やめてよ、お姉ちゃん!

日和崎よしな

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第三章 吉村朱里

第17話

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 後日、俺は学校で吉村さんと話をした。

 初めて俺のほうから吉村さんに会いに行ったが、吉村さんは一週間ほど学校を休んだため、再会できたのはあの日から二回目の月曜日を迎えた日だった。

「吉村さん、あれからどうなったの? 火傷やけどは大丈夫だった?」

「あたしのこといてんの?」

 吉村さんはそっぽを向いていた。
 俺と視線を合わせない。
 視線どころか、まったくこっちを見ない。
 話しづらいなぁ、と思いながらめげずに話を続ける。

「ほかに誰のことを訊くのさ」

「わっかりにくいなぁ、もう! 兄貴のことかもしれないじゃん! あたしのことを言ってんのなら、朱里しゅりって、ちゃんと名前で呼べよ」

「ああ、ごめんごめん」

 朱里はだいぶ不機嫌だった。
 元々ヤンキーの振る舞いだったことを差し引いても、この態度には確かな不機嫌が表れている。
 顔をよそに向けて金色のウェーブで隠しているし、腕は組んでいるし、脚は組んでいるし、人差し指が二の腕を小刻みに叩いている。一瞬こちらを見ても、すねたようにすぐ視線を逸らす。最初は大きい声が、ガスの切れたスプレーのように尻すぼみに小さくなる。

 俺は気を使いながら朱里からあの後の話を聞きだした。

 朱里は顔に軽い火傷を負った。
 回復したいまでも少しだけほおに跡が残っているが、これもそのうち消えるだろう。
 朱里の火傷が軽くて済んだのは、姉がすぐに対処したからだった。

 姉はパエリアを殴り返したときに手の甲を火傷したし、朱里の顔を素手でぬぐったときに手のひらを火傷した。姉の火傷は朱里のそれより重度で、あれから一週間以上が経ったいまでも、まだ手に包帯を巻いている。
 あの姉が自分よりも他人を優先させたのだ。

「女の子の顔だもの」

 姉はそう言っていた。

「だったら吉村さんを盾にしなければよかったのに」

 自分では核心を突いている、と思って言った俺のその言葉には、こう返されて反論できなかった。

「直接手で受けとめても手では受けとめられる面積が小さくて、結局は指の隙間からはみ出た部分が飛び出して顔にかかってしまう。だから彼女の顔を借りたのよ。べつに必要な面積の盾を確保するためじゃない。吉村よしむら恵介けいすけが大切にしている妹を盾にすれば、彼が攻撃を踏みとどまると思ったの。でもあいつは頭に血が昇っていて、状況がちゃんと見えていなかったわ。熱いものを取り扱っているから、注意がそれ自体に集中していたっていうのもあるかしら。でも何より、まさか本当にアレを投げるとは思わなかったのよ」

 姉は常に最悪の事態も想定して動く。その事態の起こる可能性がどんなに低くても、だ。
 しかし今回は事態が性急せいきゅうすぎて好ましい対処法が取れなかったようだ。

 朱里は自分が退場した後のことについて兄から聞いていたようだが、兄の言葉に嘘がないか確認するために、俺にもそのことについて訊いてきた。俺は朱里が退場した後のことと、吉村兄が退場した後の俺と姉の会話内容についても少し教えてやった。

 朱里は姉の真意を聞くと、押し黙ってしまった。

 姉が自分の手の火傷を悪化させてまで朱里の顔を優先させて対処したこと。それを聞いて朱里にも思うところがあったのかもしれない。
 そうだといいのだが、などと思う俺がいた。

「で、朱里ちゃんのほうはどうなの?」

「あ? 何が?」

「お兄さんとのこととか」

 朱里は終始ヘソを曲げたような態度を取っているわりに、俺の訊いたことに素直に答えてくれた。
 朱里によると、吉村兄は病院から帰った彼女に頭を下げて謝罪したそうだ。
 それ以来、兄は妹に対しては高圧的ではなくなったらしい。
 もっとも、相変わらず暴走族はやっているし、妹への溺愛できあいぶりも健在のようだ。

 そんな兄に対して朱里がどうしたかというと、パエリアの一件は朱里が兄弟喧嘩の範疇はんちゅうだとして収めたため、警察沙汰にはならなかった。
 兄が自分に頭を下げて謝罪したことが不気味だったらしく、許さなければ逆に怖いから、ということだった。

 当然ながら主犯である兄を不問としたのだから、過失犯である染紅しぐれ華絵かえも不問である。
 もっとも、朱里は姉に関してはすでにこころよく許しているらしい。
 それはあの迅速な対応だけのためではない。姉は高級チョコレートを持参して見舞いを兼ねた謝罪に朱里を訪れ、しかもあの姉が朱里に頭を下げたのだという。

 そういうわけで、彼女は怒りをどこにもぶつけずに終わった。
 いまの不機嫌は発散されずに残った怒りが彼女の中でたむろしているためだろう。
 今日の彼女は舌打ちや歯軋はぎしりが多い。

「朱里ちゃん、やっぱりまだ怒っているの?」

「べつに」

「でも、そのわりにいろいろと教えてくれるんだね」

「そうね。じゃあ、あんたもいろいろと教えてよ」

 朱里が初めて俺と視線を合わせた。
 組んでいた腕や脚を解き、身体も顔もこちらへと向けている。
 何がきっかけになったのか分からないが、不機嫌が解消されつつある。

「ああ、いいよ」

「じゃあ、とりあえず、見せて」

 出た。
 これって、俺が菊市と話していたときに言っていたことだよな?

「ねえ、ずっと気になっていたんだけど、いったい何を見せてって言っているの?」

「下半身」

 まさか、どこぞの誰かさんが言っていたとおりだったとは。

「下半身って、……生の?」

「生下半身」

 そんな言葉、初めて聞いたよ。

「それは無理。俺のは無理だよ。お兄さんとの取引で、俺とお姉ちゃんは絶対に朱里ちゃんにそういう知識を与えないって約束しているから」

「じゃあ、向こうでズボンとパンツ下ろしてつっ立っているだけでいい。私が勝手に見に行くから」

 向こうって……、普通に人いるじゃん!

「嫌だよ。そんなことできるか! ねえ、どうしても見たいなら、うちのクラスの菊市に見せてもらえば? あいつ、君に下半身を見せたがっていたよ」

 さすがに気持ち悪がるかと思ったが、そんなことはなかった。彼女の好奇心は本物だった。

「いや、それじゃ意味がない。あいつのは触ってないもん。あたしはね、あたしが実際に触ったあんたのを見たいの」

「じゃあ菊市に見せてもらって、触らせてもらえばいいんじゃなアガゥッ!」

 殴られた。
 顔を殴られた。

「バカじゃないの⁉ そんな恥ずかしいこと、できるわけないでしょ!」

 あっれー……。
 そこは常識人なの?
 彼女の中の常識と非常識の境界が分からないよ。
 いったい彼女はどこで好奇心と羞恥心しゅうちしんの線引きをしているんだ?
 アレか? 触るかどうかなのか?
 でも接吻はしてきたよな?
 ああ、もう、分からん!

 ん? でも、彼女の思考基準って、べつに俺が分かる必要なくない?

染紅しぐれ隼人はやと、こうなったら、いつか力ずくでも見てやるからね!」

 やっぱり必要そうだ。
 何をされるのか警戒しなければならない。

 それは単に俺がはずかしめを受けることを危惧きぐしているわけではなく、吉村兄との取引を守るためだ。
 俺のためと朱里のため、吉村兄と取引してくれた姉のためでもある。

「はいはい。受けて立とうじゃないの。そのときはお姉ちゃんも相手取ることになるから、覚悟してね」

姐御あねごっスか。それは心してかからねばっスね」

 あ、若干敬語になった。
 しかも姐御って……。
 お姉ちゃん、姐御になっちゃったよ。

 ああ、また妙な人間関係が生まれてしまった……。
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