14 / 31
14話 裂けはじめた真実の愛
14話 裂けはじめた真実の愛
王宮の空気は、晩餐会の翌日になっても重かった。
大きな騒ぎにはならなかった。
誰かが声を荒らげたわけでもない。途中で席を立った客もいない。表向きは、王家の主催する晩餐会は恙なく終わったことになっている。
けれど、だからこそ厄介だった。
貴族たちは失礼をその場で指摘しない。
その代わり、帰った先で正確に覚えている。料理の順番が不自然だったことも、会話の流れが噛み合わなかったことも、主賓格の夫人が微妙な席に置かれていたことも、すべて。
そして一晩あれば、それらは“王家の最近の質の低下”として静かに形を持ち始める。
レオニード第一王太子は、朝から機嫌が悪かった。
自室の机に肘をつき、昨夜の晩餐会の記録を乱暴に閉じる。
「くだらない」
吐き捨てるように言ったが、その声には苛立ちだけでなく焦りも混じっていた。
くだらないはずなのだ。
誰も公然と王家を責めてはいない。表立った抗議もない。つまり、大した問題ではない――そう思いたい。
だが実際には、侍従たちの報告の端々に、はっきりと“不満”が滲んでいた。
にこやかに帰った夫人たちが、その後の馬車の中ではひどく冷ややかなことを言っていたとか。給仕の乱れが複数の家で話題になっているとか。王妃主催の茶会と比べて、あまりにも場が整っていなかったとか。
どれも小さい。
だが、小さいからこそ腹立たしい。
大騒ぎになる失態なら、怒鳴って抑え込むこともできる。だが、こういう“微妙にだらしない”失点は、消しようがない。
「殿下」
侍従が控えめに声をかける。
「何だ」
「本日の予定ですが、王妃殿下より後ほどお時間を頂きたいとのことです」
王妃。
レオニードは目を細める。
昨夜の晩餐会の後から、母の空気が明らかに冷えているのを感じていた。怒鳴るでもなく、ため息をつくでもなく、ただ静かに見ている。
あの静けさが、かえって気に障る。
「わかった」
短く答えると、侍従は一礼して下がった。
その背中を見送る間にも、レオニードの胸の中では別の苛立ちが膨らんでいた。
原因ははっきりしている。
シェリルだ。
あの娘が、余計なところで口を出しすぎた。
花の配置だの、席の見え方だの、客の扱い方だの。しかも本人は善意のつもりでいるから始末が悪い。
可憐で、か弱く、守ってやりたくなる。そう思わせる女だった。
少なくとも最初は。
けれど最近は、その“守ってやりたくなる”が、ひどく手間のかかるものに見え始めている。
そこへ、扉の外から華やかな声がした。
「レオニード様、いらっしゃいます?」
考えるより先に眉間に皺が寄った。
許可を待つ間もなく扉が開き、シェリルが入ってくる。
淡い水色のドレス。昨夜とは別の愛らしさを演出した装いなのだろうが、今のレオニードにはその計算高さの方が先に目についた。
「どうした」
「どうした、ではございませんわ」
シェリルはやや不満げに唇を尖らせる。
「昨日から皆さまが妙によそよそしいのですもの。わたくし、何か悪いことをしたのかしらと思ってしまって」
その言い方が、また神経を逆撫でする。
何か悪いことをしたのか。
したのだ。
だが、それをここで一から説明しなければならないのかと思うと、それだけで疲れる。
「少し、口を出しすぎたのだろう」
レオニードがそう言うと、シェリルはぱちぱちと目を瞬いた。
本気で意味がわからない、という顔だった。
「口を出しすぎた? わたくし、皆さまが過ごしやすいようにと思っていただけですわ」
「その“思っていただけ”が場を乱した」
言葉が思った以上に硬くなった。
シェリルの表情が固まる。
「……そんなふうにおっしゃるのですか」
責められた可哀想な娘、という顔を作るのは早かった。
以前なら、その顔を見るだけでレオニードは自分が守らなければと思っただろう。だが今は、その表情の変わり方があまりに滑らかで、かえって白々しく感じる。
「現に、席順も花も混乱した。母上も不快だった」
「でも、それは皆さまが少し意地悪なのではありませんか?」
意地悪。
シェリルは本気でそう思っているのかもしれない。
「身分の低い方が隅へ追いやられるのは、見ていて可哀想でしたもの。少しくらい配慮があってもよろしいでしょう?」
その言葉を聞いた瞬間、レオニードの中で何かがすっと冷えた。
そうではない。
そこではない。
王宮の席順は、可哀想かどうかで決めるものではない。家同士の関係、礼の序列、今後の火種、それらを含めて成り立っている。
そんなこともわからないのか、と思った瞬間、自分でも驚くほど露骨に顔へ出たらしい。
シェリルが傷ついたように一歩引いた。
「……わたくしを、そんな目で見ないでくださいませ」
「どんな目だ」
「まるで、何もわかっていない子どもを見るような……」
図星だった。
レオニードは答えなかった。
沈黙の意味を、シェリルも察したのだろう。彼女の目にじわりと涙がにじむ。
「わたくしは、レオニード様のためを思って」
「なら、少し黙っていてくれ」
言ってから、自分でもきつい言い方だったと思った。
だが遅い。
シェリルは目を見開き、それから本格的に泣き出した。
「ひどい……! あの日、わたくしの味方をしてくださったのは殿下だけだったのに……!」
あの日。
婚約破棄の夜だ。
あの言葉を持ち出されると、レオニードの胸に妙なざらつきが生まれる。
たしかに自分はあの夜、シェリルを選んだ。
だが今こうして目の前で泣かれても、以前のように“守らなければ”という気持ちだけにはならない。
むしろ、面倒だという感情が先に立ってしまう。
それがさらに腹立たしかった。
自分が冷たい人間になったような気がして。
あるいは、自分が最初から見誤っていたのではないかという思いが、薄く胸をかすめて。
「泣けば済む話ではない」
とうとう、そう言ってしまった。
シェリルは息を呑む。
それから、はっきりと顔つきが変わった。
可哀想な少女から、傷つけられたことを忘れない女の顔へ。
「……そうですの」
涙声のまま、しかし芯に刺を含んだ声だった。
「では、もうわたくしはお邪魔なのでしょうね」
「そういう話ではない」
「そういう話ですわ」
シェリルは震える手で涙を拭う。
「王宮の皆さまも、わたくしが気に入らないのでしょう。平民に近い家の娘が、殿下のお傍にいるのが面白くないのですわ」
またそこへ戻るのか、とレオニードはうんざりした。
たしかに身分差への反発はあるだろう。だが問題はそこだけではない。むしろ今、王宮の者たちが不安に思っているのは、シェリルが“何もわからないまま動く”ことそのものだ。
なのに本人は、自分が疎まれる理由を“嫉妬”か“身分差”に回収してしまう。
その単純さが、今のレオニードには重い。
「……好きにしろ」
ついにそう吐き捨てると、シェリルは顔を強張らせた。
もう少し言い募るかと思ったが、彼女はそのまま踵を返した。
扉へ向かう背中は、泣き崩れるようなか弱さではなく、怒りでこわばって見えた。
扉が閉まる。
室内に静けさが戻る。
だが、その静けさは少しも落ち着かなかった。
レオニードは額へ手を当てる。
なぜこうなったのか。
ついこのあいだまでは、もっと単純だったはずだ。シェリルは可憐で、オルタンシアは冷たかった。自分は正しい恋を選び、窮屈な婚約から解放された。
そう思っていた。
なのに今は、解放感よりも煩わしさの方が勝る。
王宮は乱れ、母は冷え、シェリルは泣き、周囲は無言のまま自分の評価を落としていく。
何一つ、思い描いたようには進んでいない。
その頃、シェリルは自室へ戻るなり鏡台の前で立ち尽くしていた。
侍女が声をかけることもできずにいる。
泣いてはいる。
だが、その涙は先ほどまでの“守ってほしい涙”とは違った。
悔しいのだ。
あれほど自分を選んだはずのレオニードが、今は自分を責めている。
王宮の者たちも、王妃も、皆オルタンシアがいた頃と比べてばかりだ。
オルタンシア。
その名を思うだけで、シェリルの胸にどろりとしたものが溜まる。
あの女さえいなければ、自分はもっと素直に歓迎されたはずなのに。
あの女が長年“できて当然”の顔で場を整えていたせいで、自分が何をしても粗が目立つのだ――そんな理不尽な逆恨みに近い思いが膨らんでいく。
「……どうして、今さら」
ぽつりと呟く。
婚約破棄の夜には、すべてがうまくいったと思った。
あの夜、オルタンシアは負け、自分は選ばれたのだと。
なのに現実は違う。
選ばれたはずの自分が、王宮で浮いている。
勝ったはずなのに、どこにも居場所がない。
それが耐えがたかった。
午後、レオニードが王妃に呼ばれて王妃宮へ向かう頃には、彼の機嫌は最悪に近かった。
王妃はいつも通り優雅だった。
だがその優雅さの下にあるものが、今日は隠されていない。
「昨日の晩餐会について、報告は受けています」
その一言だけで、レオニードは身構えた。
「多少の乱れはありましたが、大事には至っておりません」
「大事にならなければ良いというものではないわ」
王妃の返しは冷静だった。
「大事にならない範囲の不備ほど、後を引くのです」
昨夜から何度も耳にしている種類の言葉だった。
それが余計に苛立たしい。
「母上まで、そこまで責めるのですか」
「責めているのではありません。見なさいと言っているのです」
王妃は息子をまっすぐ見た。
「あなたは今、何が起きているのかを“細かいこと”として片づけようとしている。けれど社交とは、細かいことの積み重ねで成り立っています」
レオニードは黙る。
言い返したところで勝てないとわかっているからだ。
王妃は続ける。
「そして、モルヴァン嬢をただ庇えば済む段階はもう過ぎました」
その言葉に、レオニードの喉がひりついた。
「……彼女はまだ慣れていないだけです」
「それをいつまで言い訳にするの」
静かな声だった。
だが容赦はなかった。
「慣れていない者を、王家の中心へ引きずり上げたのは誰ですか」
その問いに、レオニードは何も答えられなかった。
王妃の視線がさらに冷える。
「オルタンシアを失ったことの意味を、あなたはまだ正面から見ていない」
その名が出た瞬間、レオニードの胸にまたざらつきが走る。
オルタンシア。
失ったことの意味。
それを考え始めると、何かが崩れそうで嫌だった。
あの女は冷たかった。
厳しかった。
自分を窮屈にさせた。
そう思っていたのに、失ってみれば王宮のあちこちが不安定になる。晩餐会一つまともに整わない。母にまで責められる。
まるで、自分が切り捨てた相手の方が、自分よりよほど王家に必要だったかのようではないか。
そんな現実は、王太子としての自尊心にあまりに痛い。
王妃宮を出た時、レオニードの足取りは重かった。
シェリルと喧嘩し、母には冷たく言われ、王宮の空気は悪い。
そして、その中心にいないはずのオルタンシアの影だけが、日増しに濃くなっていく。
いないのに、消えない。
いなくなったからこそ、見えてしまう。
それがどうしようもなく気に障った。
一方、アルケディウス公爵邸の午後は静かだった。
オルタンシアは窓辺の席で、温かいお茶を手にしていた。
王都の王宮でどれほど空気が悪くなっていようと、ここにはそのざわめきは届かない。届くのは、整理された報せだけだ。
それでも、彼女にはなんとなくわかる気がした。
あちらではもう、“真実の愛”だけで押し切れる段階が終わり始めているのだと。
恋に酔っていた時には見えなかった欠点が、現実の重みの中で剥がれ落ちているのだと。
その現実に潰されるのは、自分ではない。
もう、自分ではないのだ。
そう思えたことが、以前より少しだけ自然になっていた。
王宮の空気は、晩餐会の翌日になっても重かった。
大きな騒ぎにはならなかった。
誰かが声を荒らげたわけでもない。途中で席を立った客もいない。表向きは、王家の主催する晩餐会は恙なく終わったことになっている。
けれど、だからこそ厄介だった。
貴族たちは失礼をその場で指摘しない。
その代わり、帰った先で正確に覚えている。料理の順番が不自然だったことも、会話の流れが噛み合わなかったことも、主賓格の夫人が微妙な席に置かれていたことも、すべて。
そして一晩あれば、それらは“王家の最近の質の低下”として静かに形を持ち始める。
レオニード第一王太子は、朝から機嫌が悪かった。
自室の机に肘をつき、昨夜の晩餐会の記録を乱暴に閉じる。
「くだらない」
吐き捨てるように言ったが、その声には苛立ちだけでなく焦りも混じっていた。
くだらないはずなのだ。
誰も公然と王家を責めてはいない。表立った抗議もない。つまり、大した問題ではない――そう思いたい。
だが実際には、侍従たちの報告の端々に、はっきりと“不満”が滲んでいた。
にこやかに帰った夫人たちが、その後の馬車の中ではひどく冷ややかなことを言っていたとか。給仕の乱れが複数の家で話題になっているとか。王妃主催の茶会と比べて、あまりにも場が整っていなかったとか。
どれも小さい。
だが、小さいからこそ腹立たしい。
大騒ぎになる失態なら、怒鳴って抑え込むこともできる。だが、こういう“微妙にだらしない”失点は、消しようがない。
「殿下」
侍従が控えめに声をかける。
「何だ」
「本日の予定ですが、王妃殿下より後ほどお時間を頂きたいとのことです」
王妃。
レオニードは目を細める。
昨夜の晩餐会の後から、母の空気が明らかに冷えているのを感じていた。怒鳴るでもなく、ため息をつくでもなく、ただ静かに見ている。
あの静けさが、かえって気に障る。
「わかった」
短く答えると、侍従は一礼して下がった。
その背中を見送る間にも、レオニードの胸の中では別の苛立ちが膨らんでいた。
原因ははっきりしている。
シェリルだ。
あの娘が、余計なところで口を出しすぎた。
花の配置だの、席の見え方だの、客の扱い方だの。しかも本人は善意のつもりでいるから始末が悪い。
可憐で、か弱く、守ってやりたくなる。そう思わせる女だった。
少なくとも最初は。
けれど最近は、その“守ってやりたくなる”が、ひどく手間のかかるものに見え始めている。
そこへ、扉の外から華やかな声がした。
「レオニード様、いらっしゃいます?」
考えるより先に眉間に皺が寄った。
許可を待つ間もなく扉が開き、シェリルが入ってくる。
淡い水色のドレス。昨夜とは別の愛らしさを演出した装いなのだろうが、今のレオニードにはその計算高さの方が先に目についた。
「どうした」
「どうした、ではございませんわ」
シェリルはやや不満げに唇を尖らせる。
「昨日から皆さまが妙によそよそしいのですもの。わたくし、何か悪いことをしたのかしらと思ってしまって」
その言い方が、また神経を逆撫でする。
何か悪いことをしたのか。
したのだ。
だが、それをここで一から説明しなければならないのかと思うと、それだけで疲れる。
「少し、口を出しすぎたのだろう」
レオニードがそう言うと、シェリルはぱちぱちと目を瞬いた。
本気で意味がわからない、という顔だった。
「口を出しすぎた? わたくし、皆さまが過ごしやすいようにと思っていただけですわ」
「その“思っていただけ”が場を乱した」
言葉が思った以上に硬くなった。
シェリルの表情が固まる。
「……そんなふうにおっしゃるのですか」
責められた可哀想な娘、という顔を作るのは早かった。
以前なら、その顔を見るだけでレオニードは自分が守らなければと思っただろう。だが今は、その表情の変わり方があまりに滑らかで、かえって白々しく感じる。
「現に、席順も花も混乱した。母上も不快だった」
「でも、それは皆さまが少し意地悪なのではありませんか?」
意地悪。
シェリルは本気でそう思っているのかもしれない。
「身分の低い方が隅へ追いやられるのは、見ていて可哀想でしたもの。少しくらい配慮があってもよろしいでしょう?」
その言葉を聞いた瞬間、レオニードの中で何かがすっと冷えた。
そうではない。
そこではない。
王宮の席順は、可哀想かどうかで決めるものではない。家同士の関係、礼の序列、今後の火種、それらを含めて成り立っている。
そんなこともわからないのか、と思った瞬間、自分でも驚くほど露骨に顔へ出たらしい。
シェリルが傷ついたように一歩引いた。
「……わたくしを、そんな目で見ないでくださいませ」
「どんな目だ」
「まるで、何もわかっていない子どもを見るような……」
図星だった。
レオニードは答えなかった。
沈黙の意味を、シェリルも察したのだろう。彼女の目にじわりと涙がにじむ。
「わたくしは、レオニード様のためを思って」
「なら、少し黙っていてくれ」
言ってから、自分でもきつい言い方だったと思った。
だが遅い。
シェリルは目を見開き、それから本格的に泣き出した。
「ひどい……! あの日、わたくしの味方をしてくださったのは殿下だけだったのに……!」
あの日。
婚約破棄の夜だ。
あの言葉を持ち出されると、レオニードの胸に妙なざらつきが生まれる。
たしかに自分はあの夜、シェリルを選んだ。
だが今こうして目の前で泣かれても、以前のように“守らなければ”という気持ちだけにはならない。
むしろ、面倒だという感情が先に立ってしまう。
それがさらに腹立たしかった。
自分が冷たい人間になったような気がして。
あるいは、自分が最初から見誤っていたのではないかという思いが、薄く胸をかすめて。
「泣けば済む話ではない」
とうとう、そう言ってしまった。
シェリルは息を呑む。
それから、はっきりと顔つきが変わった。
可哀想な少女から、傷つけられたことを忘れない女の顔へ。
「……そうですの」
涙声のまま、しかし芯に刺を含んだ声だった。
「では、もうわたくしはお邪魔なのでしょうね」
「そういう話ではない」
「そういう話ですわ」
シェリルは震える手で涙を拭う。
「王宮の皆さまも、わたくしが気に入らないのでしょう。平民に近い家の娘が、殿下のお傍にいるのが面白くないのですわ」
またそこへ戻るのか、とレオニードはうんざりした。
たしかに身分差への反発はあるだろう。だが問題はそこだけではない。むしろ今、王宮の者たちが不安に思っているのは、シェリルが“何もわからないまま動く”ことそのものだ。
なのに本人は、自分が疎まれる理由を“嫉妬”か“身分差”に回収してしまう。
その単純さが、今のレオニードには重い。
「……好きにしろ」
ついにそう吐き捨てると、シェリルは顔を強張らせた。
もう少し言い募るかと思ったが、彼女はそのまま踵を返した。
扉へ向かう背中は、泣き崩れるようなか弱さではなく、怒りでこわばって見えた。
扉が閉まる。
室内に静けさが戻る。
だが、その静けさは少しも落ち着かなかった。
レオニードは額へ手を当てる。
なぜこうなったのか。
ついこのあいだまでは、もっと単純だったはずだ。シェリルは可憐で、オルタンシアは冷たかった。自分は正しい恋を選び、窮屈な婚約から解放された。
そう思っていた。
なのに今は、解放感よりも煩わしさの方が勝る。
王宮は乱れ、母は冷え、シェリルは泣き、周囲は無言のまま自分の評価を落としていく。
何一つ、思い描いたようには進んでいない。
その頃、シェリルは自室へ戻るなり鏡台の前で立ち尽くしていた。
侍女が声をかけることもできずにいる。
泣いてはいる。
だが、その涙は先ほどまでの“守ってほしい涙”とは違った。
悔しいのだ。
あれほど自分を選んだはずのレオニードが、今は自分を責めている。
王宮の者たちも、王妃も、皆オルタンシアがいた頃と比べてばかりだ。
オルタンシア。
その名を思うだけで、シェリルの胸にどろりとしたものが溜まる。
あの女さえいなければ、自分はもっと素直に歓迎されたはずなのに。
あの女が長年“できて当然”の顔で場を整えていたせいで、自分が何をしても粗が目立つのだ――そんな理不尽な逆恨みに近い思いが膨らんでいく。
「……どうして、今さら」
ぽつりと呟く。
婚約破棄の夜には、すべてがうまくいったと思った。
あの夜、オルタンシアは負け、自分は選ばれたのだと。
なのに現実は違う。
選ばれたはずの自分が、王宮で浮いている。
勝ったはずなのに、どこにも居場所がない。
それが耐えがたかった。
午後、レオニードが王妃に呼ばれて王妃宮へ向かう頃には、彼の機嫌は最悪に近かった。
王妃はいつも通り優雅だった。
だがその優雅さの下にあるものが、今日は隠されていない。
「昨日の晩餐会について、報告は受けています」
その一言だけで、レオニードは身構えた。
「多少の乱れはありましたが、大事には至っておりません」
「大事にならなければ良いというものではないわ」
王妃の返しは冷静だった。
「大事にならない範囲の不備ほど、後を引くのです」
昨夜から何度も耳にしている種類の言葉だった。
それが余計に苛立たしい。
「母上まで、そこまで責めるのですか」
「責めているのではありません。見なさいと言っているのです」
王妃は息子をまっすぐ見た。
「あなたは今、何が起きているのかを“細かいこと”として片づけようとしている。けれど社交とは、細かいことの積み重ねで成り立っています」
レオニードは黙る。
言い返したところで勝てないとわかっているからだ。
王妃は続ける。
「そして、モルヴァン嬢をただ庇えば済む段階はもう過ぎました」
その言葉に、レオニードの喉がひりついた。
「……彼女はまだ慣れていないだけです」
「それをいつまで言い訳にするの」
静かな声だった。
だが容赦はなかった。
「慣れていない者を、王家の中心へ引きずり上げたのは誰ですか」
その問いに、レオニードは何も答えられなかった。
王妃の視線がさらに冷える。
「オルタンシアを失ったことの意味を、あなたはまだ正面から見ていない」
その名が出た瞬間、レオニードの胸にまたざらつきが走る。
オルタンシア。
失ったことの意味。
それを考え始めると、何かが崩れそうで嫌だった。
あの女は冷たかった。
厳しかった。
自分を窮屈にさせた。
そう思っていたのに、失ってみれば王宮のあちこちが不安定になる。晩餐会一つまともに整わない。母にまで責められる。
まるで、自分が切り捨てた相手の方が、自分よりよほど王家に必要だったかのようではないか。
そんな現実は、王太子としての自尊心にあまりに痛い。
王妃宮を出た時、レオニードの足取りは重かった。
シェリルと喧嘩し、母には冷たく言われ、王宮の空気は悪い。
そして、その中心にいないはずのオルタンシアの影だけが、日増しに濃くなっていく。
いないのに、消えない。
いなくなったからこそ、見えてしまう。
それがどうしようもなく気に障った。
一方、アルケディウス公爵邸の午後は静かだった。
オルタンシアは窓辺の席で、温かいお茶を手にしていた。
王都の王宮でどれほど空気が悪くなっていようと、ここにはそのざわめきは届かない。届くのは、整理された報せだけだ。
それでも、彼女にはなんとなくわかる気がした。
あちらではもう、“真実の愛”だけで押し切れる段階が終わり始めているのだと。
恋に酔っていた時には見えなかった欠点が、現実の重みの中で剥がれ落ちているのだと。
その現実に潰されるのは、自分ではない。
もう、自分ではないのだ。
そう思えたことが、以前より少しだけ自然になっていた。
あなたにおすすめの小説
え〜婚約者さん厳しい〜(笑)私ならそんなこと言わないのになぁ
ばぅ
恋愛
「え〜婚約者さん、厳しい〜。私ならそんなこと言わないのになぁ」
小言の多い私を笑い、マウントを取ってくる幼馴染令嬢。私が言葉に詰まっていると、豪快で声のデカい婚約者が笑い飛ばした。
「そうだな、だからお前は未だに婚約相手が決まらないんだろうな!」
悪気ゼロ(?)の大声正論パンチで、幼馴染をバッサリ撃退!
私の「厳しさ」を誰よりも愛する太陽の騎士様との、スカッと痛快ラブコメディ。
俺はお前ではなく、彼女を一生涯愛し護り続けると決めたんだ! そう仰られた元婚約者様へ。貴方が愛する人が、夜会で大問題を起こしたようですよ?
柚木ゆず
恋愛
※9月20日、本編完結いたしました。明日21日より番外編として、ジェラール親子とマリエット親子の、最後のざまぁに関するお話を投稿させていただきます。
お前の家ティレア家は、財の力で爵位を得た新興貴族だ! そんな歴史も品もない家に生まれた女が、名家に生まれた俺に相応しいはずがない! 俺はどうして気付かなかったんだ――。
婚約中に心変わりをされたクレランズ伯爵家のジェラール様は、沢山の暴言を口にしたあと、一方的に婚約の解消を宣言しました。
そうしてジェラール様はわたしのもとを去り、曰く『お前と違って貴族然とした女性』であり『気品溢れる女性』な方と新たに婚約を結ばれたのですが――
ジェラール様。貴方の婚約者であるマリエット様が、侯爵家主催の夜会で大問題を起こしてしまったみたいですよ?
後悔などありません。あなたのことは愛していないので。
あかぎ
恋愛
「お前とは婚約破棄する」
婚約者の突然の宣言に、レイラは言葉を失った。
理由は見知らぬ女ジェシカへのいじめ。
証拠と称される手紙も差し出されたが、筆跡は明らかに自分のものではない。
初対面の相手に嫉妬して傷つけただなど、理不尽にもほどがある。
だが、トールは疑いを信じ込み、ジェシカと共にレイラを糾弾する。
静かに溜息をついたレイラは、彼の目を見据えて言った。
「私、あなたのことなんて全然好きじゃないの」
彼女の離縁とその波紋
豆狸
恋愛
夫にとって魅力的なのは、今も昔も恋人のあの女性なのでしょう。こうして私が悩んでいる間もふたりは楽しく笑い合っているのかと思うと、胸にぽっかりと穴が開いたような気持ちになりました。
※子どもに関するセンシティブな内容があります。
愚か者は幸せを捨てた
矢野りと
恋愛
相思相愛で結ばれた二人がある日、分かれることになった。夫を愛しているサラは別れを拒んだが、夫であるマキタは非情な手段でサラとの婚姻関係そのものをなかったことにしてしまった。
だがそれは男の本意ではなかった…。
魅了の呪縛から解き放たれた男が我に返った時、そこに幸せはなかった。
最愛の人を失った男が必死に幸せを取り戻そうとするが…。
お飾りの婚約者で結構です! 殿下のことは興味ありませんので、お構いなく!
にのまえ
恋愛
すでに寵愛する人がいる、殿下の婚約候補決めの舞踏会を開くと、王家の勅命がドーリング公爵家に届くも、姉のミミリアは嫌がった。
公爵家から一人娘という言葉に、舞踏会に参加することになった、ドーリング公爵家の次女・ミーシャ。
家族の中で“役立たず”と蔑まれ、姉の身代わりとして差し出された彼女の唯一の望みは――「舞踏会で、美味しい料理を食べること」。
だが、そんな慎ましい願いとは裏腹に、
舞踏会の夜、思いもよらぬ出来事が起こりミーシャは前世、読んでいた小説の世界だと気付く。
白い結婚を告げようとした王子は、冷遇していた妻に恋をする
夏生 羽都
恋愛
ランゲル王国の王太子ヘンリックは結婚式を挙げた夜の寝室で、妻となったローゼリアに白い結婚を宣言する、
……つもりだった。
夫婦の寝室に姿を見せたヘンリックを待っていたのは、妻と同じ髪と瞳の色を持った見知らぬ美しい女性だった。
「『愛するマリーナのために、私はキミとは白い結婚とする』でしたか? 早くおっしゃってくださいな」
そう言って椅子に座っていた美しい女性は悠然と立ち上がる。
「そ、その声はっ、ローゼリア……なのか?」
女性の声を聞いた事で、ヘンリックはやっと彼女が自分の妻となったローゼリアなのだと気付いたのだが、驚きのあまり白い結婚を宣言する事も出来ずに逃げるように自分の部屋へと戻ってしまうのだった。
※こちらは「裏切られた令嬢は、30歳も年上の伯爵さまに嫁ぎましたが、白い結婚ですわ。」のIFストーリーです。
ヘンリック(王太子)が主役となります。
また、上記作品をお読みにならなくてもお楽しみ頂ける内容となっております。