やめてよ、お姉ちゃん!

日和崎よしな

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第二章 彩芽梓

第9話

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「おとう、さん……?」

 もう笑うしかないよな。笑っとけ。とりあえず笑っとけ。良好な人間関係を築くコツは笑顔だ。笑顔さえあれば世界中のみんなと友達になれる。
 俺は目の前の、目が点になった中肉中背のオジサンに、ニコッと渾身こんしんの笑顔を送った。

「ど……」

「ど?」

 どうも?

 俺と視線が交じり合ったその顔が、一歩後退した。

「ど、ど、ど、どどどど、泥棒ーっ! 泥棒泥棒泥棒泥棒、警察警察警察警察、泥棒警察泥棒ーっ!」

 さっき「強盗はいねがぁ」と執拗しつように部屋を調査していた声が、上ずって、慌てて階段を駆け下りていった。

 通報される……!

「待って、お父さん、違うの、待ってってば!」

 慌てて梓ちゃんが追いかけていった。

「電話帳! 電話帳はどこだ⁉」

「お父さん、警察は110番だよ」

 教えんなぁああああ!

「おっと、そうだった!」

「待って、お父さん! 待ってよ! 待って……。待ってって言ってるでしょうがぁあああああっ!」

 ヒステリックを内包したけたたましい叫び声の直後、すさまじい衝撃音がとどろいた。

 しばらくして、頬が紫に腫れ上がったオジサンが二階に上がってきて、俺の前に鎮座ちんざした。
 無言で人差し指を下に向け、それを上下に運動させる。つまり、俺に座れと言っているのだ。
 俺は真っ赤なクッションをどけ、梓ちゃんのお父さんと同じ土俵に正座した。

「君もきたいことが山ほどあるだろうが、君は質問せずに、私の質問にだけ答えなさい。いいね?」

「はい……」

 そのほおのことなら、訊かなくてもおおかた察しがついていますよ、お父さん。
 滑稽こっけいなオジサンの姿にそんな軽口を叩きたくなるが、それはひかえておく。
 彩芽あやめ父は白いカッターシャツにベージュのベストとグレーのスラックスで固めている。
 見るからに堅物そうだ。
 顔がれていて言葉から威厳いげんが抜け落ちているが、彼のかもし出す怒気は、顔の腫れさえなければ相当な重圧になったであろうとはかれる。

「まず一つ目の質問だ。……君は、誰だ?」

 梓ちゃんが慌てて説明しようとするが、「おまえには訊いておらん」と一喝し、その鋭い眼差まなざしを――鋭いのは片目だけだが――俺に向けて逸らさない。

染紅しぐれ隼人はやとです。あずさちゃんのクラスメイトです」

「梓ちゃん⁉」

 俺が梓ちゃんを下の名前で呼んだ瞬間、上ずったような声で、怒鳴りつけるような勢いで、俺をにらみおろした。

 そのとき、玄関の呼び鈴が鳴った。

「はーい」

 大きな声で返事をして立ち上がった彩芽母が階段を駆け下りていく。
 少しの沈黙を挟み、彩芽父は質問を続けた。

「おまえは梓とどういう関係なのだ?」

「ただのクラスメイトです」

「ただのクラスメイトが気安く私の娘を下の名前で呼ぶのか? おまえはそういう生意気な男なのか? それとも、本当はもっと深い関係なんじゃあないのか?」

 彩芽父はいつ俺に飛びかかってもおかしくないくらい前傾していた。
 梓ちゃんが俺の隣に正座して土俵入りする。
 不意を突かれたような顔の彩芽父が少しだけ身を引いた。
 梓ちゃんは父にも劣らない強い眼差しを、前傾姿勢をさらに押し返すように父へとぶつけた。

「ただのクラスメイトではないわ。隼人君は私の大切なお友達です!」

「隼人君⁉ 大切な? 私の? おい貴様! 梓のただの友達ではないな⁉」

 彩芽父は再び前傾になり、その顔が俺に近づく。
 それを押し返さんばかりに梓ちゃんが前傾する。意図したものではなかろうが、その勢いで彩芽父の顔面に梓ちゃんの頭突きが決まった。

「だから、ただの友達ではなく、大切な友達だと言っているでしょう!」

「友達の分際ぶんざいで下の名前で呼び合うなど不謹慎ふきんしんだ!」

 いやいや、それはべつに不謹慎ではないだろう。

「じゃあ不謹慎でなくなるために、私たちが友達以上の関係だと言い張ればいいわけ?」

「ぬぁにぃいいいい⁉」

 彩芽父の顔が真っ赤になる。その怒り狂った表情も含めて例えるならば、赤鬼だ。
 愛娘まなむすめの頭突きにもめげずに再び身を乗り出してくる。
 しかし娘も対抗する。

「お父さんが頑固なことを言うから、私は私と隼人君の関係を恋人関係だと言い張るわ。いいこと? 本当は友達だけど、でもお父さんが不謹慎だのと浅はかな観念を押しつけるから、私は隼人君のことを私の彼氏だと言い張るのよ!」

「ぬぁんだってぇえええええ⁉ もしそうだとして、それはプルトニックなのか? プルトニック・ラブなのかぁあああああ⁉」

 プルトニックってなんだよ。ものすごく危険な響きがするぞ。それを言うならプラトニックだろ。
 もう彩芽父は冷静ではいられないのだろう。彩芽父は左右の視線を乱雑に走らせ、ゆがんだ口をさらに吊り上げて、アカベコのように首を上下にカクカクさせている。

「いいえ、それ以上よ。お父さんがそのみにくい紫色の頬を突き出すほどに、私たちの関係は炎上していくのよ!」

「ぐぎぃいいいいい!」

 ああ、どんな些細ささいな言葉でも、俺が何かを口走れば、それが起爆剤となって核爆発を起こしそうだ。
 地獄には慣れているが、修羅場には慣れていないんだよなぁ、なーんて。

「オッホン!」

 そのとき、嫌でも脳髄のうずいに侵入してくるような甲高かんだか咳払せきばらいに、俺たち三人の顔がいっせいに斜め上を向いた。
 彩芽母が咳払いの主を丁重ていちょうに紹介する。

「こちらは梓の学校の教育指導の先生よ。梓の交友関係に関してお話があっていらっしゃったみたい」

広蒼こうそう中学校で教育指導を担当しております、榊原さかきばらと申します」

 ゲゲェエエエエッ! としか言いようがない。
 最悪の展開だ。

 榊原先生は風紀に厳しいことで有名で、同僚の先生ですら敬遠する堅物である。
 いつもは淡いピンクのシックなフォーマルで身を固めているが、今日は珍しく白のブラウスに黒のタイトスカート。
 尖った銀縁びんぷち眼鏡めがねの端を、ピンとそろえた五本指の中指でクイッと持ち上げて整える。
 つやのない黒髪は、頭上で束ねてもなおサイドで長く垂れ下がっている。

 声がいつもより高い。教育指導に張り切っているのだろうか。
 いや、いまただよっている沈黙と硬直した表情は、部屋中に散乱したパンツに困惑しているのだろう。

 あれ? 先生、少しせた?
 教育指導に対するその熱意、そろそろ婚活に向けたらどうだ?
 もう手遅れかもしれないが。

「ちょうどいいところに。先生からも言ってやってください」

 青い頬の男に対し、少し怪訝けげんそうな顔を向ける。
 榊原先生は情けないオジサンの顔は素通りして俺に顔を寄せる。

「あいたっ!」

 寄せすぎて額が衝突した。
 というか、いまの勢いは頭突きと言ったほうが正しい。

「染紅君、こんな夜遅くに女子の部屋に上がりこむなんて、風紀上、許されることではないと分かっていますわね? まずあなたの言い分を聞かせてもらいましょうか」

 先生、パンツのことはスルーですか。
 景色が理解を超えていて対処法が分からなかったに相違そういない。

「違うんです。私が呼んだんです!」

 すかさず梓ちゃんが俺と先生の間に割って入った。
 あの榊原先生に臆することなく向かっていくなんて、梓ちゃんは肝がわっている。
 そういえば吉村さんとのいざこざのときもそうだった。

「そうだと思っていました。彩芽さん、あなたの口からきっちり事情を説明していただきます」

 そうだと思っていたのかよ。
 なーんて心内でツッコミを入れている間に、彩芽父が余計なことをあれやこれやと説明して俺たちを追い込んでしまった。

「お父様に見つからないようにと箪笥たんすの中に染紅君を隠したということは、見つかってはマズイという後ろ暗さがあったということです。何をするつもりだったんでしょうねぇ。時間も22時と遅く、もはや単に友達を呼んだだけ、という言い逃れはできませんよ!」

「そうだそうだ!」

 なんという安っぽい合いの手を入れるんだ、彩芽父。
 しかしながら、それは俺の心のつぶやきで非難されるだけにとどまらなかった。それがあだとなってか、榊原先生の矛先が彩芽父へと向けられた。

「おっほん! お言葉ですが、彩芽さんのお父様、私は本来、あなたを指導するためにこの家を訪れたのですよ」

「え、私を⁉」

 彩芽父は上ずった声とともに、ひっくり返らんばかりの勢いでった。
 榊原先生は仁王立ちして彩芽父を見下ろしている。
 俺と梓ちゃんは互いに拍子抜ひょうしぬけした顔を見合わせ、命拾いしたという喜びを共有した。

「生徒の指導は学校でもできますから、私はこの貴重な時間をあなたの指導についやすことにいたします。彩芽さん、あなたの娘さんが染紅君を箪笥に隠したのは、なぜだとお考えですか?」

「それは梓に後ろめたい気持ちが……」

「お黙り!」

 ヒステリックじみた榊原先生の叱咤しったに、彩芽父は「えー……」という口の中の言葉をこぼして閉口するしかなかった。

 彩芽父はいつの間にか正座をしていた。まるで悪戯いたずらをした小学生がこっぴどく怒られているような姿だ。
 しかし、格好はいかにも堅物なお父さんである。

「すべての原因は、あなたの娘への執拗しつような干渉にあります。彩芽さん、過度な干渉はあなたの大切な娘さんの交友関係を壊しますよ。学生時代に学ぶことの中で、社会に出るにあたり最も重要になってくる要素は何だとお考えですか?」

「それはやっぱり勉強、でしょう?」

「いいえ、コミュニケーション能力です。知識でも運動能力でも特殊技能でもありません。社会人であるあなたなら痛感したことがあるのではありませんか? 娘さんは学業も普段の生活態度も申し分ありません。優秀です。しかし、コミュニケーション能力は学業のように一朝一夕いっちょういっせきには向上しません。交友時間に比例してゆっくりと向上していくものなのです。ただし、一度取り残されると通常の流れへと復帰するのは非常に難しいのです。彩芽さん、染紅君が男の子だからといって、娘さんの交友を制限するのはきわめて愚かな行為ですよ。もしも娘さんが男性とのコミュニケーションになんを示すようになってしまったらどうします? いまの世は相も変わらず男社会。有望な娘さんの未来を潰してしまうおつもりですか?」

「はっ、ははぁ! すみませんでしたあっ!」

 最後には御奉行様おぶぎょうさまに頭を下げる下手人げしゅにんのように、両手を床について頭を下げる彩芽父の姿があった。

「さっ、染紅君、帰りますよ」

「え……」

「夜も遅いことです。家まできっちりと送り届けますからね」

 やめてぇええええ!
 俺が夜に家を抜け出して女子の家に上がりこんでいたなんて知れたら、姉にどんなお仕置きをされるか分かったものじゃない。
 うわぁ、最悪だぁ……。

 俺と榊原先生は彩芽一家に見送られて家を出た。
 その際、梓ちゃんだけ呼ばれ、両親は家の中へと返された。

「彩芽梓さん、『あなたへの指導は学校で』と言いましたが、一つだけ警告しておきます」

 そう言って、榊原先生は頭上でまとめた髪のピンを外し、バサリとロングを降ろした。
 そして、頭を振って髪を振り上げる。
 いや、そうじゃない……。

 髪が、髪が取れたぁあああああ!

「ウィッグ⁉」

 梓ちゃんは驚嘆きょうたんしてそうつぶやいたが、俺は声を失い、固まった。

「隼人は私の所有物だから、あなたにはあげないわよ」

 そこにいる榊原先生は、実は偽物で、その正体は俺の姉だった。
 ヒールで少し背が高くなっているが、ウィッグを取って眼鏡を外して濃い化粧を差し引いたら、間違いなく俺の姉だ。
 たしかに榊原先生の声には違和感があった。いま思い返せば、あの声色は姉の声域の範囲内だ。

「え、誰……?」

染紅しぐれ華絵かえ。隼人の姉よ」

 梓ちゃんも呆然ぼうぜんとしている。
 そりゃあそうだろう。
 まさか一介の女子高生が堅物アラフォー教師に化けているなんて思いもしない。
 というか、どんだけ巧妙に変装してんだよ、お姉ちゃん……。いくら広蒼中学校出身とはいえ、よく榊原先生のディテールを覚えていたな。恐れ入るよ、まったく。

 というか、お仕置き確定じゃねーか!
 姉にバレるどころか、姉に現場をかき回されてんじゃねーかよ。

「す、すごいです! 恐れ入りました。お見逸みそれしました。師匠と呼ばせてください」

「師匠?」

 突然の申し込み。
 姉は梓ちゃんを弟子とすることに乗り気ではない様子だった。
 しかし梓ちゃんの尊敬の眼差しに気分をよくしているのか、「うーむ、むむむ」とうなっている。

「あ、ごめんなさい。私なんかが弟子になろうなんて、おこがましいですよね。それじゃあ、お姉様と呼ばせていただいてもよろしいですか?」

「いいわ。私のことを師匠と呼んでしたうことを許します。何も教えないけど」

「ホントですか? ありがとうございます!」

 あいたたたた。妙なことになった。
 よりにもよって梓ちゃんは最も目指してはいけない人物に憧れてしまったようだ。

 なんてこった……。

「それにしても……あなたの部屋って……とても前衛的なのね」

 いまさら⁉
 パンツデコレーションの部屋のことだろう。
 説明を試みようとしてあきらめた梓ちゃんは苦笑するしかなかった。

 この晩、梓ちゃんのリスペクトがこころよかったのか、幸いにもこの件に関する姉のお仕置きはなかった。
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