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6.解けない誤解の憂鬱

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 数時間前とは打って変わり、湿気を含んだ冷えた空気が漂い、風も強くなってきた。
 自動ドアが開いてはドキッとして、ジムの会員の人が建物から出てくるたびに落胆したような、ほっとしたような複雑な気持ちになる。
「千沙希」
 自動ドアが開いたと思ったら、今度こそナギが出てきた。
 大きめのスポーツバッグを肩から斜めがけしたジャージ姿のナギが、変わらぬ笑顔でわたしの前に立つ。
「待たせてごめん」
「ううん、わたしが勝手に来たのが悪いの。こっちこそ、練習中だったのにごめん」
「ちょうど終わる時間だったから。それより……」
 ナギがなにかを言いかけて口ごもった。
 言いにくそうだな。もしかして迷惑だったかな。よほど会いたくなかったとか。話があるなら早くすませてほしいと思っているのかもしれない。
「ほんとにごめん! 少し話したいことがあったんだけど、ナギの負担にならない内容だから安心して」
「別に謝らなくてもいいよ。むしろ、こうしてまた話せてうれしい」
「……あ、ありがとう」
 かえって気を使わせてしまっている。
 変わっていない。離れている間も変わらずにいてくれた。
 ううん、出会った頃から変わらずにナギはやさしい。自分が苦しくても、いつもわたしには笑顔を向けてくれた。
「歩きながら話そうか。家まで送る」
「うん」
 ナギの声がふんわりと落ちてきて心が温かくなる。あたり前のように隣を歩いていたあの頃が遥か遠くのことのように思い出され、またこうして隣にいられることに束の間の幸せを感じていた。
「話って、好きな人がいるって言ってたこと?」
「えっ、好きな人?」
 急にナギが思いもよらないことを言い出すので一瞬固まってしまった。けれど、わたしが言っていたことを素直に信じているナギはわたしの本心に気づくはずもなく、わたしの好きな人の話だと思い込んでいるようだった。
「相手の男って、やっぱり降矢?」
「はっ?」
 なんでそうなるの? と思ったけれど、ナギはすぐさま言葉を続けた。
「実は昨日の放課後、見ちゃったんだよね。昇降口で降矢と待ち合わせしてるとこ。両思いになれたんだね」
「あれはそうじゃなくて──」
「降矢のこと、頼むよ。あいつの支えになってやって」
「な、なに言ってるの?」
 降矢くんとわたしはそういう関係じゃないのに。
「降矢から聞いたんだよね? あいつが肩を壊してること」 
「……え?」
「昨日はそれで病院に行くって言ってたから。千沙希もつき添ったんだろう?」
 知らない。降矢くんはそんなことはひとことも言っていなかった。もうすぐ県大会があって自分のほうが大変なのに、わたしの心配ばかりしていた。
 肩、大丈夫なのかな。こんな時期に余計、不安だろうに。
「千沙希?」
「あっ、いや、その……。そのこと今知ったばかりで。病院に行くなんて言ってなかったから」
「えっ、そうなの!? なら余計なこと言っちゃったかな。肩を壊していることは水泳部のみんなも知ってることではあるんだけど」
「大丈夫。そのことはほかの人には言わない。もちろん降矢くんにも聞かないよ」
「そうしてくれると助かるよ」
 今日の部活のときにナギが降矢くんから聞いた話によると、病院での診察結果は幸い軽症だったらしく、練習方法を見直したり、肩の負担を少しでも軽くするためにフォームを修正したりすることで、プールでのトレーニングは続けられるそうだ。
「じゃあ来週の県大会には出られるんだね」
「あいつならきっと大丈夫。でも千沙希が応援に来てくれたら、さらに心強いんじゃないかな」
「わたしじゃ、なんの力にもなれないよ」
「そんなことないって。ほしいのは大切な人からの言葉だよ。いろんな人から期待されることはありがたいことなんだけど、本音を言うと、うっとうしいって思うときもあるんだよね」
「そんなふうに言うなんて珍しいね」
「今だから言えることなんだけど。たくさんの人のがんばれって言葉は、僕の中を全部素通りしちゃってた。なんて言ったら怒られちゃうかな」
 ナギが冗談めかして言った。
 でも、それがナギの本音。小さい頃からずっと感じていたこと。才能を持って生まれても常に苦悩と背中合わせ。厳しい道には変わりなかったに違いない。
「あいつ、最近取材が増えてきただろう。だから降矢のこと、守ってあげてよ」
「守る?」
「この間もテレビ局の取材を受けていたから知名度もぐっと高くなるはず。マスコミだけじゃなく世間の人からもいろいろ言われるだろうし、ネットでもあれこれ書かれると思うんだ」
 そっか。そういうことか。自分がそうだったから、降矢くんも同じ目に遭うんじゃないかって、そのことを言っている。
 この間の学校での取材のことを、ナギはそんなふうに見ていたんだ。妬むことなく、純粋に降矢くんを心配している。誰よりも彼の立場をわかっているから。
「降矢ってあんまり弱音を吐かないやつだけど、なんにも感じないはずはないから。頼むよ」
 ナギのやさしさには胸を打たれる。でもさっきからナギは、わたしと降矢くんのことを誤解したままだ。降矢くんはわたしの応援を必要としていないのに。むしろナギの応援をしてやれと言っていた。
 本当のことを言ったら、ナギはどんな顔をするだろうか。
「好きな人の応援って、めちゃめちゃ励みになるんだよ」
 ナギが感慨深げに言う。まるで 自分の経験と照らし合わせているようだった。
 美空のことを思い浮かべているんだ。ヨリを戻したのだろうか。ナギの調子がいいのはそのおかげなのかも。
「今日は降矢とデートだったの?」
「え?」
「今日の千沙希、いつもと違う。そういう服を着てるとこ、見たことなかったから、最初誰だかわかんなかった。そのワンピースもよく似合ってる。すごく可愛いよ」
「そんなことないって! ぜんぜん可愛くないから!」
「いや、ほんとに可愛いって。化粧してるのも初めて見た。すごく綺麗だよ」
 嘘みたい。可愛いとか、綺麗とか。こんなふうに、真剣に言われたことなんてなかった。
 でも言われ慣れていないから戸惑うばかりで、ナギの顔を見ることができない。
「顔上げて、千沙希」
「む、無理!」
「照れてるの? そういうところも可愛い」
「だからやめて! もういいから。お世辞はやめてよ」
 何度も言われると、からかわれているのかなって、そんな気もしてきた。
「千沙希にわざわざお世辞なんて言わないよ。本当にそう思ったから。でも今日に限ったことじゃないよ。前からそう思ってた」
「……あ、ありがと」
 それでも複雑な心境だった。だって、ナギが好きなのはわたしじゃないから。
 好きな人にどんなにほめられても、その好きな人が別の好きな人を見ているなら心になにも響かない。そのことに気づいて愕然とした。
 ナギが勘違いしているのなんて、もうどうでもよかった。わたしがほかの男の子とデートしても、ナギはなんとも思わないんだ。
「降矢に誤解させちゃうと悪いから、これからはこうしてふたりで会うのはやめたほうがいいよね」
「ナギ……」
 こうやって、わたしたちの関係は終わっていく。全部なかったことになっていく。好きと伝えることもできず、誤解されたまま。
 それでもなんとか、受け止めようと努力するけれど。
 ねえ、この気持ちはどうやって昇華すればいい?
 この胸には、今もナギへの思いがあふれ続けていた。
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