幸せの定義 ~初恋の代償~

黄金色のかたつむり

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2017年8月 『あさのにじ 中』

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 柏木琴華
 
 中学から引き続き吹奏楽部に入り、今日で四度目の吹奏楽コンクール。リハーサルを終え舞台袖で他校の演奏を聴きながらみんなそわそわと待機する。
 ──どんな演奏になるかなぁ。
 高校生になって勉強が難しくなったり予習が多かったりはするけど、それでもを重ねた分活動が許される時間は長く満足に練習ができた。きっと金賞はとれないレベルだけど、本番の奇跡なんてものを信じてみてもいいかな、なんて思う。
 そんなことを考えていたらなんとなく視線を感じ振り返る。十人くらいの部員を挟んだ先でぽんと飛び出た朋成くんの顔があった。背が高いなぁなんてどうでもいいことか可笑しい。朋成くんの表情は真剣そのものだったけど、緊張はあまりしていないみたいだ。
 楽しもうね。
 初めての彼氏に向けて微笑む。当の彼氏はキョトンとしつつも、安心したのかさっきより少し表情が和らいでいた。
 
 演奏したのは「おもちゃ箱のファンタジー」という曲。
 リコーダーが出てきたり、手や足を使ったストンプをしたり、よくファミレスのレジに置いてあるコールベルを使ったりと吹奏楽にしてはかなりおかしな曲。真夜中を告げる鐘の音が響くと、ブリキの兵隊がカチャカチャと行進を始める。子供部屋の片隅では埃を被ったフランス人形とテディベアが情動的なワルツを踊り、汽車のおもちゃが賑やかに駆け抜けるとおもちゃたちは慌てておもちゃ箱へと戻る。
 とある子供部屋に住むおもちゃたちの密会を夢いっぱいに膨らませた絵本みたいな曲を、私たちは全力で奏でる。一音一音の意味を持ちうるすべての技術で表し、曲と共にはしゃいで憂いて、丁寧に丁寧に物語を紡いでいく。
 曲もいよいよ終盤に差し掛かり汽車が走り出すまさにその時。
 シューーぽっぽーっ!
 夢中で指揮を振る瀬田先生の向こうに、「あ!」と目を輝かせる男の子の姿が見えた。
 
 ──笑った!
 
 あの子の目の前では今、赤や黄色に塗られたおもちゃの汽車がぬいぐるみや積み木を乗せ走っているだろう。食い入るような目線と上気した頬が可愛らしかった。
 コンクールという厳正な場に似付かない無邪気な様子がなんだか可笑しくて、嬉しくて。
 賞なんてもう、どうでもよかった。
 
 *
 
 すべての高校の演奏が終わって、閉会式で結果が発表された。コンクールが、終わった。
 式の後は高校ごとに広場やロビーに集まって、審査員の講評を読んで部長の言葉を聞きながら泣いて笑って。この夏のすべてを捧げた自分たちの青春を噛み締める時間。私たちも会場前の広場でミーティングをした。
 コンクールの結果は予想通り銀賞だった。悔し涙を流す部員は何人もいたし、私だって勿論金賞がほしかった。
 でも、あのとき見えた子供の笑顔がすべてだったように思う。絵も歌もなく楽器を持った高校生が座っているだけの空間で、小さな子供がキラキラした目で笑い楽しんでくれたこと。それだけで良かった。いい成績を残すというコンクール特有のゴールさえ目を瞑ってしまえば、あの子の心に響いた私たちの演奏は決して失敗ではなかったと確信していた。
 私は満足感で満ち足りていて、穏やかに瀬田先生や部長の話に耳を傾ける。その途中、ちらりと隣を見上げると、朋成くんは奥歯をぎゅっと噛み締め前を見つめていた。
 その表情は悔しさを乗り越えた決意がみなぎっているように見えた。朋成くんにとっては、初めて自分の音楽が他人に点数で示された瞬間だったことを思い出す。私も中学のとき散々泣いたっけ。
 前を向けば、瀬田先生も目に涙を溜めていた。先輩の話によれば、先生は中学高校と帰宅部を極め、大学からバイオリンを始め教員になり、吹奏楽に出会ったのは去年らしい。そして始めて、今年指揮者を務めた。先生もまた、初めて評価を付けられた者の一人なのだ。
 来年は、金を取りに行こう。私のために、そして、彼等のために。私は静かに手を握り締めた。
 
「ありがとうございました!」
「ありがとうございました!」
 ミーティングが終わると、現地解散になった。日鞠に誘われ一年みんなで写真を撮る。即座にラインのグループに送られてきた写真で、黒いワイシャツに黒いズボンを履いた本番衣装の部員たちがキラキラした顔で笑っていて、その中にはあの男の子とおんなじ顔をした自分がいた。野球応援の後とは違い、今回は自然に写れた。先月より日鞠や他の仲間たちと打ち解けて来たからか、体を寄せあい写真を撮ることに抵抗がなくなっていた。
 日鞠とは、先月からかなり仲良くなった。というのも、野球応援の翌日のパート練のとき同じパートの恵咲えみ先輩の前で「琴華って、宇野のこと好きでしょ?」なんて言ったせいだ。その一言のせいで恋心を自覚してしまった上、見かけ以上にミーハーな恵咲先輩にまでバレたもんだから、それからというものパート練のたび強制的に恋バナが繰り広げられた。その上日鞠はコミュ力が鬼のように強く、一緒にいるだけで他の一年の部員とも話す機会が増えた。
 暴露された時は日鞠のことを恨めしくも思ったけれど、日鞠のお陰で恵咲先輩とも仲良くなれたし、一年の輪にも馴染むことができて、朋成くんの彼女になれた。今は感謝しかなくて、大切な大好きな友達だ。
 
「結果はあれだけど、なんだかんだ楽しかったよね」
「それな!この曲でよかったわー」
「わかるーてかめっちゃ曇りだけどギリ雨降んなくてマジ助かったわ」
「あー打楽器濡れたら音程死ぬもんね」
 写真を撮り終えると一年は散り散りになってそれぞれ仲のいい友達と雑談に花を咲かせた。野球応援とは違い演奏が終わってから結果が出る閉会式まで沢山時間があったため、一度学校に戻り楽器は既に全部学校にしまってある。
 日鞠は同じクラスの部員たちとご飯に行くと言って早々に会場を後にした。私は朋成くんの所へ行く。
「お疲れさま。」
 声をかけると朋成くんは「おつかれ」と返してくれた。顔は無表情に近いが、目には疲労の色が浮かんでいる。
「楽しかった?」
「まぁ、うん。楽しめたとおもう。」
「よかった。」
 微笑めば、朋成くんの目もやわらかくなる。その瞬間がたまらなく好きだ。私は溢れる幸福を噛みしめた。日鞠、ほんっとにありがとう…!
「柏木っ!」
 突然、大きな声で名前を呼ばれた。
 呼ばれた方に顔を向けると、声の主である瀬田先生が早足で近付いてきている。その隣には帰ったはずの日鞠がいた。
 二人の表情に、心臓がどくり、と嫌な音を立てる。何かとてつもなく恐ろしいものが二人と共に近付いてくる気がして、息が浅くなる。
 
 こないで
 
「…柏木」
 瀬田先生が口を開いた。
「これ、柏木のご両親と妹さん…だよね?」
 先生の手から、スマホが渡された。
 日鞠のスマホだった。
 画面は、検索エンジンに出てくる最新ニュースの一つだった。
「………」
 …え?
 なに?これ…
「琴華…」
 日鞠の声が震えていた。
 目の前の文字の意味がわからない。
 頭がうまく働かない。
 
『交通事故で親子三人死亡 吹奏楽コンクールの帰りか』
 
『………亡くなったのは、柏木努(54)、美知子(43)、穂乃花(6)………』
 
「いま警察から連絡があった。辛いと思うけど、俺と今から警察病院に行こう。」
 瀬田先生はそう言った。
 なにもかもが信じられなかった。
 信じられな過ぎて頭がからっぽになった。
 この目で見るまで何も信じられないと思った。
 会わなくちゃいけない。
 それだけはわかった。
「……はい」
 声が掠れていた。
 スマホを日鞠に返した。
 日鞠は不安そうに私をみた。
 隣にいる朋成くんが視線を送ってきた。
 いつもの私なら微笑んで大丈夫と言ったかもしれない。
 でも表情筋は動かなかった。
 振り返って、二人の頭をそっと撫でた。
 それが精一杯だった。
 
 *
 
 電車を乗り継ぎバスに乗り、一時間かけてようやく病院にたどり着いた。
 瀬田先生が私の名前を受付で伝えると、後ろからスーツを着た男女二人が近付いてきた。
「柏木琴華ちゃん?」
 女の人が尋ねてきた。ここまで移動している間に冷静になれたからか「はい」と芯のある声で返事ができた。
「入間です。あなたの家族について調べてる刑事。」
「同じく加賀です。」
 警察手帳を見せられた。女の人が入間さんで、男の人が加賀さん、か。なんだかテレビみたいな光景に少し緊張がほぐれた。
 入間さんはまっすぐ私を見つめて「行こうか」と言った。その姿がなんだかとても心強くて、しっかり頷く。
 先を歩く入間さんと加賀さん。細身ながらもしっかりと筋肉のついた加賀さんは野球部さながらの丸坊主に最大限あげた黒ネクタイ、黒ジャケット黒スラックス、いつでも葬儀に出れそうな格好で。きっと周りが呆れるほどの生真面目なんだろうな。入間さんは多分まだ二十代でとても綺麗な人。背は私より少ししか変わらないし見ててちょっと怖くなるくらい細いけど、さっきの瞳から放たれた凛とした強さは本物だと思った。
 二人が前に並んで歩いているだけでなぜか安堵する自分が不思議だけど、この状況で安心できる存在が増えるのはありがたい。二人の後に瀬田先生と続いた。
 
 案内されたのは病院の地下二階の最奥。ギィ、と重そうな鉄の扉が開かれると、そこはコンクリート剥き出しの部屋だった。真っ白なベッドが三つ、その奥に線香が二本と蝋燭が一対、両脇に白い菊の花。一歩足を踏み入れると、空調なんて見当たらないのに酷く寒く、立ち込める線香臭い空気がずんと冷たかった。これが、霊安室なんだ…
「お顔を確認していただけますか。」
 加賀さんにそう言われ、ゆっくりと足を進めた。
 中央のベッドの横に立つと、加賀さんが丁寧に白い布をめくりあげていく。
「──っ」
 そこには、気味が悪いほど青白いお母さんの顔があった。その奥のベッドにはお父さん、振り返ると穂乃花…
「わ、たしの、家族、です…」
 そう口にした瞬間、身体がガタガタと激しく震えだした。ガクンと膝が折れ、冷たいコンクリートに座り込む。血という血が凍りつき、背骨をずるっと引き抜き替わりに氷水を注がれたような痛みを感じるほどの寒気が襲ってきた。
 言葉にならない恐怖と動揺がどんどん脳を支配していく。震えが激しくなり、痙攣に変わっていくのがかろうじてわかった。
「──っ、────!!」
 
 ぱさ…
 肩や背中に温かさを感じた。瀬田先生が着ていたジャケットを羽織らせてくれていた。先生はかがんで背に腕を回し、先生の右手が私の右手を包み込む。いつの間にか固く握りしめていた拳に、先生の体温がゆっくりと染み込んでいった。
「柏木」
 先生の低くやわらかい声が背骨の緊張をほぐしていく。震えが収まるまで、先生はずっと私の肩を抱いてくれた。
 ──しっかりしなきゃ。
 一度大きく深呼吸をし、立ち上がる。
「取り乱してすみませんでした。私の両親と妹に間違いありません。」
 はっきりそう答える。先生の手は立ち上がったときに離れたが、肩に掛かったジャケットが温かかった。
「司法解剖やるのに同意書とか書いて貰わなきゃいけないんだけど、琴華ちゃん以外に親戚の方って誰かいる?」
 入間さんが訊いてきた。
「イギリスに父方の叔父夫婦がいます。他には誰も。」
「そっか。じゃあ叔父さんには私達から連絡いれるね。同意書は琴華ちゃんにお願いしていい?」
「はい」
 叔父の連絡先を伝えると、加賀さんはスマホを握り霊安室から出ていった。
「あ、あれ社用スマホだから心配しないでね。」
「え、あ、はい」
 入間さんの目が穏やかに弧を描いた。と思うと、次の瞬間にはまっすぐ射るような強い眼差しを向けてきた。
「もう知ってると思うけど、犯人はまだ捕まってない。でも、私達が命を懸けて見つけ出してムショにぶっ込むから、私達を信じて待ってて欲しい。」
 入間さんの口調からその熱が伝わってきて、この人たちが全力を賭けてくれてることはしっかりと受け取れた。
「ありがとうございます。でも……」
 命は、懸けないで下さい。
「え…?」
 入間さんは酷く驚いて目を丸くする。
「きっと入間さん達なら命を懸けるまでもなく犯人を捕まえてくれると思いますし、入間さんに何かあったら、加賀さん、きっと使い物にならなくなっちゃいますよ。」
 二秒の沈黙の後、入間さんはブフッとわかりやすく吹き出した。
「私情は禁物だってあれほど言ってんのにあのハゲ…確かに琴華ちゃんの言う通りだわ。うん、わかった!命捨てませんっ!」
 入間さんがニカリと笑って敬礼した。ウェーブを描く肩上までの髪がふわりと揺れて素敵だった。やっぱりあの二人は特別な関係なんだなと確信する。初めて会った時のえもいわれぬ安堵はやっぱり二人のお陰だろうな。
「琴華ちゃん、」
 優しく名前を呼ばれて入間さんを見つめ返す。
「ありがとね。琴華ちゃんとは仲良くなれる気がするよ。」
 ハイ、これ。
 手の上に冷たいものが乗った。
「財布とか携帯とかは書類を出さないと渡せない決まりなんだけど、今日はもう遅いから。とりあえずこれ、返しておくね。」
 手元に視線を落とすと、それはお父さんとお母さんの、結婚指輪だった。両親の、形見。
 私はそれをズボンのポケットにそっとしまい、もう一度ベッドに向き直った。
 青白い顔をした、私の家族達。お父さん、お母さんと一枚ずつ丁寧に白い布を顔に被せていく。
 最後の一人、妹の穂乃花はまだ六歳。色を失ってもなお幼さを残すふっくらとした頬を優しく撫でる。
「おやすみ。穂乃花」
 その小さな顔にも布を被せて、入間さんの誘導に従い霊安室を後にした。
 
 エントランスに戻る頃には、もう十九時半を回っていた。通常診療は終了し人気はまばらだ。
「叔父さんに連絡しといたよ。明後日の朝の便で来るそうだ。」
「明後日?明日じゃなく?」
 加賀さんの言葉に入間さんが疑問をぶつける。隣の瀬田先生も入間さんと同じように疑問の表情を浮かべていたので、私が説明した。
「叔父はイギリスで衣料品のブランドを経営する社長でスケジュール調整が大変なんです。明後日でもかなり早い方だと思いますよ」
「しゃちょおサマッ!すげぇ…!」
 素で(そしてかなり奇抜なリアクションで)感心する入間さんの頭をスパァンッと加賀さんが物凄い勢いで叩いた。うわ痛そう…と私も瀬田先生も固まる。
「ってぇな何すんだこの筋肉ハゲ!」
「ハゲじゃねぇ!てか状況考えろ!」
「んなことわかっとるがや!あえてですぅあーえーてー!」
「んだと!?」
 二人が睨み合う。小学生か。と思ったが、妹とその友達の喧嘩が目に浮かび「幼児」に訂正しておいた。てか距離近い。仕事中でしょ?彼氏もちの私はともかく、確か瀬田先生は独身…
「入間さん加賀さん、ストップストップ。看護師さんに怒られますよ。」
 てか私達を放置しないで下さい。
「「あ、ごめん」」
 仲良くハモって謝られた。ラブラブ見せつけてこないでくれまったく…
「とにかく、」
 加賀さんがネクタイを整えながら私と瀬田先生の方に向き直る。
「書類等も叔父様が到着してから立ち会いのもと書いて頂くので、また明後日こちらに来ていただけますか。」
「わかりました」
「あ、あとこれ私の連絡先。何かわかんないこととか困ったことがあったらいつでも連絡して。」
 ありがとうございます。と二つに折られた紙を受け取る。
「では、私達は捜査に戻りますのでこれで。」
「琴華ちゃんまたね!」
「ありがとうございました、よろしくお願いします。」
 建物の奥へと消えていく二人に深く一礼し、瀬田先生と警察病院を出た。
 
「あー…」
 瀬田先生が立ち尽くす。外はどしゃ降りの雨だった。むわっと湿気をはらんだ熱が一気に身体中に纏わりつくいてくる。
「私、傘持ってますよ」
 持ち歩いてるトートバッグから折りたたみ傘を取り出し先生に差し出す。
「私が持ったら先生濡れちゃいます。先生持ってください」
 傘を見た先生は、うっとあからさまに気まずそうな顔をした。
「や、流石に柏木の傘にいれてもらうのは…」
 立場的に色々…と一人でゴニョゴニョ言っている。こんなところでそんなこと言うなんて。待っていたところできりがなさそうな先生のゴニョゴニョを一括する。
「こんな遠くまでうちの高校の人がこの大雨の中出歩いてることの方が考えにくいですし、私いま、制服着てませんから。私のこと姪か何かだと思い込んで堂々と歩いてれば全然怪しまれないと思いますよ?」
 うーん…と先生が揺れる。そりゃ揺れるよね。先生まだ二十六で若いし、教え子の女子高生と相合傘なんてスクープでスキャンダルなのは理解できる。でも元々体調を崩しやすい瀬田先生。私のせいで風邪引かれたらこっちだって堪ったもんじゃないのは是非わかってほしいところ。
「大丈夫、雨が全部隠してくれますから。」
 そう言い放つととうとう先生も腹を括ったらしく、ありがとうと傘を受け取ってくれた。
 
「それ着たままで暑くない?」
 バス停に向かう途中、瀬田先生が訊いてきた。肩に掛けたままになっている先生のジャケットのことだ。
「んー、暑いです。でも脱ぎたくないんですよね、なんか…」
 ──なんか?…なんで?
 言葉に詰まると、急に足の付け根から足首までがぐんと重くなった。あれ?と思いならも、あまりの重さに立ち止まってしまう。
「柏木?」
「すみません、足が、急に重く…」
 ぽろ、ぽろろ。
「…あれ……?」
 勝手に、目から熱い水が出た。それは急速に熱を失いながらぽろっと地面に落ちていく。
「…」
 瀬田先生は、私をじっと見つめながら傘を差し出した。初めて見るその強い眼差しに気圧されるがまま受け取ると、先生は黙って傘とは逆の手を取り歩き出した。腕を引かれている。どうすればいいのかわからず、言葉も出ず、視界も一気に滲んで歪んで、とにかく頑張って足を前へと揺らした。ずっと足元を見ているのに、泣いてるからか足はなにもない平らな道で躓き、そうでなくても縺れ、先生に引っ張られるような変な格好になりながらなんとか進む。
「柏木」
 バチバチと傘を叩きつける雨音の向こうから先生の声が聞こえる。
「柏木は、一人じゃない。だから今は泣いていい。俺がちゃんと、柏木のこと支えるから。」
「………」
「大丈夫、雨が全部隠してくれる。」
「……っ、うぅ……」
 自分の台詞をまんま返されたのは少し気になったが、先生の言葉はまっすぐ私の胸に突き刺さり傷口が熱を持つ。目線を前に向ければ、そこには降りしきる雨にどんどん濡れてワイシャツが貼りつく、細身な割に意外と広い背中。そこから発された声が、必死で守っていた私の中の何かを一気に溶かしてしまった。ぼろぼろと堰を切ったように熱い涙が溢れ出して止まらなかった。
 背筋の凍る恐ろしい空間。
 立ち込める線香の匂い。
 不気味に光る白い菊。
 青白くなった冷た過ぎる頬。
 手渡された結婚指輪。
 あれだけ見てもまだ実感が湧かない家族の死が、思い出したくもない映像のくせして苦しいほど鮮明に心に焼き付いて離れない。失ったものの大きささえまだよくわからないのに心臓がえぐられ痛かった。止めどなく流れ続ける涙を拭く余裕もなく、俯いたまま泣くしかなかった。
 
「柏木、後ろ座りな」
 瀬田先生の声に顔をあげるとそこは病院の最寄駅前で、目の前には一台の車が止まっていた。
「…?タクシーですか…?」
「うん。海原みはらさんが柏木の住所調べてくれたから、家まで送るよ。」
「でもお金…」
「いいから。乗って。」
「…ありがとうございます」
 そう言えば入部した時に住所とか電話番号とか個人資料に書いたな。てことは海原先生、主顧問の瀬田先生と違って副顧問なのにわざわざそれを確認するため学校に戻ってくれたんだ。
 先生は助手席に座り私の家の住所を運転手に告げた。車が走り出す。流れる外の景色をぼんやりと眺めていると、息が整い気持ちが凪いで静かになっていった。
 ふと指輪の存在を思い出して、ポケットから取り出す。ひら、とそこから落ちかけた入間さんの連絡先も一緒に膝の上に置いた。
 銀色の大小の二つの指輪。お母さんは料理をする時外すこともあったな。そんなことを思い浮かべたら、いつかの光景が目に浮かんだ。
 職場であった出来事を楽しそうに話してくるお母さん。遊んで遊んでといつもへばりついてくる穂乃花。趣味のカメラの話を語りだすと止まらなくなるお父さん。
 思い起こしてしまった温かな家族の一時が冷房の効いた車内に呑み込まれて消える。あれほどみっともなく泣いたのにまた涙が出そうになって、急いで他のことをしようと頭を働かせた。そうだ、入間さんの連絡先をスマホに入れとこう。
「……っ、」
 入間さんまで私をいじめた。広げた紙の上にポタンと一滴の水が落ちる。
 
──ちゃんと泣いておいで。
 
 電話番号とメアドの下に書かれていた、言ってみれば王道なメッセージ。でも、今のこの不安定な私にはかなり来るものがあった。両目に溜まった涙を拭うと、紙の端に小さく『叙々苑の焼肉弁当がオススメ』。食べて元気だしてってことかな?薄々気付いてはいたけど、入間さんって変な人だ。入間さんのやること為すこと可笑しくて、じんわりと染み渡る温かさが自然と私を笑顔にしてくれる。素敵な人だ。
 折り畳んだ紙を両手でそっと挟んで、一滴だけ、涙に流れることを許してあげた。
 
 *
 
 タクシーを降りると、雨は止んでいた。瀬田先生は走り去る緑色をぼんやり眺めている。
「これ、ありがとうございました」
 ずっと肩に掛けさせてもらっていたジャケットを先生に渡す。先生はああ、とだけ言って受け取った。
「瀬田先生、」
 背筋を伸ばし、まっすぐ先生を見る。先生も私の目を見た。
「今日は本当に、ありがとうございました。」
 深く、長く、礼をした。
 先生が一緒に居てくれなかったら、家族をちゃんと見ることは出来なかっただろう。感謝は勿論、朝は私たちより早く学校に着き、初めての指揮を振り、結果に悔し涙を浮かべた先生を夜遅くまで付き合わせてしまった罪悪感もあった。
 ぽん、と先生の手が左肩に置かれる。
「うん、ごめんなさいは要らないからね」
「…」
 頷けなかった。先生の声は疲れが滲んでいて、それが余計に申し訳なかった。
「柏木。」
 呼ばれて顔をあげると、そこには優しい笑顔の先生がいた。私を包んだその穏やかな雰囲気は、少しお母さんに似ている気がした。
「明日、九時からコンクールの反省会。あと、午後には一年で打ち上げだっけ?」
 そうだ、明日も部活だ。しかも日鞠が打ち上げを企画してくれていたんだった。
「ちゃんと来てね。」
 ぽんぽんと再び私の肩を叩く。先生の手は少し冷たかった。
「おつかれ。また明日。」
 駅に向かって歩いていく先生を、ただ黙って、その姿が消えるまで見送った。
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