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第4章 戦友たちの挽歌
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慶応四年、五月十五日。 江戸、上野。
雨が降っていた。 だが、その雨は黒かった。砲煙と、燃え上がる寛永寺の灰が、雨粒に混じっているからだ。 肌に張り付くような、粘り気のある雨だった。
「伏せろッ!」
野村利三郎の叫び声とともに、相馬主計は泥の中に頭を突っ込んだ。
ドォォォン……!
腹の底を揺さぶる重低音。 大砲だ。 不忍池の対岸、本郷台地から撃ち込まれるアームストロング砲の砲弾が、正確無比に彰義隊の陣地を粉砕していく。
着弾。 数メートル先の黒門が、積み木細工のように弾け飛んだ。 直撃を受けた兵士が、声もなく肉片となって四散する。 血の雨が降ってきた。
「……畜生」
相馬は顔を上げ、泥を吐き出した。 口の中がじゃりじゃりする。鉄と、脂と、死の味がした。
ここは地獄だ。 近藤勇の嘆願により、板橋で処刑を免れたのが先月だ。相馬と野村は、拾った命を捨てる場所を探して、この上野の山へ流れ着いた。 彰義隊に紛れ込み、最後の抵抗を試みた。
だが、戦いにすらならなかった。 刀が届かない。 敵の姿も見えない。 こちらの剣技など歯牙にもかけず、数キロ先から鉄の塊が飛んでくるだけだ。
「相馬! 引くぞ! ここじゃ犬死にだ!」
野村が相馬の襟を掴んで揺さぶった。 野村の顔半分は、返り血で赤く染まっている。誰の血かは分からない。
「退路を探すんだ! このままじゃ、俺たちはただの肉の壁だぞ!」
「分かってる……!」
相馬は刀を杖にして立ち上がった。 足元のぬかるみに、足袋が沈む。 その時だった。
爆煙の向こうから、一人の男がよろめきながら現れた。
巨漢だった。 だが、その足取りは千鳥足のように覚束ない。 手に、長いものを持っている。 槍だ。 だが、その自慢の槍は半ばでへし折れ、ささくれ立った木の断面が雨に濡れていた。
男の腹から、おびただしい血が流れている。 着物が裂け、傷口が見えた。銃弾が肉を抉り、内臓に達しているのが分かった。
見覚えのある、豪快な髭。 一度見たら忘れられない、獣のような生命力を放っていた男。
元新選組十番組組長、原田左之助。
「……原田さん!」
相馬は叫び、駆け寄った。 野村も続く。
原田は、虚ろな目で相馬を見た。 雨に打たれた顔は蒼白で、焦点が定まっていない。
「……おう。誰かと思えば」
原田が、血の泡を吹いて笑った。
「お前、相馬か。……生きてたか」
「しっかりしてください! 野村、肩を貸せ! 今、安全な場所へ!」
相馬が原田の体を支えようと手を伸ばす。 だが、原田はその手を払いのけた。 死に体の人間とは思えない、万力のような力だった。
「無駄だ」
原田は、折れた槍を杖にして、どうにか立っていた。
「銃だ。……畜生め、近づけもしねえ。槍一本で天下を渡り歩いた俺が、顔も見えねえ敵に撃たれて終わりか」
悔しさが、言葉の端々から滲み出ていた。 かつて切腹し、腹を真一文字にかっ捌いても死ななかった男。「死に損ない左之助」と呼ばれた不死身の男。 その腹を、今度は無慈悲な鉛玉が貫いた。 武士としての名乗りも、一騎打ちもない。ただの標的として処理されたのだ。
「……近藤さんは、逝ったか」
原田が問うた。 相馬は唇を噛み、頷いた。
「……はい。先月、板橋で斬首されました」
「そうか。局長も、逝っちまったか」
原田は天を仰いだ。黒い雨が、その顔を濡らす。
「新八の野郎は会津へ行くと言っていたが……トシさんはどうした」
「副長は、北へ向かわれました。宇都宮を経て、会津へ合流すると」
「北か」
原田の目が、一瞬だけ鋭く光った。 血塗れの手が、再び相馬の肩を掴んだ。 指が肉に食い込む。
「行け、相馬。野村」
「原田さん……?」
「トシさんを頼むぞ」
原田の声が低くなった。遺言だった。
「え?」
「あの人は、強そうに見えて、脆い。近藤局長という『重石』を喪って、今のあの人は、糸の切れた凧みてえなもんだ。……死に急いでやがる」
原田は呼吸を荒げ、苦しげに喘いだ。
「俺も新八も、隊を離れた。……だからこそ、お前らが最期まで付き合ってやれ。あの人を、孤独なまま死なせるな」
「原田さん! 一緒に来てください! あんたも……!」
「行けェッ!」
原田が吠えた。 最後の力を振り絞った、獣の咆哮。
ヒュルルルル……。
空気を切り裂く音が近づく。 着弾音が迫っていた。
「走れ! 振り返るな!」
原田が相馬を突き飛ばした。 相馬と野村が泥の中へ転がる。
直後、至近距離に着弾があった。
ドォォォン!
爆風が二人を吹き飛ばす。 視界が真っ白になり、次いで真っ黒な土煙に覆われた。 鼓膜がキーンと鳴り続ける。
「ぐっ……うう……」
相馬は泥まみれになりながら、顔を上げた。
「原田さん!」
煙が、風に流されていく。 原田左之助が立っていた場所を見る。
いなかった。 原田の姿は、どこにもなかった。 爆風に巻き込まれたのか、あるいは煙に紛れて何処かへ消えたのか。
ただ一つ。 折れた槍の穂先だけが、泥の中に突き刺さっていた。 墓標のように。
「……走るぞ、相馬!」
野村が相馬の腕を引いた。
「まだだ! 原田さんが!」
「死んだ! あれはもう助からねえ! 俺たちが生き残らなきゃ、誰が遺言を届けるんだ!」
野村の叫びに、相馬は奥歯を砕けんばかりに噛み締めた。 そうだ。 託されたのだ。 近藤勇からは「未来」を。原田左之助からは「土方歳三」を。
「……うおおおおッ!」
相馬は咆哮し、泥を蹴った。 涙は出なかった。 涙を流す資格など、生き残った者にはない。 ただ、原田の血の熱さと、「トシさんを頼む」という言葉だけが、鉛のように心臓に重くのしかかっていた。
雨は激しさを増していた。 寛永寺が燃えている。 徳川の世が、完全に燃え尽きていく。
二匹の狼は、炎を背に、北へと走り出した。 目指すは会津。 そしてその先にある、最果ての地へ。
雨が降っていた。 だが、その雨は黒かった。砲煙と、燃え上がる寛永寺の灰が、雨粒に混じっているからだ。 肌に張り付くような、粘り気のある雨だった。
「伏せろッ!」
野村利三郎の叫び声とともに、相馬主計は泥の中に頭を突っ込んだ。
ドォォォン……!
腹の底を揺さぶる重低音。 大砲だ。 不忍池の対岸、本郷台地から撃ち込まれるアームストロング砲の砲弾が、正確無比に彰義隊の陣地を粉砕していく。
着弾。 数メートル先の黒門が、積み木細工のように弾け飛んだ。 直撃を受けた兵士が、声もなく肉片となって四散する。 血の雨が降ってきた。
「……畜生」
相馬は顔を上げ、泥を吐き出した。 口の中がじゃりじゃりする。鉄と、脂と、死の味がした。
ここは地獄だ。 近藤勇の嘆願により、板橋で処刑を免れたのが先月だ。相馬と野村は、拾った命を捨てる場所を探して、この上野の山へ流れ着いた。 彰義隊に紛れ込み、最後の抵抗を試みた。
だが、戦いにすらならなかった。 刀が届かない。 敵の姿も見えない。 こちらの剣技など歯牙にもかけず、数キロ先から鉄の塊が飛んでくるだけだ。
「相馬! 引くぞ! ここじゃ犬死にだ!」
野村が相馬の襟を掴んで揺さぶった。 野村の顔半分は、返り血で赤く染まっている。誰の血かは分からない。
「退路を探すんだ! このままじゃ、俺たちはただの肉の壁だぞ!」
「分かってる……!」
相馬は刀を杖にして立ち上がった。 足元のぬかるみに、足袋が沈む。 その時だった。
爆煙の向こうから、一人の男がよろめきながら現れた。
巨漢だった。 だが、その足取りは千鳥足のように覚束ない。 手に、長いものを持っている。 槍だ。 だが、その自慢の槍は半ばでへし折れ、ささくれ立った木の断面が雨に濡れていた。
男の腹から、おびただしい血が流れている。 着物が裂け、傷口が見えた。銃弾が肉を抉り、内臓に達しているのが分かった。
見覚えのある、豪快な髭。 一度見たら忘れられない、獣のような生命力を放っていた男。
元新選組十番組組長、原田左之助。
「……原田さん!」
相馬は叫び、駆け寄った。 野村も続く。
原田は、虚ろな目で相馬を見た。 雨に打たれた顔は蒼白で、焦点が定まっていない。
「……おう。誰かと思えば」
原田が、血の泡を吹いて笑った。
「お前、相馬か。……生きてたか」
「しっかりしてください! 野村、肩を貸せ! 今、安全な場所へ!」
相馬が原田の体を支えようと手を伸ばす。 だが、原田はその手を払いのけた。 死に体の人間とは思えない、万力のような力だった。
「無駄だ」
原田は、折れた槍を杖にして、どうにか立っていた。
「銃だ。……畜生め、近づけもしねえ。槍一本で天下を渡り歩いた俺が、顔も見えねえ敵に撃たれて終わりか」
悔しさが、言葉の端々から滲み出ていた。 かつて切腹し、腹を真一文字にかっ捌いても死ななかった男。「死に損ない左之助」と呼ばれた不死身の男。 その腹を、今度は無慈悲な鉛玉が貫いた。 武士としての名乗りも、一騎打ちもない。ただの標的として処理されたのだ。
「……近藤さんは、逝ったか」
原田が問うた。 相馬は唇を噛み、頷いた。
「……はい。先月、板橋で斬首されました」
「そうか。局長も、逝っちまったか」
原田は天を仰いだ。黒い雨が、その顔を濡らす。
「新八の野郎は会津へ行くと言っていたが……トシさんはどうした」
「副長は、北へ向かわれました。宇都宮を経て、会津へ合流すると」
「北か」
原田の目が、一瞬だけ鋭く光った。 血塗れの手が、再び相馬の肩を掴んだ。 指が肉に食い込む。
「行け、相馬。野村」
「原田さん……?」
「トシさんを頼むぞ」
原田の声が低くなった。遺言だった。
「え?」
「あの人は、強そうに見えて、脆い。近藤局長という『重石』を喪って、今のあの人は、糸の切れた凧みてえなもんだ。……死に急いでやがる」
原田は呼吸を荒げ、苦しげに喘いだ。
「俺も新八も、隊を離れた。……だからこそ、お前らが最期まで付き合ってやれ。あの人を、孤独なまま死なせるな」
「原田さん! 一緒に来てください! あんたも……!」
「行けェッ!」
原田が吠えた。 最後の力を振り絞った、獣の咆哮。
ヒュルルルル……。
空気を切り裂く音が近づく。 着弾音が迫っていた。
「走れ! 振り返るな!」
原田が相馬を突き飛ばした。 相馬と野村が泥の中へ転がる。
直後、至近距離に着弾があった。
ドォォォン!
爆風が二人を吹き飛ばす。 視界が真っ白になり、次いで真っ黒な土煙に覆われた。 鼓膜がキーンと鳴り続ける。
「ぐっ……うう……」
相馬は泥まみれになりながら、顔を上げた。
「原田さん!」
煙が、風に流されていく。 原田左之助が立っていた場所を見る。
いなかった。 原田の姿は、どこにもなかった。 爆風に巻き込まれたのか、あるいは煙に紛れて何処かへ消えたのか。
ただ一つ。 折れた槍の穂先だけが、泥の中に突き刺さっていた。 墓標のように。
「……走るぞ、相馬!」
野村が相馬の腕を引いた。
「まだだ! 原田さんが!」
「死んだ! あれはもう助からねえ! 俺たちが生き残らなきゃ、誰が遺言を届けるんだ!」
野村の叫びに、相馬は奥歯を砕けんばかりに噛み締めた。 そうだ。 託されたのだ。 近藤勇からは「未来」を。原田左之助からは「土方歳三」を。
「……うおおおおッ!」
相馬は咆哮し、泥を蹴った。 涙は出なかった。 涙を流す資格など、生き残った者にはない。 ただ、原田の血の熱さと、「トシさんを頼む」という言葉だけが、鉛のように心臓に重くのしかかっていた。
雨は激しさを増していた。 寛永寺が燃えている。 徳川の世が、完全に燃え尽きていく。
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