婚約破棄した王太子が今さら謝っても、私はもう戻りません

エスビ

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14話 裂けはじめた真実の愛

14話 裂けはじめた真実の愛

王宮の空気は、晩餐会の翌日になっても重かった。

大きな騒ぎにはならなかった。

誰かが声を荒らげたわけでもない。途中で席を立った客もいない。表向きは、王家の主催する晩餐会は恙なく終わったことになっている。

けれど、だからこそ厄介だった。

貴族たちは失礼をその場で指摘しない。

その代わり、帰った先で正確に覚えている。料理の順番が不自然だったことも、会話の流れが噛み合わなかったことも、主賓格の夫人が微妙な席に置かれていたことも、すべて。

そして一晩あれば、それらは“王家の最近の質の低下”として静かに形を持ち始める。

レオニード第一王太子は、朝から機嫌が悪かった。

自室の机に肘をつき、昨夜の晩餐会の記録を乱暴に閉じる。

「くだらない」

吐き捨てるように言ったが、その声には苛立ちだけでなく焦りも混じっていた。

くだらないはずなのだ。

誰も公然と王家を責めてはいない。表立った抗議もない。つまり、大した問題ではない――そう思いたい。

だが実際には、侍従たちの報告の端々に、はっきりと“不満”が滲んでいた。

にこやかに帰った夫人たちが、その後の馬車の中ではひどく冷ややかなことを言っていたとか。給仕の乱れが複数の家で話題になっているとか。王妃主催の茶会と比べて、あまりにも場が整っていなかったとか。

どれも小さい。

だが、小さいからこそ腹立たしい。

大騒ぎになる失態なら、怒鳴って抑え込むこともできる。だが、こういう“微妙にだらしない”失点は、消しようがない。

「殿下」

侍従が控えめに声をかける。

「何だ」

「本日の予定ですが、王妃殿下より後ほどお時間を頂きたいとのことです」

王妃。

レオニードは目を細める。

昨夜の晩餐会の後から、母の空気が明らかに冷えているのを感じていた。怒鳴るでもなく、ため息をつくでもなく、ただ静かに見ている。

あの静けさが、かえって気に障る。

「わかった」

短く答えると、侍従は一礼して下がった。

その背中を見送る間にも、レオニードの胸の中では別の苛立ちが膨らんでいた。

原因ははっきりしている。

シェリルだ。

あの娘が、余計なところで口を出しすぎた。

花の配置だの、席の見え方だの、客の扱い方だの。しかも本人は善意のつもりでいるから始末が悪い。

可憐で、か弱く、守ってやりたくなる。そう思わせる女だった。

少なくとも最初は。

けれど最近は、その“守ってやりたくなる”が、ひどく手間のかかるものに見え始めている。

そこへ、扉の外から華やかな声がした。

「レオニード様、いらっしゃいます?」

考えるより先に眉間に皺が寄った。

許可を待つ間もなく扉が開き、シェリルが入ってくる。

淡い水色のドレス。昨夜とは別の愛らしさを演出した装いなのだろうが、今のレオニードにはその計算高さの方が先に目についた。

「どうした」

「どうした、ではございませんわ」

シェリルはやや不満げに唇を尖らせる。

「昨日から皆さまが妙によそよそしいのですもの。わたくし、何か悪いことをしたのかしらと思ってしまって」

その言い方が、また神経を逆撫でする。

何か悪いことをしたのか。

したのだ。

だが、それをここで一から説明しなければならないのかと思うと、それだけで疲れる。

「少し、口を出しすぎたのだろう」

レオニードがそう言うと、シェリルはぱちぱちと目を瞬いた。

本気で意味がわからない、という顔だった。

「口を出しすぎた? わたくし、皆さまが過ごしやすいようにと思っていただけですわ」

「その“思っていただけ”が場を乱した」

言葉が思った以上に硬くなった。

シェリルの表情が固まる。

「……そんなふうにおっしゃるのですか」

責められた可哀想な娘、という顔を作るのは早かった。

以前なら、その顔を見るだけでレオニードは自分が守らなければと思っただろう。だが今は、その表情の変わり方があまりに滑らかで、かえって白々しく感じる。

「現に、席順も花も混乱した。母上も不快だった」

「でも、それは皆さまが少し意地悪なのではありませんか?」

意地悪。

シェリルは本気でそう思っているのかもしれない。

「身分の低い方が隅へ追いやられるのは、見ていて可哀想でしたもの。少しくらい配慮があってもよろしいでしょう?」

その言葉を聞いた瞬間、レオニードの中で何かがすっと冷えた。

そうではない。

そこではない。

王宮の席順は、可哀想かどうかで決めるものではない。家同士の関係、礼の序列、今後の火種、それらを含めて成り立っている。

そんなこともわからないのか、と思った瞬間、自分でも驚くほど露骨に顔へ出たらしい。

シェリルが傷ついたように一歩引いた。

「……わたくしを、そんな目で見ないでくださいませ」

「どんな目だ」

「まるで、何もわかっていない子どもを見るような……」

図星だった。

レオニードは答えなかった。

沈黙の意味を、シェリルも察したのだろう。彼女の目にじわりと涙がにじむ。

「わたくしは、レオニード様のためを思って」

「なら、少し黙っていてくれ」

言ってから、自分でもきつい言い方だったと思った。

だが遅い。

シェリルは目を見開き、それから本格的に泣き出した。

「ひどい……! あの日、わたくしの味方をしてくださったのは殿下だけだったのに……!」

あの日。

婚約破棄の夜だ。

あの言葉を持ち出されると、レオニードの胸に妙なざらつきが生まれる。

たしかに自分はあの夜、シェリルを選んだ。

だが今こうして目の前で泣かれても、以前のように“守らなければ”という気持ちだけにはならない。

むしろ、面倒だという感情が先に立ってしまう。

それがさらに腹立たしかった。

自分が冷たい人間になったような気がして。

あるいは、自分が最初から見誤っていたのではないかという思いが、薄く胸をかすめて。

「泣けば済む話ではない」

とうとう、そう言ってしまった。

シェリルは息を呑む。

それから、はっきりと顔つきが変わった。

可哀想な少女から、傷つけられたことを忘れない女の顔へ。

「……そうですの」

涙声のまま、しかし芯に刺を含んだ声だった。

「では、もうわたくしはお邪魔なのでしょうね」

「そういう話ではない」

「そういう話ですわ」

シェリルは震える手で涙を拭う。

「王宮の皆さまも、わたくしが気に入らないのでしょう。平民に近い家の娘が、殿下のお傍にいるのが面白くないのですわ」

またそこへ戻るのか、とレオニードはうんざりした。

たしかに身分差への反発はあるだろう。だが問題はそこだけではない。むしろ今、王宮の者たちが不安に思っているのは、シェリルが“何もわからないまま動く”ことそのものだ。

なのに本人は、自分が疎まれる理由を“嫉妬”か“身分差”に回収してしまう。

その単純さが、今のレオニードには重い。

「……好きにしろ」

ついにそう吐き捨てると、シェリルは顔を強張らせた。

もう少し言い募るかと思ったが、彼女はそのまま踵を返した。

扉へ向かう背中は、泣き崩れるようなか弱さではなく、怒りでこわばって見えた。

扉が閉まる。

室内に静けさが戻る。

だが、その静けさは少しも落ち着かなかった。

レオニードは額へ手を当てる。

なぜこうなったのか。

ついこのあいだまでは、もっと単純だったはずだ。シェリルは可憐で、オルタンシアは冷たかった。自分は正しい恋を選び、窮屈な婚約から解放された。

そう思っていた。

なのに今は、解放感よりも煩わしさの方が勝る。

王宮は乱れ、母は冷え、シェリルは泣き、周囲は無言のまま自分の評価を落としていく。

何一つ、思い描いたようには進んでいない。

その頃、シェリルは自室へ戻るなり鏡台の前で立ち尽くしていた。

侍女が声をかけることもできずにいる。

泣いてはいる。

だが、その涙は先ほどまでの“守ってほしい涙”とは違った。

悔しいのだ。

あれほど自分を選んだはずのレオニードが、今は自分を責めている。

王宮の者たちも、王妃も、皆オルタンシアがいた頃と比べてばかりだ。

オルタンシア。

その名を思うだけで、シェリルの胸にどろりとしたものが溜まる。

あの女さえいなければ、自分はもっと素直に歓迎されたはずなのに。

あの女が長年“できて当然”の顔で場を整えていたせいで、自分が何をしても粗が目立つのだ――そんな理不尽な逆恨みに近い思いが膨らんでいく。

「……どうして、今さら」

ぽつりと呟く。

婚約破棄の夜には、すべてがうまくいったと思った。

あの夜、オルタンシアは負け、自分は選ばれたのだと。

なのに現実は違う。

選ばれたはずの自分が、王宮で浮いている。

勝ったはずなのに、どこにも居場所がない。

それが耐えがたかった。

午後、レオニードが王妃に呼ばれて王妃宮へ向かう頃には、彼の機嫌は最悪に近かった。

王妃はいつも通り優雅だった。

だがその優雅さの下にあるものが、今日は隠されていない。

「昨日の晩餐会について、報告は受けています」

その一言だけで、レオニードは身構えた。

「多少の乱れはありましたが、大事には至っておりません」

「大事にならなければ良いというものではないわ」

王妃の返しは冷静だった。

「大事にならない範囲の不備ほど、後を引くのです」

昨夜から何度も耳にしている種類の言葉だった。

それが余計に苛立たしい。

「母上まで、そこまで責めるのですか」

「責めているのではありません。見なさいと言っているのです」

王妃は息子をまっすぐ見た。

「あなたは今、何が起きているのかを“細かいこと”として片づけようとしている。けれど社交とは、細かいことの積み重ねで成り立っています」

レオニードは黙る。

言い返したところで勝てないとわかっているからだ。

王妃は続ける。

「そして、モルヴァン嬢をただ庇えば済む段階はもう過ぎました」

その言葉に、レオニードの喉がひりついた。

「……彼女はまだ慣れていないだけです」

「それをいつまで言い訳にするの」

静かな声だった。

だが容赦はなかった。

「慣れていない者を、王家の中心へ引きずり上げたのは誰ですか」

その問いに、レオニードは何も答えられなかった。

王妃の視線がさらに冷える。

「オルタンシアを失ったことの意味を、あなたはまだ正面から見ていない」

その名が出た瞬間、レオニードの胸にまたざらつきが走る。

オルタンシア。

失ったことの意味。

それを考え始めると、何かが崩れそうで嫌だった。

あの女は冷たかった。

厳しかった。

自分を窮屈にさせた。

そう思っていたのに、失ってみれば王宮のあちこちが不安定になる。晩餐会一つまともに整わない。母にまで責められる。

まるで、自分が切り捨てた相手の方が、自分よりよほど王家に必要だったかのようではないか。

そんな現実は、王太子としての自尊心にあまりに痛い。

王妃宮を出た時、レオニードの足取りは重かった。

シェリルと喧嘩し、母には冷たく言われ、王宮の空気は悪い。

そして、その中心にいないはずのオルタンシアの影だけが、日増しに濃くなっていく。

いないのに、消えない。

いなくなったからこそ、見えてしまう。

それがどうしようもなく気に障った。

一方、アルケディウス公爵邸の午後は静かだった。

オルタンシアは窓辺の席で、温かいお茶を手にしていた。

王都の王宮でどれほど空気が悪くなっていようと、ここにはそのざわめきは届かない。届くのは、整理された報せだけだ。

それでも、彼女にはなんとなくわかる気がした。

あちらではもう、“真実の愛”だけで押し切れる段階が終わり始めているのだと。

恋に酔っていた時には見えなかった欠点が、現実の重みの中で剥がれ落ちているのだと。

その現実に潰されるのは、自分ではない。

もう、自分ではないのだ。

そう思えたことが、以前より少しだけ自然になっていた。
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