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第九話 傀儡に預ける新時代
しおりを挟む「ショウキが自殺未遂をしたんだって」
マキヒに代わって洗濯物を干していたアタカに、イチタは前後の脈絡もなくそう言った。
言葉の意味を理解するまで数秒を要した。自殺とショウキというのがどうしても結びつかず、何故彼女がそんなことをする必要があるのだと混乱した。
「…自殺? なんで?」
散々悩んだ挙句出てきたのがこれだった。
頭を押さえるアタカに絞った服を渡し
「さぁ。聞いたのは昨日だけど、ほら、フブァル村の噂好きなオバちゃんに手紙を届けたでしょ。あの人が言うに、起きたのは随分前らしいから」
まるっきり他人ごとのように話す。
最後に彼女と会ったのはいつだっただろうと思い出しながら、同時にイチタは本当に彼女のことが好きだったら、こんな風に呑気に話もしている訳がないのではと勘繰った。
「あんな……奴でも自殺するんだ」
ウリの前でも体をくねらせ媚態をさらしていた彼女が、死をも覚悟させる悩みを持っていたとはにわか信じがたい。服の皴を伸ばし紐へかけると空からまた、白い雪が降ってきた。
「まぁ未遂だけどねぇ。あれからペジュも彼女のところへいっていないみたいだし、しばらくゆっくりできるんじゃないの?」
空になった桶を持って踵を返す。
「ふぅん…」
曖昧に頷きながらアタカも家へ戻った。
家の中ではマキヒが暖炉の前に座り繕いものをしていた。去年二人が着ていた服に生地と綿を足して裾を伸ばしている。この一年でアタカもイチタもぐんと背が伸びた。届かなかった納戸にも手が届き、持てなかった量の薪を背負えるようになった。
「洗濯物は終わったのかい?」
「うん。でもまた降ってきたから凍るかもしれないねー」
見えない目を窓へ向け嘆息する。「頻繁に降る割には…積もらないねぇ」
「それより母さん」
暖炉の周りに腰を下ろしながらイチタは器用に針を操るマキヒの手元を覗いた。
「今年はぼくが青い布にしてよ。去年は色移りしちゃって白がピンクになっちゃったから」
頬を膨らませるもその表情は柔らかだ。
「じゃあこれは何色?」
「それは青だよ」
とアタカが答えた。
「イチタの目の色と同じくらい青いや」
彼の答えに嬉しそうに頷くと
「じゃあこれをイチタのものしよう。アタカの目は何色だい?」
「…金色、だよ。でもそんな色のないから、俺、その隣にある奴でいい」
と言って既に仕上げてある灰色の服を指指した。
「わかった。じゃあさっさとこっちも仕上げちゃうから、あんたたちはこれでも着て遊びにいっておいで」
「はーい。そうだアタカ、裏から薪をとってこよう」
彼の提案に相槌を打ち二人は再び家を出た。
内と外の気温差に鳥肌を立てたアタカは、ほんのりと雪化粧を始めた地面に足跡をつけながらイチタと家の裏側へ回った。
冬ごもりの為に準備した薪が雪よけの屋根の下に積まれている。村中が協力して木を切り、それぞれの家庭に合わせて分割したのだがそれで足りない可能性もあると思ったアタカたちは二人でこっそり薪を集めておいた。
「イチタの目はマキヒと同じ色だよな…」
視界に白いものをちらつかせながら、積み上げていた薪を両肩に抱えるイチタに向って発した。
「だからぁ?」
小首を傾げてイチタも問う。
「アタカ、最近ちょっと疲れてるの? なんか変だよ」
「…お前の人使いが荒かったから疲れが出てきたんだよ」
ぷいっと顔を背けこれ以上表情から本音が露見することを避けた。
「それよりさ、ショウキのこと放っておくの?」
「ショウキを? なんでぼくが?」
あからさまに疑問符を浮かべるイチタ。その自然な反応に、本当に彼女のことをどうこう想っていないのかもしれないと思った。
「好き…じゃないんだ」
自分自身に向って安堵するように呟く。何故彼女が自殺を図ったのかも気になったが、それよりも今のアタカにはマキヒの方こそ気にかかった。
本当に生まれついてから盲目だったのか否か…。同じ疑問が彼の中で空回りする。
いつもイチタが傍にいたが、マキヒが一人でいる時を見るとどうしても抑えられない衝動に駆られる。
(マキヒ、俺たちに嘘吐いているの?)
聞きたい。だけど曲がりなりにも息子であるイチタにも偽っていることを、そう簡単に問いただせる訳がない。微妙な距離感。家族だと思う相手にでも、こうして遠慮をしなければいけないこともあるのだとアタカは知った。
「アタカも持ってよぉ。か弱いぼくに持たせるつもり?」
「あ、ごめん。ごめん」慌ててイチタの肩に積み上げられた薪を肩代わりしてやると、イチタは二ヤリと笑った。
「やっぱりアタカは体力があるね。今年から薪売りでも始めようかな」
咄嗟に彼の企みを見抜くと顔を歪めて
「どーせ俺ばっかり薪を持たせるつもりだろっ。絶対そんなことやんないからなっ」
と口を尖らせて抗議した。
「だいたいイチタだってそれなりに体力あるじゃん。むしろ俺の方がむかしは力なかったし」
「だーからぁ、ぼくはか弱さを売りにしているんだから。それより都宛に一通あるから後でいこうか」
日を空けずに会いにいくと言って未だに約束を実行できずにいたウリのことを思い、アタカは胸を痛めた。あれから彼はどうしているのだろうか。もう留学の準備を終えて国を出ているかもしれない。もしかしたらユサも、ウリと会いたがっている可能性もある。
(だけどあいつの場合……ウリの家にいくまでに迷ってそうだな)
その想像はアタカの口元を綻ばせた。
「せっかくだからユサも連れてウリのところへいこうぜ」
あとどれだけ四人で顔を合わせることができるかわからない。けれど限られた時間だから少しでも多く同じ時間を過ごしたいと思った。
「………そうだね」
頷くまでの数秒間、イチタは瞬きもせずにアタカを見詰めた。なにか言いたげな様子とも捉えられたが、相槌を返した後のイチタは普段と特に変わりない態度で
「寒い、寒い」
と呟きながら家へ戻っていったので、アタカも疑問を抱きつつもその後に続いた。
雪が降り出したのでユサは外にかけていた洗濯ものを取りに出た。
腐った大根の代わりに干した菜っ葉と並んで彼女の冬服がある。元々白かったのだが長年の労使の為すっかり茶色く汚れてしまったとは言え、こんな風に黒いシミはなかったはずだとユサは、冷えた服を取り込みながら考えた。
「……」
足元にこぼれる黒い水を見つけ、短い距離を開けてその痕跡がショウキの家まで続いていることを確認して納得する。
(ショウキがつけたんだ…)
得体の知れないものがつけた訳ではないとわかり安堵する。このシミも見ようによっては模様に見えるかな。そんなことを考えながら、菜っ葉も取り外し部屋へ戻ろうとした。が、家の脇に備えていた薪の横に置かれた木箱を見つけ足を止めた。
「……誰?」
そう呟きユサは服と菜っ葉を一端室内へ戻してから改めて箱を取りへ向かった。昨日から置かれていたのか箱の表面には雪が積もっていた。
箱を抱きしめるとユサは口元を綻ばせて笑った。
家に入り小さな囲炉裏に火をつくり部屋を暖めてからユサは箱を開けた。
いつからか不定期的に届くようになった送り主の知れない木箱は、いつもユサを笑顔にした。その中身は大抵が日保ちのする干し肉や野菜と少額だったが金銭のみと決まっていて、送り主をあらわすようなものは一切入っていない。いつだったかアタカとイチタに手紙を送ってくれるような人はいないと言っていたが、彼女にはこうして密かに生活を支えてくれる誰かがいた。
「よかった……」
このまま冬を迎えていくことに不安を感じていただけに、とてもありがたかった。いつもわずかな稼ぎを苗木につい込んでしまう癖を直すべきだとは思いながらも、こうした仕送りに期待をかけている節もある。
壁板を外してお金を隠すと誰かが戸を叩いた。
「おーい生きてるかぁ?」
聞き慣れた彼の声に、ユサは素直に駆け寄ると心張り棒を外して彼ら二人を出迎えた。
気の所為か戸を開けたユサの表情が和らいで見えた。珍しい態度に虚を衝かれる思いだったが、そんなアタカを出し抜いてイチタが話しかけた。
「これからウリに会いにいくけどくる?」
「ウリ…? いく」
やはり彼に関することとなるとユサの態度もまた変わる。即座に頷くと外へ出てきた。
「単純だよなぁ…お前って」
わかりやすいユサを眺めて呟く。
すると彼女もアタカを見上げ
「…ショウキに、なにか言った?」
自殺未遂の話を思い出しアタカは首を振った。それから薄い壁を隔てて建つショウキの家を一瞥し「元気?」と尋ねた。
「……」
なにか言いかけてから口を噤む。その瞳は傍らにいるイチタへ向けられていた。
気配を察してアタカもイチタを見る。最初に目に入ったのは、彼の青い瞳が嬉しそうに細められる瞬間だった。
「ぼくが言ったんだ」
ふふふっと肩を竦めながら笑いかける。
「ショウキは王族の娘なんかじゃないって言ったんだよ。可能性の低いことばっかり考えていても不利益だしぃ」
「!」
素早くなにかが動く気配だけ察したけれど、実際に目の前でパチッと乾いた音が響き片頬を赤くしたイチタと向かい立つユサを確認するまで、なにが起ったのかわからなかった。
無表情ながら目元を赤くしたユサは両脇に垂らす拳を震わせ「ショウキが…本当に、死んだら……死んだら、どうしてくれるの…?」
涙はこぼさなかった。けれど今にも泣き出しそうな顔をしている。
こんなユサを初めて見た、とアタカは思った。ウリの時は素直に涙を流しショウキの時は泣くよりも怒っている。普段から感情を自由に出さない彼女でも、誰か大切に思う人の為なら感情の鎖を解き放くこともあるのだと気づいた。
「じゃー話してくればいいんでしょ」
不貞腐れた面持ちでアタカを一瞥すると
「ちょっと待っててー。話つけてくるからさ」
と残して呆気に取られる間に単独でショウキの戸を叩いた。
「ち、ちょっと、イチタ! ……なに考えて」
最後の語まで紡ぐ前に戸が開けられる。中から幾分やつれた感じのショウキが顔を出した。その目がイチタを捉えた途端、なんとも複雑そうな色を浮かべた。
小さな声で彼がなにか呟くと、ショウキも渋々と言った感じで頷き彼を中へ招き入れた。
不意に二人っきりになってしまったアタカは、気まずさを隠せず目の前に佇むユサを見た。彼女も突然のイチタの行動に当惑しているようで、頼りない眼差しでアタカを見上げる。
「……取りあえず、寒いから中入んない?」
冷たい風にさらされ肩をさすりながら提案すると、同じ気持ちだったのか素直に頷いた。
約束の時刻になったのでカミヨは仕事を残して立ち上がった。当然会議の最中なので老議院の面々も顔をしかめたが、事前にこの後にある予定を告知していたので誰も口出しはしなかった。
机を囲う皺くちゃな面々を見回すも誰一人、視線がぶつからない。
それ程自分と顔を合わせるのが恐ろしいのかと内心毒づきながら、彼らの背後に回り真っ直ぐ扉へ向かった。
扉を開けると外にはフサノリと、意外にもモロトミまでもが待っていた。
「お前がここにいるとは。どうせならこのまま同席するか?」
皮肉に対し気まずそうに目を逸らし、鼻先までずれていた眼鏡を戻すと
「急遽お耳に入れておかなければいけないことがあります」
相槌を打ってから歩き出すと彼も続いた。
「西国の王ツクヨミが亡くなり、チトノアキフト姫が即位されました」
「…そうか」
恐らくモロトミは一番に彼に告げにきたのだろうが、カミヨは一昨日の夜に既にフサノリの予言でこのことを知っていた。
「祝いの品を送れ。女性が好むものを選ばせろ」
「わかりました」
「それとオボマ国へ送る使者の選別はお前に任せる。四国で同時に送るから日程も限られている。早々にわたしの元へ連れ出せ」
ふと思いつきモロトミを見ると
「新たなツクヨミ王へ…わたしとは別に月の間にこもられている母上にも、何点か見繕ってもらい大后妃殿下の名で贈れ」
今度はモロトミが意外そうに目を見張ったが、すぐに元の表情へ戻ると眼鏡を押さえながら
「わかりました」
と頷いた。
初めて入るユサの家だったが、外観から予想していた通りに狭く中心に囲炉裏を構えただけの一室だった。装飾品の類はまったくなく、床板の上に藁を敷きその上から筵を被せて防寒対策をしていた。
誰かから暖炉がある家は下等平民の中でも上か中くらいの財産がある家庭のみだと聞いたことがある。
(そりゃあ…一人暮らしだしなぁ)
頭を掻きながら囲炉裏を挟んで向かい側に座るユサを盗み見る。
「それにしても……本当になんもないな」
つい自分の家と比較してしまいながら感想を漏らす。
ユサも特に気にした様子もなく白湯を出してきた。
「……」
薄い壁だから耳を澄ませていれば隣の会話も聞こえるかと思っていた。しかし声どころか人がいる気配も伝わってこない。
なにをやってんだよ、とイチタに向って毒づきながら冷えきった体に白湯を注ぎ入れて温める。一息ついたところで思わず嘆息が出てきた。吐き出した息も白く濁っている。
「イチタがさ。あんな風に特別見返りもなしに動くってこと、本当に珍しいぜ」
口に出してみたところでユサの表情は変わらない。なにか思い詰めたように囲炉裏の炎をじっと凝視している。
彼女から腹を割って話してきたこともないけど、ただその様子を見ただけで十分にショウキのことが大切で失うことのできない人だと思っていることだけは理解できた。
「……別に話したくなかったらいいんだけど、でも、黙ってたって俺はウリじゃないしわかんないよ」
きっとウリならすぐにユサの思っていることだって言い当てられるに違いない。だけど今は、特別に羨ましいと思わなかった。
「イチタが話つけてくるって言ってるんだから大丈夫だと思う。あいつ、結構口八丁だし。多分、なんでショウキがあんな噂を信じているんだかわかんないけど、あいつならうまいことまとめてくれるだろうし」
と言ってから、ふと部屋の隅に置かれた木箱が目にとまった。
「ね、これなに?」
一方的に喋っていなければ沈黙が続いてしまうので、木箱へ手を伸ばし新しい話題へ加えようとした。
「……ショウキは悪くない」
中に入っている干し肉を確かめるアタカを横目に、ふいにユサが口火を切った。
「私が…」
「前もそんあこと言ってたけど、ショウキが悪くないならさ、お前も悪くないんじゃない?」
「……え?」
あれから宴が終わったにも関わらず、父モロトミは一向に家へ帰ってこなかった。週に一度母が衣服などを届けにいっていたが、直接モロトミと会うことはできないらしくいつも寂しげに睫毛を伏せて帰ってきた。
そんなある日、モロトミが城から使者を送ってきた。ウリに宛てた内容で極秘で王との面会が行われる故城へくるようにと、用件のみのとても短い伝言だった。
母はウリが王に呼ばれることをとても恐れていたようだが、そんな本音も彼の前では一切見せようとしなかった。だからウリも、何故自分が王の前に連れていかれるのか。その不安を打ち明けるようなことをしなかった。
約束の日がくるまでウリはずっと一人で部屋にこもった。日を空けずに遊びにくると言っていたアタカもイチタも、そしてユサも誰も彼の元へ訪れない。
静かすぎて重たい空気に押し潰されそうだった。上空から落ちてくる沈黙を掻き消すようにペンを走らせ勉強をした。
誰もこない毎日。時折、机から離れて窓を覗くことがあったけれど、門には人影どころか同じ年頃の子どもたちの笑い声さえ聞こえない。
日替わりに家庭教師たちがやってきて彼の熱心な姿勢を褒め称えた。さすがはモロトミの子どもだけあると讃えた。けれど、次第に褒賞の言葉も耳に入らなくなっていく。口だけが別の生き物みたいに動いているように見えた。
勉強に没頭すればするほど次第に、家庭教師たちへ向ける質問が減っていった。誰に聞いても書物に書かれていることしか答えられず、また表現は違うものの見解はたいして変わらないと気づいた。
虚しさを覚えたけれど勉強をやめなかった。周囲の大人たちは彼が『勉強』をしていれば揃って胸を撫で下ろすことを知ってからは、暗記してしまった教科書の文字をただ無意味に追う日々が続いた。
「あなたには、将来の夢とか言ったものがあるのかしら」
珍しく二階の部屋に足を踏み入れた母が、既に読み終えてしまった異国の本を訳すふりをしていたウリの手元に影を落として呟いた。
しばらく質問の意味を玩味して返事を考えたけれど、考えたところで返せる言葉は限られている。
「ごめんなさい。今はまだ…ありません」
「ではどうしてそんなに勉強をするの? まるで…死に物狂いに机にとりついているようにしか見えないわね」
さすがに鋭く彼の胸中を見抜いている。だがウリは家庭教師たちから見て学んだ、その場限りの笑顔を浮かべて首を振った。
「知らないことを知るのは、とても楽しいです」
辞書を閉ざしおもむろに母親の顔を見上げる。彼女の表情は少し曇って見えたが、それも逆光の所為だけではないだろう。
「ぼくには特別な才能もありませんし、人より体力もありません。だけどこれなら、誰も傷つけずに戦う…力になると思います」
「あら、誰かと闘うつもりなの?」
意外そうに目を見開き尋ねる。久しぶりに見た飾りっけのない態度にウリもつい相好を崩した。
「自分を守る力です。知識が武器以上に価値を見出される時代が…いつか必ずくると思っています」
母は静かに睫毛を伏せて沈黙した。
なにを考えているのかわからないその表情は、いつもよりウリを不安にさせる。なにか失言をしてしまったのだろうかと、自分を責めるその一方で純粋な好奇心から母の表情を探る。
時々こんな風に思い詰めた顔をすることがあった。なにかを悩んでいるようにも、苦しんでいるようにも、はたまたなにも考えていないようにも見えてしまう。思案に暮れる紫色の瞳がいつもより濃く輝くこんな時、目の前にいる母はウリの知らない女性のように見えた。
「…勉強に励みなさい」
短い一言を残して母は去った。
その言葉に従うべく―――砂漠にこぼした水の如く知識を吸収しながらウリは、ただ一人で王との面談の日を迎えた。
「……」
ふいに我に返り辺りを見回す。白い柱が左右に続く白皙とした床に、灰色の影を落とす閑散な城内をウリは歩いていた。他に人影はなく、長い廊下を先に歩いていた背の高い侍女が、ぼんやりしている間に広がっていた距離を肩越しに見てきた。
王の前に上がるのはこれで二度目だった。父が忘れた書類を届けにいった折に偶然庭園で会ったのが最初だったけれど、今回は事前に顔を合わせることが打ち合わされている。
ジュウアンは彼の為に特別に服を用意してくれた。白と銀の刺繍が施された純白の衣だった。薄い布を何枚も重ねているので思ったより寒くはなく、手触りのよさから極上の品でつくられているのだと察した。
彼が離れてしまった分の距離を取り戻すと侍女はわずかに頬を緩ませた。卑屈で好奇心を剥き出しにした笑みだった。
「…ぼくの顔に、なにかついていますか?」
まるで噂話に飢える獣のような欲望を侍女の瞳から見つけ出し、ウリは躊躇いがちに口を開いた。
「……」
沈黙したまま首を横に振る。視線の中心に彼を据えたまま鼻を鳴らすと、再び歩き始めた。
今度は離れないように足早に彼女の後を追ったが、侍女はわざと歩調を早め足音を響かせ廊下を進んでいった。そうしてようやく足を止めるとウリを白い扉の前に立たせた。
「こちらはイザナム王の私室です」
妙に言葉に棘を感じながら、ウリは目の前で開かれる扉へ意識を集中させた。そんな彼の様子を不躾に眺めノブに手をやる。両手で静かに回すと、扉と向こう側の隙間から緑の強い匂いが溢れ出て眩しさに思わず目を細めた。
ガラス張りの天井から注ぐ明るい日差しが、室内を埋め尽くす木々や観賞植物を優しく照らし出す。頭上を覆う枝が程よい影をつくり今にも木陰から小鳥や動物たちが顔を覗かせてきそうだ。
伐採で失われていった森が、城の奥で、王の為だけに再現されている―――
浄化された空気を吸い込みながら、ウリは、少しだけ王という立場を羨ましいと感じた。
「王がこられるまでお待ちください」
ツンとした口調で言い放つと背後で扉が閉められる。一人になれたことで緊張が解けた気もした。改めて服の皺を伸ばすと部屋の中央に用意された椅子を見つけ、そちらへ向かった。
しかし歩いて数歩もしたところで、誰かの声を聞きつけて踏み出した足を戻した。
「結局モロトミ様も優しいってことよ」
「えぇ? でも私だったら許せないけどなぁ」
声は奥から聞こえてくる。もしかしたら侍女がまだ支度をしている最中なのかもしれない。だが父の名が話題に出たので、ウリは近くにあった植木に身をひそめて耳を傾けた。
「むかしはカミヨ様とクラミチ様、そしてモロトミ様加えてジュアン様もすっごく仲がよかったんでしょ? まぁ、王様に見染められたら光栄だって思わなくちゃいけないけれど」
「そらそうよ。しかもその後は外交官の妻に収まった訳だから、女として幸せだと思うわよぉ」
「でもジュウアン様が側室になられて以来、これまで兄弟のようにお過ごしだった四人の関係も壊れたじゃない。クラミチ様とモロトミ様は今でも親しいご様子だけど、もし、これでジュアン様にお子が生まれていなかったら……って思っちゃうわ。そもそも誰の子かも知れないのに、こうしてわざわざ面談を行われるなんて、カミヨ様もお心が広いのね」
甲高い笑い声を響かせながら二人の侍女が静々と歩いてきた。ウリがすぐ傍に隠れているとは知らず扉の前に立つと
「子どもがいなければやり直せたかもしれないのにねぇ?」
「ホントよぉ。まだお若いんだから」
相槌を打つと侍女たちは扉の向こうへ消えていった。
それからしばらくして、ウリは鉛のように重たくなった足を引きずり用意されていた椅子へ座った。そこはちょうど部屋の中央に位置し、天窓からこぼれるように陽の光が注ぎ落ちてくる場所だった。
外の寒さなど嘘のように温かい。木々が覆い茂っているので空気も澄み渡り、静寂の底からひそやかに交わす植物たちの呼吸が聞こえてきそうだった。
とても美しい環境の中にいるのに、大声で泣き喚きたい気持ちを堪えなければいけなかった。
無意識に右手が左手首に伸びて、治りかけの傷の上から新たな傷痕を与えていく。血が滲み爪の間が赤く染まってもウリは涙を堪える為に止められなかった。
幼い頃より親しんできた四人に訪れた悲劇を、唯一の友だちと自分に置き換えて考えてみた。
(許せる訳がない―――)
忘れることのできない忘れ形見が、誰の子かも知れないという事実と共に育っている。
「……ぅ、うっ!」
込み上げてくる悲鳴を喉元で押し殺しウリは悲鳴を上げた。音にならない言葉が、悲しみが、辛さが激しくのた打ち回る。息ができないほど苦しくて、頭の中では脳が沸騰しているみたいに熱かった。
ウリが自分の存在を心の底から憎んだのは、これが初めてのことだった。
あまりに意外な言葉だったので、ユサはさっきまで宙を漂わせていた焦点をアタカに定めて彼を見詰めた。
「だって、どうして、あ、でも、私が…私が、あの時…」
紡ぎかけた言葉は、混乱した感情に掻き回されて意味不明に溢れ出た。
けれどアタカは特に気にした風でもなく木箱を手にとって、ひっくり返したり中身を取り出して手玉に取ってみたりと遊んでいる。だが話を聞こうとする気持ちは不思議とよく伝わってきた。
ユサは静かに深呼吸をして興奮していた息を整えた。
今でもすぐに思い出せるあの時の出来事。誰よりも辛い目に遭ったのはショウキだと言うのに、彼女は―――強いと思った。
「十三歳まで…私たち、同じ家で、この家で暮らしていた」
「ふぅん」
アタカの返事は少し素っ気なかった。
「で、どうしてあんな薄っぺらい板で分けて暮らすようになったの?」
彼女が紡ごうとしていた言葉を先回りして話題を広げる。言葉が返ってきたことでより話しやすい雰囲気が生まれた。
瞬きをするといつの間にか溜まっていた涙が睫毛について、視界がほんのりぼやけて見えた。
「…孤児院に遊びにいった時、ルダに会った」
孤児院の職員として働くルダをショウキはすぐに気に入った。と言っても二十代の青年と十三歳の少女では相手にされることもないだろうと思われていたが、ショウキはなにかにつけ孤児院へ向かいルダとの距離を埋めようとしていた。
その頃からあまり喋る方ではなかったユサだが、友だちの恋路を応援するつもりで彼女にと共に足を運んだ。
人手の足りない院は職員に対し孤児たちの数が多くいつも忙しそうにしていたが、ルダは必ず笑顔で二人を迎えてくれた。時には二人で徹夜をして彼の服を仕上げたりパンを焼いて届けにいったりもした。周りの職員から冷やかされながらもルダはショウキから嬉しそうにそれらを受け取ってくれた。
「ショウキ…幸せそうだった。ルダも、私たちを、妹としてしか見てくれてなかったけど……幸せだった」
「へぇ……それで、今、そのルダって奴は今どうしているの?」
いつの間にか木箱を離し抱えた膝の上に顎を置いて質問をしてきた。
当然投げかけられるべき問いにユサは苦悶した。答えれば楽になれるのだろうか。本当のことを告げて傷つくのは誰でもない。ショウキではないのか。
「ルダは……」
言いかけてから喉が詰まるような思いに駆られる。呼吸さえうまくできなくなった。
「……っ」
膝の上で握り締めた拳に涙を落し、ユサは掠れた声を押し出して呟いた。
「私の、所為で、死んだ」
「……」
懸命に目元に溢れていた涙を堪えたウリは、焦燥しきった面持ちで虚空を見詰めていた。何故父が自分を疎むのか。また母は何故、父を愛しているのか。すべての疑問に答えがもたらされたけれど、解決したことで喜びも生まれてこない。
留学という形でもいいから二人の元から去らなければ、ウリは自分が生きているだけで両親を苦しめるのだと思った。目の前から消えなければいけない。だけど自らの命を縮めることができるだろうか。
手首の出血を見詰めウリは、それも、そう難しいことではないかもしれないと考えた。
(これ以上……ぼくが生きている意味もない、かもしれない)
憎まれているのなら。疎まれているのなら、愛されていないのなら―――存在している意味はどこにもない。
「殺して、くれたら…」
力なく開いた口からこぼれた言葉は虚しく消えていく。
緩んだ感情に触発され再び目頭が熱くなったので、ウリは慌てて唇を噛み締めた。と、ふいに扉の向こうに人の気配を察し、すぐさま袖をひっぱり手首の傷を隠した。
それと同時に扉が開き、葉を押し分けて見たことのない赤毛の男性と共に王冠を頭に載せたイザナム王カミヨが入ってきた。すぐにその背後にモロトミの姿を捉えたが、彼は中にいるウリを一瞥すると無言で部屋の扉を閉めた。
痺れるような衝撃が全身を駆け巡る。
この一瞬が久しぶりの父との再会だった。
余韻に浸る間もなくカミヨが目の前に立ち、ウリは椅子から降りると腰を屈め深く頭を垂れた。
「顔を上げて座りなさい」
王の言葉に従い面を上げる。カミヨは既に腰を下ろしていたが、もう一人の赤毛の男は扉の脇に立ったまま動かなかった。胸にはルビーの見事な装飾を施した首飾りがある。それを見て彼の正体がヤヌギ族の長で、ロッキーヴァス総教会の教皇フサノリではないかと推測した。
「失礼…します」
断りを申してから椅子に座る。向かい合うとカミヨはウリとよく似た漆黒の瞳を細め、優しげだけど本心のわからない表情を浮かべた。
「久しぶりだな」
カミヨから口火を切った。
「あの時はモロトミがいたから大して話もできなかったが…元気そうでなによりだ」
まるで身内にかけるような言葉にウリは思わず目を背けた。そしてこの優しさも所詮は憎しみの上に成り立つ偽善なのだと決めつけた。大切な友人を苦しめる災禍の子として見ているに違いない。けれどそれを、非難できる訳もなく非力な己を再認識して複雑な思いに駆られる。
「十三歳になるな?」
畳みかけるように問いかけてきたので、視線を膝の上で揃えた拳に集中させて頷く。
「どうした。誰も咎めないからもっと肩の力を抜いたらどうだ」
「いいえ」
やっとの思いで首を振ると
「恐れ多い…ことです」
と、蚊の鳴く声のように呟いた。
「あそこにいる男は壁だと思え。……隠しごとも、あいつには通じない」
カミヨの言葉にウリはようやく顔を上げた。
すると、やっと一つにつながった視線に笑みを含めながら
「ヤヌギ族は未来を予知する。いずれはお前が、奴らの力を使いこの国を治めるのだ」
両目に溜まった涙をすべて落とすと、ユサは充血した瞳をアタカへ向けてきた。凍てつくような冷たい眼差しにアタカもかけるべき言葉を失い黙り込む。
二人の間に重たい沈黙が流れると、今度はそれまで静まり返っていた隣の家から明るい笑い声が漏れた。
「……!」
驚いた表情をつくりユサが顔を上げる。
アタカも、ついにイチタがやったのかと喜びながら壁を見た。それからユサに視線の先を換えるとおもむろに笑いかけ
「別にお前がそれ以上話したくないならいいよ」
「………え?」
鷹揚に頷き
「だって、死んだ人間のことで悲しんでもきりがないだろ。それに俺もむかしのこととか全然記憶にないけど、でもあったとしても、終わったことじゃ仕方ないしどっかで区切りをつけられるようになるまで…好きなだけ悩んだら?」
「悩んだ」
即座に反論するとユサはようやくアタカを直視した。
「たくさん、悩んだ。だけど、なにも解決していない。私が、本当はショウキみたいになるはずだったのに…!」
「だったらさ……話し合えばいいんじゃないの? 俺に怒鳴ったって事情もわかんないのにどうこうも言えないし」
なんとなく堂々巡りの質問を繰り返しているような気がしてきて、アタカはややうんざりした面持ちで呟いた。
「ショウキみたいにって、お前もルダって奴が好きだったの? それともお前の所為でルダが死んだからショウキが怒ってんの?」
合間を縫うように隣から笑い声が聞こえてくる。
壁の向こうを気にしながらユサは声を荒げて反論してきた。
「私はルダを好きじゃない。ルダは、ルダは……」
語尾から気が抜けて言い淀む。今にも泣き出しそうな顔をしたので、慌ててイチタの真似をして肩を優しく叩いて宥めた。
「だからいいって。別に話さなくても」
普段の彼女からは想像もつかないくらい涙腺が緩くなっているようだ。この涙には、きっと友だちを想う優しさが含まれているのだろう。
(……でも、ウリの時とは違うよな…)
考えないようにしていたことが再び頭をもたげてくる。けれど今はそんなことよりも、目の前で泣き出しそうなユサを宥めることに集中することにした。
(まぁよくわかんないけど、こいつもこいつなりに…色々あるんだな)
本当はルダとショウキの過去を詳しく聞いてみたい気持ちも強くあった。けれどただの好奇心で問いただしたところで、得られるのは自己満足だけだとアタカは知っていた。
「まっ気が向いたら話せよ」
軽く話題を流すアタカの言葉に、ユサは更に顔を歪めて涙をこらえた。
「…仰っていることが、わかりません」
しばらくカミヨの顔を正面から見詰め、ウリは静かに開口した。
冷静を装っているが先ほどから一度も瞬きをしていない。そのくせ瞳からは水分が減るどころか、逆に潤いが増し光を宿していた。
幼い彼をいたぶる罪悪感と同時にすべての鍵を握る残酷な喜びを胸に秘めながら、カミヨはじっと彼を睨むように見上げてくるウリに優しく笑いかけた。
まるで生きながらに地獄へ誘おうとする死神の気分だ、とぼやきながら。
「わたしは生まれついて子をもうけられぬ体だ。このことを知るのは、そこにいるフサノリのみ」
沈黙を貫く壁際のフサノリを一瞥し再びウリに視線を戻す。
「何年後になるかわらかないが戸籍箱の封印が解かれるのは必至。その時、お前は我が一族に名を連ねることになる」
「……お言葉ですが…ぼくは、王の血を受け継ぐ者ではありません」
健気にも気丈に振る舞っているが言葉が震えている。まさか心底自身の生まれを信じているとは思えないが、建て前の言い訳と捉えれば彼の意見も納得できる。
「お前が望むなら今すぐにでもこの城で暮らすがいい。王になる為の勉強は早くに身につけた方がいいからな。周りには行儀見習いだとでも言えば」
「違います!」
椅子を引かず立ち上がるとウリは身を乗り出して否定した。
「違います。ぼくは王になれる身分ではありません。それにぼくは……留学をしてこの国から、出ていきたいんです」
急に語尾が弱々しくすぼみ視線が宙を彷徨った。王を目の前にこの国を出ていきたいと言うとは。外見にそぐわず意外と大胆なことをすると思いがら、言葉の裏に隠れた真意を探った。
(モロトミめ…まだ家に帰らずにいるのか)
二人が顔を合わせていないのだと察しカミヨは冷ややかな眼差しをウリへ送った。
幼いながらも端正な顔立ち。光に透けると金色に見える髪は母親に似たのだろう。しかし瞳の色はカミヨと同じく、一切の追随を許さない孤高の色をしていた。
(亡き王と同じ色をしているとはな…)
冷静にウリの顔を観察すればするほどそこにはモロトミの面影などないことがわかる。恐らくそれは本人が一番知っているはずだ。
(だがお前はまだ、なにも知らないでいる)
気がつくと口の中で奥歯が軋む音がした。無知であるが故に幸せな家族に身を置いていられることに対し、無性に羨ましいような腹立たしいような憤りと軽蔑に似た思いが湧きたつ。
「……留学の話は白紙に戻した」
ジュアンによく似たウリの顔を眺めながら言葉を発した。
「…え?」
あまりに素直な反応だったのでつい苦笑を洩らす。この期に及んでなにも知らずにいるのか、と蔑みが脳裏を過る。生まれてしまったことを否定しようもない。むしろ彼に罪はないのだ。
理性ではわかっている。しかし、この結果に至るまでに流された友の涙を知るカミヨは、ほんのわずかな間だけでも理性で感情を抑えることができなくなった。
「どうやらモロトミはそうとうお前のことを、疎んでいるようだな」
その一言で相手の表情が消える。
「あいつのことだ。どうせジュアンにも素直に接していないだろう。まぁ無理もない…お前は王の最後の子どもなのだ」
ウリの表情を見て、この宣告は、死刑にも等しいものだったと気づいた。
話題が途切れたことで、アタカは再び流れ出す重い沈黙に押し潰されそうになった。根源となっているユサは大して気にもとめる様子もない。
隣の部屋から聞こえてくるいかにも楽しそうな笑い声が辺りに吸着していく。同じような状況下でありながらイチタは相手を笑わせることができるのに…と彼の闘争心を刺激した。
手近なところで話題を探そうと室内を見渡す。木箱は先ほどまで放置していたので扱いにくい。二人の共通する話と言えばウリになるが、またウリとの力量の違いを思い知らされるのではないかと思って却下された。
散々悩んだ挙句アタカが選んだネタは、彼らが友だちになるきっかけを与えてくれた彼女の絵だった。
「最近は絵とか描いてないの?」
「…描いてるよ」
少し考えてからユサは立ち上がり、壁板を外すとそこから何枚かの紙を取り出した。家具を置けない分、そうして補っているのかと感心するアタカの前に完成された絵を広げた。
「へぇ…」
と呟いてから言葉に詰まる。
やはり彼女が描く絵はどれも不思議な風景画ばかりで、そのすべてに共通する特徴と言うのが濁った空とくすんだ色の四角い建物の群れだった。どうしたらこんな殺風景な光景を思い描けるのだと別の意味で感心しながら、一応すべての絵に目を通す。
ウリやイチタはこの絵を高く評価していたがやはりどうしてもアタカは好きになれないと思った。
箱のような灰色の建物はとても綺麗とは言えず、ところどころにヒビや塗装が剥がれた部分があり隙間からは薄汚れた蔦が伸びている。植林を趣味としている割には画面に緑は少なく、例えあったとしても痩せ細り枯れた木々か、砂漠の中に埋もれる切り株程度だった。
(こいつに似て、絵も暗いよなぁ…)
つい本音を漏らしながら最後の一枚に手を伸ばした。
「おっ」
その絵を見た瞬間、アタカは思わず声を出して驚いた。これまでの作風を変えずに描かれている一枚だったが明らかに違う点があった。
「これ、なんか珍しいな。白い塔が荒野にあるの?」
草一本ない灰色の荒野を背景に空を渡る雲よりも白い塔が聳え立つ。塔のてっぺんからは黒煙がのぼり、風に飛ばされ遠くまで流れていく光景だった。
「…塔が……思い浮かんだ」
アタカの横まで移動し一緒になって画面を覗き込むと、中央に据えられた塔を指差した。
「寂しい気が、する。世界から…取り残されたような、そんな塔なんだ。だけどそれに気づいていないからこの塔は生きている」
建物を擬人化しながら説明するユサを見詰めていたが、お互いの体温が伝わるくらい顔が近かったのでアタカはなんとなく体を退けた。
「煙が出てるから塔が生きてるっての?」
アタカの疑問にユサは答えなかったので、改めて絵を見詰めた。
「…見た目が生きているようでも、実際は死んでるってこともあるだろ。例えばこの塔。なにかを燃やしてるから煙が出てる。誰かがいるって判断してもいいかもしれないけど、でも中を覗いてみたら焚き火をしている傍らで死んでるかもしれないよな」
「……見えるものだけが、すべて、じゃないって言いたい?」
「そうかもしんない。だけど、見えるものから…人って信じるんだろうなぁ」
と言って、アタカはマキヒのことを思った。
イチタは未だにあの絵をマキヒに渡していなかった。ウリが言うように絵に描かれたものを話してやればいいのにと思うこともあったけれど彼なりに考えているのだろう。
生まれつき目が見えないのだとしたら、マキヒは言葉でしか世界を知らない。『赤い』とか『眩しい』とか言われても、それを目で見て認識した上で理解したことがないのだから。
けれどだからこそ、マキヒがつくる物語には魅力があるのだろう。言葉で捉えた世界を語るマキヒは、目で見える世界を持つアタカたちに新鮮な風を送ってくれる。形の捉え方はただ一つではないのだと彼女の話を聞くたびに思い知らされた。
「……でもこれがお前の世界の捉え方なのかな」
好みではないからと言って彼女の感性を卑下してはいけない。彼女には、彼女なりの手段を用いて世界と渡り合っているのだ。例えばそれが、アタカにとって手紙を届けることなのかもしれない、と思いながら。
隣の戸が開きイチタがショウキに別れを告げている声が聞こえてきた。
「そうだ、ウリのところいこーぜ」
本来の目的を思い出し立ち上がると、彼が散らかしたままの絵を集めるユサに気づき、自然な動作で手を差し伸べてやった。
「……」
意外そうに目を丸くしたが、ユサは素直にその手に応じて腰を上げた。
外ではイチタが二人を呼んでいる。囲炉裏の炎から離れた場所に彼を待たせていたならば、きっと破格の慰謝料を請求されると思ったアタカは、ユサの手を引いて慌てて家の外へ飛び出した。
ほんの数秒で、辺りの空気が薄くなったような気がした。
しばらくウリは呼吸の仕方を忘れていた。鼓膜に残る言葉が幾重にも残響を響かせて、一文字に縛った口の端から漏れていた嗚咽がようやく彼に意識を取り戻させた。
それでも酸欠の所為ですぐには喋れない。間をもたせるために瞬きを繰り返し、脳内に十分に空気を送ってやってから、ウリは混乱する頭に手をやって口を開いた。
「信じたくありません」
王は彼を見据えたまま否定する。
「事実だ」
夜の帳をそのまま切り抜いたかのような漆黒の瞳に、わずかだが光が宿る。まるで水を得た魚のように瑞々しさが蘇り、カミヨは饒舌に語り始めた。
「むかしからジュアンは都でも有名な美女だが、外見にそぐわず男勝りな性格だった。よくいたずらをして叱られたものだ」
ふっと笑みを漏らしてかぶりを振ると足を組み替えてウリを見詰めた。
「彼女は健康で若く、美しい。そしてなによりも…人の痛みがわかる優しさを持っていた魅力的な人間へ成長した。もちろん評判は王の元まで届き、わたしより二つ年上の彼女を…側室へ迎えた」
当時のことを思い起こすように瞳が細められる。
「彼女はやってきた。幼い頃より親しんできた、わたしの義理の母親となる為に。わたしや、友を……を裏切って」
カミヨは笑った。憎しみや悲しみをも凌駕した、なにもない―――空っぽの笑顔で。
「お前の体には脈々と王の血が流れている。いずれわたしに代わり玉座に立つ運命にあるのだ」
呆然と彼を見詰めるウリに向って厳かに開口する。
「運命から逃れられると思うな」
地獄の底から響いてくるような声だった。なによりも、王である彼の表情がちっとも嬉しそうではない。
輝きをなくした黄金。声を失った鳥、色をもたない虹のように、あるべきものを奪われた喪失感に苛まれ途方にくれる幼い子どものような瞳。
美しいイディアム城に住み、国や人を思いのままに操れる王なのにどうしてこんな顔しかしないのだろう。と、ウリは疑問を覚え始めた。
きっと間違いなくカミヨも彼の存在を疎んでいる。かつての友たちを追い詰めた元凶であり消せない過去の汚点となったウリを、心の底から恨んでいても不思議はないはずだ。だけど何故か辛辣な言葉の裏に仄かなぬくもりを感じる。ウリを憎んでいるけれど、でも、同じく玉座の上に立つ者として、彼を認めている。
孤独であるが故に、同じ立場にある者を同志として見なしているのだろう。孤独と疑惑を共有できる唯一の相手に出会えたような喜び。きっと過去の汚点がなければカミヨはもっと素直にウリに接してきたに違いないと、確信に近い予感が蠢いた。
自らが指揮官を務める国衛総隊の軍事練習を終えたクラミチは、着替えもせず部下たちに武器の片づけなどを命じるとすぐさまモロトミの部屋へ駆けつけた。
「モロ!」
ノックもせずドアを開けるといつものように机に向かうモロトミの姿を見つけ安堵する。
「頼むから、入る前にノックくらいしてくれないか…」
椅子に腰を据えたまま振り返り眼鏡のズレを直すモロトミ。その表情にも特に変化と言ったものはない。
「練習は終わったんだな」
「あ、あぁ…臭うか? 結構汗をかいたからなぁ」
練習用の軍服の襟をつまんで臭いを嗅ぐ。普段通りのモロトミを見て、特に動じている様子でもないのなら着替えてからくるぐらいの余裕はあったと後悔した。
取り敢えず手近なところにあった椅子を引き寄せて座ると、水を入れたコップをモロトミが差し出してくれた。
乾いた喉を癒し彼の顔を見上げる。
「カミヨが…極秘でウリ坊と、会っているんだろ?」
「そうだ」
偽ることもなく素直に頷くも、わずかだがその瞳に苦悶の表情が過った。
「なんで、今更カミヨが…」
言い淀みながらも呟く。
「ヤヌギ族の神託か? まさか…まさか、ウリを次の王にとでも思っている訳…ないよな?」
縋るような思いでモロトミを見たが彼の表情は暗く淀んでいた。決して楽観的に事態を傍観視できないのだと、クラミチも実感した。
「だけどそんな…」
わずかにでも抱いていた期待が打ち砕かれ、絶望を覚えながら立ち上がった。そして目を逸らすモロトミの肩を掴んで顔を覗き込むと
「もし、そんなことになったら…ジュアンを守る為にしたことも、今までの苦労も全部台無しになってしまうだろ! なんとかならないのかっ」
「無駄だ」
かすかに首を横に動かすとモロトミは顔を歪めて笑った。
「どうせ戸籍箱の封印が解かれればすべてが白日の下にさらされる。ハハッ…もうこれ以上、わたしが道化を演じる必要もなくなる訳だ」
「馬鹿! まだそうと決まった訳じゃないだろ。第一…そうだ、カミヨ自身が子をもうけたら今まで通り問題なんてなくなる。あいつにも縁談の一つや二つくらいきてるだろ?」
「王には結婚する意志などない。これまでも縁談を断ってきている」
深々と嘆息を吐き、焦燥した面持ちでクラミチを見詰め返してきた。
深い緑色の瞳に色濃い絶望を見出し、紡ぎかけていた希望の言葉も口先で急にしぼんでいってしまった。
黙り込む友人の必死の存在さえも虚しいとばかりに頭を軽く振ると、眼鏡の位置を戻しながら再び深い溜息を洩らした。
「今日……家に帰って、話をしようと思う」
「それは…ウリにか? それとも……」
彼の言葉を遮るように口を開くと
「理性を失わずに済んだら、二人にだ」
消え入りそうなほど小さい声で呟いた。
大聖堂の地下にある広大な広間の床は、所狭しに鋳造された鉄の部品や巨大コンテナで埋め尽くされていた。本来は死者たちの亡骸を預かる霊安室だったのだが、ヤヌギ族がロッキーヴァス総教会を開きこの大聖堂を改造して以来、葬儀の方法も変わった。
いくつかの宗教がこの国に存在した頃は、一定期間を教会が遺体を預かりその後に土葬をされてきたが、現在では日を空けずにすべて火葬され焼き残った骨は粉骨され遺族が望む場所へ葬るという形が浸透している。これもヤヌギ族が提案した新しい形式であり、森林が減って地盤が緩みやすくなっている北の国では、以前から埋葬した遺体が雪解けの水に流されて地中から出てきたという事件が頻発していたので比較的国民に受け入れられた。
「ハーザン」
所狭しに置かれている機械や鉄塊の間を縫いながら、ナムは大量の書類を抱えてハザンの姿を捜した。
霊安室は改造され今はヤヌギ族専用の技術開発室となっていた。先月の宴で結ばれた東国との約束通り、鉄の輸入が行われ国家開発研究所で武器の開発が行われているのだが、原料の一部を横流しし自国で使用可能な武器の研究が進められているのだ。開発にはハザンが抜擢され、残りはロッキーヴァス総教会の信者から選抜された技術者が携わっているのだが今はちょうど昼時間なので人気がない。
「は~いはい。こっちだよ~」
巨大コンテナの陰から目を細めて笑うハザンが顔を覗かせた。
「もぉ、これ! 大事な設計図忘れてんじゃないわよ。偶然カマスが見つけてくれたからよかったものの」
ぼやきながら近くにあった汚れた机の上に抱えていた書類の束を置く。そうとうの重みがあったのか、苦労をアピールする如く肩を回して大きな溜息を洩らした。
「あーありがと~。ちょうど困ってたんだよ~」
困っていると言いながらも笑い顔を崩さず頭を掻くと、ゴーグルを外し近づいてきた。
「それでさ~あのカロル指導者とは別ルートできちゃったスパイさんは、ど~うなったのかな~?」
「カマスが監視しているみたいだけど…結構大胆でさ、直接四書に接近しようとするんだって」
「ハハハハハハハ、そりゃーすごいね」
「あんたが言っても危機感がないわ」
テーブルに腰をかけて嘆息した。
「それで、例の武器はどうなってるの?」
「アハハハもっちろん。すべて順調さ~」
調子抜けした口調で語りかけると、ハザンはテーブルの上に散乱していた鉄屑や工具を片づけ、その下敷きになっていた苔の生えたドライフルーツを取り出した。
「この調子ならいつ戦争が起きても勝てるねぇ」
ドライフルーツをいくつか皿に盛ると満面の笑顔でナムに差し出す。
が、苔やカビがその面積のほとんどを占めていたので即座に首を横に振り拒絶された。
残念そうに肩を落としながら皿を遠ざけるハザンを目尻に捉え
「…戦争かぁ……」
と、無意識に呟く。
「ど~ぅしたんだい? そろそろカヒコの世話も嫌になってきたのかな~」
「それは違うわよ。あいつは弟みたいで可愛いと思ってるし、手なずけたら結構面白いもんよ」
「なるほど。確かにねぇ」
今度はテーブルの下にもぐり蜘蛛の巣の張った盃を取り出し、同じくテーブル下のガラクタの中から探し出したラベルの剥がれた瓶の栓を開け、粘り気のある黒い液体を注ぎ込んでナムに差し出した。
「多分葡萄酒だったものだけど~まぁお飲みよ」
「い…いらない……」
盃から漂う悪臭に顔をしかめながら断る。さすがのナムも、発酵を通り越して腐った酒を吟味する勇気は持ち併せていなかった。
「そうじゃなくて、戦争が起こるってわかるならそれを回避する方法を考えることも…してみたかったなぁって思っただけ」
「なーるほどぉ。でもね、そう易々と歴史を変えてはいけないさ~」
懲りずにまだなにか、もてなす術はないかと辺りのゴミをひっくり返しながら、ハザンも言葉を紡いだ。
「この時代に求められるものを、時の支配者が創造していかなければいけないんだものね。信じれば救われる訳ではないけれどさ~民は、王様に縋るしかないんだよね~おっかしいけど」
貯め込んだ洗濯物の下から蛆の湧いている干し肉を見つけ、悪意のない笑顔を向けてきた。
「ナ~ム。これをお食べよ~」
「いっいいいいいらないっ! あ、ほら、私ってさこれからカヒコと仕事いかないといけなかったからさ! もーハザンのもてなしを受けられないのは、本当に心苦しいけど、仕事は仕事だし、フサノリ様の命令は絶対だし! ねっ!」
有無を言わさず拒みながらさりげなく出口に向って後退する。
「アハハハハハハハハ。な~んだぁ、じゃあ、これはまた今度だね~」
「あはっ。今度でも、いつでも一目見ただけでお腹いっぱいになっちゃいそうだな。ってことで、また!」
扉まで辿り着くなり猛ダッシュで去っていく彼女の後ろ姿を見送りながら、ハザンは顔の位置まで持ち上げていた干し肉の臭いを嗅いでみた。
「ふぅん…もうちょっと発酵してもいいような~」
いつもの笑顔を浮かべると、蛆の集る肉を背後に向って大きく放り投げた。
ユサを連れて手紙の届け先を探していたアタカは、ビィシリ村と比べて都の雪の少なさに驚いていた。地面から十㎝程積もってはいるものの人や荷車の往来が激しい大通りや、道の中央は既に雪が溶けて水が溜まっている。子どもたちがつくったとおぼしき見事な雪像が塀の前に連なりまるで雪に変えられた人間のようだった。その完成度の高さから北の国の人々の手先の器用さが伺える。
「なぁイチタ。去年はもっと都でも雪が積もってたよなー」
「えー? あぁそうだよねぇ。なんでもヤヌギ族が魔法の粉をくれて、それをかけたら雪が一気に溶けていったって誰かが言ってたよぉ。売ったら結構儲かりそうだね」
「ヤヌギ族って宗教だけじゃないの? おかしな呪術使いの集団だったりしてな」
「そーんな噂もあったらしいけどぉ。それよかさぁ、アタカはいつまでユサの手を握ってるつもりなのー?」
指摘を受けて、アタカは改めて後ろから頼りない足取りでついてくるユサの方を見た。泣き腫らした目元が腫れてどこか痛々しい。それでなくとも寒さが堪えてずっと鼻水を啜り、放っておいたら道に迷って帰れなくなりそうな風貌だ。
チノリコ村を出てからずっと握っている彼女の手首を一瞥し
「だってこいつ、歩くの遅いもん」
「だーれが泣かしたのやら」
歌うようにさえずると口元を緩めてユサを見た。
「ショウキなら多分、もう自殺なんてしないと思うよ」
「本当に?」
「ん~」
唇に指を当てて考えてから
「多分」
と答えた。
ユサと待っている間、彼らがどんなやりとりを交わしたのか一切聞いていない。あの後もイチタはいつもと変わらない態度で、ほんの少し待たせてしまったと言う名目で慰謝料を請求してきたくらいだった。
話題が出たついでに便乗しアタカも問いただしてみた。
「なんで自殺しないなんて言いきれんの? だいたいなんで、あいつが自殺なんてしたのかもわかんないのに」
「そこらは乙女心って奴だよ。でも、ショウキってぼくにぞっこんみたいだから好きな子のお願いを聞いてくれると思うんだ」
うふふっとまるで少女のような仕草で、恥じらって見せる。
「……」
「……」
あまりに唐突な告白にアタカとユサは茫然としたまま、開けた口をふさぐことができずにいた。
「え…なんで? いつの間にそんな関係になってたの? 俺にも内緒で…」
「やっだなぁ。ぼくもさっき初めて告白させたんだから」
頬を染めてアタカの肩を叩く。バシンッと大きな音が響いた。華奢な体格の割に母子家庭で育った故に意外と力強く、アタカは痛む肩を押さえてなおも問いかけた。
「告白……させたって?」
「誘導尋問…じゃなくて、告白? アマテル王の姪ってぼくに話してくれたのも、ぼくの関心を買いたかったからだってさぁ。かーわいいことやるけど、一銭の得にもならないって教えてあげたら案外ちゃんと納得してたよ」
「………えっと、つまり…二人は両想いなのか?」
「えー…でもさ付き合ったら付き合ったで結構お金もかかるし、会いにいったりしないといけないとかで労働時間も減らされるからね。今度気が向いたら母さんにも会わせてあげるって言っといたら、喜んでたしいいんじゃない?」
「いや、よくないって! それって結婚前提とか勘違いされないか?」
「ショウキなら…絶対、勘違いしてる……」
ユサも『絶対』というところをやけに強調して心配な面持ちで口を挟んできた。
「ケッコン?」
まるで異国の言葉のように反芻すると、にやりっと企みのある笑みを浮かべた。
「ウリとクラミチを呼んだらご祝儀は結構もらえるねぇ。そぅそぅ、ペジュなんて呼んだらマメリにばらされたくない一心で……うふふ。素敵だな♪」
舌舐めずりをする様子はもはや小悪魔を経て、立派に成長した本物の悪魔だった。
対談を終えて仕事部屋でもある自室へ戻ったカミヨに、フサノリは初めて声をかけた。
「想像通りのお子でございましたな」
その言葉に対し軽く鼻で笑い、つまらなそうに机の上に山積みになっている書類の一つを取る。
「予め侍女たちのお喋りから王たちの過去を推察するよう、段取りを組んでおりました。もっと取り乱すかと思っていました故…気丈な態度には感服致しました」
「いかにもわたしたち四人が親しい仲だったと告げたが、まだ、あの子どもは尤も知るべきことを知らずにいる」
フサノリを一瞥し机を回って椅子に座ると持っていた書類の下に王の署名を書いた。
「ふんっ…モロトミめ。早速オボマ国へ使わす使者を選別してきた。まぁクスフンならば問題ないだろうがな」
忠実な部下の顔を思い浮かべ安堵する。クスフンならば三国との使者と対立することもなく、無事目的を遂行するだけの度胸と力量を兼ね備えている。あくまで和平を第一とした交渉だけに、今回は無骨な男よりも頭も切れ臨機応変に対応できる使者が求められていた。
「…いかにも、彼ならばこの交渉は無事に遂行されましょう。しかし、オボマ国王ナラヴァスⅡ世の言葉は二重にあると思われた方がよろしいかと」
「四書による神託か?」
カミヨの問いかけに鷹揚に頷く。
「交渉は時間稼ぎ。オボマ国との戦いは決して避けられないと思い下さい」
「……戦いで滅びるのは二つの国。我が国が生き残るには、あの子どもが王位に立つことが必須なのだな……?」
「その為にも、我が一族は全力を尽くしてアマテル王の妹姫シグノが産み落とされた子どもを……捜しているのです」
「シグノ…」
腕を組み卑屈な笑みを漏らす。
「果たして反逆の姫君から生まれた子どもが、今も生き延びているかさえ怪しいと言うものを」
カミヨの視線を受けてフサノリは静かに微笑した。そして懐から四冊の本を取り出すと、おもむろにそれらを開き中身の文字を羊皮紙に書き起こし始めた。
「なにを言い当てるつもりだ」
彼の手元を覗き込むが連なる文字らしき記号を見てもカミヨには理解できなかった。恐らくこの大陸の言葉ではない。しかし海を越えた向こうにある国々の言葉とも違っていた。
過去にフサノリから四書を取り上げて専門家たちを呼び集め解読を試みたことがあるが、どれだけ時間と富を費やしても誰ひとりとして本に秘められた言葉を読み取ることはできなかった。
神の言葉を預かる者―――
カミヨの前に現れたフサノリは自らをそう名乗った。その未知なる力を駆使して世界の支配者になることを望む訳でもなく、彼と、彼を慕う四人の一族の者たちを使いイザナム王の御世を支えると誓った。
(あの言葉に…嘘はないのだろうが……)
疑うにはあまりに根拠が少なすぎた。何度も彼の予言によって命を救われ、臣下たちの謀反や下等平民たちの一揆を抑え争いの種を早々に摘み取ることができた。
(四年前…お前たちはわたしの前へやってきた)
運命だと言うにはあまりにおかしな巡り合わせだと思った。神と言う異次元の偉大なる創造者が彼らに力を貸し与えているのなら、何故王である自分にはそのような才も運命をも意のままに操る力もないのだろうと考えた。
しかし今は違う。彼はこの国の絶対者であり、異次元に存在する神はこちら側に一切の干渉ができないでいる。
だから王が認められるのだと、思った。
「ふっ。どうせなら、わたしの即位の時にお前たちがあらわれたらよかったものを」
紙面と向き合う横顔を見て苦笑する。笑ったついでに喉の渇きを覚え、手元にあった水差しから盃に水を注いだ。
ふいにそれまでさらさらと流れるように文字を綴っていた羽ペンが止まる。鋭い眼差しを受けて、カミヨは口元まで運んでいた盃を元の位置へ戻して問うた。
「どうした?」
「王よ、その水には一滴で十人も殺せる毒が盛られております」
毒と言う言葉にわずかだが頬が強張った。
再び盃を手に取ると、近くに飾られていた花瓶へ中身を移した。するとものの数秒で美しく咲き誇っていた可憐な花々は色を失い、瑞々しかった花弁は乾いた老婆の肌のように醜く歪んだ。そして一瞬の空気の揺れに負かされて、花は目に見えない粉塵に変わり景色から消えた。
「……例の、カロル指導者か?」
一瞬にして主を失くした花瓶を眺めて問う。
「王が口にされるものはすべて確認を取った上で献上致しておりましたが、隙を突かれたようですね」
「正体がわかっているのなら即刻首を刎ねればよかろう」
「お言葉は尤もでございましょう。カロル指導者以外の者はすべて近日中に処分致すがよろしいですね。ただし、彼女だけはまだ、生かしておかれた方が我が国の為であります」
「解せんな。お前はわたしの寝首を掻かれる様を見たいのか?」
「カロル指導者は狂信的なアマテル王の使者であります。これは有効に使うべき駒。殺せばいくらわたしでも、蘇生させることは不可能です」
意見を崩そうとしない憮然と構えるフサノリを見上げ、カミヨはその手元にある紙に注意を変えた。
「予言が…そう告げているのか?」
彼の質問にフサノリは無言で肯定する。
しばしの沈黙を置いてからカミヨはつまらなそうにそっぽを向いた。
「よい。勝手にしろ」
半ば投げやりに答えるも相手は礼儀を弁え恭しく頭を下げた。
「恐れ入ります」
例え国の行方を決める時に助言をし支えてくれるからと言っても、彼らの間にはなにもなかった。あるのは信憑性の高い予言を告げ、それを受け取るだけの関係性。平行線に肩を並べたまま、どこまでいっても交り合うことのない視線。
信じられる部下も、信じられる友も親も誰もいない。己の庇護下にあるはずの民の顔も知らなければ、彼らもまた、王の恩恵を知らずに生きている。
常に同じ方向を見詰めている人々。その先には国家の安泰、国民の幸せとかいった大儀な目標が掲げられている。時にあらぬ方を指差す者もいるかもしれないが、カミヨには向かい合える人間などいなかった。
「………」
西国へ送る祝の品のリストを眺めながら彼女のことを思い出していた。
民の為に生きると言ったチトノアキフトは、王となった今。なにを思い、どんな理想と野望を胸に抱いているのだろうか。
(所詮は理想論に過ぎないと気づいたか……?)
鼻で笑いリストを隅へやると、山積みになっている書類に目を通しながら心の中で問いかけた。
(お前もわたしも…手綱を握られた操り人形でしかないのだと……気づいてしまえ。気づけば悩む必要もなくなるのだから―――)
そしてかつての友だった二人から大切な子どもを奪い、自らと同じ運命を歩ませようとしている自虐的な欲望に触れ、無意識に口元が歪むのがわかった。
手紙を届けたアタカたちはその足でウリの家へ向かった。あいかわらずイチタはショウキに対する想いを素直に口にしようとはせず、何度も同じ質問を繰り返していたアタカは次第に虚しさを覚えて諦めた。当のユサはのろのろと歩いていたが、俯き加減なその顔も道程で気持の整理もついたのかいささかすっきりしたように見える。
城下に近づき貴族たちの屋敷が多くなり、余計に道に積もる雪の量も減っていた。城の周りなど特になにもなく、大小の水溜まりが確かに同じように雪が降ったことだけを物語っていた。
「ここらへんなら影が多いし雪も残ってそうなのにな」
水溜まりに足を突っ込みそうになっていたユサの腕を引っ張り回避させながら、アタカは辺りを見回してぼやいた。
「魔法の粉って落ちてないかなぁ。絶対に売れるよねぇ」
大きな瞳を更に大きく見開け捜すイチタ。確かに村長から聞く北の国の冬はそうとう過酷なものらしく、ひどい時は丸一年以上も家から出れないこともあったと聞いた。しかし後でイチタが脚注によると村長は毎年子どもたちに聞かせる物語として、特別に編集したらしくそれも、話すたびに内容が脚色されていくのだと言った。
それでも去年経験した冬ごもりでは、雪が家の半分ぐらいまで積もり三日三晩外へ出れなかったこともあった。徐々に雪の量が減ってきていると嘆く者もいるけれど、冬ごもりに慣れていないアタカとしてはむしろありがたい話だった。
「ウリがいたら聞いてみたら? もしかしたら余ってるかもしれないし」
「そうだねぇ。まさに持つべき者は友だね」
嬉しそうに頬を染めるイチタの横で
「イチタ…いつもお金ばかり…」
とユサが呟いた。
「えー当たり前だと思うけど? だってお金がなかったら生きていけないもん。それにぃこれはさ、ユサがお金もないのについ苗木を買ってしまうのと同じだよ」
「…同じ?」
疑問符を浮かべアタカに講釈を求めてきた。彼女がこんな風に素直に目を見て話しかけてくることは珍しいので、ついアタカは自分から顔を背けてしまった。
「え、えーと…要は欲しいからってことじゃないの?」
「お金が……あれば、なんでも買える、から?」
「買える、買えるっ。もぅなーんでも買えちゃうよぉ」
調子に乗って囃し立てると意外にも真面目な顔つきでイチタを睨んだ。
「違う。買えない」
かぶりを振り直視すると
「ショウキは、お金を払ってもイチタの気持ちを買えないって知ってる」
一呼吸の間を置いてユサは断言した。
「だから、イチタが好きなんだ」
寒さから血の気の引いた白い顔から不思議と凛とした強さのようなものを感じた。あれだけ嫌われていながら、それでも相手の為に涙を流し時に想いを代弁する。もし逆の立場だったとしても、きっと彼女のように振る舞えないとアタカは改めて感じた。
それは不思議な気持ちだった。初めて味わう新鮮な思い。ほんの少しだけどユサの本心を汲めるようになったことで、より友だちに近づいたのではと喜んだ。
「……んっとまぁ…日当が出るなら疑似恋愛も考えるけど」
友情の芽生えに感激するアタカの傍らでぼやく。が、すぐに二人の険の入った眼差しに気づくと満面の笑顔を浮かべ
「だーいじょうぶ。ぼくも悪魔じゃないんだから、ちゃんと自分の気持ちに忠実で優しく健全且つ紳士的に行動するって」
やけに形容詞の多い表現がいささか気にかかったが話題のついでに聞いてみた。
「で、イチタも好きなの?」
「だって、ぼくってまだ誰のものでもないし束縛されてないから、村でもみんなが可愛がってくれてるのに」
「いや、それって! だーから、そうやって利益とか損得勘定抜きに考えろよ。ショウキもちゃんと好きだって言ってくれたんだろ?」
「そーよっ! あんたね、いっくら可愛いからって女心を弄ぶには百万年早いのよ! せいぜい酒樽を五本以上空けられるようになってから言いなっての!」
「そーだ! そーだ!」
と声援を送ってからふっと我に返り、いつの間にか輪に加わっていた人物を見た。
「………誰」
ぼそり、と囁かれたユサの言葉でしばしの沈黙が流れる。
三人の注目の的となっていたその人物。ただ一度しか顔を合わせていなかったが、アタカもイチタも決して忘れなかった。
「ナム!」
異国の装いをした女宣教師ナムの顔を指差し、その名を叫ぶと同じように指差していたのに何故かアタカだけ頭を殴られた。
「人に向ってその言い方はなに! あんたっちょっとは年上を敬えってこと教えてもらってないの!」
「…イィッテェー! 怪力! なんで俺だけ殴るんだよっ!」
「そりゃぁ……アタカ」
憂いに満ちた表情で片頬に手をやって答える。
「ぼくは可愛いからだよ」
「そうなのよねぇ。そんな顔に傷を与えたくないじゃない」
腕を組んで同調すると打ち解けた調子で話しかけてきた。
「久しぶりじゃない。元気そうだけど、なんの話してたの?」
「別にあんたに関係ない話」
痛む頭を押さえながらぶっきら棒に言葉を返した。それから忌々しそうにナムを睨むと
「それよりさ、ずっと聞きたいことがあったんだけどなんで、ヤヌギ族がアマテル王の姪なんて捜してるの? あんたがきた所為で、自分は王族の子どもだぁって思いこんで大変な目に遭った奴がいるんだぜ」
「いっきなりディープな話題ねぇ。まぁ別に隠しているって程じゃないし、口止めしていない時点で露見することも想定内として……イザナム王の信頼も厚いヤヌギ族が他国の王族の子どもを捜すことにどうして疑問があるの? これは外交問題に及ぶ可能性もあるでしょ」
「人質に使われる可能性だってあるだろ」
「交渉の時にぃ優位に立てるかもしれないもんね」
「うーん。まぁそうだけどね。でもこれ以上は国家機密事項に関わるってことになるから、私の口からはなんとも言えないの。それより、あんたたちがどうしてこんなところにいるの?」
「なんでもいいだろ。第一あんたこそ、仕事さぼってなにやってるんだよ」
「失礼だね。これでも仕事中なのっ。相棒が今立ちションしてる最中だからこうやって時間潰してるって訳」
「えーぼくら、時間潰しに無料で付き合わされてるんだぁ。ひどいやぁ……」
目に涙を蓄えしょぼくれて見せるイチタ。勿論その行動は計算上のものだろう。彼の企みは見事に的中し、純粋な少年の心を傷つけたと勘違いしたナムは途端に慌て出した。
「あぁ…ごめんって。もぅ……じゃあこれ、あげるから! ねっ」
腰を低くして彼女が取り出したのはお金ではなく、乳白色の色をした丸い親指サイズの玉だった。
以前に祭りの時にもらった覚えがあるアタカは顔を輝かせて
「あっ、それって味が変わる奴だろ! 甘くておいしかった」
と喜んだ。
「よく覚えてるなぁ…。しゃーないから、ほら、ユサちゃんにもあげるからおいでよ」
一人離れた場所からナムを見ていたユサに向って手招きをする。しかし一向に警戒を解こうとせず、もらった丸い玉をおいしそうに口へ含むイチタを信じられない様子で見ていた。
「毒なんて入ってないよ。現に二人とも生きてるでしょ」
「これ甘くておいしいぜ」
と言って、自らも食べようとしたがふと思いとどまってナムを見た。
「これってもうない?」
「欲張りだねぇ。もう持ってきた分はこれで終わりなのっ」
「しかたないか…。じゃーその袋ちょうだい」
玉を入れていた袋を指差すとナムも訝しみながら
「いいけど…なにに使うの?」
と問いかけてきた。
「これからウリのとこいくから。ウリにあげるんだ。俺、前に食べたことあるし」
「なーんだぁ。それならアタカ、ぼくの半分こする?」
舌先で転がしていたので溶けかかっている玉を見てアタカは遠慮しておいた。
「ふぅん……案外友だち想いなんだ」
ようやく近くまで寄ってきたユサに残りの玉を渡し呟くと、おもむろに屈めていた腰を上げた。
ちょうどその時、彼女の後ろから走ってきた長身の男がナムの名前を呼んだ。
「ナーム! ごめん、待った?」
「カヒコ。あんた、どんだけ長いションベンしてんの。たっく…乙女をどれだけ待たせるんだか」
少なくとも乙女と自称する彼女に対し、その場にいる全員が満場一致で疑問を抱いたのは言うまでもない。
「あーはいはい、ごめんってば。任務が終わったら一杯奢るからさ。それより急がないと帰ってきちゃうって」
もはや慣れたと言うような態度で愚痴をこぼすナムを宥め、一緒にいる三人など目もくれずその場を去ろうとしたカヒコだったがふと視界にアタカを捉えると、足を止めて彼の顔をまじまじと観察してきた。続いて隣にいるイチタも同じように眺め、ユサだけはちらっと見ただけで終止した。
不躾に見てこられたので気分を害したアタカは、自分よりも遥かに身長のあるカヒコを睨みつけ
「なんだよ」
と怒った。
「そう珍しい顔でもないでしょ?」
加えてナムも疑問を呈するがカヒコはナムの声のみ反応を示した。
「気の病かもしんないけどさぁ」
アタカたちに背を向けて歩き出しながら口火を切る。それにつられてナムも踵を返していってしまった。
「違う。それって気の所為って言いたかったんでしょ」
「なっ…なんでもいいじゃん! 病も気からって言うし!」
「意味が違うって。あんた本当に馬鹿だねぇ…いっくら学校にいってないとは言っても、それはないわ」
離れていく二人の会話に思わず顔を見合わせると苦笑した。
「……甘い…」
ナムがこの場から去って初めて玉を口へ入れたユサが小さな声で呟く。
彼女の感想に同調しようとアタカが顔を上げた瞬間。遠のいていたカヒコと呼ばれていた男の声が耳まで届いた。
「だっから! 絶対、シーウェスに似てるっ」
反射的に振り返って彼の姿を確認しようとしたが、どこかの角を既に曲がり終えてしまったらしくもう見当たらない。
驚愕すべき事実をイチタにも告げようとしたが、その必要はなかった。
彼もまた、目を見開きアタカと同じ方向を見詰めていた。
窓の向こうに続く果てのない荒野が今日はやけに、黒ずんでみる。それも当たり前だ。今朝からずっと天気が悪く、ただでさえ暗い雰囲気の一帯が灰色の分厚い雲に覆われて余計に心象悪く映る。
せっかくグリフがきていると言うのにこんな天気では楽しめないじゃないか。
そんなぼくの気持ちなど完全に無視してさっきからグリフは、トランプゲームをして遊んでいる。ルールを知らないぼくは最初、占いなど一人でも遊べることをしていた彼の傍らで眺めていたけれどそれも飽きてこうして窓辺に立ってぼんやりしていた。
「シールパッ。なんか簡単なゲームやりましょうッス。一人遊びって限界ッス」
「ルール知らないけど?」
テーブルに並べていたカードを集めシャッフルをしながら
「簡単ッスよ。裏向きにしたカードを一番から順に出していって、それが嘘だったら『ダウト』って叫べばいいッス。四枚ずつしかその数字はないから段々出せるカードがなくなるッス。そうすると嘘をついて別のカードを出すッス。そして先に手持ちのカードがなくなったら勝ちッス。もし『ダウト』を言って、それが本当に偽物だとしたらそれまで出していったカードをすべてもらうッス」
「『ダウト』を言って、カードが嘘じゃなかったら?」
「言った方がたまっていた分のカードをもらうッス」
確かにルールだけを聞いたら簡単そうだ。
椅子はさっきから彼が占拠しているので、隅に寄せておいた食糧の入った木箱を二つ重ねてテーブルの上に向かい合った。
「ただしジョーカーを一枚混ぜとくッス。これはどの数字にも化けられるッスよ」
「わかった」
手元に配られたカードを持つとグリフから始めた。
「いち」
真面目ぶった面持ちでそう宣言すると裏向けたカードを二人の間に置いた。
ぼくの手持ちカードにはハートとスペードの一番が揃っている。つまり二周するまでは彼が嘘を吐くことはないはずだ。
「…に」
ダイヤの二番を出す。これでもうぼくの手持ち札に二番はない。次は絶対に『ダウト』と言われてしまう。
「さん」
「よん」
「ご」
「ろく」
「……ダウトッス」
にやりと笑いながら宣言すると、ぼくが置いたばかりのカードをめくって見せた。
スペードのクィーン。手持ちに六番がなかったのだから当たり前だけど、やはりゲームだけに少し悔しい。
仕方なく六番までためられていたカードをもらい、それぞれの順番に並べようとした。が、驚いたことに一番から交互に。つまりグリフが出したカードだけすべて偽物だった。
「ふっふっふっ。気づいたッスかぁ」
「でも、カードがない訳じゃないのになんで?」
「敵の意表を衝くッス。初めはカードもたくさんあるッス、だから絶対に順序通りに出ッスとシルパさんは思い込んでいるって思ったッスよ」
なるほど。確かにグリフの読みは当たっている。そうやって次第に持ち札が減ってから、今度は逆にできるだけ正確にその時々の数字を出していけばいいのだ。
意外にも奥の深いゲームだなと思ってから、ふと変なことを考えた。あまり突拍子もないことだとは思わなかったけれど、いや、むしろそんな風に考えてしまうこと自体とても自然なことじゃないかとさえ思えた。
まぁそれも、ぼくがずっと引きこもっていたからかもしれない…
「どーしたんッスか?」
なかなか次のカードを出さないぼくに痺れを切らしたように問いかけてきた。
……もし、こんなことを話したら彼はなんと答えるだろう。
やはりまたぼくは世間知らずだと言って一笑してくれるかもしれない。いや、むしろそうやって誰かに否定してもらってこそ安心できる気がして、ぼくはおもむろに口を開けた。
「もしもクローン生産が公になっているなら、どんどん人が死んでいっても、その代わりにクローンが生まれてくるから誰が本物でどれが偽物かわからなくなるね」
なにげない疑問だった。ただ、遠い現実でのできごとがほんの少し、このゲームと似ているような気がした。だけど確かな違いがあると言えば、それは誰も『ダウト』の宣告をしないこと―――
「………え?」
手首に巻いた時計の秒針が一回り以上鳴ってから、ようやくグリフは反応を見せた。
歯切れの悪い態度に一抹の不安を覚える。疑問を払拭しようと、ぼくはやや声を大きくして紡いだ。
「だから…もし、本物が死んだとしてもクローンを代用すれば済むし、そのクローンも邪魔になれば処分すればいいのかなって思ったんだよ。クローンがそれらしく振る舞えば誰も、どこの誰が死んだかも気づかないんじゃないかな。それに所詮クローンなんだから人格とか人権だって軽視されて……」
左頬から脳天にかけて激しい電流が走った。
「!」
数秒遅れてから痛みも湧き起こり、ぼくは熱を持った頬を抑えたまま信じられない思いでいつの間にか立ち上がっていたグリフを見上げた。
両の目には初めて彼が見せる怒りと憎悪をたぎらせて、恐らくぼくを叩いた方の手を血管が浮き上がるくらい握り締めて。
どうして彼がそんなに怒るんだろう。なにが彼を怒らせたんだろう。
だってグリフも言っていた。クローン生産なんて日常茶飯事でわざわざ気にとめる程のことでもないって。だから、それだけ普通で、一般的で、大衆的にも認識されているものならば、当然そいつらの命だってそこいらの大量生産された商品と変わらないと思ったのに…
叩かれたことよりグリフを怒らせたことへの恐怖があった。ぼくのどこが悪かったのかわからないけど、でも、涙が溢れ出てきて、気がつけば泣きじゃくっていた。
「あ………ごめ、ごめんなさいッス! お、俺ってばなにやってるんッスか!」
突然我に返った様子で吃りながら頭を下げてきた。そしてテーブルを回ってぼくの傍まで駆けつけると、赤く腫れてきた頬を見て急いで濡れタオルを持ってきてくれた。
「すんませんッス! 本当に申し訳ないッス」
甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるくらいなら叩かなければいいのに、と内心毒づきながらずっと平謝りを続けるグリフに向って言葉をかけた。
「どうして怒ったの?」
当然とも言える質問に対しグリフは項垂れるとしばらく沈黙した。また反省しているのかと思ったけど、今度は下を向いたまま呻くようにして声が聞こえた。
「…クローンって言ってもあいつらは、人間ッス」
「他の人間と同じように生産されたクローンにも、生活するだけの権利って与えられてるの?」
「それは…!」
と勢いよく顔を上げてから、ぼくの顔を見るなり急に弱々しい物腰になった。
「それは…元々クローンが生産される目的があるから……」
「目的?」
ただの人手不足解消って訳ではないのだろうか。妙に口調の端まで気を回して話す素振りが気になって追及した。
「そもそもクローンをつくっても、ウィルスのワクチンもないのにクローンが感染したら元も子もないでしょ。どうしてそんな変なことをするの?」
「だから……だから…それは…」
語尾を濁し呟いてから、グリフはぼくの目を直視してきた。
「本当はクローンにも二種類あるんッス。一つは兵隊となって戦う戦闘能力を高めたクローン。そしてもう一つは特殊な環境下でも生きていけるよう、潜在能力を高めたクローンとあるッス」
「特殊な…ってのはわかるけど、どうして戦闘が必要なの?」
と紡いでからぼくも気づいた。
「もしかして、ユエの…ディップたちと……?」
三十七年前の選別以来、地球と植民星ユエと分かれて暮らすようになったぼくらだった。以前グリフがユエで再び王権復古が起こり、イザナム王と名乗る王を立てて新しい政権を築いていると完全に馬鹿にした口調で教えてくれた。
そのユエに住む同じ人間を相手に、戦争が起こるかもしれないだなんて考えもしなかった。確かに連中をディップと呼んで蔑んではいたけれど、でも、まさか…
「もう街は同じ噂でいっぱいッスよ。一触即発状態だって言う奴もいるッスけど、政府の正式な発表はないッス。だけどこれだけ大量に戦闘用のクローン…奴らをシンって呼ぶんッスけど、シンを製造していたら、誰だって不安になるッスよね」
それからグリフは、ただぼくに余計な心配をさせたくなかったから黙っていたのだと、消え入りそうな声で謝罪した。
「だけど、どうして…? ディップがぼくらからなにを奪うの? 菌保持者とその可能性のある人間しかないでしょ」
他になにを欲するのだろう。ここにはなにもない。あるのは大地を埋め尽くす死者たちの恨みと―――粉になって消えた骨しかないのだから。
怯えるぼくの肩に手をやると、グリフは深みのある声を出した。
「……政府はいずれ今いる人間はすべてウィルスに感染するか、もしくは餓死して全滅するって言う見解を持ってるッス。だから今のうちにどんな環境でも生きて、生き続けることのできるクローンをつくって、ユエに逃げちまったディップたちからこの星を完全に守ろうとしてるッス」
真摯な思いを宿した緑色の瞳が精一杯の優しさを込めて細められる。
目尻からこぼれていた涙を拭い彼と向き合うと、自然と疑問が口を突いて出てきた。
「心臓麻痺で死んだあのクローンたちも……実験に参加していたのかな」
指に力がこもる。
短い沈黙を置いて、グリフは頷いた。
「今、深刻な危機に瀕しているッス」
「結局死ぬのは、人間なのにね」
無感情にぼやいてからぼくはグリフの手を払って五階へ上がった。
昨日は一緒に狭いベッドで眠ったけど、今は力なくその上から倒れ込んだ。なにも考えたくないって自制をかけておかなければ、もっとたくさんのことを考えてしまいそうだ。
どうしてこんな虚しさが全身を支配するんだろう。悲しい訳じゃないのに胸が苦しい。怒っているつもりでもないのに頭が痛くてガンガンした。
目まぐるしい感情の坩堝にはまり、熱を得た思いが出口を求めて一気に溢れ出る。
涙腺が熱くなり、涙が世界をぼやかせてから初めて原因に到達した。
―――ただぼくは、政府が今を生きるぼくらを否定したことが許せなかったんだ。
どうせか弱い貧弱な生身の人間ではこの時代を生き抜けない。種の絶滅に瀕しているのは火を見るより明らかだから。だから、人の形をした新たな人類を誕生させた。
彼らにまだ見ぬ新しい時代を、託して。
「………ちくしょう…」
涙が止まらない。
こんな地上の最果てに住んでいながら、ぼくはいつも心に同じ地球で生きる運命共同体の意識を持っていた。むしろディップたちを非難することで、地上にいる人々はみんな同じ想いだったと思う。
それが、人々の意思を反映する政府によって頭から否定された。
存在を否定されたぼくらは体の部品を替えでもしない限り生き残れない。情け容赦のない人類存亡を賭けた淘汰に抗うことはできない。
種を残す為なら当たり前の選択だから。
でも、ぼくらは、まだ『生きて』いると言うのに。
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