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プロローグ 嘘
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明治四十四年、十二月。
小樽は、雪に埋もれていた。 鉛色の空。海からの風が、窓を軋ませる。
火鉢の炭が、爆ぜた。 杉村義衛は、その音を聞いている。 かつて、永倉新八と呼ばれた男だ。七十三歳。老境と言っていい。
だが、眼光だけは死んでいなかった。獲物を狙う、獣のそれだ。
「近藤勇、土方歳三、沖田総司……。彼らの最期は、よく分かりました」
対座する男が言った。小樽新聞の記者だ。 若造だった。万年筆を握る指が、緊張で白くなっている。
数日間、永倉はこの若造に語って聞かせた。かつて京の町を震撼させた、新選組の軌跡を。
「これで書けます。彼らは暴徒ではない。幕府に殉じた、最後の武士だったと」
「そうか」
永倉は短く応じた。 手酌で酒を注ぐ。安い酒だ。喉を焼く熱さが、今は心地よかった。
記者が荷物をまとめる。帰る気配だ。 だが、動きが止まった。
「翁。もう一人だけ、お伺いしたい隊士がいます」
「誰だ」
「相馬主計」
永倉の手が止まる。 酒が、わずかに揺れた。
「最後の局長です。箱館で土方の死を見届け、降伏の処理をした。その後、明治八年に腹を切ったとされています。……ですが」
記者は、言葉を継ぐのを躊躇った。 だが、意を決したように永倉を見据える。
「翁は、彼のことだけは口を閉ざされる。近藤や土方のことは、あれほど克明に語られたのに、相馬のことに至ると、話を逸らされる」
「…………」
「不自然です。まるで、何かを隠しておられるようだ。……本当に、彼は明治八年に死んだのですか?」
沈黙。 風の音だけが、部屋を支配する。
永倉は、ゆっくりと顔を上げた。 その瞳から、好々爺の色が消え失せていた。 そこにあったのは、かつて二番隊組長として修羅場を潜り抜けた、人斬りの目だった。
「……小僧」
低い声が、記者の鼓膜を震わせた。
「命は、惜しいか」
「え……?」
「俺は今、『杉村義衛』としてお前と話していた。だが、相馬の話を聞きたいというなら、俺は『永倉新八』に戻らなきゃならねえ」
永倉の手が、火箸を握りしめた。 ただの鉄の棒が、名刀のような殺気を帯びる。
「相馬主計は、明治八年に死んだ。それが歴史だ。それが正史だ。……お前が聞こうとしているのは、墓を暴くような真似だぞ」
記者の喉が鳴る。 逃げ出したい衝動に駆られる。 だが、記者は動かなかった。青ざめた顔で、それでも永倉を睨み返した。
「……知りたいのです。最後の局長が、本当にどう生きたのかを」
「書けば、消されるかもしれんぞ。……それでもか」
「覚悟の上です」
永倉は、じっと若造の目を見つめた。 数秒の静寂が、永遠のように感じられた。 殺気が、部屋の温度を氷点下まで下げる。記者の額に、脂汗が浮かぶ。
やがて。 永倉はフンと鼻を鳴らし、火箸を火鉢に突き刺した。
「……なんてな」
殺気が、霧散した。 永倉は好々爺の顔に戻り、ニカっと笑った。
「冗談だ、冗談。そんな怖い顔をするなよ」
「え……? で、では、お話いただけますか?」
「帰んな」
永倉は手をひらひらと振った。
「話すことなんざ、何もねえよ。相馬は明治八年に死んだ。それが史実だ。……墓を掘り返すような真似は、俺たちの流儀じゃねえ」
「そ、そんな……翁!」
「酒が不味くなる。帰れと言ってるんだ」
低い声。 記者は肩を震わせ、逃げるように荷物をまとめた。 これ以上はいられない。本能がそう告げているのだ。
「……失礼いたしました」
若造が去る。 部屋に、再び静寂が戻った。
永倉は、手酌で酒を注いだ。 茶碗に映る自分の顔は、笑っていなかった。
「……語れるわけがねえだろう」
永倉は独りごちた。 あの壮絶な日々を。 死んだふりをして蘇り、巨大な権力に牙を剥き、土方歳三の魂を守り抜いた、あいつの孤独な戦いを。 安っぽい新聞記事になど、されてたまるか。
あれは、俺たちだけの秘密だ。 墓場まで持っていく、狼たちの最後の神話だ。
「……なあ、相馬」
永倉は、窓の外を見た。 牡丹雪が、音もなく降り積もっている。 その白さは、あの日と同じだ。
明治十一年の東京ではない。 もっと昔。 すべての始まりの日。
「お前は、遅れてやってきたな」
永倉は目を細めた。 雪の向こうに、記憶が蘇る。
慶応三年、晩秋。 京、不動堂村。 冷たい風の中、大きな長屋門を見上げて立っていた、若く、愚直なまでに青かった男の顔を。
物語は、そこへ還る。 新選組最後の局長・相馬主計。 その、長く険しい旅路の始まりへと。
小樽は、雪に埋もれていた。 鉛色の空。海からの風が、窓を軋ませる。
火鉢の炭が、爆ぜた。 杉村義衛は、その音を聞いている。 かつて、永倉新八と呼ばれた男だ。七十三歳。老境と言っていい。
だが、眼光だけは死んでいなかった。獲物を狙う、獣のそれだ。
「近藤勇、土方歳三、沖田総司……。彼らの最期は、よく分かりました」
対座する男が言った。小樽新聞の記者だ。 若造だった。万年筆を握る指が、緊張で白くなっている。
数日間、永倉はこの若造に語って聞かせた。かつて京の町を震撼させた、新選組の軌跡を。
「これで書けます。彼らは暴徒ではない。幕府に殉じた、最後の武士だったと」
「そうか」
永倉は短く応じた。 手酌で酒を注ぐ。安い酒だ。喉を焼く熱さが、今は心地よかった。
記者が荷物をまとめる。帰る気配だ。 だが、動きが止まった。
「翁。もう一人だけ、お伺いしたい隊士がいます」
「誰だ」
「相馬主計」
永倉の手が止まる。 酒が、わずかに揺れた。
「最後の局長です。箱館で土方の死を見届け、降伏の処理をした。その後、明治八年に腹を切ったとされています。……ですが」
記者は、言葉を継ぐのを躊躇った。 だが、意を決したように永倉を見据える。
「翁は、彼のことだけは口を閉ざされる。近藤や土方のことは、あれほど克明に語られたのに、相馬のことに至ると、話を逸らされる」
「…………」
「不自然です。まるで、何かを隠しておられるようだ。……本当に、彼は明治八年に死んだのですか?」
沈黙。 風の音だけが、部屋を支配する。
永倉は、ゆっくりと顔を上げた。 その瞳から、好々爺の色が消え失せていた。 そこにあったのは、かつて二番隊組長として修羅場を潜り抜けた、人斬りの目だった。
「……小僧」
低い声が、記者の鼓膜を震わせた。
「命は、惜しいか」
「え……?」
「俺は今、『杉村義衛』としてお前と話していた。だが、相馬の話を聞きたいというなら、俺は『永倉新八』に戻らなきゃならねえ」
永倉の手が、火箸を握りしめた。 ただの鉄の棒が、名刀のような殺気を帯びる。
「相馬主計は、明治八年に死んだ。それが歴史だ。それが正史だ。……お前が聞こうとしているのは、墓を暴くような真似だぞ」
記者の喉が鳴る。 逃げ出したい衝動に駆られる。 だが、記者は動かなかった。青ざめた顔で、それでも永倉を睨み返した。
「……知りたいのです。最後の局長が、本当にどう生きたのかを」
「書けば、消されるかもしれんぞ。……それでもか」
「覚悟の上です」
永倉は、じっと若造の目を見つめた。 数秒の静寂が、永遠のように感じられた。 殺気が、部屋の温度を氷点下まで下げる。記者の額に、脂汗が浮かぶ。
やがて。 永倉はフンと鼻を鳴らし、火箸を火鉢に突き刺した。
「……なんてな」
殺気が、霧散した。 永倉は好々爺の顔に戻り、ニカっと笑った。
「冗談だ、冗談。そんな怖い顔をするなよ」
「え……? で、では、お話いただけますか?」
「帰んな」
永倉は手をひらひらと振った。
「話すことなんざ、何もねえよ。相馬は明治八年に死んだ。それが史実だ。……墓を掘り返すような真似は、俺たちの流儀じゃねえ」
「そ、そんな……翁!」
「酒が不味くなる。帰れと言ってるんだ」
低い声。 記者は肩を震わせ、逃げるように荷物をまとめた。 これ以上はいられない。本能がそう告げているのだ。
「……失礼いたしました」
若造が去る。 部屋に、再び静寂が戻った。
永倉は、手酌で酒を注いだ。 茶碗に映る自分の顔は、笑っていなかった。
「……語れるわけがねえだろう」
永倉は独りごちた。 あの壮絶な日々を。 死んだふりをして蘇り、巨大な権力に牙を剥き、土方歳三の魂を守り抜いた、あいつの孤独な戦いを。 安っぽい新聞記事になど、されてたまるか。
あれは、俺たちだけの秘密だ。 墓場まで持っていく、狼たちの最後の神話だ。
「……なあ、相馬」
永倉は、窓の外を見た。 牡丹雪が、音もなく降り積もっている。 その白さは、あの日と同じだ。
明治十一年の東京ではない。 もっと昔。 すべての始まりの日。
「お前は、遅れてやってきたな」
永倉は目を細めた。 雪の向こうに、記憶が蘇る。
慶応三年、晩秋。 京、不動堂村。 冷たい風の中、大きな長屋門を見上げて立っていた、若く、愚直なまでに青かった男の顔を。
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