【完結】碧血の墓標 ――新選組最後の局長、明治の闇を斬る

高杉 優丸

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第3章 流山の雪、生かされた誓い

3話

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 相馬の視線は、尋問官の後ろに釘付けになっていた。

 尋問官の背後から、薄ら笑いを浮かべて出てきた男。 立派な軍服を着ている。新政府軍の将校として、ふんぞり返っていた。

 見覚えがあった。 いや、忘れるはずがない。 あの雨の油小路で、兄を見捨て、友を見捨て、泥を投げて逃げた卑怯者。

 御陵衛士の生き残り、加納鷲雄かのうわしお。 そして、その横に立ってニタニタと笑っている男。

「……鈴木」

 相馬の喉から、殺気が漏れた。 鈴木三樹三郎すずきみきさぶろうだった。 伊東甲子太郎の実弟。あの日、泥水をすすってでも生き延びると直感した男が、やはりそこにいた。

 鈴木が、雪を踏みしめて近藤の前に歩み寄る。

「久しぶりだなあ、近藤さんよ」

 鈴木は、下卑げびた笑みを浮かべた。 その目は、獲物をいたぶる愉悦ゆえつに歪んでいる。

「大久保大和? 笑わせるな。見間違えるはずがねえ。お前は近藤勇だ」

 鈴木が叫んだ。唾が飛ぶ。

「俺の兄、伊東甲子太郎を殺し、俺たちを油小路でハメた、人斬り近藤だ! ……違うか!」

 場が凍りついた。 尋問官たちが色めき立ち、銃口が一斉に近藤の心臓を狙う。

 だが、近藤は動じなかった。 ゆっくりと顔を上げる。その瞳は、静かな湖面のようにいでいた。 もう、隠す必要はないと悟ったのだろう。 あるいは、最初からこうなることを予期していたのか。

「……いかにも」

 近藤の声は、低く、よく通った。

「私が新選組局長、近藤勇である」

 潔い名乗りだった。 言い逃れも、命乞いもしない。 ただ事実を告げるその姿は、敵である官軍の兵士たちさえも圧倒し、一瞬の沈黙を強いた。

「見たか! 白状しやがった!」

 鈴木が勝ち誇ったように手を叩いた。

「おい、こいつを縛り上げろ! 逆賊の親玉だ! 斬首だ、晒し首にしてやる!」

 兵たちが縄を持って殺到する。 相馬は、つかに手をかけた。 約束など知ったことか。 目の前で、敬愛する主君が縄を打たれようとしている。鈴木の汚い高笑いが聞こえる。

 斬る。 この場で鈴木を斬って、俺も死ぬ。

 相馬が腰を浮かせかけた、その時だった。

「待て」

 近藤の鋭い声が、相馬を縛り付けた。

「この二人は関係ない」

 近藤が、あごで相馬と野村を示した。

「ただの小姓だ。馬の世話係として雇ったばかりの田舎者で、新選組の隊士ではない」

 相馬は息を呑んだ。 時が止まった。

 嘘だ。 近藤は、最後の最後まで、自分たちを庇おうとしている。 自分だけが死に、部下を――未来を生き延びさせるために。

「局長!」

 相馬が叫ぼうとした。 だが、近藤の眼光がそれを制した。 『言ったはずだ。生きろと』 目は、そう語っていた。 『泥水を啜ってでも、生きろ』

 相馬の喉が引きつる。 言葉にならぬ慟哭どうこくが、胸の中で暴れ回る。

「へえ……関係ない、ねえ」

 鈴木三樹三郎が、相馬の前に立った。 軍靴のつま先で、相馬の膝を小突く。

 相馬は鈴木を見上げた。 鈴木の目が、細められた。 気づいたのか。あの夜、路地裏で自分を追い詰め、泥を投げつけられた男だと。

 鈴木の視線が、相馬の顔を舐めるように這う。 相馬は視線を逸らさなかった。 殺意を込めて睨み返す。

 数秒の沈黙。 やがて、鈴木は興味なさそうに鼻を鳴らした。

「……ふん」

 鈴木は相馬から視線を外し、兵たちに命じた。

「まあいい。雑魚に用はない。俺が欲しいのは、近藤の首だけだ」

 雑魚。 相馬の拳が震えた。爪が掌に食い込み、血が滲む。 鈴木は気づいていないふりをしたのか、それとも本当に忘れたのか。 あるいは、今の相馬など取るに足らない存在だと判断したのか。

「近藤を連行しろ! この二人は……まあ、適当に牢に放り込んでおけ。気が向いたら調べてやる」

 近藤が立ち上がらされる。 後ろ手に縄を打たれ、雪の中を引き立てられていく。

 相馬は、その背中を見つめた。 大きくて、温かかった背中。 新選組という夢を背負い、傷つき、それでも最後まで立ち続けた男の背中。

 近藤は、振り返らなかった。 一度だけ、背中が微かに震えた気がした。 何かを言いたげに、肩が動いた。

 だが、言葉はなかった。 言葉にしてしまえば、決意が揺らぐ。 あるいは、残される若者たちに、これ以上の悲しみを背負わせまいとする配慮だったのか。

「……局長」

 相馬の声は、雪に吸い込まれ、誰にも届かなかった。

 野村が、相馬の腕を掴んでいた。 その爪が食い込み、相馬の腕からも血が滲んでいる。 野村もまた、下を向き、嗚咽おえつを必死に噛み殺していたのだ。

 近藤勇の姿が、陣幕の奥へと消えていく。 それが、相馬主計が見た、最後の「侍」の姿だった。

   *

 流山の雪は、まだ降っていた。 牢と言っても、蔵を改造しただけの粗末なものだった。

 相馬と野村は、冷たい板の間に座り込んでいた。 鉄格子越しの空は、白く濁っている。

 二人は生き残った。 いや、生かされた。 偉大なる父を失い、その仇敵である卑怯者に見下され、泥水を啜るような屈辱の中で。

 静かだった。 だが、相馬の胸の奥では、どす黒い炎が燃え上がっていた。

「……野村」

 相馬が呟く。

「ああ」

 野村の声は、枯れていた。

「俺たちは、許されたんじゃない。試されているんだ」

 相馬は自分の手を見た。 人を斬った手。近藤に水を渡した手。 そして、何もできずに近藤を見送った、無力な手。

「近藤さんは言った。未来を語り継げと」

 相馬は拳を握りしめた。

「だが、ただ語るだけじゃねえ。……落とし前をつける」

「落とし前?」

「ああ。あの鈴木という男。そして、新選組を賊軍と罵るこの時代そのものにだ」

 相馬の目に、冷徹な光が宿る。 それはもう、田舎から出てきた若者の目ではなかった。 修羅場を潜り、絶望を知り、それでもなお牙を研ぐ、狼の目だった。

「俺たちは生きる。生きて、戦い抜く。……そして、最後の最後まで見届けるんだ。誠の旗が、どこへ行き着くのかを」

 野村がニヤリと笑った。 涙の跡が残る顔で、獰猛に笑った。

「違げえねえ。……付き合うぜ、相馬。地獄の底までな」

 遠くで、勝ちどきのような声が聞こえた。 近藤勇捕縛の知らせが、敵陣を駆け巡っているのだろう。

 だが、新選組は終わっていない。 魂を受け継いだ「種」は、雪の下で静かに芽吹こうとしていた。

 相馬主計。 後に新選組最後の局長となり、箱館戦争の終結までを背負うことになる男。 その本当の戦いが、今、この流山の雪の中から始まろうとしていた。
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