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信条に架ける風
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その鳥は、ヘイヴンとは逆方向に飛んでいた。深緑に映える青い翼を大袈裟に羽ばたかせ、蝶のように宙を舞い踊り、あえて猪の道標となってみせた。上空へ逃げる事もなく、旋回する事もなく、ただ単純に一直線を突き進んでいた。さながら、何処かへ双子を先導しているようであった。その鳥らしからぬ奇怪な行動は、トロンの好奇心を駆り立て、また、ますます疑念を深めさせた。あれは断じて鳥ではなく、怪自然に違いない。彼は、そう結論付けていた。
猪が一生懸命に追跡をしていた最中、ふと双子は鐘の鳴る音を耳にした。それは明るい余韻を響かせる洋鐘から発せられた、心に染み入るような聖し音色であった。その音色に聞き惚れたのだろうか、途端に猪は足を止め、ぼうっと立ち尽くしてしまった。トロンもまた、不思議と心が洗われるような感覚を抱き、恍惚とした。片や、シフォンは、恍惚とした感情に囚われながらも焦心していた。すぐさまトロンに振り向くと、慌ただしくこう口走った。
「もう手遅れです!!見つかってしまったんです、“天仔”に!!」
「何を言っている?」トロンは、いぶかりながらもたずねた。
猪は、再び踵を返すと、のそりのそりと歩みを再開した。ヘイヴンの方角に向かって歩き出したのである。その足取りは、まるで夢遊病者のように頼りなく、不安定ではあったが、確かにヘイヴンだけを見据え、引きずられるように直進していた。
「なぜヘイヴンへ向かう?」トロンは、シフォンの心変わりを不思議に思った。
「抗えないんです…!誰もあの音には…!」シフォンは、口惜しく歯を食いしばっていた。「いいですか、お兄様…!これから先は、何があっても声を出してはいけません…!何があってもです…!」
妹のただならぬ様子に危機感を覚えたトロンは、一旦猪から降りようと試みた。ところが、なぜか体が動かない。猪から降りたい、そう切望し、意思をもって動き出そうとしても、なぜか全身が微動だにしないのだ。体が麻痺しているわけではなく、ましてや不可視の力に拘束されているわけでもない。恐らくは、何かとてつもなく巨大な流れに身をゆだねているのだ。その流れに逆らおうなどとは思わなかったが、理由は定かではない。この肉体や精神だけでなく、運命までもが己のものではなくなっているのだ。ままならぬ事である。きっと鐘の音色が引き金となった事で、自分の理解の範疇を越えた現象が起きているのだろう。今の彼では為す術もなく、あえなくヘイヴンへと導かれるしかないのである。
木々の間を抜けた先、双子は、実に青々とした花畑を目の当たりにした。そればかりか、質素な白い衣服を纏った人々の姿も散見しており、どうやら彼らは花々の世話をしているようである。綿毛が充満している事からも、ここがヘイヴンと見て間違いはない。遂に、トロンは生まれ故郷に足を踏み入れたのである。ヘイヴンは、玄関扉が取り付けられた数多の巨木が立ち並ぶ集落であり、さしずめ樹木街と言った所だろうか。巨木の幹を刳り抜き、自らの住処に作り替えているのだろう。依然として上空には枝葉が覆い隠されている傍ら、地上の所々には大規模な花畑が見受けられた。青いたんぽぽと形容すべきその花々こそが、げんぽぽである。綿毛の発生源である事には違いないが、この周辺一帯に繁茂しているのは、どれも綿毛を備えていなかった。そんなげんぽぽを目に入れても痛くないと言わんばかりに、住人は、愛情をもって献身的に世話をしている。水をやり、丁寧に手入れをしているだけなのだが、自然と人間が決別をしたはずのこの世界においては目を疑うような光景である。ヘイヴンは、自然と人間が共存する街だとは聞いていたが、まさか本当だったとは。トロンは、ただただ衝撃を受けた。住人は自然を毛嫌いする事もなく、また、自然は住人に相応の恵みを与えている。彼らは、生活における相互関係にあり、文字通り手を取り合って生きているのだ。真に信じられぬ。しかしながら、このヘイヴンは静穏である。住人は誰しもが口を開かず、ただ黙々とげんぽぽの世話に没頭している。この集落には、風にざわめく木々の音が溢れかえっており、それ以外の雑音は何一つ聞こえてはこない。それほど悪い場所ではないのでは、とトロンは思った。シフォンは、なぜあんなにも故郷を避けようとしていたのだろうか。今では、ただひたむきに前だけを向いているが、内心では故郷を唾棄しているのだろうか。ガゼットのように自然の脅威に悩まされているわけでもなし、シュラプルのように闘争にまみれているわけでもない。形はどうあれ、ヘイヴンが平穏を享受している事に違いはないのだ。
余所者を乗せた巨大猪が集落内を闊歩しているのにもかかわらず、住人は、無視を決め込んでいるのか、ひどく無頓着であった。真面目な住人は、野次馬根性とは無縁なのだ。その方が、注目を浴びる事を嫌うトロンにとっては気楽であった。おかげで、誰に気を遣う事もなくヘイヴンの佇まいを眺められる。双子を乗せた猪は、ヘイヴンの奥へと進んで行き、いつしか人の気配も薄れた頃、絶海と見紛うほどに青く、広々とした大平原にたどり着いた。地上には、隙間なくげんぽぽが咲き乱れ、上空には快晴が広がる、視界一面の蒼然たる絶景であった。あまりの感動にトロンは感嘆を発しそうになったが、シフォンの言いつけを思い出し、寸前の所で声を押し殺した。猪は、げんぽぽの海に足を踏み入れると、淡々と突っ切るばかりであったが、一体どこへ向かっているのかが解せない。いまだに双子の全身は言う事を聞かず、地上の海原を延々と流されていくのである。
それから一時間が経過した頃、青一色の風景に小さな異物が紛れ込んだ。赤茶けた孤影が、げんぽぽ畑に鎮座しているのを遠方に認めた。猪は、その孤影めがけて突き進んでおり、距離が縮まるにつれ、徐々にその姿が明白になっていった。非常に丸々とした甲冑が座り込んでいるように見えた。さらに、目を凝らして見つめてみると、甲冑ではなく、大木の幹にも見え始めた。さしずめ、樹皮の鎧を纏った騎士といった所だろうが、その外見はトロンに一つの確信を抱かせた。あれは、すべての植物を司る部族、蒔ク種族だ。かつてガゼットで散々狩ったのだから、見間違えるはずがない。あれらもまた、樹皮を纏った木人であり、その親玉とでも言うべき存在が目の前で、あぐらをかいていたのである。
猪が一生懸命に追跡をしていた最中、ふと双子は鐘の鳴る音を耳にした。それは明るい余韻を響かせる洋鐘から発せられた、心に染み入るような聖し音色であった。その音色に聞き惚れたのだろうか、途端に猪は足を止め、ぼうっと立ち尽くしてしまった。トロンもまた、不思議と心が洗われるような感覚を抱き、恍惚とした。片や、シフォンは、恍惚とした感情に囚われながらも焦心していた。すぐさまトロンに振り向くと、慌ただしくこう口走った。
「もう手遅れです!!見つかってしまったんです、“天仔”に!!」
「何を言っている?」トロンは、いぶかりながらもたずねた。
猪は、再び踵を返すと、のそりのそりと歩みを再開した。ヘイヴンの方角に向かって歩き出したのである。その足取りは、まるで夢遊病者のように頼りなく、不安定ではあったが、確かにヘイヴンだけを見据え、引きずられるように直進していた。
「なぜヘイヴンへ向かう?」トロンは、シフォンの心変わりを不思議に思った。
「抗えないんです…!誰もあの音には…!」シフォンは、口惜しく歯を食いしばっていた。「いいですか、お兄様…!これから先は、何があっても声を出してはいけません…!何があってもです…!」
妹のただならぬ様子に危機感を覚えたトロンは、一旦猪から降りようと試みた。ところが、なぜか体が動かない。猪から降りたい、そう切望し、意思をもって動き出そうとしても、なぜか全身が微動だにしないのだ。体が麻痺しているわけではなく、ましてや不可視の力に拘束されているわけでもない。恐らくは、何かとてつもなく巨大な流れに身をゆだねているのだ。その流れに逆らおうなどとは思わなかったが、理由は定かではない。この肉体や精神だけでなく、運命までもが己のものではなくなっているのだ。ままならぬ事である。きっと鐘の音色が引き金となった事で、自分の理解の範疇を越えた現象が起きているのだろう。今の彼では為す術もなく、あえなくヘイヴンへと導かれるしかないのである。
木々の間を抜けた先、双子は、実に青々とした花畑を目の当たりにした。そればかりか、質素な白い衣服を纏った人々の姿も散見しており、どうやら彼らは花々の世話をしているようである。綿毛が充満している事からも、ここがヘイヴンと見て間違いはない。遂に、トロンは生まれ故郷に足を踏み入れたのである。ヘイヴンは、玄関扉が取り付けられた数多の巨木が立ち並ぶ集落であり、さしずめ樹木街と言った所だろうか。巨木の幹を刳り抜き、自らの住処に作り替えているのだろう。依然として上空には枝葉が覆い隠されている傍ら、地上の所々には大規模な花畑が見受けられた。青いたんぽぽと形容すべきその花々こそが、げんぽぽである。綿毛の発生源である事には違いないが、この周辺一帯に繁茂しているのは、どれも綿毛を備えていなかった。そんなげんぽぽを目に入れても痛くないと言わんばかりに、住人は、愛情をもって献身的に世話をしている。水をやり、丁寧に手入れをしているだけなのだが、自然と人間が決別をしたはずのこの世界においては目を疑うような光景である。ヘイヴンは、自然と人間が共存する街だとは聞いていたが、まさか本当だったとは。トロンは、ただただ衝撃を受けた。住人は自然を毛嫌いする事もなく、また、自然は住人に相応の恵みを与えている。彼らは、生活における相互関係にあり、文字通り手を取り合って生きているのだ。真に信じられぬ。しかしながら、このヘイヴンは静穏である。住人は誰しもが口を開かず、ただ黙々とげんぽぽの世話に没頭している。この集落には、風にざわめく木々の音が溢れかえっており、それ以外の雑音は何一つ聞こえてはこない。それほど悪い場所ではないのでは、とトロンは思った。シフォンは、なぜあんなにも故郷を避けようとしていたのだろうか。今では、ただひたむきに前だけを向いているが、内心では故郷を唾棄しているのだろうか。ガゼットのように自然の脅威に悩まされているわけでもなし、シュラプルのように闘争にまみれているわけでもない。形はどうあれ、ヘイヴンが平穏を享受している事に違いはないのだ。
余所者を乗せた巨大猪が集落内を闊歩しているのにもかかわらず、住人は、無視を決め込んでいるのか、ひどく無頓着であった。真面目な住人は、野次馬根性とは無縁なのだ。その方が、注目を浴びる事を嫌うトロンにとっては気楽であった。おかげで、誰に気を遣う事もなくヘイヴンの佇まいを眺められる。双子を乗せた猪は、ヘイヴンの奥へと進んで行き、いつしか人の気配も薄れた頃、絶海と見紛うほどに青く、広々とした大平原にたどり着いた。地上には、隙間なくげんぽぽが咲き乱れ、上空には快晴が広がる、視界一面の蒼然たる絶景であった。あまりの感動にトロンは感嘆を発しそうになったが、シフォンの言いつけを思い出し、寸前の所で声を押し殺した。猪は、げんぽぽの海に足を踏み入れると、淡々と突っ切るばかりであったが、一体どこへ向かっているのかが解せない。いまだに双子の全身は言う事を聞かず、地上の海原を延々と流されていくのである。
それから一時間が経過した頃、青一色の風景に小さな異物が紛れ込んだ。赤茶けた孤影が、げんぽぽ畑に鎮座しているのを遠方に認めた。猪は、その孤影めがけて突き進んでおり、距離が縮まるにつれ、徐々にその姿が明白になっていった。非常に丸々とした甲冑が座り込んでいるように見えた。さらに、目を凝らして見つめてみると、甲冑ではなく、大木の幹にも見え始めた。さしずめ、樹皮の鎧を纏った騎士といった所だろうが、その外見はトロンに一つの確信を抱かせた。あれは、すべての植物を司る部族、蒔ク種族だ。かつてガゼットで散々狩ったのだから、見間違えるはずがない。あれらもまた、樹皮を纏った木人であり、その親玉とでも言うべき存在が目の前で、あぐらをかいていたのである。
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