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第6章 死人は二度死ぬ
3話
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屋敷の中は、腐った果実のような甘い匂いがした。 香水、洋酒、そして脂粉の香り。 それが、相馬には死臭のように感じられた。
廊下の絨毯は厚く、足音を完全に吸い込む。 相馬は影のように移動した。 広間の扉がわずかに開いていた。 そこから、光と喧騒が漏れている。相馬は隙間から中を覗いた。
三十人ほどの男女がいる。 燕尾服の男たち、洋装の女たち。 中央の卓には、豪勢な料理と、銀色の盆が置かれていた。 その盆の上に、硝子の箱がある。
「さあ皆様、お待たせしました」
鈴木三樹三郎が、葡萄酒の杯を掲げて声を張り上げた。 顔が赤い。すでに相当酔っているようだ。
「これが、我が国が誇る『文明』の勝利の証。……かつて京の街を震撼させ、最後は箱館で野垂れ死んだ賊将、土方歳三の首でございます!」
鈴木が合図を送る。 加納鷲雄が、箱にかけられた天鵞絨の布を乱暴に引き剥がした。
「おお……」 「なんと不気味な……」
客たちがどよめき、手巾で口元を押さえる。 相馬は目を凝らした。
硝子の箱の中。 酒精で満たされた瓶に、一つの生首が浮いている。 皮膚は変色し、髪は抜け落ち、眼球は白濁している。 長い年月を経て、干からびた猿のようになっていた。
相馬の体温が、一気に下がった。 恐怖ではない。 あまりの馬鹿らしさに、血が冷えたのだ。
(……誰だ、それは)
相馬は心の中で吐き捨てた。
あれは土方歳三ではない。 骨格が違う。額の形状が違う。 何より、あの首には「鬼」の気配がない。 ただの死体だ。どこかの戦場跡から掘り起こしてきた、名もなき兵士の哀れな成れの果てだ。
「皆様、ご注目ください。この首の後頭部を」
鈴木が得意げに指差した。 頭蓋骨の一部が欠け、穴が開いているのが見える。
「世間では、土方歳三は馬上で腹を撃たれて死んだ、などと言われておりますが……それは誤りです」
鈴木が声を潜め、勿体ぶって続ける。
「実はあの日、逃げ回る土方を、我が隊の選抜射手が背後から正確に撃ち抜いたのです! 脳天を、一撃でね。……この銃創こそが、私が彼を討ち取った動かぬ証拠なのです!」
「おお、なんと!」 「腹を撃たれたというのは、新選組が広めた流言飛語だったのですな!」
客たちが口々に鈴木を称賛する。 鈴木は満更でもなさそうに、太った腹を揺らして笑っている。
相馬は、懐の匕首を握りしめた。 柄が軋む。
(……よくもぬけぬけと)
相馬は知っている。 あの日、土方の遺体を担いだ時、頭部には傷一つなかった。 致命傷は腹部。脇腹から背骨を砕いた一撃だった。 鈴木は、たまたま頭に穴の開いた死体を拾ってきて、自分の手柄にするために歴史を書き換えているのだ。
「いやはや、鈴木先生のお手柄ですな」 「まさに、神がかり的な腕前です」
嘲笑。 称賛。 安全な場所から、偽りの歴史を消費する卑しい笑い声。
相馬の中で、何かが焼き切れる音がした。 土方歳三の死は、あんな男の出世の道具にされていいものではない。
その時だ。 硝子の箱の脇に、置かれているものに気づいた。 祝いの花束や、酒樽が並んでいる。 その中に一つだけ、異質なものがあった。
一本の、古びた木刀。 花も飾りもついていない。 ただ無造作に、祝いの品々の隅に立てかけられている。
「ん? なんだこれは」
鈴木もそれに気づいたらしい。 木刀を手に取り、訝しげに眉をひそめた。
「誰だ、こんな汚い棒切れを持ってきたのは」
「玄関に置いてありました」
加納が答える。
「『北の海より、旧友N』と書かれた札がありましたが……気味が悪いので捨てようかと」
「N……?」
鈴木が首を傾げる。 相馬の目が、その木刀に釘付けになった。
柄の部分に、文字が刻まれている。 遠目でも分かる。 深く、怒りを込めて彫り込まれた二文字。
『碧血』
相馬の喉が鳴った。 「碧血」。 『義に殉じて流された血は、三年経てば碧くなる』という中国の故事。 そして、箱館で死んだ土方たちのために、生き残った者たちが建てた慰霊碑の名だ。
間違いなく、永倉新八だ。 あの木刀は、永倉が愛用していた神道無念流の稽古刀に似ている。 永倉は、わざわざ北海道からこれを送りつけたのか。 「この首は偽物だ。俺たちの血は、まだ碧く燃えているぞ」という、無言の宣戦布告として。
「なんだ、気味が悪い!」
鈴木は木刀を床に投げ捨てた。 カラン、と乾いた音が響く。
「捨てておけ! まったく、祝いの席に水を差すような真似を!」
鈴木が木刀を蹴飛ばした。
ブチッ。 相馬の中で、理性の鎖が音を立てて千切れ飛んだ。
(……上等だ、鈴木)
相馬は窓枠に手をかけた。 殺すのは後だ。 だが、挨拶くらいはしておいてやる。
相馬は懐から、銭入れを取り出した。 中に入っているのは、車屋として稼いだ、なけなしの銅貨や銀貨。 それを鷲掴みにする。
「……賽銭だ、受け取れ!」
相馬は叫びと共に、硬貨の礫を投げつけた。 ザラララッ! 数十枚の硬貨が、散弾のように広間へ降り注ぐ。
「な、なんだ!?」 「何事だ!」
客たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。 硬貨が硝子杯を割り、皿を砕く。 その一枚が、鈴木の額に命中した。
「痛っ! き、貴様、誰だ!」
鈴木が額を押さえて窓の方を見る。 加納鷲雄が素早く刀に手をかけ、前に躍り出る。
「曲者かッ!」
相馬は、窓枠に仁王立ちになった。 顔は手拭いで隠している。だが、その眼光だけは隠しようもなく、殺気で爛々と輝いていた。
「鈴木三樹三郎!」
相馬の声が、広間に響き渡る。 腹の底から絞り出した、地獄の底からの声。
「その首は偽物だ! ……本物の『死神』は、ここにもいるぞ!」
「なっ……!?」
鈴木が後ずさる。 加納が抜刀し、窓へ走る。
「逃がすかァッ!」
だが、遅い。 相馬は身を翻し、闇夜へと飛び出した。 着地。 前転して衝撃を殺し、庭を疾走する。
「追え! 撃ち殺せ!」
背後で鈴木の金切り声が聞こえる。 銃声。 弾丸が近くの木の幹を削る。
相馬は走った。 息が白い。心臓が焼けるように熱い。 だが、足取りは軽かった。 九年間、背負い続けてきた「死人」としての重石が取れた気がした。
(聞こえたか、副長)
夜空を見上げる。 冬の星座が、冷たく輝いている。
(永倉さん、島田さん、中島さん。……そして、野村)
相馬は、闇の中でニヤリと笑った。 かつて、野村利三郎が見せたような、獰猛な笑みだった。
(狼煙は上げた。……戦争だ)
煉瓦街の夜を、一匹の狼が駆けていく。 新島省吾という仮面は、今夜、完全に砕け散った。 ここにあるのは、新選組最後の局長・相馬主計の、復讐への渇望だけだ。
明治十一年。 冬の東京に、見えない火がついた。
廊下の絨毯は厚く、足音を完全に吸い込む。 相馬は影のように移動した。 広間の扉がわずかに開いていた。 そこから、光と喧騒が漏れている。相馬は隙間から中を覗いた。
三十人ほどの男女がいる。 燕尾服の男たち、洋装の女たち。 中央の卓には、豪勢な料理と、銀色の盆が置かれていた。 その盆の上に、硝子の箱がある。
「さあ皆様、お待たせしました」
鈴木三樹三郎が、葡萄酒の杯を掲げて声を張り上げた。 顔が赤い。すでに相当酔っているようだ。
「これが、我が国が誇る『文明』の勝利の証。……かつて京の街を震撼させ、最後は箱館で野垂れ死んだ賊将、土方歳三の首でございます!」
鈴木が合図を送る。 加納鷲雄が、箱にかけられた天鵞絨の布を乱暴に引き剥がした。
「おお……」 「なんと不気味な……」
客たちがどよめき、手巾で口元を押さえる。 相馬は目を凝らした。
硝子の箱の中。 酒精で満たされた瓶に、一つの生首が浮いている。 皮膚は変色し、髪は抜け落ち、眼球は白濁している。 長い年月を経て、干からびた猿のようになっていた。
相馬の体温が、一気に下がった。 恐怖ではない。 あまりの馬鹿らしさに、血が冷えたのだ。
(……誰だ、それは)
相馬は心の中で吐き捨てた。
あれは土方歳三ではない。 骨格が違う。額の形状が違う。 何より、あの首には「鬼」の気配がない。 ただの死体だ。どこかの戦場跡から掘り起こしてきた、名もなき兵士の哀れな成れの果てだ。
「皆様、ご注目ください。この首の後頭部を」
鈴木が得意げに指差した。 頭蓋骨の一部が欠け、穴が開いているのが見える。
「世間では、土方歳三は馬上で腹を撃たれて死んだ、などと言われておりますが……それは誤りです」
鈴木が声を潜め、勿体ぶって続ける。
「実はあの日、逃げ回る土方を、我が隊の選抜射手が背後から正確に撃ち抜いたのです! 脳天を、一撃でね。……この銃創こそが、私が彼を討ち取った動かぬ証拠なのです!」
「おお、なんと!」 「腹を撃たれたというのは、新選組が広めた流言飛語だったのですな!」
客たちが口々に鈴木を称賛する。 鈴木は満更でもなさそうに、太った腹を揺らして笑っている。
相馬は、懐の匕首を握りしめた。 柄が軋む。
(……よくもぬけぬけと)
相馬は知っている。 あの日、土方の遺体を担いだ時、頭部には傷一つなかった。 致命傷は腹部。脇腹から背骨を砕いた一撃だった。 鈴木は、たまたま頭に穴の開いた死体を拾ってきて、自分の手柄にするために歴史を書き換えているのだ。
「いやはや、鈴木先生のお手柄ですな」 「まさに、神がかり的な腕前です」
嘲笑。 称賛。 安全な場所から、偽りの歴史を消費する卑しい笑い声。
相馬の中で、何かが焼き切れる音がした。 土方歳三の死は、あんな男の出世の道具にされていいものではない。
その時だ。 硝子の箱の脇に、置かれているものに気づいた。 祝いの花束や、酒樽が並んでいる。 その中に一つだけ、異質なものがあった。
一本の、古びた木刀。 花も飾りもついていない。 ただ無造作に、祝いの品々の隅に立てかけられている。
「ん? なんだこれは」
鈴木もそれに気づいたらしい。 木刀を手に取り、訝しげに眉をひそめた。
「誰だ、こんな汚い棒切れを持ってきたのは」
「玄関に置いてありました」
加納が答える。
「『北の海より、旧友N』と書かれた札がありましたが……気味が悪いので捨てようかと」
「N……?」
鈴木が首を傾げる。 相馬の目が、その木刀に釘付けになった。
柄の部分に、文字が刻まれている。 遠目でも分かる。 深く、怒りを込めて彫り込まれた二文字。
『碧血』
相馬の喉が鳴った。 「碧血」。 『義に殉じて流された血は、三年経てば碧くなる』という中国の故事。 そして、箱館で死んだ土方たちのために、生き残った者たちが建てた慰霊碑の名だ。
間違いなく、永倉新八だ。 あの木刀は、永倉が愛用していた神道無念流の稽古刀に似ている。 永倉は、わざわざ北海道からこれを送りつけたのか。 「この首は偽物だ。俺たちの血は、まだ碧く燃えているぞ」という、無言の宣戦布告として。
「なんだ、気味が悪い!」
鈴木は木刀を床に投げ捨てた。 カラン、と乾いた音が響く。
「捨てておけ! まったく、祝いの席に水を差すような真似を!」
鈴木が木刀を蹴飛ばした。
ブチッ。 相馬の中で、理性の鎖が音を立てて千切れ飛んだ。
(……上等だ、鈴木)
相馬は窓枠に手をかけた。 殺すのは後だ。 だが、挨拶くらいはしておいてやる。
相馬は懐から、銭入れを取り出した。 中に入っているのは、車屋として稼いだ、なけなしの銅貨や銀貨。 それを鷲掴みにする。
「……賽銭だ、受け取れ!」
相馬は叫びと共に、硬貨の礫を投げつけた。 ザラララッ! 数十枚の硬貨が、散弾のように広間へ降り注ぐ。
「な、なんだ!?」 「何事だ!」
客たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。 硬貨が硝子杯を割り、皿を砕く。 その一枚が、鈴木の額に命中した。
「痛っ! き、貴様、誰だ!」
鈴木が額を押さえて窓の方を見る。 加納鷲雄が素早く刀に手をかけ、前に躍り出る。
「曲者かッ!」
相馬は、窓枠に仁王立ちになった。 顔は手拭いで隠している。だが、その眼光だけは隠しようもなく、殺気で爛々と輝いていた。
「鈴木三樹三郎!」
相馬の声が、広間に響き渡る。 腹の底から絞り出した、地獄の底からの声。
「その首は偽物だ! ……本物の『死神』は、ここにもいるぞ!」
「なっ……!?」
鈴木が後ずさる。 加納が抜刀し、窓へ走る。
「逃がすかァッ!」
だが、遅い。 相馬は身を翻し、闇夜へと飛び出した。 着地。 前転して衝撃を殺し、庭を疾走する。
「追え! 撃ち殺せ!」
背後で鈴木の金切り声が聞こえる。 銃声。 弾丸が近くの木の幹を削る。
相馬は走った。 息が白い。心臓が焼けるように熱い。 だが、足取りは軽かった。 九年間、背負い続けてきた「死人」としての重石が取れた気がした。
(聞こえたか、副長)
夜空を見上げる。 冬の星座が、冷たく輝いている。
(永倉さん、島田さん、中島さん。……そして、野村)
相馬は、闇の中でニヤリと笑った。 かつて、野村利三郎が見せたような、獰猛な笑みだった。
(狼煙は上げた。……戦争だ)
煉瓦街の夜を、一匹の狼が駆けていく。 新島省吾という仮面は、今夜、完全に砕け散った。 ここにあるのは、新選組最後の局長・相馬主計の、復讐への渇望だけだ。
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