【完結】碧血の墓標 ――新選組最後の局長、明治の闇を斬る

高杉 優丸

文字の大きさ
7 / 41
第2章 油小路の雨、卑怯者の背中

3話

しおりを挟む
 逃げる背中があった。

 仲間が斬り殺されている。 慕っていたはずの藤堂平助とうどうへいすけが、泥の中で絶命している。 それなのに、男は死体を放置し、一目散に闇へ走ろうとしている。

 刀も抜いていない。 ただ、背中を丸め、脱兎のごとく。

 相馬の中で、何かが弾けた。 ついさっき、初めて人を殺した手の震えが、怒りで塗りつぶされていく。

 武士ではない。 これは、ただの生物だ。

「……待ちやがれ!」

 相馬は走った。 野村も気づいているが、別の敵に阻まれている。 追えるのは、相馬だけだ。

 男は路地裏へと逃げ込む。 足がもつれている。泥に足を取られ、何度も転んでは起き上がり、這いずってでも逃げようとしている。

「逃がすかッ!」

 相馬は血濡れた刀を下げ、闇の中へ飛び込んだ。 背中が見える。 着物が汚れ、帯が解けかけた、情けない背中。

 だが、その背中からは、強烈な磁力が放たれていた。 絶対的な「生」への執着。 なりふり構わぬ、生存本能の塊。

 相馬は加速する。 獲物を追う猟犬の本能が、理性を凌駕りょうがしていた。 路地の突き当たり。板塀に阻まれ、男が足を止めた。

「はぁ、はぁ……」

 男が振り返る。 相馬は退路を塞ぎ、切っ先を突きつけた。

「終わりだ」

 男が顔を上げた。 相馬は、言葉を失った。

 そこに、「武士」はいなかった。

 恐怖で顔が歪んでいる。鼻水を垂らし、涙と泥でぐしゃぐしゃになり、眼球が飛び出さんばかりに見開かれている。 卑怯者の顔だった。

「ひ、ひぃッ! 助けてくれ! 金ならある! 兄貴が死んだんだ、もういいだろう!」

「兄貴だと……?」

 相馬の眉が動く。 伊東甲子太郎いとうかしたろうの弟か。鈴木三樹三郎すずきみきさぶろう

「ならば、仇討ちをするのが筋だろう。なぜ、剣も抜かずに命乞いをする」

 相馬の声が震えた。 目の前の男の醜悪しゅうあくさが、理解できなかった。 兄を殺され、友を殺され、自分だけがおめおめと生き延びようとするのか。

「仲間が死んでるんだぞ! 藤堂も死んだ! お前だけ逃げるのか!」

「知るかよ!」

 鈴木が叫んだ。 裏返った、悲鳴のような声。

「俺は生きたいんだ! 死んでたまるか! どけッ!」

 鈴木が、足元の泥を鷲掴わしづかみにした。 相馬が反応するより速く、それを投げつける。

 バシャッ。

 冷たい泥が、相馬の顔面を直撃した。 視界が塞がれる。

「ぐっ……」

 その隙だった。 鈴木は相馬の股をくぐるようにして、無様に、しかしゴキブリのような速さで駆け抜けた。 泥水をすすってでも生きようとする、執念の一撃だった。

 相馬は泥を拭い、振り返る。 刀を振るうが、遅い。空振りだ。 切っ先が、虚しく雨粒を斬った。

 遠ざかっていく背中が見えた。 泥だらけで、みっともなく、哀れな背中。

 だが、その背中は相馬の脳裏に強烈に焼きついた。 兄を見捨て、友を見捨て、誇りを捨てて逃げる男。 その姿は、皮肉にも強烈な生命力を放っていた。

「あ、ああ……」

 相馬は追えなかった。 あまりの醜悪さに、足がすくんだのだ。 あれが、人間か。 あれもまた、生きようとする姿なのか。

 自分の手を見る。 先ほど人を斬った感触が、まだ残っている。 俺は人を殺した。だが、あの男は泥を投げて生き延びた。 どちらが強いのか、分からなくなった。

「相馬!」

 野村が追いついてきた。 肩で息をしている。刀には血がべっとりとこびりついていた。 野村は逃げていく背中の方角を見て、舌打ちをした。

「逃がしたか」

「……ああ。すまん」

「気にするな。あれは鈴木三樹三郎だ。伊東の実弟だよ。真っ先に逃げやがったか」

 野村が唾を吐く。

「鈴木……三樹三郎」

 相馬はその名を口の中で転がした。 砂を噛むような、苦い味がした。

「まあいい。深追いは禁物だ。こっちは終わった」

 雨音が戻ってきた。 相馬は重い足取りで、油小路の辻へと戻る。

 路上には、敵味方問わず数人の死体が転がっている。 その中に、小柄な男――藤堂平助の遺体があった。

 永倉新八ながくらしんぱちが、その傍らで立ち尽くしていた。 雨が、永倉の頬を伝って落ちる。涙なのか雨なのか、相馬には分からなかった。 ただ、その背中は怒りに震えているようにも、深い悲しみに沈んでいるようにも見えた。

 ザッ、ザッ。

 島田魁しまだかいが近づいてくる。 その手には、折れた槍の穂先が握られていた。 巨体からは湯気が立ち上っている。

「終わったな」

「ええ」

 野村が答える。

「鈴木を取り逃がしたか。……まあ、あんな小者、放っておいても野垂れ死ぬだろう」

 島田は吐き捨てた。 興味なさそうに、遺体の検分を始める。

 だが、相馬は動けなかった。 闇の奥を睨み続けていた。

 逃げた鈴木の背中が、網膜から消えない。 野垂れ死ぬ? いや、違う。

 相馬の直感が告げていた。 あいつは死なない。泥水を啜ってでも生き延びる。 そしていつか、この日の屈辱を、何倍もの毒にして吐き出しに戻ってくる。

 俺は、とんでもない禍根かこんを見逃したのではないか。 今日、俺が斬った名もなき隊士よりも、あの逃げた卑怯者の方が、遥かに恐ろしい存在になる気がした。

「相馬」

 野村が肩を叩いた。

「帰るぞ。長い夜だった」

「……ああ」

 相馬は刀を納めた。 鯉口こいぐちに血が詰まり、一度では納まらなかった。 無理やり押し込む。 ガチリ、という音が、冷たく響いた。

 手には、骨を断った不快な感触と、泥の冷たさが残っている。 そして胸には、逃した獲物への、得体の知れない不安がおりのように沈殿していた。

 油小路の雨は、まだ止まない。 血を洗い流しても、この夜の記憶は、決して消えることはない。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語

jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
 中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ  ★作品はマリーの語り、一人称で進行します。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

狐侍こんこんちき

月芝
歴史・時代
母は出戻り幽霊。居候はしゃべる猫。 父は何の因果か輪廻の輪からはずされて、地獄の官吏についている。 そんな九坂家は由緒正しいおんぼろ道場を営んでいるが、 門弟なんぞはひとりもいやしない。 寄りつくのはもっぱら妙ちきりんな連中ばかり。 かような家を継いでしまった藤士郎は、狐面にていつも背を丸めている青瓢箪。 のんびりした性格にて、覇気に乏しく、およそ武士らしくない。 おかげでせっかくの剣の腕も宝の持ち腐れ。 もっぱら魚をさばいたり、薪を割るのに役立っているが、そんな暮らしも案外悪くない。 けれどもある日のこと。 自宅兼道場の前にて倒れている子どもを拾ったことから、奇妙な縁が動きだす。 脇差しの付喪神を助けたことから、世にも奇妙な仇討ち騒動に関わることになった藤士郎。 こんこんちきちき、こんちきちん。 家内安全、無病息災、心願成就にて妖縁奇縁が来来。 巻き起こる騒動の数々。 これを解決するために奔走する狐侍の奇々怪々なお江戸物語。

日本新世紀ー日本の変革から星間連合の中の地球へー

黄昏人
SF
現在の日本、ある地方大学の大学院生のPCが化けた! あらゆる質問に出してくるとんでもなくスマートで完璧な答え。この化けたPC“マドンナ”を使って、彼、誠司は核融合発電、超バッテリーとモーターによるあらゆるエンジンの電動化への変換、重力エンジン・レールガンの開発・実用化などを通じて日本の経済・政治状況及び国際的な立場を変革していく。 さらに、こうしたさまざまな変革を通じて、日本が主導する地球防衛軍は、巨大な星間帝国の侵略を跳ね返すことに成功する。その結果、地球人類はその星間帝国の圧政にあえいでいた多数の歴史ある星間国家の指導的立場になっていくことになる。 この中で、自らの進化の必要性を悟った人類は、地球連邦を成立させ、知能の向上、他星系への植民を含む地球人類全体の経済の底上げと格差の是正を進める。 さらには、マドンナと誠司を擁する地球連邦は、銀河全体の生物に迫る危機の解明、撃退法の構築、撃退を主導し、銀河のなかに確固たる地位を築いていくことになる。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら

俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。 赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。 史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。 もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。

セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち

ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。 クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。 それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。 そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決! その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。

処理中です...