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第三章 吉村朱里
第16話
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ズボンが真っ白から真っ黒に変わり、下半身だけウエイターになった暴走族総長の吉村兄は、テーブル横に立ったまま姉を睨んでいる。
姉は自分の席で氷水ジョッキに右手を突っ込んだまま、吉村兄を睨み上げている。
俺は座ったまま、相も変わらずただ呆然としていた。
全員が硬直している。
空気が固まっている。
一触即発。
吉村兄、俺の姉、どちらが先に発言したとしても起爆剤になる。
ましてや俺なんかが口を挟む余地はない。
三人の誰も身動きが取れなくなっている。
いや、姉は動いた。
口を動かした。
ただし、それは起爆剤ではなく鎮静剤だった。
「吉村恵介、あなたのアキレス腱は知っているわ。妹の吉村朱里よ」
「あぁ? なに言ってんだ? そんなことより、さっきテメェー……」
「聞きなさい!」
「るっせぇ! テメ……」
「黙れっ! おまえの妹の脳味噌を汚すわよ!」
「…………」
姉の言葉で口に錠がかかったように、吉村兄が口を閉ざして自分の席へと戻る。
「隼人、こっちに来なさい」
俺は姉の命ずるままに、さっきまで朱里のいた姉の隣の席へと移動した。
吉村兄の視線が俺を追尾し、いまにも腕を掴まれそうだったが、俺は無事に移動を完了させることができた。
「汚すって?」
吉村兄の視線からは殺気が消えていた。
まだ目は吊りあがったままだが、その表情からは相手の真意を問い詰めるような、緊張した状態であることが感じられる。両腕をクロスさせてテーブルに寝かせ、背を丸めている。
「あなたが妹のことを溺愛していることは知っているわ。その潔癖性も含めてね。何に対して潔癖かというと、あなたは妹にいっさいの性的な知識を与えないようにしてきた。そこまでは私が調査した事実。ここからは私の推測。あなたがそうしたのは、妹に変な虫、つまり彼氏が付かないようにするため。あなたと妹の関係性から、あなたが妹に『彼氏なんか作るな。それは許さない』とすごめば、まあ、あの娘はあなたに従うでしょうけれど、でも当然ながら、あなたに秘密で恋人を作る可能性はある。だから、あなたは妹の交友関係もすべて自分が用意し、妹に異性に興味を抱かせないよう、性的な情報の遮断までおこなった」
吉村兄は黙っている。おそらく、姉の言っていることは図星だ。
しかし、姉の言った吉村兄の環境操作が本当だとして、そんなことが続くはずがない。
中学生時代のいまはまだしも、地元以外からも人が集まる高校に進学すれば、ガキ大将であったころの権力や暴走族としての権力の及び知れぬ、いわゆる管轄外の人間が大量に集まることになる。
そんな中で妹を潔癖に管理しようなど、絶対に不可能なことだ。
「それで?」
「取引をしましょう。私と隼人は、吉村朱里に対するあなたの工作に協力する。つまり、吉村朱里に異性に関する知識を与えないし、異性に関する興味を引くようなこともしない。その代わり、あなたやあなたの配下の者が、私たちにいっさい関わらないようにしなさい」
姉の命令口調に頬をヒクつかせる吉村兄。
彼は体重の寄り代を背もたれへと移した。両手はテーブルの下。
「なーにが取引だ。そんなものは必要ない。朱里を汚したらテメェーら捻り潰すぞ。調べたとか抜かしやがって、俺の力をぜんぜん分かってねーなぁ、あぁ?」
吉村兄は右肘をテーブルに着いて改めて身を乗り出し、姉に顔を近づけてガンを飛ばした。
上半身の忙しい人だ。
一方の姉は、さっきから口以外を動かしていない。
「いいえ、分かっていないのはあなたのほうよ。いまのところ、吉村朱里が興味を抱いているのは弟の隼人に対してだけ。吉村朱里はね、その抑えきれない好奇心を満たす糸口を、いつもこの隼人に見出しているの。つまり、私の一声でいつでもあなたの妹を汚すことができるのよ」
「そんなことはさせねぇよ。俺の息のかかった奴が朱里の周りを固めているからな。それになぁ、そんなことをしたら、本当におまえらを殺すぞ」
また吉村兄、その丸まった背を背もたれに預けた。
「私はあの学校の卒業生でもあってね、当然ながら、問題を起こして転校させられ他校を卒業したあなたより、私の息のかかった生徒のほうが多いわ」
「はっ? おまえの?」
吉村兄は嘲笑とともに乗り出しかけた身を引いて、改めて背もたれに体重をかけた。
「いない、と思ってる? だったら妹さんに確かめてもらうといいわ。『おまえの周りに染紅華絵を知っている人はいるか?』とね。おそらく知らない人はいないし、きっと知っているだけではないわ」
たしかに俺の姉は有名人だ。
姉は広蒼中学に在学していたころ、生徒会長を務めていた。しかし、ただそれだけではない。
いまでも伝説となっているが、彼女の仕切っていた生徒会は数々の改革を成し遂げた。
例えば、指定通学鞄の自由化。これは貧しい家庭の生徒や保護者にはもちろん、多くの部活性にも喜ばれた。
それまでは部活道具を入れる大きな鞄のほかに、教科書を入れる指定鞄を持ってこなければならなかったためだ。
改革後、部活動具を入れる大鞄に教科書を入れて通学できるようになり、荷物がかさばらずに済むようになった。
染紅華絵はそういった偉業を数多く成し遂げている。
広蒼中学校の生徒会長には、立候補者がさまざまな公約を掲げたマニフェストを宣伝し、生徒たちに認められて投票された者がなることができる。
だが、実際にその公約を果たせる生徒会長などほとんどいない。
それはべつに生徒会長が怠惰なわけではない。
特に学校の校風や規律に関する事項については、学校側、つまり大人である先生方に言いくるめられて、否決、説得されるのだ。
もちろん、説明は先生から全校生徒に対して為されるが、生徒会長になるほどの者が丸め込まれるのに、ほかの生徒でそれを覆せる者などそうはいない。
中学生の知恵ではそんなものだ。
仮に叡智の者がいたとしても、それは内申を気にする優等生さんだったり、面倒臭がりの天才君だったりする。
そこに現れたのが俺の姉、染紅華絵である。
彼女が成した偉業は規律改革に留まらず、文武両部活動の支援、体育祭や文化祭の企画主導権奪取にまで至る。
彼女のおかげで、生徒たちはより自分たちの望む学生生活を満喫することができるようになった。
そういう彼女は、学校からすればいろいろとかき回してくれる厄介者であるが、しかし先生各個人からの人望は厚い。
「私は隼人やあなたの妹さんとは一年間だけ学舎をともにして卒業したけれど、隼人の先輩の代は私の後輩にあたるわけで、特に委員会役員や部活動のキャプテンたちは、私の一声で思うままに動くわ。つまり、学校全体がもはや私の手駒だということよ」
恐ろしいことだ。ああ、恐ろしい。
あ、もしかしてお姉ちゃん、そのために生徒会長を頑張ったんじゃ……。
吉村兄は動揺している。目の焦点が揺れているし、乾いた唇を舐めたりもしている。
だが、姉の言葉を鵜呑みにはしていない。あまり信じていない様子だ。目の光はまだ死んでいないし、口元も怒っている人らしく「へ」の字形をしている。
吉村兄はまだ強気に出てくる。
「仮に学校がおまえのもんだとして、それがどうした? 俺の配下にバイクで乗り込ませて学校を踏み荒らすことだってできんだぞ」
その言葉では姉は動じない。
話しはじめのころに比べると、いつの間にか驚くほど穏やかな表情をしているが、その瞳には鋭い光が潜んでいる。
その姉の表情は、捕食者の捕食前のそれである。
ハンティング前に茂みに身を潜めるチーターのような、蠅を舌で絡め取るタイミングをうかがうカメレオンのような、蚊を仕留めようと自分の腕に手の影を落とす人間のような。
「あなた、暴走族の総長よね? でも、今日は配下を呼んでいないのね。私はあなたがこの喫茶店の客として配下を大勢潜り込ませているのではないかと警戒していたのよ。あなたがパエリアを叩き返されても誰も助けに来なかった時点まではね」
え、マジか!
周りの客全員が吉村兄の手下だったら、なんて思うと、思わず身震いしてしまう。想定していたからには、姉はきちんと対策を用意していたのだろうが。
「おまえらごときにいちいち呼ぶかよ、そんなもん」
「あら、私たちごときでもいちいち呼べるのが絶対権力者というものではないのかしら。本当は配下を呼んで力を見せつけて脅したい、あるいはもしかしたら、リンチしたいとまで思っていたかもしれないけれど、あなたが配下を呼ばなかった理由は、下品な輩を妹に近づけたくなかったからではないかしら? 知っているのよ。あなたが釘を刺していたにもかかわらず、あなたの妹に下品な言葉を聞かせた人がいたってことを」
「そいつはシメた。もうその心配はない。って、おい。なんでそんなことまで知ってんだ!」
「あなたの配下に私の息のかかった者がいるからよ」
「なんだと⁉ そいつは誰だ!」
「言うわけないじゃない」
「言わねーと……」
「お黙り! あなた、まだ立場が分かっていないようね。私はあなたの大切な妹を性の知識でいくらでも汚せるのよ。隼人からだけじゃない。朱里の先輩や、あなたの配下に潜んだ私の手先によってもね」
吉村兄の手が姉に伸びた。
ついに、何も考えず力で捻じ伏せるという最悪の手段に出た。
しかし、俺には吉村兄の腕の動きがスローに見えた。それは、姉の手さばきがあまりにも素早く華麗だったからだ。
瞬きをパチパチッと素早く二、三回していたら、すでに吉村兄がテーブルの上に押さえつけられていた。
「いてててててっ! 折れるっ、折れるーっ!」
姉の左手が吉村兄の右手首を捻り、姉の右手が吉村兄の右肘を掴み、グイグイと手前に引いている。
吉村兄は頬をテーブルに擦りつける格好を強いられている。
「あと、わざわざ自分で言いたくないけれど、私自身も強いのよ」
姉は強い。
合気道、柔道、空手を嗜んでいる。
基礎を父に習って以降は独学だが、俺という実験台があったために、それらの技は本物と比べて遜色ないレベルにまできちんと仕上がっている。
独学なので、ときおり姉が独自に開発した技が混じる。
素人の開発というと程度の知れたものだと思われるかもしれないが、それは武道の範疇を越えた武器・凶器となる代物だから使われないだけであり、それがなかなかに強力だったりする。
つまり、姉はファイターというよりコマンダーに近い。
おっと、さすがにそれは言いすぎか。
姉でも相手が本物の武道家ならば敵わないらしい。
「おまえなんか、大勢で……」
「私が本気を出せば、その大勢を解体することだってできるのよ。仲間割れによる解散か、警察による一斉検挙か、それとも配下の下克上がいい? 本当はあなたを一方的に脅してもいいのだけれど、譲歩をして取引にしてあげているのよ。なぜそんな譲歩をしているかというと、あなたの妹を盾にしたことを悪いと思っているから。あなたに、ではないのよ。あなたの妹の朱里に悪いと思っているの。あなたは脅しなんて無視して自滅するようなタイプだから、あなたの失脚後、あなたに恨みを持つ者の恨みのはけ口はあなたの妹になる。あなたの妹の顔に火傷を負わせたのはあなただけれど、私にも少しだけ非があるから、贖罪としてあなたの妹に危害が及ばないよう配慮した選択を取っているわけ。早口で言ったけれど、おわかりかしら?」
「分かった……」
吉村兄は意気消沈していた。表情には殺意どころか怒気もない。
まくし立てる姉の勢いに呑まれたというよりは、姉が口にした妹のことで思うところがあったという感じだった。
吉村兄も妹に危害が及ぶのは絶対に避けたいところだろう。なんせ彼は妹を溺愛しているのだから。
もっとも、いまの吉村朱里が兄に対してどんな感情を抱き、どんな態度を取るかは分からないが。
「そう、分かったのね? つまり、取引に応じるということでいいわね?」
「ああ、そうだ」
「念のために言っておくけど、『私たち』というのは、私と、私の友達と、隼人と、隼人の友達と、私の家族のことよ。よろしいかしら?」
「ああ、よろしいよ」
姉に解放された吉村兄は、長躯を歪曲させてトボトボと帰っていった。
肩が下がって頭が力なく傾いていても、金色のリーゼントは立派にそびえている。
俺と姉は吉村兄が出ていって数分後に店を後にした。
「ねえ、なんであの人がパエリアを投げてくるって分かったの?」
帰り道、俺は姉に訊いた。
会合中はぜんぜん口を開いていない俺だが、訊きたいと思っていたことはたくさんある。
その中でも、まずはパエリアのこと。
あの攻防はすさまじかった、などと俺は勝手な余韻に浸っていた。
「パエリアでも顔に投げつけてやろうかしら、なーんて冗談混じりに考えていたところに、あいつがパエリアを注文してきたから、もしかしたら、と思ったのよ」
姉と発想が似ているなんて、吉村兄、俺が思っている以上に危険な人物なのかもしれない……なんてことを言ったら、俺は姉に殺されるんだろうな。
「お姉ちゃんの手下が暴走族に潜んでいるって、アレ、本当なの?」
「それはねぇ、秘密」
え、秘密って何? 俺に隠す必要あるの?
まあ、いいや。
「ねえ、もしあのとき、お客さんが全員暴走族だったら、お姉ちゃんはどうするつもりだったの?」
「それはあり得ないわ。少なくとも一人はね。客の中に私の用意したサクラが一人だけ混じっていたの。もし私たちが取り囲まれたら、そのサクラが警察に電話して、その後、時間稼ぎのためにそのサクラが『警察だ、そこを動くな!』と言ってモデルガンで威嚇する手はずになっていたわ。ちゃんと銃声の鳴るやつ」
姉がちょっとお茶目に笑う。
なるほど。ちゃんと対策は講じていたわけだ。
そういえば姉が俺にこういう無邪気な笑顔を見せるのって、ここ何年もなかった気がする。
二人とも小学生だったころは、俺も姉と二人でよく遊んだものだ。
遊びの内容は悪戯が多く、中には危険なものもあった。しかし姉は小さいころから用心深く、その危険はいつでも危険性止まりで、事件や事故になることはなかった。
姉の破天荒な遊びの発想に俺はいつも驚かされていたし、そんな俺の様子を見て姉は笑っていた。
美しいのに、怖くない笑顔。
そういえば、いまの俺は姉の笑顔の種類に関係なく、姉に対する親しみ、そんな感情を抱いている気がする。
今回の一件も元はといえば、俺が吉村兄に殴られ、その報復のためか、その後の俺の安否のためか、そういったことのために姉が動いてくれたものだった。
俺が姉の所有物だから、姉が怒った。
その一言で片付けるには、姉にしてはかなりリスキーな企図だったと思う。
この一件、万事うまくいったとしても、精神的に大きな疲労が残ることになったはずだ。
実際、姉は手に無視できない火傷を負ったし、そういう想定外も覚悟はしていただろう。想定できていたなら火傷は回避できたはずだ。
今回の一件はあの用心深い完璧主義者の姉が、想定外を覚悟してまで起こした行動ということになる。
いまの姉の笑顔は好きだ。
これは人が人に向ける笑顔だ。
こういう笑顔が怖い笑みに変わったのはいつごろだっただろう。
なぜ変わったのだろう。
あ、もしかしたら、姉を変えたのは俺自身だったのかもしれない……。
姉は自分の席で氷水ジョッキに右手を突っ込んだまま、吉村兄を睨み上げている。
俺は座ったまま、相も変わらずただ呆然としていた。
全員が硬直している。
空気が固まっている。
一触即発。
吉村兄、俺の姉、どちらが先に発言したとしても起爆剤になる。
ましてや俺なんかが口を挟む余地はない。
三人の誰も身動きが取れなくなっている。
いや、姉は動いた。
口を動かした。
ただし、それは起爆剤ではなく鎮静剤だった。
「吉村恵介、あなたのアキレス腱は知っているわ。妹の吉村朱里よ」
「あぁ? なに言ってんだ? そんなことより、さっきテメェー……」
「聞きなさい!」
「るっせぇ! テメ……」
「黙れっ! おまえの妹の脳味噌を汚すわよ!」
「…………」
姉の言葉で口に錠がかかったように、吉村兄が口を閉ざして自分の席へと戻る。
「隼人、こっちに来なさい」
俺は姉の命ずるままに、さっきまで朱里のいた姉の隣の席へと移動した。
吉村兄の視線が俺を追尾し、いまにも腕を掴まれそうだったが、俺は無事に移動を完了させることができた。
「汚すって?」
吉村兄の視線からは殺気が消えていた。
まだ目は吊りあがったままだが、その表情からは相手の真意を問い詰めるような、緊張した状態であることが感じられる。両腕をクロスさせてテーブルに寝かせ、背を丸めている。
「あなたが妹のことを溺愛していることは知っているわ。その潔癖性も含めてね。何に対して潔癖かというと、あなたは妹にいっさいの性的な知識を与えないようにしてきた。そこまでは私が調査した事実。ここからは私の推測。あなたがそうしたのは、妹に変な虫、つまり彼氏が付かないようにするため。あなたと妹の関係性から、あなたが妹に『彼氏なんか作るな。それは許さない』とすごめば、まあ、あの娘はあなたに従うでしょうけれど、でも当然ながら、あなたに秘密で恋人を作る可能性はある。だから、あなたは妹の交友関係もすべて自分が用意し、妹に異性に興味を抱かせないよう、性的な情報の遮断までおこなった」
吉村兄は黙っている。おそらく、姉の言っていることは図星だ。
しかし、姉の言った吉村兄の環境操作が本当だとして、そんなことが続くはずがない。
中学生時代のいまはまだしも、地元以外からも人が集まる高校に進学すれば、ガキ大将であったころの権力や暴走族としての権力の及び知れぬ、いわゆる管轄外の人間が大量に集まることになる。
そんな中で妹を潔癖に管理しようなど、絶対に不可能なことだ。
「それで?」
「取引をしましょう。私と隼人は、吉村朱里に対するあなたの工作に協力する。つまり、吉村朱里に異性に関する知識を与えないし、異性に関する興味を引くようなこともしない。その代わり、あなたやあなたの配下の者が、私たちにいっさい関わらないようにしなさい」
姉の命令口調に頬をヒクつかせる吉村兄。
彼は体重の寄り代を背もたれへと移した。両手はテーブルの下。
「なーにが取引だ。そんなものは必要ない。朱里を汚したらテメェーら捻り潰すぞ。調べたとか抜かしやがって、俺の力をぜんぜん分かってねーなぁ、あぁ?」
吉村兄は右肘をテーブルに着いて改めて身を乗り出し、姉に顔を近づけてガンを飛ばした。
上半身の忙しい人だ。
一方の姉は、さっきから口以外を動かしていない。
「いいえ、分かっていないのはあなたのほうよ。いまのところ、吉村朱里が興味を抱いているのは弟の隼人に対してだけ。吉村朱里はね、その抑えきれない好奇心を満たす糸口を、いつもこの隼人に見出しているの。つまり、私の一声でいつでもあなたの妹を汚すことができるのよ」
「そんなことはさせねぇよ。俺の息のかかった奴が朱里の周りを固めているからな。それになぁ、そんなことをしたら、本当におまえらを殺すぞ」
また吉村兄、その丸まった背を背もたれに預けた。
「私はあの学校の卒業生でもあってね、当然ながら、問題を起こして転校させられ他校を卒業したあなたより、私の息のかかった生徒のほうが多いわ」
「はっ? おまえの?」
吉村兄は嘲笑とともに乗り出しかけた身を引いて、改めて背もたれに体重をかけた。
「いない、と思ってる? だったら妹さんに確かめてもらうといいわ。『おまえの周りに染紅華絵を知っている人はいるか?』とね。おそらく知らない人はいないし、きっと知っているだけではないわ」
たしかに俺の姉は有名人だ。
姉は広蒼中学に在学していたころ、生徒会長を務めていた。しかし、ただそれだけではない。
いまでも伝説となっているが、彼女の仕切っていた生徒会は数々の改革を成し遂げた。
例えば、指定通学鞄の自由化。これは貧しい家庭の生徒や保護者にはもちろん、多くの部活性にも喜ばれた。
それまでは部活道具を入れる大きな鞄のほかに、教科書を入れる指定鞄を持ってこなければならなかったためだ。
改革後、部活動具を入れる大鞄に教科書を入れて通学できるようになり、荷物がかさばらずに済むようになった。
染紅華絵はそういった偉業を数多く成し遂げている。
広蒼中学校の生徒会長には、立候補者がさまざまな公約を掲げたマニフェストを宣伝し、生徒たちに認められて投票された者がなることができる。
だが、実際にその公約を果たせる生徒会長などほとんどいない。
それはべつに生徒会長が怠惰なわけではない。
特に学校の校風や規律に関する事項については、学校側、つまり大人である先生方に言いくるめられて、否決、説得されるのだ。
もちろん、説明は先生から全校生徒に対して為されるが、生徒会長になるほどの者が丸め込まれるのに、ほかの生徒でそれを覆せる者などそうはいない。
中学生の知恵ではそんなものだ。
仮に叡智の者がいたとしても、それは内申を気にする優等生さんだったり、面倒臭がりの天才君だったりする。
そこに現れたのが俺の姉、染紅華絵である。
彼女が成した偉業は規律改革に留まらず、文武両部活動の支援、体育祭や文化祭の企画主導権奪取にまで至る。
彼女のおかげで、生徒たちはより自分たちの望む学生生活を満喫することができるようになった。
そういう彼女は、学校からすればいろいろとかき回してくれる厄介者であるが、しかし先生各個人からの人望は厚い。
「私は隼人やあなたの妹さんとは一年間だけ学舎をともにして卒業したけれど、隼人の先輩の代は私の後輩にあたるわけで、特に委員会役員や部活動のキャプテンたちは、私の一声で思うままに動くわ。つまり、学校全体がもはや私の手駒だということよ」
恐ろしいことだ。ああ、恐ろしい。
あ、もしかしてお姉ちゃん、そのために生徒会長を頑張ったんじゃ……。
吉村兄は動揺している。目の焦点が揺れているし、乾いた唇を舐めたりもしている。
だが、姉の言葉を鵜呑みにはしていない。あまり信じていない様子だ。目の光はまだ死んでいないし、口元も怒っている人らしく「へ」の字形をしている。
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「仮に学校がおまえのもんだとして、それがどうした? 俺の配下にバイクで乗り込ませて学校を踏み荒らすことだってできんだぞ」
その言葉では姉は動じない。
話しはじめのころに比べると、いつの間にか驚くほど穏やかな表情をしているが、その瞳には鋭い光が潜んでいる。
その姉の表情は、捕食者の捕食前のそれである。
ハンティング前に茂みに身を潜めるチーターのような、蠅を舌で絡め取るタイミングをうかがうカメレオンのような、蚊を仕留めようと自分の腕に手の影を落とす人間のような。
「あなた、暴走族の総長よね? でも、今日は配下を呼んでいないのね。私はあなたがこの喫茶店の客として配下を大勢潜り込ませているのではないかと警戒していたのよ。あなたがパエリアを叩き返されても誰も助けに来なかった時点まではね」
え、マジか!
周りの客全員が吉村兄の手下だったら、なんて思うと、思わず身震いしてしまう。想定していたからには、姉はきちんと対策を用意していたのだろうが。
「おまえらごときにいちいち呼ぶかよ、そんなもん」
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「そいつはシメた。もうその心配はない。って、おい。なんでそんなことまで知ってんだ!」
「あなたの配下に私の息のかかった者がいるからよ」
「なんだと⁉ そいつは誰だ!」
「言うわけないじゃない」
「言わねーと……」
「お黙り! あなた、まだ立場が分かっていないようね。私はあなたの大切な妹を性の知識でいくらでも汚せるのよ。隼人からだけじゃない。朱里の先輩や、あなたの配下に潜んだ私の手先によってもね」
吉村兄の手が姉に伸びた。
ついに、何も考えず力で捻じ伏せるという最悪の手段に出た。
しかし、俺には吉村兄の腕の動きがスローに見えた。それは、姉の手さばきがあまりにも素早く華麗だったからだ。
瞬きをパチパチッと素早く二、三回していたら、すでに吉村兄がテーブルの上に押さえつけられていた。
「いてててててっ! 折れるっ、折れるーっ!」
姉の左手が吉村兄の右手首を捻り、姉の右手が吉村兄の右肘を掴み、グイグイと手前に引いている。
吉村兄は頬をテーブルに擦りつける格好を強いられている。
「あと、わざわざ自分で言いたくないけれど、私自身も強いのよ」
姉は強い。
合気道、柔道、空手を嗜んでいる。
基礎を父に習って以降は独学だが、俺という実験台があったために、それらの技は本物と比べて遜色ないレベルにまできちんと仕上がっている。
独学なので、ときおり姉が独自に開発した技が混じる。
素人の開発というと程度の知れたものだと思われるかもしれないが、それは武道の範疇を越えた武器・凶器となる代物だから使われないだけであり、それがなかなかに強力だったりする。
つまり、姉はファイターというよりコマンダーに近い。
おっと、さすがにそれは言いすぎか。
姉でも相手が本物の武道家ならば敵わないらしい。
「おまえなんか、大勢で……」
「私が本気を出せば、その大勢を解体することだってできるのよ。仲間割れによる解散か、警察による一斉検挙か、それとも配下の下克上がいい? 本当はあなたを一方的に脅してもいいのだけれど、譲歩をして取引にしてあげているのよ。なぜそんな譲歩をしているかというと、あなたの妹を盾にしたことを悪いと思っているから。あなたに、ではないのよ。あなたの妹の朱里に悪いと思っているの。あなたは脅しなんて無視して自滅するようなタイプだから、あなたの失脚後、あなたに恨みを持つ者の恨みのはけ口はあなたの妹になる。あなたの妹の顔に火傷を負わせたのはあなただけれど、私にも少しだけ非があるから、贖罪としてあなたの妹に危害が及ばないよう配慮した選択を取っているわけ。早口で言ったけれど、おわかりかしら?」
「分かった……」
吉村兄は意気消沈していた。表情には殺意どころか怒気もない。
まくし立てる姉の勢いに呑まれたというよりは、姉が口にした妹のことで思うところがあったという感じだった。
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もっとも、いまの吉村朱里が兄に対してどんな感情を抱き、どんな態度を取るかは分からないが。
「そう、分かったのね? つまり、取引に応じるということでいいわね?」
「ああ、そうだ」
「念のために言っておくけど、『私たち』というのは、私と、私の友達と、隼人と、隼人の友達と、私の家族のことよ。よろしいかしら?」
「ああ、よろしいよ」
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帰り道、俺は姉に訊いた。
会合中はぜんぜん口を開いていない俺だが、訊きたいと思っていたことはたくさんある。
その中でも、まずはパエリアのこと。
あの攻防はすさまじかった、などと俺は勝手な余韻に浸っていた。
「パエリアでも顔に投げつけてやろうかしら、なーんて冗談混じりに考えていたところに、あいつがパエリアを注文してきたから、もしかしたら、と思ったのよ」
姉と発想が似ているなんて、吉村兄、俺が思っている以上に危険な人物なのかもしれない……なんてことを言ったら、俺は姉に殺されるんだろうな。
「お姉ちゃんの手下が暴走族に潜んでいるって、アレ、本当なの?」
「それはねぇ、秘密」
え、秘密って何? 俺に隠す必要あるの?
まあ、いいや。
「ねえ、もしあのとき、お客さんが全員暴走族だったら、お姉ちゃんはどうするつもりだったの?」
「それはあり得ないわ。少なくとも一人はね。客の中に私の用意したサクラが一人だけ混じっていたの。もし私たちが取り囲まれたら、そのサクラが警察に電話して、その後、時間稼ぎのためにそのサクラが『警察だ、そこを動くな!』と言ってモデルガンで威嚇する手はずになっていたわ。ちゃんと銃声の鳴るやつ」
姉がちょっとお茶目に笑う。
なるほど。ちゃんと対策は講じていたわけだ。
そういえば姉が俺にこういう無邪気な笑顔を見せるのって、ここ何年もなかった気がする。
二人とも小学生だったころは、俺も姉と二人でよく遊んだものだ。
遊びの内容は悪戯が多く、中には危険なものもあった。しかし姉は小さいころから用心深く、その危険はいつでも危険性止まりで、事件や事故になることはなかった。
姉の破天荒な遊びの発想に俺はいつも驚かされていたし、そんな俺の様子を見て姉は笑っていた。
美しいのに、怖くない笑顔。
そういえば、いまの俺は姉の笑顔の種類に関係なく、姉に対する親しみ、そんな感情を抱いている気がする。
今回の一件も元はといえば、俺が吉村兄に殴られ、その報復のためか、その後の俺の安否のためか、そういったことのために姉が動いてくれたものだった。
俺が姉の所有物だから、姉が怒った。
その一言で片付けるには、姉にしてはかなりリスキーな企図だったと思う。
この一件、万事うまくいったとしても、精神的に大きな疲労が残ることになったはずだ。
実際、姉は手に無視できない火傷を負ったし、そういう想定外も覚悟はしていただろう。想定できていたなら火傷は回避できたはずだ。
今回の一件はあの用心深い完璧主義者の姉が、想定外を覚悟してまで起こした行動ということになる。
いまの姉の笑顔は好きだ。
これは人が人に向ける笑顔だ。
こういう笑顔が怖い笑みに変わったのはいつごろだっただろう。
なぜ変わったのだろう。
あ、もしかしたら、姉を変えたのは俺自身だったのかもしれない……。
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