【完結】碧血の墓標 ――新選組最後の局長、明治の闇を斬る

高杉 優丸

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第7章 裏切り者の用心棒

1話

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 虎ノ門とらのもん。 官庁街の外れにあるこの通りは、夜になると深海のように静まり返る。 瓦斯ガス灯の間隔が広い。 闇と光の縞模様が、踏み固められた砂利道に落ちている。 風が吹くと、街路樹の枯れ葉が乾いた音を立てて転がった。

 新島省吾にいじましょうご――かつての相馬主計そうまかずえは、闇の中で息を殺していた。 手には、商売道具である人力車の梶棒かじぼうを握っている。 使い込まれた木の感触が、てのひらに馴染む。 だが、今夜はこの車を客のためには使わない。 これは、ただの障害物だ。

(来たか)

 ひづめの音が聞こえた。 重く、傲慢ごうまんな響きだ。 二頭立ての馬車。車輪が砂利を噛みしめる音が、夜の静寂を切り裂いて近づいてくる。

 赤坂の屋敷を出た鈴木三樹三郎すずきみきさぶろうは、毎夜この道を通ってめかけの家へ向かう。 情報屋のネタに間違いはない。 相馬は、梶棒を握る手に力を込めた。 脂汗がにじむ。 恐怖ではない。獲物を前にした猟犬の、抑えきれない興奮だ。 三年間の偽りの平穏が、皮を剥がれるように消え失せ、かつての人斬りとしての本能が鎌首をもたげている。

 馬車の影が、瓦斯灯の明かりを横切った。 黒塗りの高級馬車。 窓には厚い羅紗らしゃおおいが引かれ、中の様子はうかがえない。 御者台には、大柄な男がふんぞり返るように座っている。

「……今だ」

 相馬は、人力車を一気に押し出した。 車輪を回すのではない。 横倒しにするように、道の真ん中へ滑らせた。

 ガシャン! 木と鉄が砕ける音が響く。 無人の人力車が、路上で無惨なむくろとなって道を塞いだ。

「うわっ!?」

 御者が慌てて手綱を引く。 馬がいななき、前脚を上げて急停止した。 馬車が激しく揺れ、車輪がきしんだ音を立てて止まる。

「な、なんだ!? 何事だ!」

 客車の中から、ふくよかな悲鳴が上がった。 聞き覚えのある、粘りつくような声。 鈴木三樹三郎だ。

「おい! どうしたんだ! 襲撃か!」

「へ、変な車が道を塞いでやがります! 事故か、それとも……」

 御者がむちを構え、周囲を警戒する。

 相馬は、闇の中からゆっくりと歩み出た。 ボロボロの法被はっぴ。 手拭いで顔の下半分を隠し、深く被った笠の下から、眼光だけを光らせている。 足音は立てない。 ただ、夜の一部が切り離されたように、音もなく馬車へ近づく。

「……おい、車屋」

 御者が怒鳴った。声が裏返っている。

「どけ! 誰の馬車だと思ってる! 元司法省の鈴木先生のお通りだぞ! き殺されたいのか!」

 相馬は答えない。 無言のまま、間合いを詰める。 その足取りには、市井しせいの労働者の卑屈さは微塵みじんもない。 殺気。 純粋な殺意だけが、冷たい風となって漂い始めた。

「……鷲雄わしお! 鷲雄、何とかしろ!」

 鈴木の怯えた声が聞こえた。 「また不平士族の襲撃か! 殺せ! 金なら弾む、撃ち殺せ!」

 馬車の扉が開いた。 一人の男が、ゆらりと降り立った。

 加納鷲雄かのうわしお。 流山ながれやま近藤勇こんどういさみを売り、今は鈴木の用心棒として飼われている元・御陵衛士ごりょうえじ。 筒袖つつそでの着物に、はかま。 そして腰には、大小二振りの刀が差されている。

 明治九年の廃刀令以降、帯刀は禁じられている。 だが、この男は堂々と刀をぶら下げている。 「俺たちが法だ」と言わんばかりの傲慢さ。権力の犬だけが許された特権を、見せびらかすように歩き出した。

 加納は、路上に転がる人力車と、立ち尽くす相馬を交互に見た。 鼻で笑ったのが見えた。

「なんだ。ただの野良犬か」

 加納が、相馬の前に立ちはだかる。 その距離、三間さんげん

「おい、乞食こじき。金が欲しいならくれてやる。……だが、出し方を間違えたな」

 加納の手が、ゆっくりと鯉口こいぐちに触れた。

「鈴木先生は機嫌が悪いんだ。昨夜の観賞会を、ふざけた奴に台無しにされたんでな。……貴様のようなゴミに構っている暇はない」

「……」

 相馬は、まだ無言だった。 懐から、一振りの脇差わきざしを取り出した。 車屋の道具箱の底に隠していたものだ。 刃渡り一尺五寸。刀と呼ぶには短いが、人を殺すには十分な長さだ。

 さやを払う。 雪のような刃文はもんが、瓦斯灯の光を吸って怪しく輝いた。

「ほう」

 加納が眉を上げた。 驚きはない。むしろ、愉悦ゆえつの色が浮かんだ。 獲物を見つけた猛禽類もうきんるいの目だ。

「刃物か。……強盗にしては、いい構えだ」

 加納が抜刀した。 長刀だ。 切っ先を相馬の喉元に向ける。

「だが、素人が侍の真似事をするもんじゃねえ。……死にたくなければ、そこで土下座しろ。指の一本で勘弁してやる」

 相馬は動じない。 脇差を正眼せいがんに構え、じりっと間合いを詰める。 重心が低い。 いつでも飛びかかれる、バネのような姿勢。

 加納の顔から、笑みが消えた。 相馬の足運びに、何かを感じ取ったのだろう。 男の目が細められ、探るような色が浮かぶ。 ただの暴漢ではないと気づいたのだ。

「……貴様」

 加納の声が低くなった。

「ただの車屋じゃねえな。……どこぞの士族崩れか?」

 相馬は、手拭い越しに低く呟いた。 地獄の底から響くような声で。

「……忘れたか、加納」

「あ?」

「流山の雪を。……近藤局長を売った、その薄汚い口を」

 加納の目が、大きく見開かれた。 動きが止まる。

 流山。 近藤勇。 その単語を聞いた瞬間、加納の顔色が蒼白に変わった。 唇がわなないている。 「まさか」という言葉が、音にならずに漏れたのが見えた。

「……てめえ」

 加納が後ずさる。 幽霊でも見るような目だ。 死んだはずの男が、目の前に立っている。その恐怖が、加納の剣先をわずかに揺らした。

「相馬、か? 相馬主計そうまかずえなのか!?」

 相馬は答えなかった。 代わりに、地面を蹴った。

 爆発的な踏み込み。 直心影流じきしんかげりゅう特有の、呼吸と体重を乗せた重厚な突進。 砂利が弾け飛ぶ。

「生きて……いやがったか!」

 加納が叫び、刀を振り下ろす。 速い。 伊東甲子太郎いとうかしたろうに鍛えられた、北辰一刀流ほくしんいっとうりゅうの鋭い太刀筋だ。 風を切る音が、相馬の耳元をかすめる。

 だが、相馬は止まらなかった。 上段からの斬撃を、脇差のしのぎで受け流す。 火花が散る。 鉄と鉄が噛み合う、不快な音が夜気を裂いた。 重い。 だが、今の相馬には、九年分の怒りが乗っている。

「ぐっ……!」

 加納の表情がゆがむ。 力負けしている。 車引きとして、毎日重い荷を引いて鍛え上げた相馬の足腰と腕力が、加納の剣を押し込んでいく。 加納の剣は、権力に守られた「道場の剣」に成り下がっていた。

「幽霊にしちゃあ、重てえな……ッ!」

「地獄から戻ってきたんだ」

 相馬の手拭いが、風でずり落ちた。 無精髭に覆われた顔。 日焼けした肌。 だが、その目は、あの日の箱館で土方を埋めた時と同じ、修羅の目だった。

「お前たちを、連れて行くためにな」

「ふざけるなァッ!」

 加納が弾かれたように飛び退く。 間合いが開く。 加納は冷や汗を流し、相馬を凝視した。 死人が蘇った。 その事実が、加納の剣先に迷いを生ませていた。

 相馬は追撃しなかった。 ゆっくりと、切っ先を加納の右腕に向ける。

「その腕だ」

 相馬が宣告した。

「近藤局長を指差した、その右腕。……もらうぞ」

「やってみろ、負け犬が!」

 加納が再び構える。 だが、その切っ先は微かに震えていた。 恐怖か。 それとも、目の前の男が放つ、圧倒的な「死」の気配に気圧されたか。

 虎ノ門の夜風が、二人の間を吹き抜ける。 次の交錯で、決まる。
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