旅する創造主――アノンの世界観

ぼん

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神話時代:精霊の森・精霊との誓い

【精霊の森・精霊との誓い】 第十話:「終わりなき森」

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 森の夜明けは、まるで世界が息をひそめて待ち構えていたかのように、ゆっくりと訪れた。

 祭壇の石には、まだ星明かりの名残が薄く沈んでいる。

 ぼくはそっと手を置き、そのひんやりとした苔を指先でなぞった。掌に沁みる冷たさの奥に、昨夜の祈りが静かに息づいているようで――その感覚に胸が少しだけ熱くなる。

 光でも闇でもない、あわいの時間。

 世界が『目を覚ます』準備をしている気配が、森の奥からふわりと揺れ動いた。

 遠くで鳥が鳴く。

 枝葉を抜ける風が、泉の水面にそっと触れて波紋を落とす。

 そのひとつひとつが、昨日とも今日とも違う、何か新しい始まりの合図のように思えた。

 村では家々の扉が、ひとつ、またひとつと開いていく。

 朝の空気はひんやりとして、土と草花の香りが柔らかく混じり合う。

 その澄んだ気配に、村人たちの足取りも自然とゆっくりになっていた。

◇◇◇

 泉のほとりでは、子供たちが早くも集まって遊んでいた。

 手のひらで水をすくい合い、ぱしゃりと小さな水音が弾ける。

 キリアが輪の中に加わって、年下の子たちに何かを教えている。その横顔には、夜の祈りの余韻がやわらかく灯っていた。

 朝露の中を、精霊たちの気配が大地へと巡っていく。

 風の精霊が村と森の境を撫でるように流れ、目には見えないその動きがぼくの頬をかすかに触れた。

 草の葉は薄い光を帯びて震え、森の気配がふっと膨らむ。

 昔の村にはなかった、やわらかい声があちこちから聞こえてきて、家々のあいだには小さな笑い声が浮かんでいた。

 ぼくは祭壇の石に手を置いたまま、胸の奥で問いかける。

――再生とは、どういうことなんだろう。

 森も村も、昨日と同じように見えて、確実に変化していた。

 光と影のあわいで呼吸する命の営みが、ゆっくりと重なり合い、村人たちの足どりさえも軽くしている。

 つい先日まで精霊を畏れていた大人たちが、今日の空気を深く吸い込みながら、静かに前へ進もうとしていた。

 泉の水面に映る空でさえ、どこか以前とは違った色をしているように思える。

 誰かの声。

 土の温度。

 光に溶ける小さな祈り。

 その全部が、今の村と森を形づくっていた。

◇◇◇

 土の精霊は根を伝って村の奥へ伸び、畑の隅々にまで行き渡る。

 そこから生まれる新しい芽は、まるで森の鼓動が地上に浮かび上がったみたいだった。

 それからの日々は、まるで四季がゆっくり折り重なるように過ぎていった。

 春には若葉が畑を染め、夏には子供たちの声が森へ響き、秋には収穫の実りが村を温めた。

 冬のあいだでさえ、土の奥底には精霊のぬくもりが残り、翌年へとつながる力が静かに芽吹いていた。

 気がつけば、村の家々の屋根は少しずつ新しくなり、森を歩く子供たちの背丈も、知らないうちに伸びていた。

 祭壇の前に立つと、森の奥から淡い光が差し込む。

 それは精霊の息づかいのように、ぼくの掌にそっと重なった。

――命の循環は、どこまで続いていくんだろう。

 目を閉じると、森の鼓動が静かに響く。

 遠い時の底から流れてきた気配が、今この場所に集まっているようで胸がざわめいた。

 村の広場では、花を摘む子供たちが笑い合っていた。

 大人たちも精霊の気配に気づいたのか、そっと手を合わせて空気を味わっている。

 世界は少しずつ、でも確かに生まれ変わっていた。

 ぼくは祭壇に立ち、静かな祈りを繰り返す。

 森の葉は風に揺れ、水面には遠い空の色が溶けていた。

 精霊たちの気配は朝ごとに淡くなり、森と村の静けさのなかで新しい命のざわめきが確かに芽生え始めていた。

 ……けれど、その頃から少しずつ、ぼくの身体は以前のようには動かなくなっていった。

 土を踏みしめる足どりも、祭壇に触れる指先も、どこか薄く、遠い。

 それでも森の奥の息づかい――

 土のぬくもり、風の声、泉のきらめき――

 その全部は、心の奥に深く残り続けていた。

◇◇◇

 日々が静かに折り重なり、世界の輪郭が淡く揺らぎはじめる頃――

 ぼくはひとりで祭壇へ向かった。

 木漏れ日が苔の上で踊り、風が静かに枝を渡っていく。

 ここには祈りの気配だけが満ちていた。

 掌を石に当てると、森の奥から淡い熱が流れ込む。

――ぼくは、そろそろ森とひとつになるのかな。

 遠い昔、観察者として眺めていた世界では想像もつかなかった。

 命の循環が、これほどまでに美しいものだなんて。

 胸の奥で静かに、最後の祈りを繰り返した。

 そのときだった。

 足音がひとつ、こちらへ近づいてくる。

 振り向くと、歳を重ねたキリアが立っていた。

 背中にはあの日と変わらない優しさがあり、目元には長い年月の跡が刻まれている。

「ルオ、今日は……森に、何を祈っているの?」

 キリアの声は少し遠くて、でもやわらかかった。

「ありがとうって、伝えていたんだ」

 ぼくは静かに答える。

キリアはほんの少しだけ目を細めた。

 あの頃と変わらない優しさが、深いしわの間にふっと浮かんだ。

「……ルオらしいね」

 風が二人のあいだを通り抜け、祈りの静けさがまた祭壇を包んでいく。

 やがて、村の人たちが少しずつ集まってきた。

 誰も声を上げない。ただ、年月を重ねた身体で、この場所にそっと足を運ぶ。

 枝葉の隙間から光が落ち、泉の上に淡い帯をつくった。

 その光の中で、精霊の気配がわずかに揺れる。

◇◇◇

 人々は祭壇の周りで手を合わせた。

 まるでそれが自然の呼吸であるかのように、何の合図もなく祈りがひとつに重なっていく。

 子供のころ、この場所が怖くてたまらなかった日があった。

 森の暗がりに怯え、精霊を遠ざけようとした日が。

 けれど今、目の前に広がる光景は、その頃の痛みをそっと包み込んでくれるようだった。

 キリアがぼくの隣に座り込んだ。

 歳を重ねた動作のひとつひとつが、なぜかとてもあたたかい。

「ねぇ、ルオ。あなたが守ってきたんだよ。この森を。村を」

 キリアはそう言って、ぼくの肩を軽く叩いた。

 その言葉が胸の奥深くまで沈んでいく。

 ぼくは守られながら歩いたわけじゃない。

 誰かに褒められることを求めていたわけでもない。

 ただ、森の声に触れ、村の変化に寄り添い、祈りを手渡してきただけだ。

 それでもキリアの言葉は、どこか懐かしい痛みを溶かしていった。

◇◇◇

 精霊たちの光が、泉の上できらりと跳ねた。

 朝よりも淡く、けれど確かに優しい揺らめきだった。

 村の人々がそれに気づき、静かに息を呑む。

 誰もがその光に祈りを託すように、ゆっくりと手を合わせた。

 ぼくは祭壇近くの岩に寄りかかりながら、目を閉じた。

 土の温度。

 風のざわめき。

 泉のきらめき。

 すべてが静かに重なり合い、ぼくの身体をやわらかく包み込んでいく。

――精霊たちは、いつだってそばにいてくれた。

――命が途切れることはない。

 胸の奥で、その確信が静かに芽吹く。

 キリアの祈りの声が風に乗って流れ、続くように村人たちの声が重なった。

 祈りの響きは、森の奥へ、さらにその先の時代へと吸い込まれていった。

 泉の上空へ、淡い光がひとすじ昇っていく。

 その光は――まるで『約束』が形になったみたいだった。

◇◇◇

 ぼくの意識は、森の奥深くへそっと沈んでいく。

 村と森が回復し、祈りが受け継がれていき、精霊の光が世界のどこかへ流れていく。

 それらすべてを、ぼくはかすかな安心のなかで見つめていた。

――遠い昔。

 世界を見ていた頃、こんな瞬間が来るなんて思いもしなかった。

 森と村の営みがこんなにもあたたかく、やさしい循環として続いていくなんて。

――観察者という在り方は、きっとこのためにあったんだ。

 心がそう言葉を返した。

 森の声が、祈りの余韻と混じり合い遠くへ、また遠くへと溶けていく。

 生まれ変わるような静けさが祭壇を包み、枝葉の隙間から差し込む光が淡く揺れた。

 ぼくは最後の祈りを胸の奥でそっと抱いた。

 森と村の営みは、きっとこれからも続いていく。

 祈りと約束は、誰かの心に宿りながら時代を越えて、未来へと響き続けるのだろう。

 これが、ぼく――いや『私』の観察者としての、静かな終わりなのだ。

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