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流せ、綴れ、情愛
37(終)
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皆は、その胸に愛を宿し、武器を構え、怪自然に戦いを挑んだ。ところが、トロンだけは立ち止まっていた。薄っぺらい希望、その言葉に聞き覚えがあったのだ。「いい?あの箱には、ろくでもないものしか入っていないように見えるけど、実際には“薄っぺらい希望”も一緒に封じられているの。だから、危うい状況になったら、躊躇なくそれを使いなさい。あなたが生き延びるためにもね」。それは以前、森へ牡鹿を狩りに行った際、リンゴの香りを漂わせる謎めいた女性が言い放った言葉である。
「どうされましたか、お兄様…?」シフォンは、ぼうっと立ち尽くすトロンが気にかかり、戦うどころではなかった。
トロンは、かつて聖なる箱であった残骸に駆け寄ると、戦渦に構わず屈みこみ、夢中になって木片を漁り始めた。ところが、それらしきものは見当たらず、木片ばかりが目に映りはしたが、ただならぬ雰囲気をも感じ、箱に封じられていた希望の存在を確信しつつあった。そして、残骸の中でも一際目立つ大きめの木片を見つけた。その形状は明らかに蓋であった。一見すると表裏とも何の変哲もなかったが、その裏側には内蓋が貼りついている事が亀裂の隙間から明らかになった。そのひびだらけの内蓋を指で剥がしてみた矢先、我が目を疑った。驚くべき事に、聖なる箱の蓋の裏には、青白く光る文字が刻まれており、それは紛れもなく自然除けの力そのものであったのだ。ガゼットの廟で見た文字とは、異なった形状を持ってはいたが、それから放たれる魅惑的な輝きは、なんら変わりない。
「そうか…!きっと聖なる箱は、めぐりし遺産なんだ!」トロンは、驚き声を上げた。
トロンの奇行を心配そうに横から覗き見ていたシフォンも驚かされた。「あの文字がシュラプルにもあったのですね!これがあれば、もしかしたら…!」
トロンは、即座に立ち上がると、迷う事なく蓋を天に向かって掲げ、文字を憎悪思念体に見せつけた。途端、すべての怪自然の動きが停止し、住人の前に無防備を晒した。それだけでなく憎悪思念体までもが、まるで時が止まったかのように制止し、もはやその光の一片すらも揺らめいてはいなかった。好機が到来した事を直感したのか、クレアの勝ち誇った声が周囲一帯にこだました。その声もまた、メルヘンとは似ても似つかないクレアの肉声であった。
「もう今しかないよ!!今なら思念体をぶった切れるはず!!」
「何だってんだ一体!?」ブブゼラは、状況を解せずにいた。
「恐らくは、あの蓋に刻まれた文字のような光の力です」アンデスは、蓋を掲げるトロンを興味深そうに観察していた。「どうやら聖なる箱の封印の力、その根源は蓋の裏に隠されていたようです。だとすれば、思念といえども自然である以上、一定の効果はあるはずです」
それを聞いたポワソンは勢いづいた。住人に向かって「皆!!今なら武器が通じるかもしれない!!ただちに構えるんだ!!」と命じた。
「合点!!」アスレチックは、剣を投擲するべく構えた。
アスレチックだけでなく、その場に集うシュラプルの住人、それからエラクレス三兄弟も得物を構え、憎悪思念体に照準を定めた。そして、「よし、放て!!」とポワソンが合図を出したのを聞き、皆一斉に投擲した。
放たれた数多の刃物は、憎悪思念体の顔面を次々と貫いた。自然除けの力は効果覿面であり、精神と物質を繋ぐ架け橋を作り、一介の刃物を有効打へと変えてみせた。愉悦に歪む悪魔の形相は、たちまち蜂の巣となったが、その表情を変える事もなく、そのまま薄らぎ始めたかと思うと、霞となって消えていった。また、怪自然は憎悪の呪縛から解き放たれ、元の自然な亡骸を取り戻すと、再び永久の眠りについた。
シュラプルは、自然の脅威を退けた。憎悪を消滅させ、自然の骸を積み上げた彼らには、勝利の二文字がふさわしい。誰もが歓喜の声を上げ、互いの健闘を称え、その絆はより深く結ばれていった。まさに雨降って地固まるである。
トロンは、蓋を下すと、ため息をついた。ようやくすべてが終わった、と安堵していたのだ。
そんなトロンを気遣い、シフォンは声をかけた。「お疲れ様でした、お兄様。三兄弟も仲良くなりましたし、これでシュラプルも安泰ですね」
ふと三兄弟に目をやると、これまでの反目が嘘のように喜びを分かち合っていた。その溢れんばかりの笑顔を向け合う姿は、ありのままの三兄弟へ回帰した事を証明する何よりの証拠であった。やはり彼らも兄弟なのだ。そうトロンは、強く思った。
「あっ」シフォンは突然思い出した。いまだに横たわるばかりのタフにすかさず駆け寄り、その安否を確かめ始めた。それから「大丈夫ですか?気分とか悪くありませんか?」と声をかけてみたものの、まるでタフは目覚めなかった。
メルヘンも同様であった。三兄弟に介抱されているようだが、その眠りから覚ます事はできずにいた。しかし、彼らは特に慌てる素振りもなく、むしろ平然としている。やがてアンデスがタフの元へやってくると、シフォンにこう言った。
「心配する事はありません。もうじき目を覚まします」
シフォンは安堵し、アンデスに微笑みかけたのも束の間、出し抜けにタフが目を覚まし、すくっと起き上がってきたせいで、ひどく面食らった。それから「だ、大丈夫…ですか?」とタフに驚き顔でたずねた。
そのタフは、以前までの彼とは雰囲気がまるで違っていた。エシレウスの聡明さと凛々しさを引き継ぎ、名実ともにラブ=ラドール・エシレウスの生き写しとなっていたのだ。彼は、天にただよう二つの霊魂を精悍な顔つきで見上げると、こう呟いた。
「また出会えたのか…」
「タフ……いや、今だけは…息子と呼ばせてくれ」エシレウスは、朧げな霊魂となりつつも悠長に語りかけた。「息子よ。この期に及んで押しつけがましく、鬱陶しい事は言うまい。これからは己がままに生きろ。己が宿命を超越し、人としての希望を胸に抱いて生き抜いてみせろ。そう、お前には、このエシレウスから受け継いだ紅き愛の血が流れているのだから…」
タフ、もといエシレウスの息子は、芝居掛かったほどに大きく頷いた。
その返事を見届けたエシレウスの霊魂は、その場を離れると、矢庭に教会の方角へ飛んでいき、まもなく原初の雷と震撼を呼ぶ鉾を携えて蜻蛉返りした。そして、ポワソンとブブゼラに各々の武器を放り投げ、その手元に返してやった。ところが、ポワソンが鉾を掴んだ拍子にその柄がメルヘンの額に直撃してしまった。
メルヘンは、痛みに目を覚ました。赤くなった額を気にしつつも体を起こすと、そばで介抱していたポワソンとブブゼラをまじまじと見つめた。
その不機嫌な表情にポワソンのみならず、ブブゼラまでもが恐れ戦いた。許しを請うためにも「いつもならもっと華麗に受け止めてみせるんだけど、今回はたまたま手が滑っただけなのさ」とポワソンが申し開きをしてみせた。
「どうでもいい。いつも通りの三兄弟に戻っただけなんだからな。お前らが不器用なのは昔からだし、私も慣れきっているよ」メルヘンは、現状況を把握しているのか、微笑して言った。
そんな仲睦まじい息子たちの将来を案じたクレアの霊魂は、皆に向けてこんな遺言を言い残した。
「もうじきあたしは天に還っちまうけど、最後にこれだけは皆に言っとくよ!!もし、あたしの三兄弟がまた喧嘩でもしたら、その時は寄ってたかって叱り飛ばしてやってちょうだい!!どうせ叱った所で懲りない性根なんだから、手加減してやる事はないんだよ!!」
三兄弟にとっては、耳の痛い話ではあったが、その片や住人は、何度も頷き、必ずや遺言を聞き届ける事を示した。また三兄弟に喧嘩でもされたら、たまったものではなかったからである。
もはや悔いはない。遺言を伝え終わったクレアに向けて、エシレウスは「では、還るか。いざ、天へ」と呼びかけた。
名残惜しいが、二人の御霊を呼び止めようとする者は皆無だった。涙を流す事もなく、別れを告げる事もなく、二つの霊魂が天上に昇っていく様をただ黙って見送った。それがシュラプルの流儀だからである。死者との絆を留めるものは、言葉でなく、情である。ただそれだけが強者の生涯に敬意を払い、末永く偲ぶための術である事を皆は理解していたのである。双子もまた、エシレウスとクレアの昇天を見送った。彼らはシュラプルの人間ではないものの、感慨深く、それでいて粛々と二人に敬意を表していた。
それから小一時間が経過した頃、双子はシュラプルの門前に立っていた。遂に旅立ちの時である。そのために泥土にまみれた衣服を清潔にし、自然除けの文字が刻まれた蓋を三兄弟に託しておき、万全なまでに旅立つ準備を整えると、そそくさとシュラプルから旅立とうとしていた。手荷物はなかったが、大した問題ではない。これから長旅をしようというのに、なんともたくましい双子である。そんな兄妹を見送ろうと、シュラプルに住まう廻仔らも門前に集まっていた。エラクレス三兄弟はもちろんの事、メルヘン、アスレチックだけでなく、タフの姿もその中にはあった。彼は、自ずからシュラプルに残る事を選んだのである。
「皆さん。どうかお元気でいてくださいね」シフォンは、見送りに来た面々に別れの挨拶を述べた。
「トロン、そしてシフォン。困った時は、いつでも助けを求めてくれ」タフは、極めて流暢に話してみせた。「だが、どうしても旅立ってしまうのか?二人がシュラプルに身を置く事に異を唱える者は誰もいないというのに」
「いいのです。わたしは罪滅ぼしをしただけですし、だからといって、シュラプルに住まう資格が生じたわけではないと思うのです。ただ、犯してしまった罪は、潔く背負い続ける覚悟でいるだけなのです」
「世話になった」トロンは、そっけなく皆に別れを告げた。しかしながら、今のタフには違和感しか覚えない。そこで、最後に一つだけ質問をしてみた。「結局の所、アンタは、どういう人間なんだ」
「その答えは、もう知っているはずだ。短いながらも、これまで共に過ごしてきたのだから」タフは、無知蒙昧な過去を恥じる事なく答えた。
それもそうか。トロンは、妙に納得した。たとえどんなに態度が変わろうとも、タフは、これまでと内面的には然して変わりがないのだろう。それだけ分かれば十分だった。皆に背を向け、シフォンに先駆けて旅立とうとしたが、その矢先、「これからどこへ向かうのですか?」とアンデスにたずねられた事で足を止めた。
「そういえばそうでした…!」シフォンは、はっとさせられた。「そもそもシュラプルの最寄りの街を聞くために、ここを訪れたのでしたね」
「最寄りかどうかは知らないけど、ヘイヴンの方角なら知ってるさ。相当に距離はあるけどね」ポワソンは、自信をもって答えた。東の方角を指差すと「こっちをずっと行けば、いつかはたどり着けるさ。“ロザリオ”があれば楽に飛んで行けるんだけどね」
ロザリオの意味がわからず、表情を曇らせるトロンに対し、シフォンは「ほら、ウェザーも使っていた、翼を生やして空を飛ぶ力の事ですよ…」と耳打ちした。それから、ポワソンに「あなたはヘイヴンに行った事があるのでしたね。確か、遠征軍として駆り出された際、事故に遭ったとか」
「変な雲に流されたのさ。まったく災難だったよ、あれは」ポワソンは気取った風に受け答えした。
「元はといえば、お前が原初の海を競り落としたのが原因だがな」メルヘンは、ポワソンの面目を潰してやろうと思った。「かつてのシュラプルでは、市場で競売が行われていたんだが、ある時、原初の海が競りにかけられていた事があったんだ。ポワソンは、原初の海の美しさに惚れ込み、なんと家の全財産を投げ打ってまで落札してしまったんだ!そのせいで母上にこっぴどく怒られた挙句、罰として遠征軍に強制入隊させられたってわけだ。結局は、馬鹿の自業自得なんだよ」
その物笑いの種は、アスレチックを抱腹絶倒させた。
「そうだ!ポワソン兄さんのせいで、俺たちはひもじい生活を余儀なくされてたんだ!」ブブゼラは、ねちっこく文句をつけ、ポワソンを閉口させた。
「なぜ原初の海が競売に…」トロンは、開いた口が塞がらなかった。
「なんでも、聖なる箱の近くに落ちていたそうです。恐らくは、持ち主が箱に封じられたせいかと」アンデスは推測を述べた。それからトロンに「ところで、あの文字なのですが、なぜあれには自然除けの力が宿っているのですか?」とたずねた。
「俺が知りたいくらいだ」トロンは、ため息交じりに答えると、今度こそ旅立とうと足を進めた。目指すは、遥か東のヘイヴンである。
「まったく、無謀な男よ!徒歩で遠出をするとは!」アスレチックは、その言葉とは裏腹に感心しているようだった。「だが、我々には足がある!徒歩でだって十二分に目指せる!ここへ来るのにも己が足のみに頼った事だろう!」
「実は……ここへは猪に乗せてもらいまして…!」シフォンは、遠慮がちに口ごもったかと思うと、「それでは、皆さん、失礼します!」と一礼してからトロンを追いかけていった。
猪とは何の事だろうか。三兄弟とメルヘンは、いぶかりながらも双子の旅立ちを見送っていたが、すぐに言葉の意味を思い知らされた。遠ざかるシフォンのそばに猪が駆けつけると、その背にまたがり、双子は悠々と旅立っていったのである。その様子を見て、アスレチックはこう感嘆した。
「それにしても、やはり見事な体躯の猪だなぁ!はっは!」
目を丸くした面々に見送られ、トロンは若干赤面した。
「どうされましたか、お兄様…?」シフォンは、ぼうっと立ち尽くすトロンが気にかかり、戦うどころではなかった。
トロンは、かつて聖なる箱であった残骸に駆け寄ると、戦渦に構わず屈みこみ、夢中になって木片を漁り始めた。ところが、それらしきものは見当たらず、木片ばかりが目に映りはしたが、ただならぬ雰囲気をも感じ、箱に封じられていた希望の存在を確信しつつあった。そして、残骸の中でも一際目立つ大きめの木片を見つけた。その形状は明らかに蓋であった。一見すると表裏とも何の変哲もなかったが、その裏側には内蓋が貼りついている事が亀裂の隙間から明らかになった。そのひびだらけの内蓋を指で剥がしてみた矢先、我が目を疑った。驚くべき事に、聖なる箱の蓋の裏には、青白く光る文字が刻まれており、それは紛れもなく自然除けの力そのものであったのだ。ガゼットの廟で見た文字とは、異なった形状を持ってはいたが、それから放たれる魅惑的な輝きは、なんら変わりない。
「そうか…!きっと聖なる箱は、めぐりし遺産なんだ!」トロンは、驚き声を上げた。
トロンの奇行を心配そうに横から覗き見ていたシフォンも驚かされた。「あの文字がシュラプルにもあったのですね!これがあれば、もしかしたら…!」
トロンは、即座に立ち上がると、迷う事なく蓋を天に向かって掲げ、文字を憎悪思念体に見せつけた。途端、すべての怪自然の動きが停止し、住人の前に無防備を晒した。それだけでなく憎悪思念体までもが、まるで時が止まったかのように制止し、もはやその光の一片すらも揺らめいてはいなかった。好機が到来した事を直感したのか、クレアの勝ち誇った声が周囲一帯にこだました。その声もまた、メルヘンとは似ても似つかないクレアの肉声であった。
「もう今しかないよ!!今なら思念体をぶった切れるはず!!」
「何だってんだ一体!?」ブブゼラは、状況を解せずにいた。
「恐らくは、あの蓋に刻まれた文字のような光の力です」アンデスは、蓋を掲げるトロンを興味深そうに観察していた。「どうやら聖なる箱の封印の力、その根源は蓋の裏に隠されていたようです。だとすれば、思念といえども自然である以上、一定の効果はあるはずです」
それを聞いたポワソンは勢いづいた。住人に向かって「皆!!今なら武器が通じるかもしれない!!ただちに構えるんだ!!」と命じた。
「合点!!」アスレチックは、剣を投擲するべく構えた。
アスレチックだけでなく、その場に集うシュラプルの住人、それからエラクレス三兄弟も得物を構え、憎悪思念体に照準を定めた。そして、「よし、放て!!」とポワソンが合図を出したのを聞き、皆一斉に投擲した。
放たれた数多の刃物は、憎悪思念体の顔面を次々と貫いた。自然除けの力は効果覿面であり、精神と物質を繋ぐ架け橋を作り、一介の刃物を有効打へと変えてみせた。愉悦に歪む悪魔の形相は、たちまち蜂の巣となったが、その表情を変える事もなく、そのまま薄らぎ始めたかと思うと、霞となって消えていった。また、怪自然は憎悪の呪縛から解き放たれ、元の自然な亡骸を取り戻すと、再び永久の眠りについた。
シュラプルは、自然の脅威を退けた。憎悪を消滅させ、自然の骸を積み上げた彼らには、勝利の二文字がふさわしい。誰もが歓喜の声を上げ、互いの健闘を称え、その絆はより深く結ばれていった。まさに雨降って地固まるである。
トロンは、蓋を下すと、ため息をついた。ようやくすべてが終わった、と安堵していたのだ。
そんなトロンを気遣い、シフォンは声をかけた。「お疲れ様でした、お兄様。三兄弟も仲良くなりましたし、これでシュラプルも安泰ですね」
ふと三兄弟に目をやると、これまでの反目が嘘のように喜びを分かち合っていた。その溢れんばかりの笑顔を向け合う姿は、ありのままの三兄弟へ回帰した事を証明する何よりの証拠であった。やはり彼らも兄弟なのだ。そうトロンは、強く思った。
「あっ」シフォンは突然思い出した。いまだに横たわるばかりのタフにすかさず駆け寄り、その安否を確かめ始めた。それから「大丈夫ですか?気分とか悪くありませんか?」と声をかけてみたものの、まるでタフは目覚めなかった。
メルヘンも同様であった。三兄弟に介抱されているようだが、その眠りから覚ます事はできずにいた。しかし、彼らは特に慌てる素振りもなく、むしろ平然としている。やがてアンデスがタフの元へやってくると、シフォンにこう言った。
「心配する事はありません。もうじき目を覚まします」
シフォンは安堵し、アンデスに微笑みかけたのも束の間、出し抜けにタフが目を覚まし、すくっと起き上がってきたせいで、ひどく面食らった。それから「だ、大丈夫…ですか?」とタフに驚き顔でたずねた。
そのタフは、以前までの彼とは雰囲気がまるで違っていた。エシレウスの聡明さと凛々しさを引き継ぎ、名実ともにラブ=ラドール・エシレウスの生き写しとなっていたのだ。彼は、天にただよう二つの霊魂を精悍な顔つきで見上げると、こう呟いた。
「また出会えたのか…」
「タフ……いや、今だけは…息子と呼ばせてくれ」エシレウスは、朧げな霊魂となりつつも悠長に語りかけた。「息子よ。この期に及んで押しつけがましく、鬱陶しい事は言うまい。これからは己がままに生きろ。己が宿命を超越し、人としての希望を胸に抱いて生き抜いてみせろ。そう、お前には、このエシレウスから受け継いだ紅き愛の血が流れているのだから…」
タフ、もといエシレウスの息子は、芝居掛かったほどに大きく頷いた。
その返事を見届けたエシレウスの霊魂は、その場を離れると、矢庭に教会の方角へ飛んでいき、まもなく原初の雷と震撼を呼ぶ鉾を携えて蜻蛉返りした。そして、ポワソンとブブゼラに各々の武器を放り投げ、その手元に返してやった。ところが、ポワソンが鉾を掴んだ拍子にその柄がメルヘンの額に直撃してしまった。
メルヘンは、痛みに目を覚ました。赤くなった額を気にしつつも体を起こすと、そばで介抱していたポワソンとブブゼラをまじまじと見つめた。
その不機嫌な表情にポワソンのみならず、ブブゼラまでもが恐れ戦いた。許しを請うためにも「いつもならもっと華麗に受け止めてみせるんだけど、今回はたまたま手が滑っただけなのさ」とポワソンが申し開きをしてみせた。
「どうでもいい。いつも通りの三兄弟に戻っただけなんだからな。お前らが不器用なのは昔からだし、私も慣れきっているよ」メルヘンは、現状況を把握しているのか、微笑して言った。
そんな仲睦まじい息子たちの将来を案じたクレアの霊魂は、皆に向けてこんな遺言を言い残した。
「もうじきあたしは天に還っちまうけど、最後にこれだけは皆に言っとくよ!!もし、あたしの三兄弟がまた喧嘩でもしたら、その時は寄ってたかって叱り飛ばしてやってちょうだい!!どうせ叱った所で懲りない性根なんだから、手加減してやる事はないんだよ!!」
三兄弟にとっては、耳の痛い話ではあったが、その片や住人は、何度も頷き、必ずや遺言を聞き届ける事を示した。また三兄弟に喧嘩でもされたら、たまったものではなかったからである。
もはや悔いはない。遺言を伝え終わったクレアに向けて、エシレウスは「では、還るか。いざ、天へ」と呼びかけた。
名残惜しいが、二人の御霊を呼び止めようとする者は皆無だった。涙を流す事もなく、別れを告げる事もなく、二つの霊魂が天上に昇っていく様をただ黙って見送った。それがシュラプルの流儀だからである。死者との絆を留めるものは、言葉でなく、情である。ただそれだけが強者の生涯に敬意を払い、末永く偲ぶための術である事を皆は理解していたのである。双子もまた、エシレウスとクレアの昇天を見送った。彼らはシュラプルの人間ではないものの、感慨深く、それでいて粛々と二人に敬意を表していた。
それから小一時間が経過した頃、双子はシュラプルの門前に立っていた。遂に旅立ちの時である。そのために泥土にまみれた衣服を清潔にし、自然除けの文字が刻まれた蓋を三兄弟に託しておき、万全なまでに旅立つ準備を整えると、そそくさとシュラプルから旅立とうとしていた。手荷物はなかったが、大した問題ではない。これから長旅をしようというのに、なんともたくましい双子である。そんな兄妹を見送ろうと、シュラプルに住まう廻仔らも門前に集まっていた。エラクレス三兄弟はもちろんの事、メルヘン、アスレチックだけでなく、タフの姿もその中にはあった。彼は、自ずからシュラプルに残る事を選んだのである。
「皆さん。どうかお元気でいてくださいね」シフォンは、見送りに来た面々に別れの挨拶を述べた。
「トロン、そしてシフォン。困った時は、いつでも助けを求めてくれ」タフは、極めて流暢に話してみせた。「だが、どうしても旅立ってしまうのか?二人がシュラプルに身を置く事に異を唱える者は誰もいないというのに」
「いいのです。わたしは罪滅ぼしをしただけですし、だからといって、シュラプルに住まう資格が生じたわけではないと思うのです。ただ、犯してしまった罪は、潔く背負い続ける覚悟でいるだけなのです」
「世話になった」トロンは、そっけなく皆に別れを告げた。しかしながら、今のタフには違和感しか覚えない。そこで、最後に一つだけ質問をしてみた。「結局の所、アンタは、どういう人間なんだ」
「その答えは、もう知っているはずだ。短いながらも、これまで共に過ごしてきたのだから」タフは、無知蒙昧な過去を恥じる事なく答えた。
それもそうか。トロンは、妙に納得した。たとえどんなに態度が変わろうとも、タフは、これまでと内面的には然して変わりがないのだろう。それだけ分かれば十分だった。皆に背を向け、シフォンに先駆けて旅立とうとしたが、その矢先、「これからどこへ向かうのですか?」とアンデスにたずねられた事で足を止めた。
「そういえばそうでした…!」シフォンは、はっとさせられた。「そもそもシュラプルの最寄りの街を聞くために、ここを訪れたのでしたね」
「最寄りかどうかは知らないけど、ヘイヴンの方角なら知ってるさ。相当に距離はあるけどね」ポワソンは、自信をもって答えた。東の方角を指差すと「こっちをずっと行けば、いつかはたどり着けるさ。“ロザリオ”があれば楽に飛んで行けるんだけどね」
ロザリオの意味がわからず、表情を曇らせるトロンに対し、シフォンは「ほら、ウェザーも使っていた、翼を生やして空を飛ぶ力の事ですよ…」と耳打ちした。それから、ポワソンに「あなたはヘイヴンに行った事があるのでしたね。確か、遠征軍として駆り出された際、事故に遭ったとか」
「変な雲に流されたのさ。まったく災難だったよ、あれは」ポワソンは気取った風に受け答えした。
「元はといえば、お前が原初の海を競り落としたのが原因だがな」メルヘンは、ポワソンの面目を潰してやろうと思った。「かつてのシュラプルでは、市場で競売が行われていたんだが、ある時、原初の海が競りにかけられていた事があったんだ。ポワソンは、原初の海の美しさに惚れ込み、なんと家の全財産を投げ打ってまで落札してしまったんだ!そのせいで母上にこっぴどく怒られた挙句、罰として遠征軍に強制入隊させられたってわけだ。結局は、馬鹿の自業自得なんだよ」
その物笑いの種は、アスレチックを抱腹絶倒させた。
「そうだ!ポワソン兄さんのせいで、俺たちはひもじい生活を余儀なくされてたんだ!」ブブゼラは、ねちっこく文句をつけ、ポワソンを閉口させた。
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「なんでも、聖なる箱の近くに落ちていたそうです。恐らくは、持ち主が箱に封じられたせいかと」アンデスは推測を述べた。それからトロンに「ところで、あの文字なのですが、なぜあれには自然除けの力が宿っているのですか?」とたずねた。
「俺が知りたいくらいだ」トロンは、ため息交じりに答えると、今度こそ旅立とうと足を進めた。目指すは、遥か東のヘイヴンである。
「まったく、無謀な男よ!徒歩で遠出をするとは!」アスレチックは、その言葉とは裏腹に感心しているようだった。「だが、我々には足がある!徒歩でだって十二分に目指せる!ここへ来るのにも己が足のみに頼った事だろう!」
「実は……ここへは猪に乗せてもらいまして…!」シフォンは、遠慮がちに口ごもったかと思うと、「それでは、皆さん、失礼します!」と一礼してからトロンを追いかけていった。
猪とは何の事だろうか。三兄弟とメルヘンは、いぶかりながらも双子の旅立ちを見送っていたが、すぐに言葉の意味を思い知らされた。遠ざかるシフォンのそばに猪が駆けつけると、その背にまたがり、双子は悠々と旅立っていったのである。その様子を見て、アスレチックはこう感嘆した。
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