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第3章 流山の雪、生かされた誓い
2話
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季節は巡った。だが、戦況は冬のままだった。
慶応四年、四月。
下総、流山。
季節外れの雪が舞っていた。
濡れた牡丹雪が、音もなく屋根に積もっていく。
新選組本陣となった酒造家・長岡屋の屋敷。
相馬主計は、薄暗い土間で膝を抱えていた。
指先の感覚がない。寒さのせいだけではない。
甲州勝沼での惨敗から一ヶ月。
江戸を追われ、北へ流れてここに辿り着いたが、もはや隊としての体はなしていなかった。
「……静かだな」
隣で、野村利三郎が呟いた。
「ああ」
相馬は短く応じた。
二百人いた仲間は、もう数十人もいない。
永倉新八や原田左之助といった古参幹部たちも、江戸での方針の違いから隊を離れていた。
残ったのは、近藤勇と土方歳三。そして、相馬たちのような行き場のない若者たちだけだ。
外は、新政府軍によって完全に包囲されている。
蟻の這い出る隙間もない。
戦えば、数分で全滅するだろう。
ここは、陣地ではない。墓場だ。
奥の座敷から、怒鳴り声が聞こえた。
相馬は顔を上げた。
近藤勇と、土方歳三だ。
二時間前から、ずっと話し込んでいる。
「トシ、お前は行け!」
近藤の声だ。いつになく荒げているが、その響きには悲痛な響きがあった。
「俺がここへ残り、敵を引きつける。その間に、お前は残った兵を連れて脱出しろ。……会津へ向かえ」
「ふざけるな!」
土方の声が、悲鳴のように張り詰める。
いつも冷徹な副長の、聞いたことのない取り乱し方だった。
「近藤さん。あんた、腹を切るつもりか。……俺たちを逃がすために、ここで死ぬ気かよ!」
「局長としての最後の仕事だ」
「認めねえ! 俺が江戸へ行って、勝海舟先生に直談判してくる。あんたを助けるために!」
「無茶だ!」
「無茶を通すのが新選組だろうが!」
激しい物音がした。
何かが倒れ、障子が破れる音。
相馬は息を呑み、拳を握りしめた。
詰んでいる。誰の目にも明らかだ。
だが、土方だけは諦めていない。いや、諦めきれないのだ。近藤勇という男を、こんなところで終わらせることを。
やがて、障子が開いた。
風が吹き込んだわけではない。だが、廊下の空気が一変した。 土方歳三が出てきたのだ。
相馬は平伏した。
顔を上げられない。
殺気が漏れているのではない。むしろ逆だ。
この男が常に纏っていた、張り詰めた鉄弦のような覇気が、今は断ち切られたように乱れている。
土方の足元が見えた。 泥で汚れた皮の長靴。 そのつま先が、相馬の目の前で止まった。
「……局長を」
土方の声は、絞り出すようだった。 喉の奥で血の味がしそうな、悲痛な響き。
「局長を、頼む」
相馬は弾かれたように顔を上げた。 息を呑んだ。
鬼の副長が、泣いていた。 いや、涙は流していない。だが、その瞳は充血し、縁が濡れている。 氷のようだった瞳の奥で、激しい炎が燃えていた。 悔しさ。無念。そして、友を死地へ残していくことへの、身を切られるような断腸の思い。
「副長……」
「行くぞ」
土方は、相馬の返事を待たずに視線を切った。 踵を返す。黒羅紗の裾を翻し、闇夜へと歩き出す。
二度と振り返らなかった。 振り返れば、決意が鈍ることを知っている足取りだった。
ザッ、ザッ、ザッ。 雪を踏む音が遠ざかる。 それは、新選組という巨大な車輪の、片方が外れた音だった。 近藤勇と土方歳三。 二人で一つだった魂が、今、永遠に引き裂かれた。
足音が闇に吸い込まれ、完全な静寂が戻った。
相馬は、雪が吹き込む戸口を見つめたまま、動けなかった。 手のひらの盆が、鉛のように重い。 土方の背中が残していった「頼む」という言葉が、呪いのように全身を縛り付けていた。
「相馬主計。野村利三郎。いるか」
奥から声がかかった。 近藤勇の声だった。 先ほどまでの土方との激論が嘘のような、凪いだ海を思わせる静かな声。
「……はっ」
二人は顔を見合わせ、座敷へと入った。
近藤勇は、床の間の前に座っていた。 剃刀を持っていた。 伸び放題だった無精髭を当たり、髷を整えている最中だった。
やつれていた頬は変わらない。 だが、その眼光は澄み渡っていた。 敗走の最中に見せていた弱々しさは消え、死を受け入れた者だけが纏う、透明な威厳があった。
「お前たちに、頼みがある」
近藤は剃刀を置き、懐から一通の書状を取り出して畳の上に滑らせた。
「これを持ち、私の使いとして敵の陣営へ行け」
相馬は書状と、近藤の顔を交互に見た。
「敵陣へ……ですか」
「そうだ。私は、大久保大和という偽名を使って出頭する。この書状には、『我々は戦う意志はない、ただの治安部隊だ』と書いてある」
近藤は、悪戯を見つけた子供のように微かに笑った。
「まあ、敵も馬鹿ではない。すぐにバレるだろう。薩摩や土佐の連中だ。私の顔を知っている者もいるかもしれん」
「ならば、なぜ!」
相馬は叫んでいた。 禁忌などどうでもよかった。
「バレれば、斬られます! 大久保大和などという偽名が、いつまで通用すると……!」
「時間稼ぎだ」
近藤が相馬の言葉を遮った。
「私が敵を引きつければ、土方は逃げられる。会津へ向かい、再起を図れる。……そのための捨て石だ」
「そんな……」
野村が絶句し、畳を拳で叩いた。
「あんたは新選組の局長だ! 捨て石になっていい命じゃねえ!」
「局長だからだ」
近藤の声が、鞭のように響いた。 野村が口をつぐむ。
「多くの隊士を死なせた。京で、大坂で、甲州で。……その責任を取る時が来ただけだ」
近藤は、遠い目をした。 その瞳には、先に逝った仲間たちの顔が映っているようだった。 沖田総司、井上源三郎、藤堂平助、伊東甲子太郎。 敵も味方も、すべての血を飲み込んで、近藤はここに座っている。
「戦いましょう」
相馬は、腹の底から声を絞り出した。
「我らも戦います。最後の一兵になるまで、あんたの盾になって死にます。それが、侍でしょう!」
「死ぬな」
近藤が、鋭く言った。 拒絶ではない。懇願に近い響きだった。
「相馬、野村。よく聞け」
近藤が膝を進め、二人の顔を覗き込んだ。 その目は、組織の長ではなく、田舎道場の主のような、不器用な温かさに満ちていた。
「お前たちは入隊して日が浅い。油小路や鳥羽伏見こそ経験したが、京での『人斬り』としての悪名は、古参ほど背負っていない」
近藤の手が、相馬の肩に置かれた。 温かかった。 大きくて、分厚い、剣だこに覆われた手。
「古参の連中は、私が道連れにする。それが局長の務めだ。……だが、お前たちは違う」
「……何が違うと言うんですか」
「お前たちは、新選組の『未来』だ」
相馬の心臓が跳ねた。
「未来……?」
「そうだ。生きろ。どんな恥をかいても、泥水を啜ってもだ。……私の最期を見届け、新選組が何のために戦い、どう散っていったのか、それを後世に語り継げ」
近藤の指に力がこもる。
「それが、お前たちに課す最後の任務だ。……分かるな?」
相馬の視界が滲んだ。 涙が溢れてくるのを止められなかった。
この人は、知っているのだ。 自分が出頭すれば、極刑は免れない。斬首され、晒し首になるだろう。 それでも、残った若い隊士たちを逃がすために、未来へ種を撒くために、自ら生贄になろうとしている。
生きろ。 それは、「死ぬ」ことよりも遥かに過酷な命令だった。 屈辱に耐え、敗北を噛み締め、それでも歩き続けろと言うのか。
「……行きます」
隣で、野村が言った。 声が震えている。彼もまた、泣いていた。
「お供します。……地獄の底まで」
野村が頭を床に擦り付ける。 相馬も、涙を袖で乱暴に拭った。 ここで泣いていては、局長の覚悟に泥を塗る。
「承知……いたしました」
相馬は、血が出るほど唇を噛み締め、頭を下げた。
「相馬主計。野村利三郎。これより、大久保大和の家来として同行します」
「うむ」
近藤が満足げに頷いた。 その表情は、憑き物が落ちたように晴れやかだった。
「頼もしいな。……さあ、行こうか」
近藤が立ち上がる。 大小を腰に差す。 その所作は美しかった。 戦いに敗れ、地位を失い、これから囚われの身となる男。 だが、その姿は、相馬がこれまで見たどの瞬間よりも、「武士」そのものだった。
*
長屋を出る。 雪は激しさを増していた。 視界を白く染める牡丹雪が、黒い隊服に降り積もる。
相馬と野村は、近藤勇の左右を守り、歩き出した。
街道の向こうには、無数の松明が揺れている。 新政府軍の陣営だ。 銃口が、槍の穂先が、一斉にこちらへ向けられているのが気配で分かった。
「寒くはないか」
近藤が、前を向いたまま訊いた。
「いいえ」
相馬は答えた。 嘘ではなかった。 腹の底に、熱い塊があった。 近藤から託された「生きろ」という熱が、冷え切った体を内側から焼いていた。
敵陣が近づく。 怒号が聞こえ始めた。
「止まれッ!」 「何者だ!」
銃の撃鉄を起こす音が、乾いたクリック音となって響く。
近藤は止まらなかった。 胸を張り、堂々と敵の只中へと歩を進める。 その背中は、少しも小さくなかった。 むしろ、迫り来る数千の敵兵を圧倒するほど、巨大に見えた。
相馬は、柄を握る手に力を込めた。 抜かない。 絶対に抜かない。 それが、局長との約束だ。
だが、もし敵が問答無用で近藤を撃とうとすれば――その時は、この命を捨てて盾になる。 未来などいらない。今、この男を守れるなら。
矛盾する感情を抱えながら、相馬は雪を踏みしめた。
やがて、陣幕の前で一団の兵が立ちはだかった。 その中から、一人の将校が進み出てくる。
「名を名乗れ」
傲慢な声だった。 近藤は足を止め、深く息を吸い込んだ。
「大久保大和である」
朗々たる声が、夜気に響き渡った。
だが、相馬の視線は、その尋問官の後ろに釘付けになっていた。 尋問官の背後から、薄ら笑いを浮かべて出てきた男。
見覚えがあった。 いや、忘れるはずがない。 あの雨の油小路で、泥を投げて逃げた、あの卑怯者。
相馬の全身の血が、逆流した。
慶応四年、四月。
下総、流山。
季節外れの雪が舞っていた。
濡れた牡丹雪が、音もなく屋根に積もっていく。
新選組本陣となった酒造家・長岡屋の屋敷。
相馬主計は、薄暗い土間で膝を抱えていた。
指先の感覚がない。寒さのせいだけではない。
甲州勝沼での惨敗から一ヶ月。
江戸を追われ、北へ流れてここに辿り着いたが、もはや隊としての体はなしていなかった。
「……静かだな」
隣で、野村利三郎が呟いた。
「ああ」
相馬は短く応じた。
二百人いた仲間は、もう数十人もいない。
永倉新八や原田左之助といった古参幹部たちも、江戸での方針の違いから隊を離れていた。
残ったのは、近藤勇と土方歳三。そして、相馬たちのような行き場のない若者たちだけだ。
外は、新政府軍によって完全に包囲されている。
蟻の這い出る隙間もない。
戦えば、数分で全滅するだろう。
ここは、陣地ではない。墓場だ。
奥の座敷から、怒鳴り声が聞こえた。
相馬は顔を上げた。
近藤勇と、土方歳三だ。
二時間前から、ずっと話し込んでいる。
「トシ、お前は行け!」
近藤の声だ。いつになく荒げているが、その響きには悲痛な響きがあった。
「俺がここへ残り、敵を引きつける。その間に、お前は残った兵を連れて脱出しろ。……会津へ向かえ」
「ふざけるな!」
土方の声が、悲鳴のように張り詰める。
いつも冷徹な副長の、聞いたことのない取り乱し方だった。
「近藤さん。あんた、腹を切るつもりか。……俺たちを逃がすために、ここで死ぬ気かよ!」
「局長としての最後の仕事だ」
「認めねえ! 俺が江戸へ行って、勝海舟先生に直談判してくる。あんたを助けるために!」
「無茶だ!」
「無茶を通すのが新選組だろうが!」
激しい物音がした。
何かが倒れ、障子が破れる音。
相馬は息を呑み、拳を握りしめた。
詰んでいる。誰の目にも明らかだ。
だが、土方だけは諦めていない。いや、諦めきれないのだ。近藤勇という男を、こんなところで終わらせることを。
やがて、障子が開いた。
風が吹き込んだわけではない。だが、廊下の空気が一変した。 土方歳三が出てきたのだ。
相馬は平伏した。
顔を上げられない。
殺気が漏れているのではない。むしろ逆だ。
この男が常に纏っていた、張り詰めた鉄弦のような覇気が、今は断ち切られたように乱れている。
土方の足元が見えた。 泥で汚れた皮の長靴。 そのつま先が、相馬の目の前で止まった。
「……局長を」
土方の声は、絞り出すようだった。 喉の奥で血の味がしそうな、悲痛な響き。
「局長を、頼む」
相馬は弾かれたように顔を上げた。 息を呑んだ。
鬼の副長が、泣いていた。 いや、涙は流していない。だが、その瞳は充血し、縁が濡れている。 氷のようだった瞳の奥で、激しい炎が燃えていた。 悔しさ。無念。そして、友を死地へ残していくことへの、身を切られるような断腸の思い。
「副長……」
「行くぞ」
土方は、相馬の返事を待たずに視線を切った。 踵を返す。黒羅紗の裾を翻し、闇夜へと歩き出す。
二度と振り返らなかった。 振り返れば、決意が鈍ることを知っている足取りだった。
ザッ、ザッ、ザッ。 雪を踏む音が遠ざかる。 それは、新選組という巨大な車輪の、片方が外れた音だった。 近藤勇と土方歳三。 二人で一つだった魂が、今、永遠に引き裂かれた。
足音が闇に吸い込まれ、完全な静寂が戻った。
相馬は、雪が吹き込む戸口を見つめたまま、動けなかった。 手のひらの盆が、鉛のように重い。 土方の背中が残していった「頼む」という言葉が、呪いのように全身を縛り付けていた。
「相馬主計。野村利三郎。いるか」
奥から声がかかった。 近藤勇の声だった。 先ほどまでの土方との激論が嘘のような、凪いだ海を思わせる静かな声。
「……はっ」
二人は顔を見合わせ、座敷へと入った。
近藤勇は、床の間の前に座っていた。 剃刀を持っていた。 伸び放題だった無精髭を当たり、髷を整えている最中だった。
やつれていた頬は変わらない。 だが、その眼光は澄み渡っていた。 敗走の最中に見せていた弱々しさは消え、死を受け入れた者だけが纏う、透明な威厳があった。
「お前たちに、頼みがある」
近藤は剃刀を置き、懐から一通の書状を取り出して畳の上に滑らせた。
「これを持ち、私の使いとして敵の陣営へ行け」
相馬は書状と、近藤の顔を交互に見た。
「敵陣へ……ですか」
「そうだ。私は、大久保大和という偽名を使って出頭する。この書状には、『我々は戦う意志はない、ただの治安部隊だ』と書いてある」
近藤は、悪戯を見つけた子供のように微かに笑った。
「まあ、敵も馬鹿ではない。すぐにバレるだろう。薩摩や土佐の連中だ。私の顔を知っている者もいるかもしれん」
「ならば、なぜ!」
相馬は叫んでいた。 禁忌などどうでもよかった。
「バレれば、斬られます! 大久保大和などという偽名が、いつまで通用すると……!」
「時間稼ぎだ」
近藤が相馬の言葉を遮った。
「私が敵を引きつければ、土方は逃げられる。会津へ向かい、再起を図れる。……そのための捨て石だ」
「そんな……」
野村が絶句し、畳を拳で叩いた。
「あんたは新選組の局長だ! 捨て石になっていい命じゃねえ!」
「局長だからだ」
近藤の声が、鞭のように響いた。 野村が口をつぐむ。
「多くの隊士を死なせた。京で、大坂で、甲州で。……その責任を取る時が来ただけだ」
近藤は、遠い目をした。 その瞳には、先に逝った仲間たちの顔が映っているようだった。 沖田総司、井上源三郎、藤堂平助、伊東甲子太郎。 敵も味方も、すべての血を飲み込んで、近藤はここに座っている。
「戦いましょう」
相馬は、腹の底から声を絞り出した。
「我らも戦います。最後の一兵になるまで、あんたの盾になって死にます。それが、侍でしょう!」
「死ぬな」
近藤が、鋭く言った。 拒絶ではない。懇願に近い響きだった。
「相馬、野村。よく聞け」
近藤が膝を進め、二人の顔を覗き込んだ。 その目は、組織の長ではなく、田舎道場の主のような、不器用な温かさに満ちていた。
「お前たちは入隊して日が浅い。油小路や鳥羽伏見こそ経験したが、京での『人斬り』としての悪名は、古参ほど背負っていない」
近藤の手が、相馬の肩に置かれた。 温かかった。 大きくて、分厚い、剣だこに覆われた手。
「古参の連中は、私が道連れにする。それが局長の務めだ。……だが、お前たちは違う」
「……何が違うと言うんですか」
「お前たちは、新選組の『未来』だ」
相馬の心臓が跳ねた。
「未来……?」
「そうだ。生きろ。どんな恥をかいても、泥水を啜ってもだ。……私の最期を見届け、新選組が何のために戦い、どう散っていったのか、それを後世に語り継げ」
近藤の指に力がこもる。
「それが、お前たちに課す最後の任務だ。……分かるな?」
相馬の視界が滲んだ。 涙が溢れてくるのを止められなかった。
この人は、知っているのだ。 自分が出頭すれば、極刑は免れない。斬首され、晒し首になるだろう。 それでも、残った若い隊士たちを逃がすために、未来へ種を撒くために、自ら生贄になろうとしている。
生きろ。 それは、「死ぬ」ことよりも遥かに過酷な命令だった。 屈辱に耐え、敗北を噛み締め、それでも歩き続けろと言うのか。
「……行きます」
隣で、野村が言った。 声が震えている。彼もまた、泣いていた。
「お供します。……地獄の底まで」
野村が頭を床に擦り付ける。 相馬も、涙を袖で乱暴に拭った。 ここで泣いていては、局長の覚悟に泥を塗る。
「承知……いたしました」
相馬は、血が出るほど唇を噛み締め、頭を下げた。
「相馬主計。野村利三郎。これより、大久保大和の家来として同行します」
「うむ」
近藤が満足げに頷いた。 その表情は、憑き物が落ちたように晴れやかだった。
「頼もしいな。……さあ、行こうか」
近藤が立ち上がる。 大小を腰に差す。 その所作は美しかった。 戦いに敗れ、地位を失い、これから囚われの身となる男。 だが、その姿は、相馬がこれまで見たどの瞬間よりも、「武士」そのものだった。
*
長屋を出る。 雪は激しさを増していた。 視界を白く染める牡丹雪が、黒い隊服に降り積もる。
相馬と野村は、近藤勇の左右を守り、歩き出した。
街道の向こうには、無数の松明が揺れている。 新政府軍の陣営だ。 銃口が、槍の穂先が、一斉にこちらへ向けられているのが気配で分かった。
「寒くはないか」
近藤が、前を向いたまま訊いた。
「いいえ」
相馬は答えた。 嘘ではなかった。 腹の底に、熱い塊があった。 近藤から託された「生きろ」という熱が、冷え切った体を内側から焼いていた。
敵陣が近づく。 怒号が聞こえ始めた。
「止まれッ!」 「何者だ!」
銃の撃鉄を起こす音が、乾いたクリック音となって響く。
近藤は止まらなかった。 胸を張り、堂々と敵の只中へと歩を進める。 その背中は、少しも小さくなかった。 むしろ、迫り来る数千の敵兵を圧倒するほど、巨大に見えた。
相馬は、柄を握る手に力を込めた。 抜かない。 絶対に抜かない。 それが、局長との約束だ。
だが、もし敵が問答無用で近藤を撃とうとすれば――その時は、この命を捨てて盾になる。 未来などいらない。今、この男を守れるなら。
矛盾する感情を抱えながら、相馬は雪を踏みしめた。
やがて、陣幕の前で一団の兵が立ちはだかった。 その中から、一人の将校が進み出てくる。
「名を名乗れ」
傲慢な声だった。 近藤は足を止め、深く息を吸い込んだ。
「大久保大和である」
朗々たる声が、夜気に響き渡った。
だが、相馬の視線は、その尋問官の後ろに釘付けになっていた。 尋問官の背後から、薄ら笑いを浮かべて出てきた男。
見覚えがあった。 いや、忘れるはずがない。 あの雨の油小路で、泥を投げて逃げた、あの卑怯者。
相馬の全身の血が、逆流した。
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