還俗の刃 ――能登・長連龍の復讐――

高杉 優丸

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プロローグ 雪の果て

プロローグ 雪の果て

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 雪が落ちてくる。音はなかった。
 吐く息だけが白い。
 能登、荒山あらやま
 山深い砦の跡は、死臭と鉄の匂いで満ちていた。

 長連龍ちょうつらたつは、足元の男を見下ろしていた。
 雪の白さに、どす黒い赤が滲んでいる。男の喉元から溢れた血が、熱を持って雪を溶かしていた。

 温井景隆ぬくいかげたか
 かつて能登を支配し、連龍の前に立ちはだかった巨大な壁。
 佐々成政さっさなりまさらと結び、この荒山に立て籠もった反乱軍の将。
 だが今は、ただの肉塊だ。
 少し離れた場所には、盟友であった三宅長盛みやけながもりむくろも転がっているだろう。

「……終わりか」

 連龍は呟き、刀を振った。
 刃についた脂と血が、雪の上に散る。
 七年。
 この男たちを殺すために、七年を費やした。
 歓喜があると思っていた。腹の底から湧き上がるような、熱い何かが。
 だが、胸にあるのは冷たい石ころのような感覚だけだった。

「連龍」

 背後で雪を踏む音がした。
 振り返る必要はない。前田利家まえだとしいえだ。
 派手な羽織を纏った男が、並んで死体を見下ろす。
 この男とは、泥と血の中で長く時を共にした。言葉はいらない。

「荒山は落ちた。残党も散るだろう」

 利家の言葉に、連龍は短く頷く。
 能登を揺るがした長い戦乱が、この雪山で終わったのだ。

「首は、どうする」
「いらん」

 連龍は答え、鞘に刀を納めた。鯉口が鳴る音が、やけに大きく響いた。
 首など入り用ではない。魂を砕いた。それで十分だった。

「終わったな」

 利家の呟きに、連龍は目を細める。
 終わった?
 いや、違う。
 雪の匂いの中に、ふと、錆びた鉄と雨の匂いが混じった気がした。
 七年前。天正五年の秋。
 まだ連龍が「円山えんざん」という法名の僧侶だった頃。
 すべてを失い、すべてが始まった、あの雨の夜。

 温井の死体は、急速に冷たくなっている。
 だが連龍の記憶の中の炎は、まだ肌を焼くように熱い。
 復讐は終わった。だが、俺の中の獣はまだ飢えている。
 連龍は雪空を見上げた。灰色の空の向こうに、燃え落ちる七尾城が見えた。

 物語は七年前に遡る――

 天正十二年一五八四の雪から、時は戻る。
 場所は、美濃みの。岐阜城下の寺院。
 激しい雨が、地面を叩きつけていた。

 寺の本堂に、読経の声はない。
 円山は、ただ一人で本尊の前に座していた。
 手には数珠。
 だが、指は白くなるほど強くそれを握りしめている。
 堂内には湿った風が吹き込み、ろうそくの火を揺らしていた。影が伸びる。その影は、僧侶のそれではなく、何かもっとおぞましいものの形をしているように見えた。

「円山様」

 背後で声がした。
 供の僧ではない。泥と汗の匂い。
 能登から走ってきた密使だ。
 円山は振り返らない。背中で聞く。

「……落ちたか」
「はっ」

 密使の声が震えている。恐怖か、寒さか、あるいは絶望か。

「七尾城、陥落。……上杉勢の手引きをしたのは、遊佐ゆさ温井ぬくい三宅みやけの三氏」
「父上は」
「……御討ち死に」
「兄上たちは」
「……」

 沈黙が答えだった。
 皆殺しか。
 円山は目を閉じる。瞼の裏に、父の厳格な顔と、兄たちの笑顔が浮かぶ。
 能登畠山家に仕え、忠義を尽くした長一族。
 それが、一夜にして消えた。
 裏切りによって。

 円山の指に力がこもる。
 パチリ、と硬い音がした。
 数珠の糸が切れた音だった。
 たまが床に散らばる。コロコロと転がる音が、雨音に混じって響く。
 それ、は円山の中で何かが壊れる音でもあった。

「円山様、いかがなされます。このままでは、長家の血が絶えまする」

 密使が泣きながら訴える。
 円山はゆっくりと立ち上がった。
 僧衣の裾が揺れる。
 床に散らばった数珠の珠を、足で踏みつけた。

「円山は死んだ」

 低い声が出た。自分の声とは思えなかった。
 地の底から響くような、渇いた響き。

「えっ……」
「仏も死んだ。俺が殺した」

 円山は僧衣の帯に手をかける。
 粗末な衣を脱ぎ捨てると、下に着込んでいた小袖があらわになる。
 そこには、すでに一本の刀が差されていた。
 錆びてはいない。毎夜、祈る代わりに研ぎ澄ませてきた刃だ。

「これより俺は、長九郎左衛門連龍ちょうくろうざえもんつらたつ。……ただの修羅だ」

 雷光が走った。
 一瞬の閃光の中に、連龍の顔が浮かび上がる。
 慈悲深い僧の顔は、そこにはなかった。
 あるのは、飢えた狼の瞳だけだった。

「行くぞ。信長公に会う」
「の、信長様に? しかし、あの方は……」
「魔王と呼ばれているな。結構なことだ」

 連龍は雨の降る庭へと踏み出した。
 泥が跳ねる。冷たい雨が頬を打つ。
 だが、今の連龍には、その冷たさが心地よかった。
 体の中で燃え上がるどす黒い炎を、少しだけ冷やしてくれる。

 能登へ戻る。
 経典はいらない。
 必要なのは、裏切り者たちの血だけだ。

 こうして、一人の僧侶の旅が終わった。
 そして、一匹の獣の、果てしない狩りが始まった。
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