青空を見上げて花束を。

夏目侑希

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高校生編

第4話

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   1

 午前中の授業が終わり、私は自分の席で「ん~!」と思い切り伸びる。
「咲良ちゃ~ん、お昼行こー」
 後ろから呼ばれ、私は「うん」と立ち上がる。財布を片手に廊下に出て、先を歩く友達二人の中に入って食堂へ歩いた。
 高校二年生ももう後半に差し掛かり、いよいよ二度目の進路選択が現実味を帯びようとしていた。中学校の時と違うのは、一口に「進路」と言っても就職するのか進学するのかの違いが生まれてくるところ。今の私は、一応進学希望。大学じゃなくても良いから、短大でも専門でも、どこか自分のやりたいことを見つけられるところに進学したい。
 そのためには自分が何を学びたいのかとか、将来どんな職に就きたいのかとかを考えないといけないけれど、生憎と言うべきか私はまだそれが分からない。
「この時期はみんないろいろ悩むもんだから、時間かけてゆっくり決めると良いよ」
 この間の進路相談の時、担任の先生からはそう言われたけれど、せめて三年生になる頃には仮初めでも良いから何か目標を決めないとなぁ。
「――。おーいってば咲良ちゃーんってば!」
「…………あえ?」
 変な声が出てしまった。どうやらずいぶんと深く考え事をして周りのことが気にならなくなっていたらしい。
「え、どうかした?」
「こっちのセリフだよ。ずっと話しかけてんのに全然反応無いんだもん」
「あぁごめんね。ちょっと進路のこと考えてた」
 私を現実に引き戻してくれた彼女――天音ちゃんは、どうやら私が人に言えないような深い悩み事を抱えていると思っていたらしく、そのことを話すと大袈裟なくらいに「なぁんだ進路のことかぁ、何ともなくて良かったぁ」と胸を撫で下ろした。
「天音って本当に心配性だよね」
 彼女とは中学から仲良しの蛍ちゃんが笑う。私と蛍ちゃんと天音ちゃんで一つの集まりになっていて、去年からクラスが一緒だった。最初は天音ちゃんが私に話しかけてくれて、そこに蛍ちゃんが入ってきた形だ。初めて顔を見た時からこの二人とは仲良くなれそうな予感がしていたけれど、それが見事に当たった。
「でもそっかぁ、そろそろ進路真面目に考えないといけないのかぁ」
 蛍ちゃんが分かりやすく肩を落とす。同調するように天音ちゃんも、「そうなんだよね~もっと遊ばせてほしいよ」と漏らす。
「咲良は今のところ進学だっけ?」
 脱力感たっぷりな口調で蛍ちゃんが訊いてくる。普段からちょっとサバサバした感じだから、こういう話し方は自然だ。
「うん、一応ね」
「そーかぁー。偉いなぁ、咲良はちゃんとそういうの考えてんのかぁ」
「別に偉くはないよー」
「またまた謙遜しちゃってぇ~」
「もう、違うってばぁ」
 本当に謙遜なんかじゃない。少なくとも後悔はしたくないからちょっとずつ考えているだけで、私も蛍ちゃんとも天音ちゃんとも何も変わらない。
 三人で食堂に入って行列に並ぶ。今日は何食べようかなぁなんて考えながら列が進むのを待っているとお腹が鳴った。空調の音とか既に来ている人たちの話し声とかでさんざめいているおかげで大っぴらに聞こえるなんてことはないけれど、やっぱり近くの人には聞こえてしまうのが恥ずかしい。
「何食べるか決めた?」
「ん~どうしよっかなぁ……」
「安いのは良いけど、いろんなものあるから目移りするよね」
「それ!」と蛍ちゃんと天音ちゃんの声が揃った。迷惑にならない程度に三人で笑う。
 食券機の前に着くまでアレコレ悩んだけれど、結局はいつも食べているものになった。貯まった小銭を一枚ずつ入れてボタンを押す。食堂の職員さんに食券を渡して、昼ご飯が出てくるのを待つ。
「午後の授業芸術かぁ。咲良は今何やってるの?」
「風景画描いてるよ。そろそろ終わりそう」
 私たちは三人とも芸術の選択科目が違う。私だけが美術で、後の二人は音楽。本当なら私も音楽にしようと思った。だけど、ちょっとした気分転換みたいなもので美術にした。
 早い話が、断捨離中に小学生の頃使っていた自由帳を見つけただけの話だ。そこには当時描いていた絵が色褪せることなく残っていて、その懐郷みたいな気持ちに感化されて美術を受けることにした。
「へ~どんなの?」
 蛍ちゃんが興味を示したけれど、私にとっては人に見せられるようなものじゃないから「今度見せてあげるから今は内緒」ときれいに言葉を濁した。
 昼ご飯を受け取って席に着いた後、待ってましたと言わんばかりに私たちは舌鼓を打つ。
「咲良ちゃん、今日の放課後空いてる?」
 私が揚げたてのエビフライを咀嚼していると、天音ちゃんが聞いてきた。飲み込んでから「ん、放課後?」と訊き返す。
「うん、咲良ちゃんしょっちゅうバイトのシフト入れてるし、なかなか放課後一緒に遊ぶことできないじゃん? たまには三人揃って遊びたいしさ」
「あ~そうだね。ちょっと待ってね」
 私はスマホのカレンダーで今日の予定を見る。バイトのシフトは無し、雪ちゃんも今日は都合が付かなくて会えないから、放課後は空いている。
 雪ちゃんのことは伏せて――一応「付き合ってる人がいる」ことは二人とも知ってるけど、それ以上は雪ちゃんのプライバシーがあるからっていう建前で話してない――放課後が空いていることを言うと、天音ちゃんは前のめりになった。
「よし、じゃあ今日の放課後どっか行こう!」
 あまりに勢いよく来られたものだから、私は思わず「うわお」と距離を取ってしまう。
「こら天音、咲良をビビらせるんじゃないの」
「あ、ごめん咲良ちゃん」
「ううん、大丈夫だよ」
 蛍ちゃんにたしなめられた天音ちゃんが椅子に座り直す。
「でもさ、どっか行くって言ったって、具体的にどこ行く?」
「それね~どうしよっか?」
「どっかのファミレスとか?」
「「行ったところで何すんのさ」」
 また蛍ちゃんと天音ちゃんの声が揃う。
「それは、着いた時に考えよ」
「まぁその方が良いかもね~」
「そうしよっか」
 どこか妥協みたいな形で決まってちょっと悶々とするけれど、どうせ昼休みが終わって午後の授業を受けている間にそんなことなんて忘れてるんだから気にしない。
 冷めないうちに残りのご飯を食べて、昼休みが終わる十分前に教室に戻った。午後の授業二時間を全部使って絵を完成させて、天音ちゃんと蛍ちゃんとの三人で学校の近くにあるファミレスに行った。
「さぁ~て帰りますかぁ~!」
 二時間くらいドリンクバーでくつろいでから外に出ると、紫色の空の下で思い切り伸びた天音ちゃん。昼はそうでもなかった空気が冷えていて、ほおっと吐いた少し白くなる。十一月の二週目とはいえ、季節はもう立派な冬だという証だろうか。
 カラオケの後は特にどこか追加で寄り道することもなく真っ直ぐ家路に着いた。だんだん夜の帳が下りるのが早くなっているし、まさかとは思うけど不審者に絡まれたら面倒だ。
 蛍ちゃんと天音ちゃんとは途中で別れ、家まで一人で歩く。その途中何かあったなんてことはなく、無事に家に着いた私はお風呂に入って、お父さんと晩ご飯を食べてその日一日を終えた。

   *

 授業が終わって、教室中の空気が弛緩するのを感じた。それに身を委ねるように私も手を組んで天井に向かって伸びる。
 この高校に通うようになって二年。最初こそ県立入試に失敗した後腐れとか、偏差値の低い私立高校に通う悔しさとか、周りに対する偏見とか、言ってみれば子供みたいな気持ちばかり抱いていたけれど、今ではそんなものを持つことすらどうかしていると思えている。
 それに、この高校に入学しないと出会えなかった友達だっている。咲良と同じ場所で高校生を謳歌できないのは残念だし寂しいけど、今さら文句を言ったって仕方ない。
 担任の先生からの明日の連絡を伝えられた後、ぞろぞろとクラスのみんなが教室を出ていく。
「雪乃ー早く帰ろー」
「うん、今行く」
 既に帰る準備を終えていたらしい彼女――円加の後を追うようにして教室を後にする。
「はぁ、今日も疲れましたなぁ」
「疲れたねー」
「もうさ、期末テスト終わったんだからさっさと冬休み入っちゃえば良いのにね」
 円加と二人でそんなことを話しながら帰り道を歩く。校門を出て駅まで歩き、しばらく電車に揺られた後で円加とはお別れ。降りる駅が違うから、その間にした会話の続きはだいたいLINEでする。
「じゃあねー」
「また明日ねー」
 今日は部活が休みの円加とは手を振り合って別れ、私は家路に着く。……とその前に、LINEで咲良にメッセージを送る。今日はお互いの帰る時間が重なったから、この後二人で寄り道してから帰る。
 放課後の寄り道デートなんて、だいたいいつも同じ感じだ。どこかで落ち合って、それから適当にどこ行くか話して、決めた場所で二時間くらいくつろいで帰る。毎回同じなのにちっとも飽きないのが不思議だ。それだけ咲良といる時間が幸せなんだろうけどね。
 待ち合わせ場所にしていたコンビニ――中学生の時から何かと重宝していた店――に着くと、軒下で首にマフラーを巻いた咲良を見つけた。
 近づいて「さくらぁー」と声を掛けると、咲良は私に気づいてふっと柔らかく微笑む。寒さのせいで赤くなった頬が、その表情をさらに可愛く見せてくる。
「ごめん、待った?」
「ううん、私も今来たとこ。行こっ」
 咲良が私の手を取って歩き出す。その隣に並んで、「今日どこ行く?」「ん~とりあえず暖まりたいな」「じゃあいつものカフェ行く?」「そうしよっか」と話しながら歩く。
 二人でこんなふうに歩いている時間ですらかけがけのないくらい愛おしくて、ついつい咲良の方にくっついてしまう。そんな私を咲良は嬉しそうに受け入れてくれる。
「ふふ、どうしたの?」
「えへへ、こうしたらもうちょっと暖かいかなぁと思って」
「うん、暖かいね」
 そのまま歩き続けてカフェに行って、小一時間くらいくつろいだ。その間に話したことは、ありがちだけどお互いの高校でのことが主だった。
 カフェを出た後は、この間咲良が高校の友達と遊びに行った時に見つけたというお気に入りスポットに行ってみることにした。
 そこは街が見下ろせる自然公園だった。歩いて行くと意外と距離があって、着く頃にはすっかり日が暮れていた。冬の夜空に浮かんだ星たちと冷えた空気がどこか心地よかった。
 ベンチに二人で座って星を見上げていた。
「すっかり暗くなっちゃったね」
「だね。まさかこんなに時間かかるなんて思わなかったな」
「でも、こんなにきれいな星空が見れるなら、時間かかって良かったね」
「……うん」
 頷くついでに私は咲良の膝を枕にして横になった。
「もう、雪ちゃんってば」
 なんて言いつつ、咲良はまんざらでもなさそうに頭を撫でてくる。
「雪ちゃんって、結構甘えたがりなんだね」
「うん。ひょっとしてイヤ?」
「ううん、むしろ超嬉しい」
「へへ、やったぁ。じゃあもっと甘えちゃお」
「何それ。雪ちゃんホントの子供みたいだよ」
 学校に行った疲れだって溜まっているはずなのに、どうしてだか咲良といるとそんなものなんて忘れてしまう。咲良の笑った顔とか、声とか、触れ方とか、何でもない癖みたいな仕草とか、そういうのを全身で感じるだけで、それまでの疲労感なんてシャボン玉みたいに消えてなくなってしまう。
 ふと夜空に目をやると、まだ日が暮れて間もないのに明るい星が三つ見えた。冬の大三角だろうか。一等星の名前って何だったっけ……プラネタリウム行った時になんとなく聞いたのは覚えてるけど……う~ん分かんないや。
 しばらく咲良の膝枕に頭を預けて夜を浴びていたけれど、せっかくのきれいな星空がそんなによく見えないのがイヤで体を起こした。
「もう良いの?」
「うん、せっかくきれいなのにちっともよく見えないんだもん」
「そうなの?」
 今度は咲良が私の膝の上に横になる。それから「あ~確かにちょっと見づらいね」と言ってすぐに体を起こす。
「どうせ見るならちゃんと見たいじゃん?」
「そうだね。せっかく二人だけで見てるんだもんね」
 唯一触れ合っていた指どうしが深く絡まり合う。ずっとこのまま幸せな時間が続けば良いと思った。誰にも邪魔されないで、私たちの純粋な愛だけしか交差しないような、そんな時間がずっと……。
 それはどうやら口に出ていたらしくて、聞いた咲良は「確かにそれが一番かもしれないね」と小さく笑った後で「でも……」と私と目を合わせてきた。
「私は別に、雪ちゃんとなら不幸せでも良いよ。……ううん、違うな。雪ちゃんだから、不幸せでも良いって思えるんだよ」
 潤んだ瞳が月明かりを反射する。
 はっきり言うと、私はもう脱帽すらしていた。こんなことを平気で言ってしまえる咲良がすごいと思った。ただただすごくて。カッコよくて可愛くて、そして何より抱きしめたいと強く思った。
 心と体は案外素直にリンクしてくれたらしくて、私は咲良を大量の綿毛で包んであげるように抱きしめていた。何故か泣きそうにすらなりながら、切ないくらい愛しくて悲しいくらい大切な人の体温を間近に想った。
 本格的に目の奥が熱くなりだして、思わず咲良の首筋に顔を埋めた。
「どうしたの?」
 耳元で優しく問いかけてくれるだけで、こんなにも嬉しいなんて。かぶりを振るだけでも、咲良はそれを悪いなんて言わないで受け止めてくれる。
 これじゃ、抱きしめに行ったのか抱き着きに行ったのかてんで分からない。でもいいや、心どうしが強く繋がっているなら、それ以上のことなんて別に考えなくても。
 溢れてきそうな涙を無理やり抑えつけて、もう何度目かも数えていないキスをした。忙しなく込み上げてくる愛しさと、これ以上誰かのことを愛して止まないことなんて有り得ないという確信を共有するには、たった一度のキスじゃあ到底足りないかもしれないと思ったけれど、存外そんなことはなかった。
 キスの後、お互いの肩に頭を預け合いながら夜の街を見下ろした。いつの間にか出てきていた白銀色の月光を受けているうちに二人とも寝落ちしてしまっていたらしいことは、それから小一時間くらい経った後に目が覚めて気づいた。

   2

 冬休みまであと一週間も無いある日。授業らしい授業もなく、クラス全体が堕落的な雰囲気に包まれながらぼんやりと毎日を過ごしていた最中のこと。六時間目の英語を視聴覚室で受けて、教室に円加と二人で戻っていた。
「は~あ、授業終わってもこの後部活なんだよなぁ」
 憂い気に息を吐く円加。普段放課後の体育館でバドミントンの細長いラケットを一生懸命に振り続けている子と同じとは思えないくらい落胆した感じだ。だけどどこか清々しくもあって、それだけ部活にかけている思いが強いってことも分かる。
 実際、私が観に行った夏の大会ではあと少しで勝てそうなところで負けてしまって、めちゃくちゃ悔しがってた。私の前だと「あはは、凡ミスして負けちったぁ~」なんて気丈に笑って見せたくせに、その後一人で物陰に隠れてわんわん泣いてたことくらい気づいてた。そんなに一つのことに全力を懸けて臨めるなんて、そう簡単にできることじゃない。だから、私は円加のことを友達として尊敬すらしている。こんなこと恥ずかしくて言えたものじゃないけど。
「そんな言い方の割には嬉しそうだけどね?」
 こういう風に言ってからかうのが精いっぱいだ。
「まぁ、授業聞いてるよかは気が紛れるからね」
「結局円加にはバドミントンなんだよ」
「そんなのあたしが一番よく分かってますよ~だ」
「はいはい」
「うわ、何その超適当な返事。雪乃からしてきたくせに」
 二人で笑い合いながら教室に戻ると、「戻ってきた人から帰って良いよー」と担任の先生から伝えられた。円加は既に帰り支度を整えていたのか、部室に置いてあるのか、それとも置き勉していくのかは分からないけれど、教室に入るや否や自分の鞄とラケットバッグを背負って「じゃあまた明日ねー」と教室を出ていった。私も慌てず急がず帰り支度を整えて、さぁ帰ろうと思って鞄を持った時に思い出した。
 今日の日直私じゃん。
 せっかく持った鞄をもう一度机に置いて、五時間目が終わった後のまま放置されていた黒板をきれいに消す。ついでに黒板消しをクリーナーにかけて、日付と日直の名前も次に変える。
 やっとこさ鞄を持ち直して、昼休みの間にちゃちゃっと書いてしまった日誌を教卓に置いて教室を後にした。昇降口で靴を履き替えながら、クラスメイトの「水橋さんまたねー」に「また明日」と返して外に出た。
 乗り慣れた電車に乗って帰り道を歩いた。デコボコなアスファルトにいくつか水たまりができている。空から降ってくるたくさんのアメンボが傘を濡らしたと思ったら、その上を滑って私の目の前を落ちていく。
 家に帰ってからは、いつも授業の復習をする。キリの良いところまでやったらお風呂に入って、その続きをしてから晩ご飯。それがテンプレ。
 今日も多分に漏れず、復習を終わらせてから晩ご飯を食べた。その方がいつもより美味しく食べられる気がする。
 晩ご飯を食べた後は基本的にリラックス。夜に勉強する人もいるけど、それは実は効率が悪いってどこかで聞いた。ネットだったかな。一日中働き続けている脳にさらに負担をかけるだけだから、夜に詰め詰めで勉強してもあまり頭にインプットされないらしい。
 自分の部屋だったりリビングのソファだったりで何も考えずに天井を見上げることもあるし、咲良や円加とLINEすることもあるし、適当にゴールデンタイムのバラエティ番組を何も考えずに見ることもある。
 テレビに出ている芸人とMCのそれほど面白くないやり取りをBGMに天井を見上げて脱力しきっていると、ローテーブルに置いていたスマホが鳴った。見ると、円加から「部活つっかれたー!」とのLINEが来ていた。お疲れ様、と湯呑に入ったお茶の絵文字と一緒に返したら、「うまー」の顔文字でリアクションしてきてクスっと笑った。

 ユキノ〈今までずっと部活だったの?
 円加〈部活自体は6時に終わった
   〈その後偶然部活見に来てたOBに練習付き合ってもらって
   〈気づいたらたらこんな時間になってた

 時間の経過も忘れて没頭できるなんて、相当バドミントンが好きなんだろう。私はもう一度「お疲れ様」と送る。円加からは「あぁ~早くご飯食べてぇ~」と本音らしいメッセージが来た。
 その後、単純に気になっただけだろうけど、「雪乃のとこは晩ご飯何だった?」と訊かれた。その返事をフリックで入力していたら、窓の外が一瞬だけ光った。それからしばらく経った後で、遠くの方でゴロゴロと音が鳴った。
「雷。この後ひどく降ってくるかもね」
 窓を見やったお母さんが呟く。確かにさっきから窓が揺れるくらい強い風が吹き続けているから、今夜は雨がかなり降りそうだ。
「そういえば、雪乃がまだ小さかった時はよく雷に怯えてたわね」
「も~、それいい加減掘り下げてくるの止めてよ。恥ずかしいんだからさ」
 昔のことを少しだけ思い出す。雷が鳴る度に怖くてお母さんに泣きついてたような……。幼気な頃とはいえ、そんなことをしている自分を反芻してひたすら恥ずかしくなる。今でも、怖くはなくなったけど苦手ではある。
 天気予報じゃ、雷雨は朝までに収まるらしい。それだけ確認してから、逃げるように部屋に戻った(というか本当に逃げた)。改めて円加に返事を打つ。青い紙飛行機に触れて送信。すると、まだ九時にもなってないのにあくびが出てきた。
 そりゃそうか、と昼間の授業を思い出す。五時間目は体育だった。十二月に入ってからバスケットボールをやっていて、私としては中一の時に足を捻挫したことがあるからちょっと苦手だったけど、でもせっかくだしゆるく楽しもうかな、と思っていた。でも現実はそうは行かなかった。
 早い話が、想像以上に動いて汗をかいてしまっただけの話だ。その後に暖房の程よく効いた視聴覚室で英語の授業なんて受けたものだから、危うく寝てしまいそうだった。ちなみに私は小学校から今まで、授業が退屈だと思ったことはあれども授業中に寝たことは一度もない。
 どうでも良い情報はさておいて、我慢しないで寝てしまおうとベッドに入って眠った。


 どうやら天気予報は当たったようで、翌朝からは雲ひとつない快晴だった。だけど空気は――当たり前だけど冬のそれで、寒がりで冷え性な私は上着が欠かせない。制服の上からコートを着て首にマフラーを巻くという、この季節のお決まりな格好で外に出る。
 駅に向かって歩いている途中、つい一週間くらい前に降った初雪が日陰にまだ残っているのを見つけた。日差しに当たればあっという間に溶けてなくなってしまうのに日陰だとそう上手くいかないところは、なんだか人間関係の序章みたいだ。
 誰かの良い部分を知れば、警戒心や緊張感なんて割とすぐに無くなってくれるけど、逆に悪いところを知ってしまったらその人と仲良くしにくくなるところなんてまさしくそれだ。
 改札に定期を通してホームに出る。ちょうど来た電車に乗り込んでしばらく揺られていたら、何個目かの駅に停まった時に円加が乗り込んできた。私と目が合ってすぐに「おはよう」と笑顔で駆け寄ってくる。私もおはようと返して、再び動き出した電車に二人で揺られた。
「昨日帰ってご飯食べた後すぐ寝ちゃってさぁ。おかげで朝からシャワー浴びる羽目になって家出るの遅くなっちゃったんだよね」
 円加は器用に眉を動かして苦笑する。いつもは私より先に学校に着いているのに今日は電車で顔を合わせた理由が分かった。
「おまけに寝坊したから朝ご飯食べれてないし。あぁ~お腹減ったよ~」
「学校の前にコンビニ寄って何か買う?」
「そうしよっかな~。あ、雪乃は気にしないで先に学校行って良いよ」
 円加はそう言ったけど、ちょうど私もコンビニで買うものがあったから付き合うことにする。どっちみち、私もコンビニに寄るつもりだったからちょうどいい。それを言ったら「雪乃も朝ご飯食べてこなかったの?」とたまに出てくる円加のちょっとした天然な部分が炸裂した。これを天然というのかどうかは人それぞれだろうけど、私はそう思っている。
「違うよ。ちょうどノートと赤ペン切れそうだから新しいの買いたいだけ」
「あぁそうなんだ。びっくりした、てっきり雪乃も朝ご飯抜いてきたのかと思った」
「朝ご飯くらいちゃんと毎日食べてるよ」
「だよねぇ。びっくりしちゃった」
「も~」
 円加が無邪気な顔をして笑う。口調とかぱっと見の飄々とした雰囲気とか、たぶん運動部員っていう部分がそういう風に見せてるんだろうけど、だけど実際の円加は全然そんなことはない。乱暴な言葉を使ってるところなんて今まで見たことがないし、年相応の可愛い一面だってある。詳しくは教えてくれないけど好きな人だっているみたいだし、何ならその辺の他校に通ってる同い年の女の子よりよっぽど女の子を全うしているとさえ思う。
 私たちが下りる駅に電車が着いて、順番に電車を降りる。学校に行く途中にあるコンビニに立ち寄って、私は文具類を、円加は朝ご飯をそれぞれ買った。
 その後また少し歩いて教室に入ると、円加は自分の席に座るや否や朝ご飯を食べ始めた。ちらっと見ると、シーザーサラダとレジの横にある串に刺さった唐揚げ、それと塩むすび一個。普段から部活に精を出し続けている円加の体にはちょっと物足りない気もするけど、自分で少食だって言ってたくらいだし、ひょっとしたら逆にこれは多い方なのかも。
 円加が食べ終わるとほとんど同時に朝礼が始まった。何の変哲もないそれが終わった後で一時間目の準備。とは言っても自習だけど。何でも数学担当の先生が身内の事情で今日からしばらく学校に来られないらしい。
 せっかくだし、冬休みの課題ちょっとでも終わらせておくかな、と前回の授業の時にもらっていた数学の課題プリントを出す。二学期が始まってから今までの授業の復習みたいなもので、日頃の授業をちゃんと聞いていれば全然難しくない内容。
 一時間目はそれを全部終わらせたところでちょうど終わった。ちょっと特別感のあるイレギュラーはそれだけで、二時間目からは普通に授業を受けた。
 昼休みを挟んだ午後の授業も特に変わったことは無く、平和そのものに時間が過ぎていった。そうやって迎えた放課後、今日も今日とて部活に勤しむ円加とは教室で別れて、昇降口から帰路に着く。朝はまるで真夏みたいな快晴だったのに、今はなんだか不穏な空模様だ。雲の色がちょっと灰色で、もう少し経てば雨か雪が降ってきそう。できれば家に着くまで降ってきてほしくないなぁと思いながら電車に揺られていたら、私が降りる駅に着いた時にちょうど雨が降ってきた。どうしよう、傘持ってたっけ……。
 鞄を漁ってみたら、奇跡的に折り畳みの傘が入っていた。そういえば備えあれば患いなし精神で常に忍ばせていたんだった。……って、言い方。まるで傘が凶器みたいな言い方じゃん。もうちょっと他にあったでしょ。
 脳内で自分にツッコむのもほどほどに、傘を差して家に帰った。帰ってからのルーティンを終わらせた後の夜、いつもなら七時頃には帰ってきているはずのお父さんの帰りが、今日は遅いようだった。
「今日、お父さん遅いね」
「そうね。残業で遅れるって連絡も入ってないし、どうしたのかしらね?」
「今まで一回も無かったよね、こんなの」
 一足先に晩ご飯をお母さんと二人だけで食べながら囲む食卓。いつもと変わらないお母さんの味付けのはずなのに、どこかもの寂しさが目立って味気なく感じてしまう。咲良は十七年もこんな生活を続けてきたんだ。そう思うと、私に言ってみせた「雪ちゃんだから不幸せでも良い」って言葉の芯が見えた気がした。
 お父さんが帰ってきたのはそれから三十分くらいしてからだった。
「お父さんおかえり。遅かったね」
「あぁ、ただいま……」
 その言い方がちょっと不自然だったことに、この時点で気づいておくべきだったと、すぐに私は後悔することになった。
「なぁ母さん、雪乃」
「ん、なに?」
 お父さんの顔色は晴れない様子だった。それで何かあったのかなとは思ったけど、まさかあんなことを言われるなんて微塵も思っちゃいなかった。
 白状すると、私は甘えていた。この生活がずっと続くこと。高校を卒業して、いつか私が一人暮らしをするようになるまでは、お父さんとお母さんと私の三人で、この家で他愛無いことをひたすら垂れ流しにできること。
 今になってみれば相当バカバカしいことだった。どこにだってそういう保証があるわけでもないのに、なんでこの生活がずっと続いていくなんて思いこんでいたんだろう。どこにそんな自信があったんだろう。
「ちょっといいか?」
「え、うん」
 お父さんに言われるがまま、リビングテーブルのいつもの定位置に座る。お父さんの向かいにお母さん、その隣に私。
「あのな、今日唐突に言われたんだが……」
 お父さんの仕事が銀行員っていうだけで、いつかはそういうことがあり得るってことくらいこの歳になればなんとなくだけど分かっていたつもりだった。だけど、いざお父さん本人の口から聞かされたら、それは現実じゃない、夢か幻のようなものに聞こえた。
 お母さんは、眉の一つも動かさないで落ち着いた様子だった。私よりずっと長い間お父さんと一緒に居たからか、それとも心のどこかでそういう準備を整えていたのかは分からない。少なくとも私は、私だけは、その現実を受け止められなかった。むしろ今までの十七年間、一回もそういう話が出てこなかったのが不思議なくらいなのに。
 それでもたった一つだけ。振り向きざまに髪をなびかせて笑ってみせる咲良の姿だけは、どういうわけか明瞭に目の奥に思った。

   3

 お父さんの言葉を頭の中で反芻してみても一切の現実感が湧かずにいた。それくらい気が動転していた。
「それ、本当なの……?」
 それだけ言えたのが奇跡なくらいだった。お父さんは心底申し訳なさそうに「あぁ。今度、東京の本社に転勤することになった」と言った。
「そう、なんだ……」
 果たしてそれすら言えていたかどうかすら怪しい。漢字で表せばたった二文字のその言葉は、その文字数には全く似つかわしくない衝撃を私にぶつけてきた。
 転勤。銀行員の仕事をしていれば別に珍しくないっていうのはお父さんからたまに聞かされていたから分かっていた。けれどまさか、それが自分たちの身に降り注いでくるなんて思わなかった。
 それでも、私はまだ縋るように「それ、単身赴任とかにはならないの?」と訊いていた。一縷の望みというべきか、それとも単純に現実逃避をしたかっただけか。
 結果、それはどっちも虚しく散ってしまった。
「父さんもできることならそうしたかった。だけど、もし単身赴任で家を空けることが多くなったら、母さんと雪乃の身に何かあった時にすぐに駆け付けてやれないし、大事な時に守ってやれない。何かあった後で後悔するくらいなら、雪乃には辛い思いをさせてしまうが、この際家族そろって引っ越すのも一つの手なんじゃないかって思うんだ」
 それは遠回しに私が転校することを意味していた。
 お父さんの言い分も分かる。今のご時世、どこで何が起こるかなんて全く予想できない。そんな中で妻と子供を置いて自分一人だけ遠くに行くのが不安で仕方ないっていうお父さんの気持ちも、痛いほど理解できる。
 でも、納得できない自分がいるのも事実だ。なんで今なんだろう、なんでこのタイミングでそんなことを言ってくるんだろう。どうせならもう一年待ってくれていても良かったんじゃないかと思う。
 それだったら、私の進路によってはある程度割り切ることができたかもしれない。でも、高校二年生の真冬に転校なんて、最悪にもほどがある。何より咲良や円加と離れてしまうのが、私にとっては一番イヤだ。たった十二ヶ月じゃないか、なんでそれくらいも待ってくれないんだとお門違いな怒りまで覚えそうだった。
 そんなことをしても無意味だっていうのも分かっているから、やるせない気持ちになるしかない。どこか諦めるような形で頷くしかなかった。
 無論、理解しただけで納得したわけじゃない。だけどこればかりは、どうやってもそうせざるを得なさそうだった。

   *

 頬に羽毛みたいなものが触れたのを感じて目が覚めた。む~、とかん~、とか唸りながら体を起こしてあくびをすると、寝起き特有の体の重さも寝ぼけ眼も一気に解消した。まだちょっと頭はぼんやりとしているけど、そうやって明瞭になった視界には白しか映らなかった。
 前に見た、雪ちゃんと寄り添い合っている夢と同じような場所だった。右も左も、地面も地平線も全部真っ白けで、物音の一つも聞こえてこない。どこまでも同じ景色しか映らない場所に、どういうわけか私は横になって寝息を立てていた。
 えっと、何してたんだっけ、とまだちょっとぼんやりとしている頭を働かせて思い出す。もう学校は冬休みに入ったから、課題やって昼ご飯食べて、ちょっとくつろいでて、それでその後は……。
 そこまで思い出した時に、唐突にどこかから「咲良」と呼ばれた。数え切れないほど聞いた響き、聞くだけで嬉しくなるような優しい響き。
 声のした方に振り向く。その先で、雪ちゃんが私のすぐそばにしゃがみ込んでいた。まるで私のことを幼い子供だとでも思っているかのような朗らかな微笑み顔で、そこにいた。私の方に手を伸ばしてきたからその手を取ると、徐に立ち上がって私を抱き寄せた。いつにも増して繊細な触れ方だった。
 すぐ耳元で雪ちゃんの吐息が、胸元で鼓動が聞こえる。それを間近に感じるだけで身体の芯の部分からポカポカと温かくなってきそうで、しばらくの間ずっとそうやっていた。心の大部分で「ずっとこうやって居たいな」なんて風に呆けたことを思っていた。
「ごめんね」
 耳元で雪ちゃんが言った。
「どうしたの?」
 急に謝ってきたものだから訊くと、雪ちゃんは私の背中に腕を回したまま私と離れた。そうして見た雪ちゃんの表情は、何故か今にも泣き出しそうなものだった。
 それから雪ちゃんは、本当に目尻から頬を濡らしながら私の額と自分のそれとをコツンと重ね合わせてきた。
 今日の雪ちゃんはいやに感傷的だな、なんて、この時はまだその程度にしか思わなかった。
 そうやって触れ合っている時間が愛おしくてたまらなかったから、もっと近くに感じていたかったから。だから、キスをするときと同じように閉じていた目を開いたのに――
「え……?」
 ――そこに雪ちゃんはいなかった。まるで最初からそこにいなかったように、私の腕だけが宙ぶらりんな状態で白の中に浮いていた。
「雪ちゃん……? どこ行ったの……?」
 おかしい。今の今まで雪ちゃんは私のすぐそばにいた。優しく抱きしめてくれていた。その時に体の全部で感じた、私が大好きな温もりだって鮮明に残っている。なのに、どうしてだか私のそばからいなくなっていた。
「ねえ……雪ちゃんってば……」
 どこに行ったんだろう。四方八方をひたすら探してもどこにもいない。目に映るのはどこを見ても真っ白だけで、それがいよいよ気持ち悪くすらなってきた。
 今まで感じたことのない、得も言われぬような孤独感がすぐそこまで来ていた。怖くて、寂しくて、ひたすら息苦しくて……何歩か後ずさりしたら、またどこかから「咲良」と私を呼ぶ声がした。
 その方を見ると、十メートルくらい離された先に雪ちゃんがいた。さっきはどれだけ探しても見つからなかったのに、最初からそこにいたようにして立っていた。
 それを見るや否や、私は一目散に雪ちゃんの方へ走り出した。けれど、どれだけ走っても雪ちゃんには近づけない。それどころかだんだん距離が広がってさえいった。ちょっと駆け足で進めばあっという間にたどり着けるくらいのところにいたはずの雪ちゃんが、どんどん遠のいていく。私だけが、その場に取り残されていく。
 待って……置いて行かないで……私を独りぼっちにしないで……。
 どれだけ私が走っても、雪ちゃんとの距離は一向に縮まらない。まるで磁石の同じ極みたいに、私が近づけば近づくほど雪ちゃんは遠くに行ってしまう。
 そしてついに、雪ちゃんは私に背を向けてしまった。
「待ってよ、雪ちゃん……」
 力なく呟いたのを最後に私の足は止まって、雪ちゃんは地平線の彼方遠くへと消えてしまった。独りぼっちで取り残された私は、その場に膝から崩れ落ちて嗚咽を漏らす他になかった。


「おいって、咲良!」
 慌てたような声が急に聞こえてきて、勢いよく飛び起きた。そのまま何かに激しく頭をぶつけて、「いった~!」の声が二つ重なる。
「いててて……あ、あれ?」
 頭をぶつけたことで目が完全に覚めたらしい。少しずつ目を開けていくと、そこはさっきまで私がいた気味の悪い空間なんかじゃなくて自分の部屋だった。目の前には、私と同じように頭を押さえて「いっつ~……」と声を上げるお父さん。
 どうやら今しがたまで私が現実だと思っていたものは夢で、飛び起きた時にお父さんと頭をぶつけたらしい。
「え、っと……お父さん大丈夫?」
「な、なんとか……咲良は?」
「私も大丈夫……」
 答えながら部屋の中を見渡してみる。やっぱりどこをどう見ても自分の家の自分の部屋だ。くつろいでいる間に寝落ちしてしまって、あんな夢を見たということだろうか。最悪な夢だったなぁと思う反面、あれが夢で本当に良かったと心の底から安堵する。
「どうした? 怖い夢でも見たか?」
「そうみたい……ちょっと水飲んでくる……」
 あんな夢を見たからか、体中を嫌な汗が流れていて喉もひどく渇いていた。コップ一杯の水道水を飲むと、やっと体を支配していた緊迫感みたいな糸が解れてくれた気がした。
「ちょっとは落ち着いたか?」
「うん、なんとか」
「それなら良いんだ。ってか、時間大丈夫か?」
「へ……?」
 時計を見ると、午後二時を少し過ぎたくらい。今日、何かあったっけ? と首を傾げる。
「今日、雪乃ちゃんと遊びに行くんじゃなかったか?」
「……あぁー‼」
 言われて思い出した。お互い冬休みに入ったから、今日の午後からデートしようって約束してたこと。約束の時間は一時半。それも今日の待ち合わせ場所はいつものバス停じゃなくて、この街の中心部にある大きな公園だ。ここから歩いて行こうものなら三十分はかかる。
 すぐに出かける準備をして家を飛び出した。エレベーターで一階に下りている最中に雪ちゃんに「昼寝してたら寝過ごした! 今すぐ行くから待ってて!」と打ち込んで、外に出ると同時に送信。
  全く、私ってば何やってるんだろう……。久しぶりのデートの日にこんなことしでかすなんて。も~バカバカバカ。
 自分の出せる最大限で急いだ結果、公園には十五分くらいで着いた。雪ちゃんは公園の中のベンチで待っているらしい。息を整えながら探してみるとすぐに見つかった。
「雪ちゃん!」
 声を掛けると、雪ちゃんは立ち上がって「おーそーいー」とむくれた。
 苦し紛れの言い訳をするより前に、私の首筋に冷たいものが触れた。雪ちゃんが持っていた缶のレモネードだった。
「せっかく咲良と一緒に飲んで温まろうと思ってたのに、もう冷めちゃったよ」
「本当ごめん……気づいたら寝落ちしてて……」
「うん、いいよ」
 その声に顔を上げると、雪ちゃんはこれっぽっちも起こった表情なんてしてなかった。
「今回はちゃんと連絡くれたもん。だから良いよ」
 そう言って、温かかったはずのレモネードの缶を私に差し出してきた。そういえば中一の時もこんなことあったっけ、と当時を思い出す。
「とりあえず最初は水分補給ね。咲良、走ってきて喉渇いたでしょ」
「あぁ、うん」
 ベンチに座り直した雪ちゃんの隣に私も座ってレモネードを飲む。その時にちらっと雪ちゃんの方に目をやってみると、いつも通りの雪ちゃんの横顔があった。
 さっき見た夢の真相は分からないけど、何も今気にするようなことじゃないのは確かだ。せっかくのデートだし、思い切り楽しんで嫌なことは忘れちゃおうとレモネードで喉を潤した。
「よし、行こっか」
 空っぽになった缶をゴミ箱に入れてから雪ちゃんと二人並んで歩く。本当ならクリスマス当日にしたかったデートだけど、その日は雪ちゃんの都合が付かなくて今日になった。
 真冬の公園なんてイルミネーションくらいしか見どころが無いと思っていたけれど、そもそもの敷地面積がかなり広いからゆっくり歩いているだけで時間が過ぎていった。
 一周した後は公園の近くにあるショッピングモールを目的もなくぶらぶらした。いろんな店のいろんなものを見て回っているだけで、時間っていうのは案外簡単に過ぎていってくれた。特に用も無いのに、洋服屋に入ってみたり物が雑多に並ぶ雑貨屋の中で軽く道に迷ったりしているだけで充分すぎるくらい楽しかった。
 午後六時を回る頃、どちらともなく帰ることにした。ゆったりとした足取りでアスファルト舗装された道を歩く。
 たまには送ってくよ、との雪ちゃんの言葉に甘えて、家の近くまで送ってもらった。
「ここで良いや」
「そっか、分かった」
 それまで繋いでいた手が自然と離れる。
「じゃあ、ばいばい」
 ――あれ?
 雪ちゃんの、その言い方が引っかかった。雪ちゃんに背を向けようとした足が止まる。
「どうしたの、咲良?」
「……なんで?」
「ん?」
 思った時には口から言葉が出ていた。どうして、なんで雪ちゃんは……。
「なんで、そんな言い方するの……?」
「だって、今日はこれでお別れでしょ?」
「そうじゃなくて……」
 私が言いたかったのは、そういうことじゃない。
「なんで、もう会えないみたいな言い方するの……?」
 もしかしたら、雪ちゃんは本当に「今日はこれでお別れ」の意味でそう言ったのかもしれない。だけど私にはそういう風には聞こえなかった。ふと、昼間に見たあの夢が脳裏を過る。
「……そんな言い方した?」
「したよ」
「……そっか」
 ぞわぞわと胸騒ぎが起こり出す。そんな私をなだめるかのように、しばらくの間俯いていた雪ちゃんはそっと優しく抱きしめてきた。自分のことに手一杯だった私はちょっと驚いてしまう。
「え、雪ちゃん……?」
 とても繊細な触れ方で、それが余計に夢を連想させる。
「咲良……ごめんね……」
 肩も声も震えていた。萎れた言い方に私の胸まで痛む。
「ずっと一緒に居るって、そばに居るって……離れないって約束したのに……その約束、守れそうにないんだ……」
「……どういう、こと……?」
 私を包む雪ちゃんの腕の力が強くなる。ただでさえ近くで感じていた、雪ちゃんの軋むような鼓動の音と震えた息がさらに近くで聞こえる。
「冬休みの間に、引っ越すことになったんだ……」
「……………………え?」
 何を言われているのか、すぐには理解できなかった。雪ちゃんが言ったこと、その全部を解っているはずなのに、頭も心も受け入れることを必死に拒んでいた。
「だから……もう咲良とこうやって会いたい時に会うこともできなくなっちゃう……本当に、ごめんね……」
「そんな…………」
 夢であってほしかった。昼間に見たのも、これも、全部私の悪い夢。それか、思い過ごしなことを願っていた。
 だけど雪ちゃんの言い方が、涙ぐんだ声が、何より一瞬で私を丸呑みにした徒労感みたいな焦燥が、「これは紛れもない現実だ」ということを苛烈なまでに私に突き付けてきた。杞憂でも何でもないことなんて誰がどう見ても明らかだった。
「そんなの嫌だよ……なんで大好きな人と離れなきゃいけないの……?」
「私だってイヤだよ……でも、もうどうしようもないんだ……」
 雪ちゃんは私から離れると、目を伏せたまま踵を返してしまった。
 引き留めたかった。けれど身も心もズタズタに打ちひしがれたように一切の力を無くしていて、そのまま去っていく雪ちゃんの裾さえ掴めなかった。
 こんなのあんまりだ。何が気に入らなくて世界は私たちを引き離すことにしたんだろう。ずっと雪ちゃんと一緒に居られるって思っていた。高校を卒業した後も、離れることなんて無いまま一生を終えるものだってどこかで確信していた。こんなに好き合って愛し合って仕方ない人と離れないといけないなんて、いったいどういう拷問だろう。
 私はその場に膝から崩れ落ちて嗚咽するしかなかった。夢のラストシーンと全く同じ状況なことが余計に涙を煽って、そのことがただでさえ釘を打たれたような胸をさらに痛めた。

   4

「――おーい、咲良ちゃんってば」
「…………あ、はい?」
 竹中さんに呼ばれていたことにやっと気づく。そうか、今はバイト中だったか。
「どうしたの? なんかボーっとしてたよ?」
「あぁ、そうですか……」
 あの日からというものの、何をしていても無気力状態になることが多くなった。冬休みの課題をやっていようとお父さんとご飯を食べていようと、気が付いた時には魂が抜けたようにボーっとしている。
 そして、その時には決まって雪ちゃんを想っている。前までならそれで勝手に心が高揚していたのに、今じゃその真逆だ。あの日を最後にもう二度と会えないんじゃないか、なんてことを考えてひたすら気分が沈む。そんなだからLINEだってまともに交わさなくなっていた。
「ちょっと早いけど、休憩入りなよ」
「……はい」
 竹中さんに言われるがままバックヤードに引っ込んだ。今の私の状態じゃ、きっとロクに仕事なんてできないと思ったんだろう。私もなんとなくそんな気はしていた。そのくせ休ませてほしい旨の電話も入れないでバカ正直にバイトに来るなんて、融通が利かないというか何というか……。
 休憩室のウォーターサーバーで紙コップ一杯分の水を飲んでみても、喉が潤うだけで何もスッキリしない。せめて戻る時までに少しでもこの鬱屈した気分を腫らしておきたくて、だけどそうするために何をすれば良いのか分からなくて、最終的に外の空気を吸うことにした。
 従業員用の入り口のドアを開けると、ちょうど山内くんがバイクのヘルメットを被ろうとしているところだった。どうやら今から帰るらしい。
「あれ、深瀬さんの休憩時間まだじゃなかったっけ?」
「竹中さんに早いけど休憩入りなって言われた」
 三段しかない階段に座ると、すぐに山内くんに勘付かれた。
「……何かあった?」
 山内くんに話したところで解決策が見つかるわけでも無かったから、私は無言を貫いた。すると、山内くんは何故か私の隣に座ってきた。ヘルメットは、バイクのハンドルに引っ掛けてある。
「ずっと一人で抱え込むより、誰かに話した方が楽になることもあるんじゃない?」
「…………うん、そうかもね」
 話したところで何の解決策になるかなんて分からないけど、分からないからこそ誰かに話してみるべきなのかもしれない。そう思うくらいには山内くんが言うことに動かされた。
「私ね、付き合ってる人がいるの」
「うん」
「ずっと一緒だよって約束し合ったくらい本当に大好きな人なんだ。でも、もうすぐその人が引っ越して離ればなれになっちゃう……」
「なるほどな。それでどうして良いか分かんなくて思い詰めてるってわけか」
「まぁ、そんなとこ」
「ん~……そりゃ参っちゃうな」
「山内くんだったら、そうなった時どうする?」
「え、俺? えぇ~どうすっかなぁ……」
 単純な興味だった。別に最適解を教えてほしかったわけじゃないし、助け舟を求めて聞いたわけでもない。なんとなく、山内くんだったらどうするんだろうと思って聞いただけだった。
 しばらく山内くんは空を仰いで「ん~」と口先を尖らせて考えた。それからしばらくして、どうやら自分の答えが見つかったらしい。
「俺だったら、たぶん引っ越し当日までにめちゃくちゃいろんな思い出作ると思うな。離ればなれになっても、悲しいとか寂しいなんて思わないように、毎日毎日ひたすらはしゃいで、楽しい思い出とか二人だけの秘密とかたくさん作って、それで期日が来たらきっぱり割り切る。たぶんそうすると思うよ、俺は」
「……そっか」
 ちょっとだけ、本当にちょっとだけだけど、胸の中の靄が晴れた気がした。
「ありがとう。ちょっとスッキリした」
「なら良かったよ。休憩明けてからも頑張りな」
「うん」
 ほんの少しだけ現実を前向きに受け止められるようになった。きっと山内くんの意見を聞かなかったらこうはならなかっただろう。彼の言ったことは本当だったらしい。
「よし、寒いし休憩室戻るかな」
 立ち上がって背後のドアノブに手を掛けた。
「あ、そうだ深瀬さん!」
 中に入ろうとした時に山内くんに呼び止められた。
「うん?」
 真剣な目をした山内くんと目が合う。
「今だから言えるけど、俺、深瀬さんのこと好きだったよ」
 唐突な告白に心臓が飛び跳ねた。そんな私をからかうように山内くんは表情を弛緩させる。
「……まぁ、片想いのまま終わったけどね」
「……」
「俺みたいにさ、時間が経った後ならすんなり言えることだってあると思うし、だから深瀬さんもそんなに深く考え込み過ぎない方が良いんじゃないのかな?」
「……そうだね」
 一気に受け止められないことだってあるけど、何も全部を一緒くたにして受け止めようとしなくたっていい。少しずつ受け止めていってもいい。そうやっていつか全部を咀嚼できれば、それで充分なんだ。そのことを山内くんは教えてくれた。
「じゃあ、俺帰るわ」
「うん、お疲れ様」
 ちょっと照れ隠しにも見えるような仕草で、山内くんはバイクに跨って帰っていった。残った休憩時間で心の整理をつけた後、それまでの分の遅れを取り戻すように働いた。
 バイトから帰ってきて晩ご飯をお父さんと食べた後で、この先のことを少し考えた。雪ちゃんに残された時間は、きっと限りなくゼロに近い。その間に私ができることが何なのか考えてみた。だけど思い浮かんだのはどれもクサいものばっかりで、私がやるには恥じらいの方が圧倒的に多いものだった。
 だから最終的に浮かんだのは、私の思いの丈をありったけ雪ちゃんにぶつけてみるしかなさそうということだった。

   *

 あの日から全く寝付けない日が続いた。ずっと同じところをぐるぐると這いずり回って、気が付けば朝が来ていた。お父さんから転勤の話を聞かされた段階で深く眠れない日が多かったのに、あの日の咲良とのデートを皮切りに拍車がかかってしまった。
 だからって昼間に睡眠不足分を補えるかと言われたら、そういうわけでもない。いつまで経っても頭の中はぐちゃぐちゃにこんがらがったままで、そんな状態だから当然眠気もやってこない。今日までに三回、目が覚めたままで夜を明かした。
 家にいても仕方ないから、最近はずっとどこかに出かけている。行く宛ても無いまま外をぶらぶらと出歩いて、日が暮れる頃になると家に帰って、まともに喉を通らないなりにご飯を食べて、またベッドの上でボーっと天井を眺めて夜を明かす。そんな日々をずっと続けていた。
 なんとなくスマホを手に取ってLINEを開く。円加とのトーク画面を開くと、円加のメッセージが目に映る。つい昨日、円加には引っ越すことになったことを話した。円加は「そっかぁー寂しくなるなぁー」とか「雪乃がいなくなったらあたしひとりぼっちじゃん、つらいわぁー」とか、案外軽いノリで受け入れたような感じだけど、どうせそれもやせ我慢だろう。
 その後でピン留めなんかしてしまっている咲良とのトーク画面を開いて、過去のメッセージを見返す、なんてことをした。高一の時も中三の時も、中二の時も中一の時も、こんなことになるなんて一切予想していなかった。
 あの子の言葉をそのまま丸写ししたようなメッセージを見ていたら、胸が張り裂けそうなくらい切なくなってしまう。あどけなく笑ったり、恥ずかしくて赤面したり、ときめいて見惚れたり、興奮してはしゃいだり……咲良のそういうところが、私はどうしようもなく大好きでたまらない。だから、あの時引っ越しの件を話してしまったことを心底後悔している。
 本当なら、あの日には話さないつもりだった。まだちゃんと整理ができていなかった中のデート。もしかしたら咲良と一緒に楽しい思いをすれば、ちょっとくらいは整理が付きやすくなってくれるかな、その後ならあまり気負わずに話せるかな、と思っていたのに、結果はそれとは遠くかけ離れたもの。
 咲良に見透かされたのもそうだけど、何より私を打ちのめしたのはあの子の眼だった。あんな、ちょっと言葉を間違えれば今すぐにでも泣き崩れてしまいそうな眼で見つめられてしまったら、「気のせい」だとか何だとかの言い訳は一切機能しなくなってしまった。
 私は、咲良を相手にしたら隠し事なんてできない。いくら自分の中で隠し通そうと強く決めても、結局はそんなことなんてできずに終わる。私が分かりやすいだけなのか、それとも意志薄弱なだけか……。どっちにしてもたいして変わらない。
 あれから咲良とはLINEすら交わさなくなった。年明け初日で、私がこの街を去ってしまう一月一日までもう一週間も残っていない。残った日数が私たちの関係をどんどん希薄なものにしていくのは目に見えていた。そんなのイヤだって、心の底から叫んでいる。それ以上に咲良の声が聞きたくて、温もりに触れたくて、隣に並んで同じ道を歩きたくて、だけどどうしていいか分からなくて——。
 いよいよ収拾がつかなくなって、グラグラと音を立てながら地盤が砕けていく。亀裂の隙間から溢れだした叫び声はあっという間に瞼の奥から涙を誘発してきた。
「咲良……咲良ぁ……」
 後腐れみたいに未練がましく咲良を想って仕方ない。誰かのことを好きになるのがこんなにも苦しいことだなんて思わなかった。誰か一人を特別扱いするのがこんなに辛いなんて思わなかった。咲良が私の全部なのに、その咲良がそばにいてくれなかったら、私はいったいどうすればいいんだろう。
 涙と一緒に咲良に対する気持ちは止め処なく溢れてくる。もう私一人の力じゃどうすることも出来なくて、ただひたすらに涙を流し続けるしかなかった。
 だから、思いもしなかった。
 手に持ったままだったスマホが震えて、電話の着信音が鳴る。こんなに心身ともにカオスな状態でも何か着信があるとすぐに見てしまうのは、きっと現代人の性なんだろう。
 画面を見て、そこに表示されている名前を見て、息が止まるかと思った。
「え……?」
 見間違いかと思った。だけど、何度見返しても電話を掛けてきている相手は変わらない。それまでどうやっても止まりそうになかった涙が一瞬で引っ込んで、私はその電話が切られるより前に応答ボタンに触れていた。でもきっと、私が電話に出るまで切れることはなかっただろう。
 おそるおそる耳に当てると、私が声を出すより先に向こうから声が聞こえた。
『雪ちゃん? 今、家にいる?』
「……咲良……」
 電話の相手は、咲良だった。いつもより何倍も真剣な声色をしていた。
『私ね、今、雪ちゃんの家の前にいるよ』
「なんで……」
 たくさんの意味がこもった「なんで……」だった。なんで電話なんて掛けてきたんだろう。なんで家の前なんかにいるんだろう。なんであんなことがあったのにそんなに落ち着いていられるんだろう。なんで、私のところに来てくれるんだろう……。
 他にもたくさんの「なんで」が頭に浮かんだけれど、それを全部言葉にするのはどう考えても不可能だった。
『直接話したいこと、あるんだ。だから、そこで待ってて』
 それで咲良は電話を切った。それからほとんど間を置かずにインターフォンが鳴って、ドアをノックする音が聞こえて……。一泊半くらいの隙間の後、ドアの向こうから聞き馴染みのある声が聞こえてきた。
「ねえ、雪ちゃん。出てこなくて良いから、その場で聞いて」
 私はなんとなく、ドアに背を預けて座った。咲良もそうしているような気がした。
「私たち、知り合ってからもうすぐ六年目なんだね。六年ってすごいよね。小学校に入ってから卒業するまでと一緒なんて、全然信じらんないよ」
 何も言わずに、ただ咲良の言葉に耳を傾ける。
「正直な話さ、中学校の体育館で初めてまともに雪ちゃんの顔見た時、絶対この子は私となんて仲良くしてくれないだろうなって思ったんだよね。ホントに中学生かって疑うくらいきれいだったんだもん」
 そんなの、私だって同じだ。私だって、初めてまともに咲良の顔を見た時にはそう思った。自分自身じゃそんな風には思ってないだろうけど、咲良は私なんかよりずっと可愛いしずっときれいだ。こんなことを言い合ってバカみたいにはしゃいでいる様子が目の奥に安易に想像できる。
「だけど実際は全然違った。超が付くくらい仲良しになったよね。思ってたのと正反対過ぎてなんかおかしいな」
 うん。
「その後はひたすら楽しいことばっかりだったね。二人で夏祭りにも行ったし、プラネタリウムも観に行った。いろんな所でいろんなことして、いろんな思い出作って、それで……気が付いたら私、雪ちゃんに恋してた」
 うん、そうだね。いろんなことあったね。
「最初はさぁ、そんなのありえないって、おかしいって思ってた。だって、男の子にするならまだしも、自分と同じ女の子だよ? それなのに恋しちゃうなんて、それって人としてどうなんだろうって、自分で自分が信じられなかったっけ」
 ドアの向こうで咲良が笑っている。私と咲良が同じだったことを今になって知った。
「でもね、今は違うよ。誰が何て言ってきたって、どんな風にひどく言われたって、雪ちゃんのことが大好きな私の気持ちも、お互いがお互いを大切に想い合って仕方ない現実も変わらない。どんな目に遭っても、何て言われても、どういうレッテルを貼られても関係ない。私はどこまで行っても私だし、雪ちゃんだってどこまで行っても雪ちゃんのままだよ」
 ……本当に参ってしまう。自分だってどうして良いのか分からないはずなのに、なんでこんなに澄んだ言葉ばかり出てくるんだろう。せっかく止まってくれていた涙が、また頬を伝いだしてくる。
「それとね、雪ちゃん」と咲良はさらに言葉をかけに来てくれる。
「私、雪ちゃんと出会えて、仲良くなれて、友達になれて、恋人になれて……雪ちゃんの一番になれて本当に良かった。あの時思い切って声を掛けたのが雪ちゃんで良かった、初めて本気の恋をした人が雪ちゃんで良かった。……雪ちゃんも、きっとそうだよね?」
 そうだよ。私だって、咲良と出会えて本当に良かった。仲良くなれて良かった、友達になれて良かった。咲良に恋をしたことが悪いことだって思ったことなんて一回も無い。咲良の一番になれて、咲良が私を一番に思ってくれて……。
 こんなに嬉しいことなんて、きっとこの先の未来に一度だってないはずだ。そう思って疑わない。人を本気で想うことが、こんなに自分の喜怒哀楽をはっきりさせてくれるなんて今まで知らなかったんだから。嫌いになれたら少しはマシだっただろうに、いつまで経っても好きなものは好きなままなんだから。咲良のことも、咲良が好きな私自身のことも。
 洟を啜る音を聞かれるのがなんだか恥ずかしいことのように思って声を殺して泣いた。
「だから、ありがとう」
 その言葉が、私の体を反射的に動かした。頬を流れ続ける涙を放ったまま、ドアの向こうにいる咲良に目を向ける。なんとなく、そこにいる咲良の気配が揺れた気がした。
「引っ越しのことは正直今も戸惑ってるし、雪ちゃんと離ればなれになるのも嫌なままだけど、でももうどうしようもないんだよね? だから、これで最後にするから、せめてこれだけは言わせて。私、雪ちゃんのこと絶対忘れない」
 やめてよ……。
「向こうに着いたらさ、またLINEしてきてよ。くだらないことばっかり話して、いつまでも笑って、お互いのこと好きなんだなって思い合おうよ」
 やめてってば……。
「あ、そうだ。今だからこんなこと言うけど、私たまに、雪ちゃんに対してイラっとした時あったんだよ。知らなかったでしょ? ――でもね、雪ちゃんが楽しそうに笑ってるのを見てたら、いつの間にか忘れちゃってたんだ。それだけ雪ちゃんといたら楽しかったんだよ」
 お願いだから、これ以上はもうやめて……。これ以上、未練がましく思わせないで……。
「じゃあ、バイバイ雪ちゃん。引っ越した後も元気でいてね。ホームシックになりそうだったら、いつでもLINEなり電話なりしてきてね。最後になったけど……こんな私と、長い間一緒にいてくれて、本当にありがとう」
 その瞬間にドアを開けて、「待って」とか「行かないで」とか言えたらどれだけ良かっただろう。だけど私が咄嗟に伸ばした腕は、ドアノブを掴んだと思った途端にするっと力が抜けて、力なく垂れ落ちていった。
 今のが咲良と話せる最後のチャンスだったということを今やっと、唐突に気づいた。
 終わったと思った。これで、全部終わった。終わらせてしまった。
 もう、ドアの向こうに咲良はいない。確証はないけどそう思った。さっきまでドア越しだとしても確かに感じていた咲良の温かさがもう無くなっているのが何よりの証拠だった。
「……ぅうっ………………」
 フツフツ、胸の奥から湧き上がってくる。喪失感なんて生っちょろいものじゃない。
 そうだ、これは――。
「何やってんのばかあああああああっ!」
 感情が爆発した。
 自分に対する怒りと後悔だった。それ以上に呆れがあった。あのまま終わらせてしまったこと、一言だけでも良いから自分の気持ちを伝えたかったこと。なんでできずに終わらせてしまったんだろう。きっと咲良だって、私の言葉を待ってくれていたはずなのに……。
 一度爆発した感情は、どれだけ自分を卑しく思おうが蔑もうが、侮辱したって収まってくれなかった。むしろそんなことをしている自分がひたすら惨めに思えて余計に涙が溢れてくる始末だった。
 この際、こんな自分なんて心の底から大嫌いになってしまいたかった。その方が後腐れも何もなしにスッキリできると思ったから。だけどできなかった。どれだけ自分で自分を責め立ててぐちゃぐちゃになるまで嫌おうとしても、「雪ちゃんはそんな子じゃないよ」と心の中から咲良の声がしてくる。何度も何度も、何度も……。

   5

 泣いて、泣いて……ようやく涙が止まった後で、私はリフレインしてくる咲良の面影に縋るように顔を上げた。楕円形のテーブルと、私に背を向けているアクリル製のフォトフレームが目に映る。
 そういえば昔から自分にとって大切な写真はこれに入れてたっけ、と思い出しながらそれを手に取った。そして、息を呑んだ。
「……っ!」
 入っていた写真は、去年の夏祭りに咲良と撮ったツーショットの写真だった。今年はタイミング悪く台風が日本を通過して夏祭りそのものが中止だったからすぐに分かる。
 二人でりんご飴を持って、楽しそうに目を細めて笑っている。こんな現実が待っているなんて一ミリも予想していないとびきりの笑顔で写っていた。
 だけど、これは私が撮ったものじゃない。現に写真に写る私は片手にりんご飴、もう片方の手はピースサインを作っている。それに咲良は左手にりんご飴を持っていて、右手は途中で見切れている。咲良が自分のスマホでこの写真を撮ったのは明らかだ。それが、どうして私の手元なんかに……。
 気になってフォトフレームからその写真を取り出して、裏返してみた。今度は息が止まるかと思った。
「ずっとこのまま、雪ちゃんと楽しく笑っていられる幸せな当たり前が続きますように」
 咲良の字でそう書かれていた。見間違いじゃない。「と」とか「そ」の書き方に少しクセがあるからすぐに分かる。
 咲良はいったいどういう意図でこれを書いたんだろう。それ以前にいつこれをこのフォトフレームに入れたんだろう。去年の夏祭りの後から今まで一年以上もある。その間に私が気づかないなんてことは普通に考えてあり得ないはずだけど……。
「あ……」
 思い出した。中に入っていた写真が変わったことに気づかなかったんじゃない。変わったこと自体を忘れていたんだ。去年の夏祭りの後、咲良が家に遊びに来た時のこと。
「そういえばこのフォトフレームに入ってる写真、たまに変わってるよね?」
 そんな風に咲良に訊かれた。
「あぁ、それね。大切にしたい思い出ができる度に入れ替えてるんだ」
「ふぅ~ん。これ、中学の卒業式のやつだよね?」
「うん。……そうだ、ちょうど良いし、そろそろ入れ替えようかな」
「あ、だったらさ、これにしようよ!」
 そう言って咲良が見せてきたのが、このツーショットだった。新しい写真を入れることの新鮮さが歯がゆくて印象的だったはずなのに、どうして今まで忘れていたんだろう。ましてや、こんなに大事な思い出の一かけらなのに……。
 それに、裏面に書かれた言葉。きっと咲良のことだからその時に思ったことを素直に文字に起こしただけだろう。この写真をフレームに入れようと決めたのも、コンビニのプリンターで印刷してきたのも咲良だったから、印刷したその場でこれを裏面に書くことなんて何も難しくない。
 写真に写る咲良の輪郭を指でなぞる。心臓の近くがキュッと縮こまる。大切にしたい思い出なんて夏祭りの後にもたくさんあったのに、何故かそれ以来写真に撮ることをしていなかったからずっとこの写真が入ったままだった。
 指先に力がこもっていく。このまま終わっちゃいけないと心が声を上げ始める。今さら行ってもどうせ手遅れなんだから諦めろと嗤う自分もいる。だけど……だけどやっぱり私は――。
「…………!」
 ――このまま終わらせたくない。間に合わないとしても、もう手遅れだったとしても、このままお互い悶々とした気持ちのままさよならするのは、それだけは絶対イヤだ。
 そう思ったのが全ての決め手だった。
 弾かれるようにドアを開けて廊下に出る。すると、ちょうど私の様子を見に来たんだろうお母さんとぶつかりそうになった。
「うわっ」
「ごめんお母さん、今急いでるから!」
 駆け足で玄関まで下りて、一番に目に付いたスニーカーに足を突っ込んで外に飛び出した。靴紐が解けていたけどそんなの関係ない。結び直している暇があれば少しでも早く咲良を追いかけたかった。伝えたかった。私の気持ち、思い、全部聞いてほしかった。まだ何一つとして言葉にできていないものを、咲良がそうしてくれたように、私も、全部。
 一心不乱に走った。咲良が今どこに居るかなんて分からなかったけれど、それでも走り続けた。写真を握りしめたまま、ひたすら咲良との思い出を反芻しながら。
 走って、走って、走って……足が疲れ切っても呼吸がしづらくなっても走った。そうやってどれだけ経っただろう。
 中一から今までの間に何度も歩いた橋。その橋の上を歩く咲良の背中を見つけた。距離があっても簡単に分かった。この橋を渡り終えれば、咲良の家はもう目と鼻の先。
 行かなきゃいけない。今ここで行かなかったら、このまま見過ごしてしまったら、今度こそ本当の終わりだ。そういう確信があった。
 だから、一度止まった足に鞭を打って、まともに整っていない呼吸のままでまた走り出す。
 どんどん私と咲良の距離が縮まっていく。
「待って――咲良っ!」
 自分に出せる精一杯の声で名前を呼んだ。走ったことで息が上がっていて、まともな声にならなかった。だけど咲良は、足を止めてゆっくりと振り返ってくれた。
 冬の陽が差す時間は短い。夕方五時頃にはもう黄昏時だ。その西日に咲良の顔が照らされて表情がよく分かる。驚いて、ぽかんとして、間が抜けて、信じられないとでも言いたげな……。
 その表情が少し歪んで伏し目がちになっていく。そんなのなんてお構いなしに、追いつくや否や咲良を強く抱きしめた。小さくて、か弱くて、温かくて、青天井なまでに愛おしい。そんな背中が壊れてしまうんじゃないかと言うくらい強く抱きしめた。
「雪ちゃん……?」
 消え入りそうな咲良の声。息も絶え絶えのまま、その声すらも離したくなくて余計に力が入っていく。
「く、苦しいよ雪ちゃん……ねぇってば」
「やだ……」
「え……?」
「イヤだよ……」
 離さない、離したくない、離れないし離れさせない、離すもんか絶対。
「咲良ばっかり言いたいこと言って、私は何も言ってあげられないままさよならするなんて、そんなの絶対イヤ。私だって、咲良に言いたいことたくさんあるのに……」
 頭の中には、言いたいことなんて山のようにあった。まるまる一晩かけても伝え切れないくらいあったはずなのに、いざ言葉にしようとすると呆気なく一言で片付いてしまった。
「私、ずっと咲良と一緒に居たいよ……」
 結局のところ、それが私の思い全部だったんだろう。引っ越しも転校もしたくない、離ればなれになんてなりたくない、ずっと咲良のそばにいたい、私の思い出の全部に咲良がいてほしいし、咲良の思い出の全部に私を置いておいてほしい。
 だというのに、現実は非情だ。私たちがどれだけ一緒に居たいと思っても、どれだけ幸せで居たいと願っても、私たちにはどうすることもできないような現実を突き付けてくる。
「私も……」
 しばらく黙っていた咲良が、小さく震えた声で言った。
「私も、ずっと雪ちゃんと一緒が良い。離れるなんて想像できない。でも……もう、それしか残ってないんだよ……雪ちゃんが一番分かってるでしょ?」
 確かにそうだ。もう残されている結末はそれしかない。どれだけわがままを言ったところで最終的には私と咲良は離ればなれになってしまう。それはどうやっても揺るがない事実だ。
「うん、だからね、咲良……」
 だから、私は……。
「それまでに、たっくさん思い出作ろ?」
「……どういうこと?」
 いつの間にか咲良は私と身長がほとんど同じになっていた。ほとんど変わらない位置から私をじっと見つめてくる。私も咲良を見つめる。
「引っ越し当日になるまででも良いから、私は咲良と一緒にいたい。たったそれだけだけど、最後の最後に湿っぽいお別れになんてならないように、楽しい思い出たくさん作ってさよならしたい」
 今、唐突に思って口にした。どうやっても最終的にはさよならするしかないんだとしたら、その時が来るまで徹底的に楽しい思い出でいっぱいになってさよならしたい。しんみりした最後なんて似合わないから。私たちには、笑顔しか似合わないから。
「咲良はどうしたい?」
「そんなの……」
 聞かずとも、咲良ならどう言うかなんて分かっていた。案の定、咲良は最初こそ言葉を探すような間を作ったけれど、すぐにまた私と目を合わせて言ってくれた。
「私も、残った時間だけでも良いから雪ちゃんと一緒に居たい!」
「……うん」
 また咲良を抱きしめる。今度は咲良も私の背中に手を回して抱きしめてきた。
「ねぇ雪ちゃん、子供みたいなこと言っても良い?」
「なに?」
「もしいつか、どこかでまた会えたらさ、その時は、また一からやり直そうよ」
「……うん、そうだね」
 その「いつか」がいつなのか、そもそも今度会えるのがいつかなんて分からない。保証すらない。私が引っ越してしまったら最後、一度も会わずにそれぞれの道を歩むかもしれない。道端ですれ違っても気づかない赤の他人になっているかもしれない。それなのにそんな約束をしてしまえるのがなんだかおかしかった。

   *

 私たちは、生き急ぐようにいろんなことをした。いろんなところに行った。いろんな楽しい思い出を作りまくった。
 いつか二人で行きたいね、って話してたくせに結局今まで一度も行ってなかった水族館に行った。巨大で薄暗い水槽の中を二人ではしゃぎながら見て回った。
 街中の至るところを見に行った。何でもない路地裏とか、そこに隠れているアンティーク調の店とか、普段から人気の少ない商店街とか。まるで小学生に戻って宝探しをしているような感覚だった。
 絵のことなんて何も分からないのに美術館にも行ってみた。とりあえず飾ってある絵の全部がとてつもなく上手いことしか分からなかった。
 二人とも好きな漫画が映画になったから観に行った。映画のためのオリジナルストーリーが展開されて新鮮だったのと、それでもちゃんと原作の設定を踏襲していたのとでめちゃくちゃ見応えがあった。
 わずかな日数じゃ到底できないような、それくらい多くのことをした。雪ちゃんが引っ越してしまう日までの五日間。その五日間の中に、私たちが今まで紡いできた愛や絆の全てが詰まっていた。
 だけど、不思議とキスもハグもしなかった。暗黙の了解みたいなものだろうか。してしまったら最後、わがままばかりがうずいてきてしまうことを、お互い口にはせずとも分かっていたのかもしれない。
 そうやって一日一日を、まるでバラバラになってしまったアルバムの写真を一枚ずつ拾い集めるように昇華させていった。
 そしていよいよ、「その日」が来た。


 冬の早朝、まだ朝日が頭のてっぺんすら起こしていなくて暗いプラットホームはひたすら寒かった。この後、あと十分もすれば動き出す始発の電車で、雪ちゃんはこの街を出ていく。雪ちゃんのお父さんとお母さんは、今この駅に向かっている最中らしい。
「今日でもうお別れなんだね」
「うん」
 雪ちゃんの息が、白く染まるのが目尻に見える。私の息も白くなる。どっちの息がより白いか、なんていうくだらないことを延々と話していたあの頃が懐かしい。確か、中二の時だったかな。
 ベンチに隣り合って座っていた。指だけを絡めた微妙な手の繋ぎ方をして、雪ちゃんの顔を見れないでいた。見たらきっと、悲しさと寂しさで泣いてしまうから。
「ねぇ咲良?」
 私が意地でも見ようとしなかったからか、雪ちゃんが私の前に立った。
「な、なに?」
 一応顔は上げるけれど、目なんてまともに見れたものじゃない。すると、雪ちゃんが私の顔を両手で挟んで無理やり自分の目と私の目を合わせてきた。
「へっ?」
「最後くらい、ちゃんと顔見せてよ」
 雪ちゃんの真っ直ぐな目がすぐそこにある。意外と泣くようなことはなかった。目の奥も心も平然としている。どうやらただ気にし過ぎていただけだったらしい。
「……うん、やっぱり可愛い顔だ」
「なにそれ」
「私が大好きな咲良の顔ってこと」
「変なの」
「そうだね。変だね」
 二人でクスクス笑う。
「咲良、私のこと忘れないでね」
「当たり前じゃん。忘れるわけないし。毎日これでもかってくらいLINEしてやるもん」
「あはは、通知すごいことになりそう」
「……雪ちゃんも、私のこと忘れないでね」
「うん……」
 LINEこそ続けるけれど、あと少しで私たちの恋人関係はおしまい。今のはそういうことだ。一瞬だけ遠距離恋愛って手段も考えたけれど、きっと中途半端な私たちのメンタルじゃあまともな恋愛になんてなりそうになかった。だからいっそのこと、この関係を終わらせることを選んだ。雪ちゃんのことは大好きだけど、大好きだからこそ何も気にしないで生きてほしかった。私のことはかつて恋した一人の人間程度に留めてもらえれば、それだけで充分だ。
 雪ちゃんが私の手を取って数歩後ろに下がる。社交ダンスみたいに私は雪ちゃんに吸い寄せられる。
「ん……」
 そして、きっとこれが最後になるだろうキスをした。今までよりずっと、甘くて幸せでどこか切なくて、それでいてちょっぴりほろ苦かった。
 さよならだけが愛。誰かの曲でそんな歌詞があったとふと思い出した。私たちのこれも、きっとそれなんだろう。
 キスの後、雪ちゃんが上着のポケットから何かを取り出した。
「咲良、これ返すね」
「え、これ……」
 それは、夏祭りの時に撮ったツーショットの写真だった。今日からはもう二年前って言い方をしなきゃいけないのが寂しい。
「もう持ってなくても大丈夫だから」
「でも……」
「平気だよ。スマホのカメラロールにたくさん残ってるもん。それに、またLINEも電話もするんでしょ? それだけで充分だよ。咲良の声と咲良との思い出の証さえあれば、全然心細くなんてないから」
「……そう」
 雪ちゃんがそう言うなら、とその写真をポケットに入れる。それからふと思い立って、髪を留めていたヘアピンを外した。雪の結晶の、あのヘアピン。まるで会えない時も雪ちゃんがそばにいてくれているような気になってほとんど毎日付けていた。竹中さんや天音ちゃんたちに「いつの間にリア充の仲間入りしてたんだ~?」なんて風にからかわれても、ずっと身につけて手放さずにいた。いわば宝物の一つだ。
 そんなものを私は今、雪ちゃんの手のひらにそっと置いた。
「私たち、離れてるように見えて実は隣り合わせなんでしょ?」
 桜と雪、春と冬。いつか雪ちゃんが言った、詩的なセリフだ。それをそのまま返すと、雪ちゃんは「一本取られた」たでも言いたげに小さく笑った。
「そうだったね。私たち、隣り合わせだった」
「だから、これは雪ちゃんが持って行って」
「うん」
 雪ちゃんの指を折り畳む。相も変わらず寒がりで冷え性らしい冷たさだった。
 それから程なくして雪ちゃんのお父さんとお母さんがプラットホームに出てきて、二人から大袈裟なくらい感謝された。しばらくの間「そんなことない」の投げ合いを繰り返していたら、電話のコール音みたいな「プルルルル」という音が人気のないホームに木霊しだした。
 あぁ、いよいよか……。
 電車がゆっくり流れ込んでくる。これに乗って県の玄関でもある巨大なターミナル駅まで行った後で、雪ちゃんたちは新幹線で東京へと旅立っていく。これで、本当にお別れなんだ。
 その後のことは本当にあっという間だった。雪ちゃんたちが電車に乗り込んで、扉が閉まって、向こうから雪ちゃんが手を振ってくれて私も振り返して、電車が動き出して、だんだん速度を上げて、そして私だけが残った。
 ホームのギリギリまで追いかけるなんてことはしなかった。今日までの間に自分なりに覚悟は決めていた。今さら未練がましく思うなんてことはしたくなかった。
 一人きりでホームに残った私は、ベンチに座って地平線を眺めていた。
 空っぽだった。何も考える気にならなかった。たった一つ思ったことは、「これで終わったんだんだなぁ」っていうどこか俯瞰的な感想だけだった。
 地平線の向こうがさっきより少しだけ明るくなっていた。
「……」
 さっき雪ちゃんから受け取った写真を取り出した。二人とも、木漏れ日の中で無邪気に歯なんか見せて笑っている。
「…………っ」
 あれ……なんでだろうな……。ちゃんと、覚悟決めてたはずなのに……後悔なんかしないように、二人が納得のいく形でさようならした、はず、なんだけどな……。
 なんで、こんなに悲しくて、こんなに寂しくて仕方ないんだろう。会いたい時に会えなくなった、触れたい時に触れられなくなった。そんな現実味っていう名前の針が何十本も私の心に小さな穴を空けていく。どんどん、隙間が無くなっていく。
 その時にふと、自分の手の冷たさに気づいた。よくよく考えてみれば当たり前だ。冬なんだから、誰とも触れ合ってないんだから、私以外誰もいないんだから。
「…………うっ……」
 そうだ、もうここには誰もいない。つい今しがたまで一緒だったはずの雪ちゃんは無論、出勤中のサラリーマンも、登校中の学生も、この場にはいない。そのことを咀嚼して飲み込んだ途端、瞼の奥のさらに奥がじわじわと熱を帯びだした。
「うっ……うぅあぁ……」
 写真の上にぽたぽたと小さな染みができる。濡らしちゃいけないと必死で泪を上着の袖で拭き取るのに、拭き取った分だけまた溢れかえってくる。
 いつの間にか心に空いた穴は巨大なものになってしまっていた。それに気づいた瞬間「あぁ、ダメだ……」と確信した。
 流れる泪をせき止めるのをやめた。もう私自身の意思の力でどうにかレベルじゃなくなっていた。頬を伝う、また一つ写真に落ちる。
 そして、ついに壊れた。
「ううあああああああああ……!」
 大声で泣いた。大事な思い出がこれでもかというくらい詰まった写真がくしゃくしゃになるのなんて気にしないで泣き喚いた。
 踏ん切りだって付けたし、覚悟だって決めたつもりだった。だけど所詮は「つもり」でしかなかったらしい。止め処なく湧き出て仕方ないだけに留まらずに、脳内をひたすらに駆け回ってすらいる雪ちゃんへの想いが何よりの証拠だった。
 大好きで、大好きで、大好きでたまらない
 もっといろんなところに二人で行きたかった。
 私が知らない雪ちゃんの全部を知りたかった。
 ずっと一緒が良かった。
 ずっと一緒に居たかったし、ずっと一緒に居てほしかった。
 これから先、私が行き詰った時には隣で励ましてほしかった。
 雪ちゃんが行き詰った時には私が隣で励ましてあげたかった。
 いろんな表情を見たかった。私だけに見せてほしい表情だってたくさんあった。
 怒ったり泣いたり、悩んだり落ち込んだり、それでも最後にはやっぱり笑ったり喜んだり、笑ったり喜んだりを繰り返して……。
 こんなのを現実だなんて思いたくないと叫ぶ自分がまだいる。どうして家族そろって引っ越しなんてしてしまうんだろう、どうして単身赴任じゃ駄目だったんだろう、どうして、どうして、どうして……。
 だけど、これは紛れなく現実だ。もう雪ちゃんはここにはいない。どれだけ会いたいと思っても会えない、触れ合いたいと願っても触れ合えない、手を伸ばせば簡単に繋がり合えるわけじゃない。携帯電話とは、わけが違う。
 それでも思い出の中にはどうしたって雪ちゃんだ。雪ちゃんしかいない。
 いつも雪ちゃんがいるんだよ。その笑顔が忘れられないんだ。視界も何もかも、君に染まっていく。かじかんでいく両手ですら、このまま終わらせたくなんてなかったって叫んでる。
 伝えたいことも、話したいことも山のようにある。LINEのメッセージが百行になってもまだまだ足りないくらいたくさんある。くだらないこともちょっと真面目な話も、全部雪ちゃんが相手だからできたんだ。
 ずっと一緒に居よう。夏祭りの日にそう約束し合ったのを思い出す。あの時は花火だけだったけれど、桜も紅葉も冬の雪景色も、全部雪ちゃんと一緒に何回でも見たかった。雪ちゃんの隣で「寒いね」って身を寄せ合ったり、「暑いね」って二人一緒に茹だったり、桜がきれいな道を二人で歩いたり、紅葉の地面を小気味いい音を立てて歩いたり……とにかくいろんなことを何度でも良いから雪ちゃんとしていたかった。君とならどれだけ繰り返しても飽きないとさえ思っていた。
 何度繰り返しても、その度に見たことない景色が待っているって信じていたから。だけどそれは私のまやかし。現実は現実で受け入れないことには何も始まらなさそうだった。

 だから――ありがとう、雪ちゃん。
 ありがとう、大好きな人。
 自分の全部を捧げても良いくらい愛した人が雪ちゃんで、本当に良かった。
 ありがとう、ありがとう、ありがとう……。そしてさようなら。
 これっきり私と会うことなんて無かったとしても、せめてどうか元気に生きて。
 私のことを忘れたとしても、過去に誰かをひたすら愛してやまなかったことだけでも良いから覚えていて。
 それで、もしまたいつか、どこかで会えたら……その時はやっぱり、私とまた、一からやり直してほしい。また、友達からやり直してほしい。お互いの良いところも悪いところも、何年か経って見つかった新しい一面も全部含めたお互いを知らせ合って、そうやってまた少しずつでも良いから歩み寄っていきたい。
 だから今は、さようなら――。

 胸の前で写真を強く抱きしめたまま泣き続けた。
 私の恋が、私たちの恋が、終止符を打たれた瞬間だった。


 どれだけそこでそうしていただろう。ようやく涙が収まってくれた後、私はトボトボと歩いて家に帰った。もう何度も歩いた道のはずなのに、なんだか初めて通る道みたいにいつまでも延々と続いている感覚がした。
 まだどこか虚無感が残っていた。現実を咀嚼して飲み込みはしたけれど、どうしても心の底には虚しさがこびりついてしまう。
 いつもの三倍くらい時間をかけて歩いている途中、少しだけ強くて冷たい風が吹いた。ふと顔を上げて空を見上げると、冬らしい雲がいくつか浮かぶだけの青空がそこにあった。
 雪ちゃんも、この空を見てるのかな……。
 唐突にそう思った。すると、それまで心の中に残っていた虚無感は灰に息を吹きかけたように呆気なく消えてなくなっていった。その代わりに燻ってきたのは……。
「……っ」
 そうだ、そうだよ。雪ちゃんは雪ちゃんなりにこの結末を消化させたんだ。きっとたくさん悩んで、苦しんで、それでも最終的には妥協なり何なりして受け止めたんだ。だったら私もそうしないと、いつかまた会えた時にどんな顔をすれば良いのか分からないじゃないか。
 もちろん、すぐに全部をまとめて一身に受けることなんてできないって分かってる。だからちょっとずつ、ほんの少しずつだけでも良いから、一歩ずつ確かに歩んでいこう。
 この恋を通して失くしていったものは数えきれないほどある。だけどそれ以上に連れてきてくれたもの、手に入れたもの、拾い集めてきたものもたくさんある。
 だから、前を向いて歩くんだ。
 ポケットの中の、くしゃくしゃに折り目がついてしまった写真を空にかざす。なんだかおかしくて笑ってしまう。写真越しの朝日が心地良かった。
 私、精一杯頑張るよ。ひょっとしたら壁にぶつかってしまうかもしれないけど、そこからまた進むのには馬鹿みたいに時間がかかるかもしれないけど、でも頑張るから。
 だから、雪ちゃんも頑張ってね。
 大人になって、いつの間にかこの気持ちなんて忘れてしまっているかもしれない。そんなの嫌だから、私はずっと雪ちゃんを想い続けるよ。



 青空を見上げて投げた花束が届いてくれるよう祈って、私はまた歩き出した――。



           ―完―
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みんなの感想(2件)

寂しがり屋の猫

同性の友人に告白されたとき真剣に向き合っていれば、雪乃さんたちのようないい関係でいられたのかもしれないと思いました。大切なことに気づかせてくださって本当にありがとうございました。

解除
花雨
2021.08.11 花雨

お気に入り登録しときますね(^^)

2021.08.11 夏目侑希

ありがとうございます!(*´ω`*)

解除

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