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第三章 吉村朱里
第12話
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吉村さんの暴挙の翌日。
延頸鶴望の末に訪れた休日の朝から、俺は姉に部屋へと呼び出された。
シルクに包まれた姉はベッドに腰掛け、足を組み、両手を腰の近くにまっすぐ下ろして上体を支えている。
ニコリと音が出そうな笑顔が、姉のリラックスを裏打ちする。
「隼人、おつかい行ってきて」
出た。お仕置きなど関係なく弟を使役しようとする姉。
もう10時だというのに姉が寝巻き姿のままでいることは、彼女が外出する気のないことを主張するためだとさえ思える。
しかし俺だって部屋着であり、外出するとなると着替えざるを得ない。
「なんで? 自分で行けばいいでしょ?」
俺のその言葉は綱渡りだ。もし姉の機嫌を損ねたら、今度こそお仕置きという災厄が降りかかりかねない。だから素直に行くべきかもしれない。
だがここで俺がすんなりと言うことを聞いたら、今後も当たり前のように使役される可能性がある。
「弟が姉のお使いに行くのは当たり前でしょ?」
おっと、すでに当たり前だった。なんということだ。
たしかに姉にお遣いを頼まれるのはこれが初めてではないが、近ごろその使役回数が増えてきたからこそ、俺も当然のように使役されることに対して疑問を持ったのだ。
「そんなわけないよ。そんな当たり前があるもんか」
「じゃあネットで調べてみるといいわ」
姉は間髪入れず返答した。
さては周到に準備していたな? 俺が駄々を捏ねるパターンを何通りもシミュレートして返答を用意していたに相違ない。
そんな暇があるなら自分で行けばいいのに。
「じゃあちょっと調べてくる」
「私のパソコンを使っていいわよ」
姉はベッドから跳ねるように立ち、渋い赤と黒を基調とした獰猛そうなノートパソコンに飛びついて検索ページを呼び出した。
俺は検索ワードを入力して何度かページを捲った。
そこにはたしかに姉の言ったとおりのことが書いてあった。《姉弟関係にありがちなことのまとめ》というページに《弟は姉によくパシられる》とある。
俺がそのページを見たところを、姉はしかと見届けた。
「ほらね?」
姉は狩人のような、鋭く、どっしりと構えた眼差しを俺に向けていた。
俺はゆっくりと息を吸い、そしてゆっくりと息を吐く。
「ヨソはヨソだよ」
俺は緩慢に大きく首を振った。
ほかの家の姉弟がそうだからといって、俺までパシリにされてはたまったものではない。ウチはウチ。ヨソは関係ない。
しかし、蛇に睨まれた蛙みたく萎縮した俺の声は、その短い文言すら、蚊の羽音のようにか細く尻すぼみに小さくなった。
嫌な予感がしたのだ。
俺の言葉はまるで誘導されたもののように思えた。
「言ったわね。いいわ、認めてあげる。でもその言葉、二度と覆せないわよ」
あーあ、またやってしまった。
分かっていたはずだ。姉には口答えをしてはならないと。
いっときの怠惰心が永遠の暴虐を招いてしまった。
ヨソでは絶対にしないような無茶苦茶な使役や度を越した嫌がらせの頻度が激増しそうだ。いまでも十分ひどいというのに。
「隼人、ジュースを買ってきなさい。命令よ。ヨソではお願いするところだけど、ウチはヨソとは違うから命令するの」
結局、お遣いに行かされるわけだ。
もう溜息しか出ない。
「嫌です、お姉様」
「もう、面倒臭い子ね。いちいち命令を拒否した場合のお仕置きを説明しなければ、言うことを聞かないの?」
「えーっ……。その場合、どんなお仕置きをされるの?」
お父さんに言いつけてやる、といきたいところだが、それはできない。
姉がマジギレするからだ。
一度だけ経験したことがあるが、手がつけられないどころではない。絶対に後悔することになる。
「折るわよ」
え、何を⁉
分からない。何を折るか言わないパターンだ。
これはヤバイ。従うしかない。
もし逆らって取り返しのつかないモノを折られたら大変だ。
いや! もしかしたら、アレのことかもしれない。
前に一度、姉に「竹串を折る」と脅されたことがある。
もしソレだったら、絶対に逆らうわけにはいかない。
「分かった、分かったよ。ジュースは買ってきますとも。お金は出していただけますか? 何のジュースがよろしいですか?」
「シトラス系なら何でもいいわ。代金は立て替えといて」
ああ、出たよ、このパターンだ……。
姉は後からは金を払わない。前払いでないときは、俺が金を払うことになるのだ。
「はいはい」
ま、折られるよりはマシだ。
着替えた俺の格好は、土色のTシャツに黒の短パンというラフなもの。
部屋着と大差はないが、部屋着は蓮根並みに穴が開いており、それを着て外へ出るのはさすがにはばかられる。
最寄りの自動販売機までは徒歩3分。駅なら近いが自販機なら遠い、そんな距離だ。
その自販機の前に立ち、自転車で来なかったことを後悔する。
ウィンドウの向こうにシトラス系なんて粋なドリンクは並んでいない。
最寄りのコンビニエンスストアまで徒歩5分。空港なら近いがコンビニなら遠い。
しかも家からは8分。往復15分以上。
姉は遅いと怒るだろうか。なぜ走らなかったのか、などと外道じみた追及をされるのだろうか。
姉のジュースを買いに行って俺が金を出すのに。
パシリで走るなんてごめんだ。
……早歩きで許してください。
「あ、染紅隼人っ!」
この急いでいるときに、俺を呼びとめる無粋な輩は誰だ?
そんなの決まっている。何を意図しているのか、俺をフルネームで呼ぶ低めのその声は、隣のクラスの女子、吉村朱里しかいない。
彼女は猛烈なピッチで走ってきた。
「何? ちょっと急いでいるんだけど」
吉村さんはダボダボのダメージトレーナーに、かなりのロングスカートで身体を覆い隠している。トレーナーがバニラ色、スカートが藍色というこのカラーコンビネーションは制服の夏服を連想させるが、服装の分厚さは冬着そのもの。
金髪で周囲を威圧までして、何から身体を保護する必要があるのだろうか。
そんなことを考えたくなる重装備だが、この夏という時期にあっては、汗という敵に塩を送っているとしか考えられない。
ああ、ダイエットか?
違うか……。
吉村さんは太ってはいない。
ポッチャリ系でもない。
スタイルだけで言えば、メイビー、梓ちゃんにも勝っている。
褐色の肌も実によく健康を体現している。
もっとも、重装ないまの彼女の格好からはスタイル云々など語ることはできない。
俺が吉村さんのスタイルを褒めるのは、彼女が梓ちゃんを突き飛ばしたときの体操服姿が印象的で、そのときの記憶が鮮明に焼きついているからだ。
「今日こそは見せてもらうから!」
だから何を⁉ 手をワシャワシャ動かしながら迫り来る彼女に対して恐れはない。
俺が恐れているのは、時間の経過と姉の機嫌だけだ。
「見たいなら見ればいいさ。でも早くしてくれ」
吉村さんがいよいよ俺に近づくと、彼女の指のウネウネがスピードを増した。
彼女の目的が何なのかまったく見えない。彼女の顔は真剣そのものなのだ。俺を恨んでいる様子でもないし、菊市のような変態的表情もしない。
吉村さんの手がついに俺の肩に触れる、というところで、褐色の触手はピタリと動きを止めた。
そしてサッと飛び退いた。
狩りを中断した獣は何かに驚いている様子で俺の顔をじっと見ている。
いや、どうも俺の後ろの何かに注視しているようだった。
「お兄ちゃん⁉」
俺が振り向くと、そこには長躯の男が白の長ランをなびかせ、風を切りながらこちらへ走ってくるところだった。
応援団関係の人かとも思ったが、金色リーゼントの威圧感はなかなかのもので、明らかにヤバイ人であるとことを示していた。
おそらくは暴走族関係の人。
「朱里! 誰だ、こいつは!」
明らかに怒っている。
エラの張った大きめの顔。
鋭利な眼光を射出する二つの窪みを吊り上げ、眉間にはくっきりとした皺を寄せている。
突き出した顎の上方では、開くと牙が飛び出しそうな大きな口を歪ませている。
ヤンキーとして周囲に威圧を振りまくあの吉村さんが萎縮している。
なるほど、この兄ありてこの妹あり、というわけだ。
「こいつはクラスメイト……じゃなかった。隣のクラスの男子よ」
吉村さんの声にいつものふてぶてしさはない。
声を聞くだけでも彼女の狼狽が伝わってくる。吉村さんは兄を恐れているようだった。
「隣のクラスのくせに、こんなに仲がいいだと? どういう関係だ! テメー、朱里の何なんだよ、オラァ」
矛先は俺に向けられていた。すごい剣幕で俺を睨み下ろす。
この男はいまの場面の何を仲がいい根拠としたのか。どうしてそんなにも怒っているのか。
「関係って言われても……そんなの……」
同級生、それが最も適切な表現だろうか。
しかしはっきり言って、俺と吉村さんはべつに友達でもないし、無関係という関係のほうがしっくりくるくらいだ。
「待って、お兄ちゃん。違うの、こいつは、その……。そう、私の子分よ!」
吉村さんが俺の返答を遮る形で、先生に遅刻の言い訳をする子供みたいに言い繕った。
「え、なんで⁉」
俺のその反発的な感嘆詞は、吉村さんの上からの平手打ちによって叩き消された。
「子分だと? この汚らしい小僧がぁ? 朱里、おまえは俺の愛すべき大切な妹だ。そんな妹にはもっとふさわしい子分を俺が用意してやる。だから勝手に子分なんか作るな。何よりも、どこの馬の骨とも知れない野郎が俺の愛する妹の近くにいるというだけで腹の虫が治まらん」
なるほど、この男はシスコンか。
俺が吉村さんと仲がよくても悪くても排除、もしくは制裁の対象だったというわけだ。
しかし、吉村さんの返答により救われた。なぜ吉村さんが俺をかばってくれたのかは分からないが。
いや、吉村さんは単に我が身を守ろうとしただけなのかもしれない。彼女の真意は不明だ。
「あの、俺、ちょっと急いでるんで」
時計を見れば、いまのやりとりで5分以上のロスをしていた。
俺は小走りで白長ランの横を通りすぎようとしたが、首根っこをグイッと掴まれて引き戻された。
「誰が行ってよしっつったよ。おまえは朱里に近づきすぎた罪で一発殴っておく!」
振り向きざまに大きくてゴツイ塊が俺の左頬に衝突した。
視界がグランと揺れたかと思ったら真っ白になり、上半身が落下する感覚を覚えた。
痛いという感覚よりも、自分の身体が大丈夫かという不安のほうが意識を独占した。
意識はあるが視界が白に染まったまま何も見えない。
「お兄ちゃん!」
「ほら、行くぞ、朱里。こんな奴に二度と近づくんじゃねーぞ。それとそこのおまえ、絶対に朱里には近づくなよ!」
べチャッ、と俺の殴られた左頬に唾らしき粘液が吐きつけられた。
俺はどうにか上体を起こすと、石垣に寄りかかり、視界が元に戻るまで待った。
動けるようになるまでに数分かかった。
消沈した俺がコンビニで姉のシトラス系ドリンクを買って帰ったら、着替えた姉が玄関で仁王立ちしていた。
ライトブルーのランニングシャツにパールブラックのショートパンツ。陸上選手みたいな姿だ。
怠惰とは対極的な状態の姉に、俺は驚愕、絶句、恐怖した。
「遅い!」
整列した白い歯がギリギリギリと左右に擦れる。
ここまで姉が怒っているのはいつ以来だろうか。姉は時間にうるさい。待たせすぎた。
もう諦めるしかない。もはや言い訳する気力も湧かない。
だが意外にもお仕置きはなかった。
しかも、俺に200円を握らせ、さっきの一言以外には一言も発することなく階段を上がっていった。
延頸鶴望の末に訪れた休日の朝から、俺は姉に部屋へと呼び出された。
シルクに包まれた姉はベッドに腰掛け、足を組み、両手を腰の近くにまっすぐ下ろして上体を支えている。
ニコリと音が出そうな笑顔が、姉のリラックスを裏打ちする。
「隼人、おつかい行ってきて」
出た。お仕置きなど関係なく弟を使役しようとする姉。
もう10時だというのに姉が寝巻き姿のままでいることは、彼女が外出する気のないことを主張するためだとさえ思える。
しかし俺だって部屋着であり、外出するとなると着替えざるを得ない。
「なんで? 自分で行けばいいでしょ?」
俺のその言葉は綱渡りだ。もし姉の機嫌を損ねたら、今度こそお仕置きという災厄が降りかかりかねない。だから素直に行くべきかもしれない。
だがここで俺がすんなりと言うことを聞いたら、今後も当たり前のように使役される可能性がある。
「弟が姉のお使いに行くのは当たり前でしょ?」
おっと、すでに当たり前だった。なんということだ。
たしかに姉にお遣いを頼まれるのはこれが初めてではないが、近ごろその使役回数が増えてきたからこそ、俺も当然のように使役されることに対して疑問を持ったのだ。
「そんなわけないよ。そんな当たり前があるもんか」
「じゃあネットで調べてみるといいわ」
姉は間髪入れず返答した。
さては周到に準備していたな? 俺が駄々を捏ねるパターンを何通りもシミュレートして返答を用意していたに相違ない。
そんな暇があるなら自分で行けばいいのに。
「じゃあちょっと調べてくる」
「私のパソコンを使っていいわよ」
姉はベッドから跳ねるように立ち、渋い赤と黒を基調とした獰猛そうなノートパソコンに飛びついて検索ページを呼び出した。
俺は検索ワードを入力して何度かページを捲った。
そこにはたしかに姉の言ったとおりのことが書いてあった。《姉弟関係にありがちなことのまとめ》というページに《弟は姉によくパシられる》とある。
俺がそのページを見たところを、姉はしかと見届けた。
「ほらね?」
姉は狩人のような、鋭く、どっしりと構えた眼差しを俺に向けていた。
俺はゆっくりと息を吸い、そしてゆっくりと息を吐く。
「ヨソはヨソだよ」
俺は緩慢に大きく首を振った。
ほかの家の姉弟がそうだからといって、俺までパシリにされてはたまったものではない。ウチはウチ。ヨソは関係ない。
しかし、蛇に睨まれた蛙みたく萎縮した俺の声は、その短い文言すら、蚊の羽音のようにか細く尻すぼみに小さくなった。
嫌な予感がしたのだ。
俺の言葉はまるで誘導されたもののように思えた。
「言ったわね。いいわ、認めてあげる。でもその言葉、二度と覆せないわよ」
あーあ、またやってしまった。
分かっていたはずだ。姉には口答えをしてはならないと。
いっときの怠惰心が永遠の暴虐を招いてしまった。
ヨソでは絶対にしないような無茶苦茶な使役や度を越した嫌がらせの頻度が激増しそうだ。いまでも十分ひどいというのに。
「隼人、ジュースを買ってきなさい。命令よ。ヨソではお願いするところだけど、ウチはヨソとは違うから命令するの」
結局、お遣いに行かされるわけだ。
もう溜息しか出ない。
「嫌です、お姉様」
「もう、面倒臭い子ね。いちいち命令を拒否した場合のお仕置きを説明しなければ、言うことを聞かないの?」
「えーっ……。その場合、どんなお仕置きをされるの?」
お父さんに言いつけてやる、といきたいところだが、それはできない。
姉がマジギレするからだ。
一度だけ経験したことがあるが、手がつけられないどころではない。絶対に後悔することになる。
「折るわよ」
え、何を⁉
分からない。何を折るか言わないパターンだ。
これはヤバイ。従うしかない。
もし逆らって取り返しのつかないモノを折られたら大変だ。
いや! もしかしたら、アレのことかもしれない。
前に一度、姉に「竹串を折る」と脅されたことがある。
もしソレだったら、絶対に逆らうわけにはいかない。
「分かった、分かったよ。ジュースは買ってきますとも。お金は出していただけますか? 何のジュースがよろしいですか?」
「シトラス系なら何でもいいわ。代金は立て替えといて」
ああ、出たよ、このパターンだ……。
姉は後からは金を払わない。前払いでないときは、俺が金を払うことになるのだ。
「はいはい」
ま、折られるよりはマシだ。
着替えた俺の格好は、土色のTシャツに黒の短パンというラフなもの。
部屋着と大差はないが、部屋着は蓮根並みに穴が開いており、それを着て外へ出るのはさすがにはばかられる。
最寄りの自動販売機までは徒歩3分。駅なら近いが自販機なら遠い、そんな距離だ。
その自販機の前に立ち、自転車で来なかったことを後悔する。
ウィンドウの向こうにシトラス系なんて粋なドリンクは並んでいない。
最寄りのコンビニエンスストアまで徒歩5分。空港なら近いがコンビニなら遠い。
しかも家からは8分。往復15分以上。
姉は遅いと怒るだろうか。なぜ走らなかったのか、などと外道じみた追及をされるのだろうか。
姉のジュースを買いに行って俺が金を出すのに。
パシリで走るなんてごめんだ。
……早歩きで許してください。
「あ、染紅隼人っ!」
この急いでいるときに、俺を呼びとめる無粋な輩は誰だ?
そんなの決まっている。何を意図しているのか、俺をフルネームで呼ぶ低めのその声は、隣のクラスの女子、吉村朱里しかいない。
彼女は猛烈なピッチで走ってきた。
「何? ちょっと急いでいるんだけど」
吉村さんはダボダボのダメージトレーナーに、かなりのロングスカートで身体を覆い隠している。トレーナーがバニラ色、スカートが藍色というこのカラーコンビネーションは制服の夏服を連想させるが、服装の分厚さは冬着そのもの。
金髪で周囲を威圧までして、何から身体を保護する必要があるのだろうか。
そんなことを考えたくなる重装備だが、この夏という時期にあっては、汗という敵に塩を送っているとしか考えられない。
ああ、ダイエットか?
違うか……。
吉村さんは太ってはいない。
ポッチャリ系でもない。
スタイルだけで言えば、メイビー、梓ちゃんにも勝っている。
褐色の肌も実によく健康を体現している。
もっとも、重装ないまの彼女の格好からはスタイル云々など語ることはできない。
俺が吉村さんのスタイルを褒めるのは、彼女が梓ちゃんを突き飛ばしたときの体操服姿が印象的で、そのときの記憶が鮮明に焼きついているからだ。
「今日こそは見せてもらうから!」
だから何を⁉ 手をワシャワシャ動かしながら迫り来る彼女に対して恐れはない。
俺が恐れているのは、時間の経過と姉の機嫌だけだ。
「見たいなら見ればいいさ。でも早くしてくれ」
吉村さんがいよいよ俺に近づくと、彼女の指のウネウネがスピードを増した。
彼女の目的が何なのかまったく見えない。彼女の顔は真剣そのものなのだ。俺を恨んでいる様子でもないし、菊市のような変態的表情もしない。
吉村さんの手がついに俺の肩に触れる、というところで、褐色の触手はピタリと動きを止めた。
そしてサッと飛び退いた。
狩りを中断した獣は何かに驚いている様子で俺の顔をじっと見ている。
いや、どうも俺の後ろの何かに注視しているようだった。
「お兄ちゃん⁉」
俺が振り向くと、そこには長躯の男が白の長ランをなびかせ、風を切りながらこちらへ走ってくるところだった。
応援団関係の人かとも思ったが、金色リーゼントの威圧感はなかなかのもので、明らかにヤバイ人であるとことを示していた。
おそらくは暴走族関係の人。
「朱里! 誰だ、こいつは!」
明らかに怒っている。
エラの張った大きめの顔。
鋭利な眼光を射出する二つの窪みを吊り上げ、眉間にはくっきりとした皺を寄せている。
突き出した顎の上方では、開くと牙が飛び出しそうな大きな口を歪ませている。
ヤンキーとして周囲に威圧を振りまくあの吉村さんが萎縮している。
なるほど、この兄ありてこの妹あり、というわけだ。
「こいつはクラスメイト……じゃなかった。隣のクラスの男子よ」
吉村さんの声にいつものふてぶてしさはない。
声を聞くだけでも彼女の狼狽が伝わってくる。吉村さんは兄を恐れているようだった。
「隣のクラスのくせに、こんなに仲がいいだと? どういう関係だ! テメー、朱里の何なんだよ、オラァ」
矛先は俺に向けられていた。すごい剣幕で俺を睨み下ろす。
この男はいまの場面の何を仲がいい根拠としたのか。どうしてそんなにも怒っているのか。
「関係って言われても……そんなの……」
同級生、それが最も適切な表現だろうか。
しかしはっきり言って、俺と吉村さんはべつに友達でもないし、無関係という関係のほうがしっくりくるくらいだ。
「待って、お兄ちゃん。違うの、こいつは、その……。そう、私の子分よ!」
吉村さんが俺の返答を遮る形で、先生に遅刻の言い訳をする子供みたいに言い繕った。
「え、なんで⁉」
俺のその反発的な感嘆詞は、吉村さんの上からの平手打ちによって叩き消された。
「子分だと? この汚らしい小僧がぁ? 朱里、おまえは俺の愛すべき大切な妹だ。そんな妹にはもっとふさわしい子分を俺が用意してやる。だから勝手に子分なんか作るな。何よりも、どこの馬の骨とも知れない野郎が俺の愛する妹の近くにいるというだけで腹の虫が治まらん」
なるほど、この男はシスコンか。
俺が吉村さんと仲がよくても悪くても排除、もしくは制裁の対象だったというわけだ。
しかし、吉村さんの返答により救われた。なぜ吉村さんが俺をかばってくれたのかは分からないが。
いや、吉村さんは単に我が身を守ろうとしただけなのかもしれない。彼女の真意は不明だ。
「あの、俺、ちょっと急いでるんで」
時計を見れば、いまのやりとりで5分以上のロスをしていた。
俺は小走りで白長ランの横を通りすぎようとしたが、首根っこをグイッと掴まれて引き戻された。
「誰が行ってよしっつったよ。おまえは朱里に近づきすぎた罪で一発殴っておく!」
振り向きざまに大きくてゴツイ塊が俺の左頬に衝突した。
視界がグランと揺れたかと思ったら真っ白になり、上半身が落下する感覚を覚えた。
痛いという感覚よりも、自分の身体が大丈夫かという不安のほうが意識を独占した。
意識はあるが視界が白に染まったまま何も見えない。
「お兄ちゃん!」
「ほら、行くぞ、朱里。こんな奴に二度と近づくんじゃねーぞ。それとそこのおまえ、絶対に朱里には近づくなよ!」
べチャッ、と俺の殴られた左頬に唾らしき粘液が吐きつけられた。
俺はどうにか上体を起こすと、石垣に寄りかかり、視界が元に戻るまで待った。
動けるようになるまでに数分かかった。
消沈した俺がコンビニで姉のシトラス系ドリンクを買って帰ったら、着替えた姉が玄関で仁王立ちしていた。
ライトブルーのランニングシャツにパールブラックのショートパンツ。陸上選手みたいな姿だ。
怠惰とは対極的な状態の姉に、俺は驚愕、絶句、恐怖した。
「遅い!」
整列した白い歯がギリギリギリと左右に擦れる。
ここまで姉が怒っているのはいつ以来だろうか。姉は時間にうるさい。待たせすぎた。
もう諦めるしかない。もはや言い訳する気力も湧かない。
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