「一緒に帰ろう」と誘われて断ることも減るからだ。

 透はようやくペンを置き、教科書を閉じた。角の少し潰れた教科書を鞄に入れ、机の上を整える。その頃には、教室の半分くらいはもう空いていた。

「神崎、今日も直帰?」

 背後から、気の抜けた声がした。

 振り向くと、佐伯が鞄を片手に立っていた。透の後ろの席の男子で、必要以上に親しくもなければ、冷たくもない。透にとっては、そのくらいの距離感がありがたかった。

「うん」

「バイト?」

 透は少しだけ笑って頷く。

「そう」

「そっか。お前ほんと働くなあ」

 佐伯は悪気なく言う。その言い方は軽かったが、揶揄というほどでもない。

 透は曖昧に笑った。

「まあ、慣れたから」

「慣れたってすごいよな」

 そう言って佐伯は肩をすくめると、「じゃ、また明日」と片手を挙げて教室を出ていった。

 透はその背中を少しだけ見送ってから、自分も立ち上がる。

 慣れたから、というのは本当だった。

 慣れてしまったのだ。
 学校が終わったら働くことも、働いてから帰って家事をすることも、その間に自分の時間がほとんどないことも。

 慣れている、という言葉は便利だ。つらいとか、しんどいとか、そういうものを全部薄くしてくれる。

 でも、本当に消してくれるわけじゃない。

 透は鞄を肩にかけて教室を出た。

 廊下には部活へ向かう生徒たちが溢れていた。体育館の方からはバスケットボールの弾む音が響き、校庭からは掛け声が聞こえてくる。吹奏楽部の練習なのか、どこか遠くから金管楽器の不安定な音も混ざっていた。

 透はその流れを横目に見ながら、校舎を出る。

 校門の外へ出ると、空はもう西の方から色を変え始めていた。夕方の光は昼の光よりも少しだけ優しく見える。影も長く、風も少し落ち着いている。

 透は通学路を歩いた。

 学校から家までは、普通に歩けば十五分ほど。そこからコンビニまではさらに十分くらい。けれど透は、家の前を通り過ぎるとき、毎回少しだけ息が詰まる。

 まだ帰らなくていい、という安心と、あとで必ず帰らなければいけないという重さが、同時に胸の中に生まれるからだった。

 住宅街を抜け、大通りへ出る。車の音、人の足音、自転車のブレーキの音。夕方の街は人の生活の気配で満ちていた。

 透はその中を静かに歩く。

 途中、パン屋の前を通った。焼きたての匂いが漂ってくる。思わず目がそちらへ向いたが、すぐに逸らす。値札を見なくても、自分が買わないことは分かっていた。

 信号を渡り、角を曲がると、コンビニの看板が見えてくる。

 透はそこで、わずかに肩の力を抜いた。

 不思議だった。家でも学校でもないこの場所に近づくと、少しだけ呼吸が浅くならなくなる。コンビニなんて、ただの商品を売る場所でしかないはずなのに、透にとってはそうではなかった。

 ここでは怒鳴られない。
 ここでは、少なくとも「穀潰し」とは呼ばれない。
 ちゃんと働けば、「ありがとう」と言ってもらえる。

 たったそれだけのことが、透には少し眩しかった。

 自動ドアが開くと、冷房の風が肌に触れた。

「いらっしゃいませー」

 反射的に聞こえてきた声に、透はすぐカウンターの奥へ回る。

「お疲れ様です」

「お、神崎くん。今日も時間ぴったりだな」

 店長がレジの横から顔を出して笑った。

 四十代半ばくらいの男性で、背はそれほど高くないが、いつも少し眠そうな目をしている。だがその目は案外よく周囲を見ていて、透が商品の前出しを済ませたことや、掃除をどこまでやったかも何となく分かっているらしかった。

「学校、終わったか?」

「はい」

「悪いな、いつも夕方入ってもらって」

「いえ」

 透はそう答えてロッカーへ向かい、制服の上からエプロンをつけた。

 名札を胸につける。

 その瞬間、少しだけ気持ちが切り替わる。

 神崎透としてではなく、店員としてそこに立つ方が楽だった。

 夕方のコンビニは、忙しすぎず、暇すぎず、一定のリズムがある。

 学校帰りの学生がアイスや飲み物を買い、会社員が弁当や缶コーヒーを持ってレジに並ぶ。夕飯前だからか、主婦が牛乳や卵だけ買って帰ることもある。

 透はレジに立ち、いつも通りの動作で商品を受け取った。

 バーコードを通す。

 ピッ。
 ピッ。
 ピッ。

「袋、お付けしますか?」

「お願いします」

「温めますか?」

「大丈夫です」

 そうした短いやり取りが続く。

 透はレジの仕事が嫌いではなかった。むしろ、自分には向いているのかもしれないと思うことがある。

 笑いすぎなくていい。
 話しすぎなくていい。
 必要なことだけを、必要なだけ言えばいい。

 その距離感が透にはちょうどよかった。

 しばらくして、いつもの老人が店に入ってきた。

 白い帽子をかぶった、近所に住んでいるらしい客だ。毎日ではないが、週に何度か夕方に来る。

「こんにちは」

 透が言うと、老人は少し目を細めた。

「今日もいるねえ」

「はい」

「学生さんなのに偉いね」

 透はどう返せばいいか迷って、小さく笑った。

 老人は牛乳と食パンを一つずつ持ってきた。

 透が会計をして袋を渡すと、「ありがとう」と言ってゆっくり店を出ていく。

 その背中を見送っていると、店長が隣で小さく言った。

「神崎くんってさ、年寄りに好かれるよな」

「そうですか?」

「うん。なんか話しかけやすいんじゃない?」

 透は少しだけ首を傾げた。

 話しかけやすい、という感覚は自分にはよく分からない。ただ、自分が相手に何も求めていないからかもしれない、とふと思う。

 何かを欲しがる顔をしない人間には、人は気楽に話しかけるのかもしれなかった。

 レジを一人の客が離れたところで、自動ドアの電子音が鳴った。

 透は何気なく入口を見た。

 ランドセルを背負った小さな背中が店に入ってくる。その隣には、同じくらいの背丈の女の子がいた。

 透はすぐに気づく。

「……美優?」

 思わず口の中で名前がこぼれた。

 少女はレジの方を見て、透に気づくと目を丸くした。

「あ、お兄ちゃん」

 義妹の美優だった。

 友達らしい女の子は、透と美優の顔を見比べてから、少しだけ驚いた顔をする。

「え、お兄ちゃん?」

「うん」

 美優は特に気にした様子もなく答え、そのまま飲み物の冷蔵ケースへ向かった。

 友達もその後ろをついていく。

 透はその小さな背中を見ながら、レジの内側でわずかに立ち尽くした。

 美優がここへ来ること自体は珍しくない。学校帰りに寄ってジュースを買うこともある。けれど、こうして友達と一緒に来ると、なぜだか少し落ち着かなかった。

 自分が家の外の人間関係の中に、急に引っ張り出された気がするからかもしれない。

 美優たちは冷蔵ケースの前で何かを話しながら飲み物を選んでいた。

「どれにする?」

「えー、これ」

「それ炭酸じゃん」

「いいの」

 そんなやり取りをして、二人は一本ずつジュースを持ってレジへ来た。

 透は何も言わず、商品を受け取る。

 バーコードを通す。

 ピッ。
 ピッ。

「三百円です」

 そう言った瞬間、美優は財布を出すどころか、当然のように透を見上げた。

「お兄ちゃん、払って」

 声は甘えるというより、命令に近かった。

 友達の前だから、という意識も少しはあるのだろう。けれど本人に悪気はない。いつもそうしているから、今日もそうするだけなのだ。

 透は一瞬だけ言葉を止めた。

 ポケットの中の財布の重さを、ほんの少しだけ意識する。

 けれど次の瞬間には、困ったように笑っていた。

「……はいはい」

 財布を出し、小銭を数えてレジに入れる。

 軽い金属音がした。

 袋に入れて二人へ渡すと、美優は何のためらいもなく受け取った。

「ありがとう」

 友達も「ありがとうございます」と少し小さな声で言ったが、その顔には「本当に払ってくれるんだ」という驚きが見えていた。

 透は「気をつけて帰りな」とだけ言った。

 二人はそのまま店を出ていく。

 ランドセルが揺れ、ガラス越しに二つの小さな背中が夕方の光の中へ消えていった。

 透はその背中を少しだけ見送る。

 すると、隣から店長の声がした。

「神崎くん、優しいなあ」

 透は我に返る。

「……そうですか」

「妹に甘いんだな」

 店長は何気なく言っただけだったが、透はうまく笑えなかった。

 甘い、のだろうか。

 たぶん違う。

 断るという選択肢が、うまく思い浮かばないだけだ。

 それに、美優はまだ子どもだ。自分が買ってやればそれで済むことなら、そうした方が早い。そうやって自分を納得させるのも、透はもう慣れていた。

「……まあ、子どもなんで」

 結局、そんなふうに曖昧に答えるしかなかった。

 店長はそれ以上何も言わず、雑誌の補充へ戻っていく。

 店内にはまた、バーコードを通す音が戻ってきた。

 ピッ。
 ピッ。
 ピッ。

 そうしているうちに、外はすっかり暗くなっていった。

 窓ガラスに映る店内の光が、夕方ではなく夜のものへ変わっていく。客足も少しずつ落ち着き、店内には静かな時間が流れ始める。

 店長が時計を見た。

「神崎くん、今日はもう上がっていいよ」

「はい」

「助かった」

「ありがとうございました」

 透はレジを離れ、ロッカーでエプロンを外した。

 制服の上着を着て、鞄を持つ。店の中の明るさから一歩外へ出ると、夜の空気がひんやりと肌に触れた。

 透は小さく息を吐く。

 これから家に帰る。

 そう思うと、少しだけ足が重くなる。

 けれど歩かないわけにはいかない。

 街灯に照らされた道を、透は静かに歩き始めた。
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