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第三章 吉村朱里
第13話
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俺は姉が苦手だ。
好きか嫌いかで問われれば、建前として「好きだ」と答えるだろう。
そのことを勘繰って、実際に俺が姉を好きだと思うことなどあるのか、もしそんなことを問う奴がいたならば、そいつはおそらく腹を割って話せる相手だと思われるので、「姉と二人きりのときに好きと思うことはまずない」と正直に答えるだろう。
「どんなときにお姉さんを好意的に見るの?」
例えば、そんな問いをそいつが俺に投げたとする。
すると、俺はこう答えるのだ。
「夜郎自大の天狗野郎なんかが姉によって鼻っ柱をへし折られる様を見たときには、俺も心内で薄ら笑いを浮かべたりする。そういうときだよ」
こういう回答を用意してはいるものの、俺がこれを使用する機会はまずこない。
なぜなら最初に述べたように、俺は常に姉のことは好きだと言っているからで、そこを疑う奴などいないのだ。
俺は常に姉の機嫌を取れる行動を選ぶようにしている。
姉は決して敵に回してはいけない存在だから。
それが染紅華絵。
それなのに、吉村朱里。
こいつときたら、よりにもよって姉がいるときに絡んできやがった。
「染紅隼人! その女、誰?」
休日にして昼下がりのおやつの時間、俺と姉は喫茶店で、それほど渇いているわけでもない喉を潤していた。
今日は姉の機嫌がよかったのだ。それは開放的なパールピンクのワンピースを着ていることからも分かる。
今日、姉は「奢るから」と言って俺を連れ出した。
姉の機嫌を損ねたくない俺は当然ながらそれに従う。
幸い俺に用事はなかったが、あったとしてもキャンセルしていただろう。
しかしながらその甲斐もなく、姉の目つきが一瞬でシャープになった。
吉村朱里、まさかこいつは週末ごとに俺に不幸を運んでくる気か?
俺に火の粉がふりかかりませんように。
「俺の姉だよ」
俺と姉は壁に隣接した四人テーブルの壁側で向かい合って座っていた。
吉村さんはドカッと俺の隣に腰を落とし、姉の隣には見知らぬ少年が椅子に飛び乗るように座った。
今日の吉村さんは珍しく挑発的な格好をしていた。
胸元の開いた白のVネックセーターに、白いフリルのついた黒のミニスカート。ついでに赤と黒の縞々ニーソックス。
彼女はセーターを着ているが、念のために言っておくと、いまは夏だ。
「隼人、この人たちは?」
「クラスメイト……じゃなかった。同級生の吉村さんだよ。吉村さん、この子は?」
俺は姉の隣に座った黒髪の少年のことを指して尋ねた。
おそらくは小学生。
髪の色は違うが、吉村さんの弟だろうか。
立ち姿の記憶では白のTシャツに黒の短パン。靴下はくるぶしが顔を出す丈のものだが、色の取り合わせなど、なんとなく吉村さんと格好が似ていた。
「弟よ。見れば分かるでしょ」
分からないよ。
察しはつくけど、分からないよ。
「そうね。見れば分かるわ。一目瞭然。それなのに、あなたは私と隼人が姉弟だと分からなかったの?」
「わ、分かってたわよ!」
「あら、どうして私と隼人が姉弟だと分かったの?」
姉は意地悪な笑みを浮かべる。
しかも、抜かりなく俺の表情をうかがい、吉村さんが追い詰められることに対して、俺がどう感じるかを探っている。
俺にはさらさらその気はないのだが、くれぐれも吉村さんの肩を持つような表情が出ないよう気をつけることにした。
「え、そ、それは……秘密よ! じゃあ、あんたはどうやってあたしと健太が姉弟だと分かったの?」
そりゃあ、やっぱり服装で……。
「耳よ。耳の形は遺伝するから家族で似るの。耳の形は大きく七種に分類できるけれど、あなたもこの子も同じ四角耳をしているわ」
なるほど。ミステリー小説で探偵がよく使っているアレだ。
探偵並みの観察眼と洞察力、恐るべし。
だから姉は恐ろしい。
だから姉を敵に回してはならない。
あ、俺の服装が似ている云々っていうのは忘れてください。
「そ、そう、それよ! あたしも耳の形であんたが染紅隼人の姉だと判断したのよ」
「私の耳は髪で隠れているのに?」
きゅーぅ、と顔を赤くして縮こまる吉村さん。
ぐうの音も出ない様子。
変に意地を張る吉村さんの自業自得だが、さすがにかわいそうになってきた。
そのとき、少年が動いた。
「姉ちゃんをいじめんな、ババア!」
この餓鬼、姉の怖さも知らずに暴言を吐きおった。
なんなんだよ、こいつら。せっかく今日は姉の機嫌がよかったのに。なんで俺が真っ青にならなきゃならないんだよ。
「生意気。折るわよ」
出た! ヤバイやつ出た!
姉が吉村弟に顔を近づけ、脅迫する。その鋭い視線は本気を意味する。
「何をさ! 指の骨でも折るのか? 折ればいいさ。折ったら通報してやる」
「指なんかで済むわけがないでしょ。折るのはあんたのいちばん大事なものよ」
いちばん大事なもの。
心?
違う。心は結果的に折れると思うけれど、姉が折ろうとしているものはそれじゃない。
「いちばん大事なもの? なんだよ、言ってみろよ」
「よせ、やめとけって」
俺は小声で吉村弟に警告する。
しかし彼は止まらない。目を大きく見開いて、口を尖らせ、敵意を腹の底から出す。
「大事なものってアレだろ? 恥ずかしがらずに言ってみろよ、クソババア。折れるもんなら折ってみやがれってんだ。チクワがいつでも鉄パイプみたいに固いと思うなよ」
悪餓鬼のくせして妙にオブラートに包んでくるな、などと思ったが、吉村さんは彼の対面で首を傾げていた。吉村さんはチクワが何を意味するかを理解していない。
「なんでチクワなんか折るの?」
チクワが比喩だということにすら気づいていなかった。
やっぱり吉村さんはウブなのだ。
だからあのとき、うっかり俺の股間を握ってしまったために、妙に性への興味が沸いてしまった。知識はないが気になってしまう。むしろ知識がないからこそ気になってしまうのだろう。
卑猥で下品な言葉を最も口にしたい年頃の吉村弟があえてまわりくどい表現を使うのは、きっと吉村さんの耳を汚さないためだ。
あくまで憶測だが、妹を心底かわいがる吉村兄が、下品な言葉を吉村さんの耳に入れぬようにと弟に釘をさしているに相違ない。
遅まきながらウエイトレスが二人分の水を運んできた。
俺たちの間にしばらくの沈黙が流れたが、ウエイトレスが「ご注文が決まりましたらお呼びください」と言って下がると、姉が口を開いた。
「私が折ると言っているのは、チクワでも鉄パイプでもないわ。竹串よ」
出た出た出た! いちばんヤバイやつが出た! 竹串はヤバイ!
「はぁ? 竹串? なんだそりゃ。勝手に折れば?」
竹串。それだけ聞いても、普通はそういう反応になる。
吉村弟の最後の一言が手遅れでないことを祈り、俺が姉の真意を彼に教えてやる。
「お姉ちゃんを怒らせると、尿道に竹串を差し込まれるよ」
「え……?」
「え、じゃない。それを折るのよ」
吉村弟は完全に凍りついた。
顔面蒼白。歯をカチカチ言わせ、全身をガクガクとわななかせている。
きっと彼は想像していることだろう。
もし竹串を尿道に差し込まれて、さらにそれを折られたとしたら、竹のささくれが尿道の内壁に突き刺さることになる。ささくれた竹は手術でもしなければ取れなくなるかもしれない。
吉村弟は頭を垂れて無音のまま動かなくなった。
吉村弟、撃沈。
「さて、隼人。さっき彼女のことをクラスメイトと言い間違えたわね。それほど頻繁に会っているということよね? どういう関係なのかしら?」
なんだかこんな感じのやりとり、前にも経験したような気がする。
「あんたの弟は私の子分よ」
「だああああっ! なんでもないっ! ただの同級生だよ」
さすがに強気な吉村さんの言葉をかき消すことはできなかった。
吉村さんの声は低めだが、女子の声は俺よりは高い。高い声のほうがよく通る。
吉村さんは自分の弟が潰されたというのに、まだ俺の姉の恐ろしさを分かっていない。
俺のことを自分のものだと思っている姉に、その所有権を主張するような発言は厳禁だ。
吉村さん、タダじゃ済まないぞ。
「隼人、あんたの貞操を狙っている奴がいるらしいじゃない? それって、この娘よね?」
駄目だ。これは間違いなく梓ちゃんによるタレコミだ。名前までリークされているのは明白。もはやかばいようがない。
「テメー、姉ちゃんをたぶらかしたな⁉」
突然、吉村弟が息を吹き返した。
とっても怨嗟の念がこもった目つきで俺を睨んでいる。
「あいたっ」
俺の姉がポツリとつぶやいた。
俺の方を向いていた顔がカラクリ人形みたく横に90度回転し、それから下を向いた。
吉村弟の顔が「しまった」とつぶやいている。
吉村弟は俺の姉と視線が合わないようにうつむいた。
「私の脚を蹴ったわよね?」
姉は問い詰める。決してうやむやにしない。
「違う。当たっただけだもん。俺はあいつを蹴ろうとしたんだかんね!」
吉村弟は顎で俺を指した。
しかし、それもアウトだ。
「あなたはこの私の弟を蹴ろうとした。許せないことだわ。それともう一つ。私の脚を蹴っておいて謝罪の一つもないというのは、どういう了見かしら?」
「だって、わざとじゃないもん」
バシャァッ。
姉の手の甲がグラスを軽く叩き倒し、中の水が盛大にこぼれた。水がほんの一秒、あるいは二秒の間にテーブルの上を這い、端から流れ落ちて吉村弟の短パンにシミを作った。
「あははは! お漏らし!」
「テメー、くそアマ! ぶっ殺すぞ!」
「あぁ⁉」
姉がそのキツイ睨みを吉村弟の目から刺し込んだ。
吉村弟は震え上がり、再び血の気を失った。
姉の本気の睨みは、何度となく味わった俺でもいまだに慣れない。美人がその端整な顔を崩してまで表した憤怒は、一目見ただけで極限にあることを思い知らされる。
「ゴメン……ナサイ……」
蚊の鳴くような、幻聴かとも思える小さな声で、吉村弟はつぶやいた。
「許さないわ。でも、謝罪のごほうびにいい事を教えてあげる」
そう言って姉は吉村弟の耳に口を近づけ、ゴニョゴニョと何かを囁いた。
「うそ……」
吉村弟が放心した。
その時点で姉はもはや吉村弟に興味を失った様子だが、しかし彼女は抜かりなくトドメを刺す。
「ホント」
吉村弟は顔面蒼白のまま目に涙を浮かべ、怪我で死にかけた鹿みたいな足取りで、しかししだいに早足となって、唸りながら喫茶店を飛び出していった。
「お姉ちゃん、あの子になんて言ったの?」
「それはね、『成人するまでに100回くらいアレをすると、人って死ぬらしいよ』って教えてあげたのよ」
「アレって?」
「秘密」
なんとなく想像はつくが、俺の姉のことだから、アレの部分には俺の想像よりも恐ろしくなる内容が入るのかもしれない。
後味がいっそう悪くなるから、あまり考えないようにしよう。
吉村弟のあの絶望具合が姉の想定したものだったかは知らないが、姉は満足気に吉村弟を見送っていた。
姉は小学生にも容赦がない。
好きか嫌いかで問われれば、建前として「好きだ」と答えるだろう。
そのことを勘繰って、実際に俺が姉を好きだと思うことなどあるのか、もしそんなことを問う奴がいたならば、そいつはおそらく腹を割って話せる相手だと思われるので、「姉と二人きりのときに好きと思うことはまずない」と正直に答えるだろう。
「どんなときにお姉さんを好意的に見るの?」
例えば、そんな問いをそいつが俺に投げたとする。
すると、俺はこう答えるのだ。
「夜郎自大の天狗野郎なんかが姉によって鼻っ柱をへし折られる様を見たときには、俺も心内で薄ら笑いを浮かべたりする。そういうときだよ」
こういう回答を用意してはいるものの、俺がこれを使用する機会はまずこない。
なぜなら最初に述べたように、俺は常に姉のことは好きだと言っているからで、そこを疑う奴などいないのだ。
俺は常に姉の機嫌を取れる行動を選ぶようにしている。
姉は決して敵に回してはいけない存在だから。
それが染紅華絵。
それなのに、吉村朱里。
こいつときたら、よりにもよって姉がいるときに絡んできやがった。
「染紅隼人! その女、誰?」
休日にして昼下がりのおやつの時間、俺と姉は喫茶店で、それほど渇いているわけでもない喉を潤していた。
今日は姉の機嫌がよかったのだ。それは開放的なパールピンクのワンピースを着ていることからも分かる。
今日、姉は「奢るから」と言って俺を連れ出した。
姉の機嫌を損ねたくない俺は当然ながらそれに従う。
幸い俺に用事はなかったが、あったとしてもキャンセルしていただろう。
しかしながらその甲斐もなく、姉の目つきが一瞬でシャープになった。
吉村朱里、まさかこいつは週末ごとに俺に不幸を運んでくる気か?
俺に火の粉がふりかかりませんように。
「俺の姉だよ」
俺と姉は壁に隣接した四人テーブルの壁側で向かい合って座っていた。
吉村さんはドカッと俺の隣に腰を落とし、姉の隣には見知らぬ少年が椅子に飛び乗るように座った。
今日の吉村さんは珍しく挑発的な格好をしていた。
胸元の開いた白のVネックセーターに、白いフリルのついた黒のミニスカート。ついでに赤と黒の縞々ニーソックス。
彼女はセーターを着ているが、念のために言っておくと、いまは夏だ。
「隼人、この人たちは?」
「クラスメイト……じゃなかった。同級生の吉村さんだよ。吉村さん、この子は?」
俺は姉の隣に座った黒髪の少年のことを指して尋ねた。
おそらくは小学生。
髪の色は違うが、吉村さんの弟だろうか。
立ち姿の記憶では白のTシャツに黒の短パン。靴下はくるぶしが顔を出す丈のものだが、色の取り合わせなど、なんとなく吉村さんと格好が似ていた。
「弟よ。見れば分かるでしょ」
分からないよ。
察しはつくけど、分からないよ。
「そうね。見れば分かるわ。一目瞭然。それなのに、あなたは私と隼人が姉弟だと分からなかったの?」
「わ、分かってたわよ!」
「あら、どうして私と隼人が姉弟だと分かったの?」
姉は意地悪な笑みを浮かべる。
しかも、抜かりなく俺の表情をうかがい、吉村さんが追い詰められることに対して、俺がどう感じるかを探っている。
俺にはさらさらその気はないのだが、くれぐれも吉村さんの肩を持つような表情が出ないよう気をつけることにした。
「え、そ、それは……秘密よ! じゃあ、あんたはどうやってあたしと健太が姉弟だと分かったの?」
そりゃあ、やっぱり服装で……。
「耳よ。耳の形は遺伝するから家族で似るの。耳の形は大きく七種に分類できるけれど、あなたもこの子も同じ四角耳をしているわ」
なるほど。ミステリー小説で探偵がよく使っているアレだ。
探偵並みの観察眼と洞察力、恐るべし。
だから姉は恐ろしい。
だから姉を敵に回してはならない。
あ、俺の服装が似ている云々っていうのは忘れてください。
「そ、そう、それよ! あたしも耳の形であんたが染紅隼人の姉だと判断したのよ」
「私の耳は髪で隠れているのに?」
きゅーぅ、と顔を赤くして縮こまる吉村さん。
ぐうの音も出ない様子。
変に意地を張る吉村さんの自業自得だが、さすがにかわいそうになってきた。
そのとき、少年が動いた。
「姉ちゃんをいじめんな、ババア!」
この餓鬼、姉の怖さも知らずに暴言を吐きおった。
なんなんだよ、こいつら。せっかく今日は姉の機嫌がよかったのに。なんで俺が真っ青にならなきゃならないんだよ。
「生意気。折るわよ」
出た! ヤバイやつ出た!
姉が吉村弟に顔を近づけ、脅迫する。その鋭い視線は本気を意味する。
「何をさ! 指の骨でも折るのか? 折ればいいさ。折ったら通報してやる」
「指なんかで済むわけがないでしょ。折るのはあんたのいちばん大事なものよ」
いちばん大事なもの。
心?
違う。心は結果的に折れると思うけれど、姉が折ろうとしているものはそれじゃない。
「いちばん大事なもの? なんだよ、言ってみろよ」
「よせ、やめとけって」
俺は小声で吉村弟に警告する。
しかし彼は止まらない。目を大きく見開いて、口を尖らせ、敵意を腹の底から出す。
「大事なものってアレだろ? 恥ずかしがらずに言ってみろよ、クソババア。折れるもんなら折ってみやがれってんだ。チクワがいつでも鉄パイプみたいに固いと思うなよ」
悪餓鬼のくせして妙にオブラートに包んでくるな、などと思ったが、吉村さんは彼の対面で首を傾げていた。吉村さんはチクワが何を意味するかを理解していない。
「なんでチクワなんか折るの?」
チクワが比喩だということにすら気づいていなかった。
やっぱり吉村さんはウブなのだ。
だからあのとき、うっかり俺の股間を握ってしまったために、妙に性への興味が沸いてしまった。知識はないが気になってしまう。むしろ知識がないからこそ気になってしまうのだろう。
卑猥で下品な言葉を最も口にしたい年頃の吉村弟があえてまわりくどい表現を使うのは、きっと吉村さんの耳を汚さないためだ。
あくまで憶測だが、妹を心底かわいがる吉村兄が、下品な言葉を吉村さんの耳に入れぬようにと弟に釘をさしているに相違ない。
遅まきながらウエイトレスが二人分の水を運んできた。
俺たちの間にしばらくの沈黙が流れたが、ウエイトレスが「ご注文が決まりましたらお呼びください」と言って下がると、姉が口を開いた。
「私が折ると言っているのは、チクワでも鉄パイプでもないわ。竹串よ」
出た出た出た! いちばんヤバイやつが出た! 竹串はヤバイ!
「はぁ? 竹串? なんだそりゃ。勝手に折れば?」
竹串。それだけ聞いても、普通はそういう反応になる。
吉村弟の最後の一言が手遅れでないことを祈り、俺が姉の真意を彼に教えてやる。
「お姉ちゃんを怒らせると、尿道に竹串を差し込まれるよ」
「え……?」
「え、じゃない。それを折るのよ」
吉村弟は完全に凍りついた。
顔面蒼白。歯をカチカチ言わせ、全身をガクガクとわななかせている。
きっと彼は想像していることだろう。
もし竹串を尿道に差し込まれて、さらにそれを折られたとしたら、竹のささくれが尿道の内壁に突き刺さることになる。ささくれた竹は手術でもしなければ取れなくなるかもしれない。
吉村弟は頭を垂れて無音のまま動かなくなった。
吉村弟、撃沈。
「さて、隼人。さっき彼女のことをクラスメイトと言い間違えたわね。それほど頻繁に会っているということよね? どういう関係なのかしら?」
なんだかこんな感じのやりとり、前にも経験したような気がする。
「あんたの弟は私の子分よ」
「だああああっ! なんでもないっ! ただの同級生だよ」
さすがに強気な吉村さんの言葉をかき消すことはできなかった。
吉村さんの声は低めだが、女子の声は俺よりは高い。高い声のほうがよく通る。
吉村さんは自分の弟が潰されたというのに、まだ俺の姉の恐ろしさを分かっていない。
俺のことを自分のものだと思っている姉に、その所有権を主張するような発言は厳禁だ。
吉村さん、タダじゃ済まないぞ。
「隼人、あんたの貞操を狙っている奴がいるらしいじゃない? それって、この娘よね?」
駄目だ。これは間違いなく梓ちゃんによるタレコミだ。名前までリークされているのは明白。もはやかばいようがない。
「テメー、姉ちゃんをたぶらかしたな⁉」
突然、吉村弟が息を吹き返した。
とっても怨嗟の念がこもった目つきで俺を睨んでいる。
「あいたっ」
俺の姉がポツリとつぶやいた。
俺の方を向いていた顔がカラクリ人形みたく横に90度回転し、それから下を向いた。
吉村弟の顔が「しまった」とつぶやいている。
吉村弟は俺の姉と視線が合わないようにうつむいた。
「私の脚を蹴ったわよね?」
姉は問い詰める。決してうやむやにしない。
「違う。当たっただけだもん。俺はあいつを蹴ろうとしたんだかんね!」
吉村弟は顎で俺を指した。
しかし、それもアウトだ。
「あなたはこの私の弟を蹴ろうとした。許せないことだわ。それともう一つ。私の脚を蹴っておいて謝罪の一つもないというのは、どういう了見かしら?」
「だって、わざとじゃないもん」
バシャァッ。
姉の手の甲がグラスを軽く叩き倒し、中の水が盛大にこぼれた。水がほんの一秒、あるいは二秒の間にテーブルの上を這い、端から流れ落ちて吉村弟の短パンにシミを作った。
「あははは! お漏らし!」
「テメー、くそアマ! ぶっ殺すぞ!」
「あぁ⁉」
姉がそのキツイ睨みを吉村弟の目から刺し込んだ。
吉村弟は震え上がり、再び血の気を失った。
姉の本気の睨みは、何度となく味わった俺でもいまだに慣れない。美人がその端整な顔を崩してまで表した憤怒は、一目見ただけで極限にあることを思い知らされる。
「ゴメン……ナサイ……」
蚊の鳴くような、幻聴かとも思える小さな声で、吉村弟はつぶやいた。
「許さないわ。でも、謝罪のごほうびにいい事を教えてあげる」
そう言って姉は吉村弟の耳に口を近づけ、ゴニョゴニョと何かを囁いた。
「うそ……」
吉村弟が放心した。
その時点で姉はもはや吉村弟に興味を失った様子だが、しかし彼女は抜かりなくトドメを刺す。
「ホント」
吉村弟は顔面蒼白のまま目に涙を浮かべ、怪我で死にかけた鹿みたいな足取りで、しかししだいに早足となって、唸りながら喫茶店を飛び出していった。
「お姉ちゃん、あの子になんて言ったの?」
「それはね、『成人するまでに100回くらいアレをすると、人って死ぬらしいよ』って教えてあげたのよ」
「アレって?」
「秘密」
なんとなく想像はつくが、俺の姉のことだから、アレの部分には俺の想像よりも恐ろしくなる内容が入るのかもしれない。
後味がいっそう悪くなるから、あまり考えないようにしよう。
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