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第二章 無情な世界のメランコリー
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「伊央……」
「高比良、いいよ。教科書はほかのやつに借りるから」
梅村はこれ以上、伊央の機嫌を損ねてはまずいと思った。それくらい伊央からは殺伐としたものを感じた。とんでもなく警戒されている。
「雫石くん、気に障るようなことを言ってごめん。俺、デリカシーないってよく言われるんだよ。でも高比良とはこれまでも仲よくしてやって。こいつ、こう見えても意外とさみしがりやだから」
「はあ? 突然なにを言い出すの? わたしは別にさみしがりやじゃないけど」
「嘘つけ! いつも兄貴の尻を追いかけてたじゃん。置いてかないでえって」
「それは子どもの頃の話でしょう。今は違うから。会ってもほとんど口なんてきかないし」
「ふうん、そうなんだ。まあ高比良の兄貴は進学して、ひとり暮らし中だもんな。環境が変わるとそうなるのかもな」
梅村の兄は地元の専門学校を卒業し、今年の春から駅前の大きな美容院で働いている。同居も続いており、いまだに兄弟の仲はよく、専門学校時代からたびたび兄のカットの練習台になっていた。
「めぐる、これ」
じっとふたりの会話を聞いていた伊央が古典の教科書を差し出した。
「いいの?」
「うん、めぐるの友達だから」
ぼそぼそと言う伊央に、めぐるは「ありがとう」と微笑んだ。
古典の教科書を受け取ると、伊央は照れくささを隠すように下を向く。
ある程度はめぐるに心を許していても、まだ自分の感情を素直に表現しきれない。人とのかかわり合いを極力避けてきた伊央は、感情の起伏というものにうまく対処する余裕が備わっていなかった。
「ありがとう、二限目が終わったら返しにくるから」
梅村がめぐるから手渡された古典の教科書を掲げ、はつらつとした笑顔を伊央に向けた。
伊央はおずおずと顔をあげると、梅村に「わかった」と言って小さく頷いた。
「おお! 雫石くんと話せた! なんかすげえうれしい!」
「おおげさだよ、梅村くん」
めぐるは悪ノリしそうな梅村を牽制する。悪気がないのはわかるのだが、自覚がないというのも困りものだ。
案の定、伊央は小難しい顔をし、またそっぽを向いてしまった。
「あー、雫石くん、悪い。でもからかっているわけじゃないから。うちのクラスの連中もみんな雫石くんと話したがってるよ。それだけ人目を引いて、魅力があるってことだから」
梅村は誤解を解こうと必死だ。しかし伊央が振り向くことはなかった。肩を落とした梅村を、めぐるは心から憐れんだ。
「信じられないかもしれないけど、話してみたかったのは本当なんだよ。雫石くんが俺の知ってる人によく似てるんだ。名前はなんだったかな。中学のときに通ってた夏期講習の英語の先生なんだけど……」
梅村は首をひねりながら記憶をたどる。だが大人数で行う十二日間の講習だったため、講師の名前まで気に留めておらず、どうしても思い出せない。そこへ伊央が素っ気ない声で言い放った。
「世の中に似てる人がいたって不思議じゃないよ」
「それはそうだけど、声まで似ていたからびっくりしたんだよ」
伊央の声は中性的な見た目とは違ってわりと低めだ。澄んだ声質で、耳に心地いい。
「僕は誰にも似ていない!」
突然、椅子の脚が床に擦れる大きな音がして、伊央が立ちあがった。まっすぐ前を見据え、拒絶の意志をあらわにしている。強力なバリアを張って誰も寄せつけない。めぐるですら、その迫力に身体が強張るほどだった。
「どこ行くの?」
めぐるがそう口にしたときには伊央は席を離れていて、教室のうしろの出入口に向かっていた。
とっさにめぐるは伊央のあとを追った。そのあとを梅村も追いかけた。
「雫石くん、待ってよ」
梅村が言いながら伊央の背中に向けて言うが、伊央は振り向きもしない。
「梅村くん、ここはわたしにまかせて」
伊央は他人とのかかわり合いを好まない。梅村が追いかければ追いかけるほど、逃げまわってしまうような気がした
「わかった。代わりに謝っておいてよ。でも俺、そんなに変なこと言ったかな?」
「さあ?」
めぐるはそれだけ言うと伊央が歩いていったほうへ目を向ける。伊央の姿はもう廊下にはなかった。
めぐるは廊下を歩きながら考えていた。
外はまだ雨が降っている。いったん弱まった雨がまた本降りになっていた。この悪天候ではこの間過ごした非常階段にはいないだろう。屋根があるといっても、風が強いのでびしょ濡れになってしまう。
なんとなく、まだこの校舎にいるような気がした。伊央の声を感じるのだ。彼の心の叫びがめぐるのなかに今も入り込んできている。
「高比良、いいよ。教科書はほかのやつに借りるから」
梅村はこれ以上、伊央の機嫌を損ねてはまずいと思った。それくらい伊央からは殺伐としたものを感じた。とんでもなく警戒されている。
「雫石くん、気に障るようなことを言ってごめん。俺、デリカシーないってよく言われるんだよ。でも高比良とはこれまでも仲よくしてやって。こいつ、こう見えても意外とさみしがりやだから」
「はあ? 突然なにを言い出すの? わたしは別にさみしがりやじゃないけど」
「嘘つけ! いつも兄貴の尻を追いかけてたじゃん。置いてかないでえって」
「それは子どもの頃の話でしょう。今は違うから。会ってもほとんど口なんてきかないし」
「ふうん、そうなんだ。まあ高比良の兄貴は進学して、ひとり暮らし中だもんな。環境が変わるとそうなるのかもな」
梅村の兄は地元の専門学校を卒業し、今年の春から駅前の大きな美容院で働いている。同居も続いており、いまだに兄弟の仲はよく、専門学校時代からたびたび兄のカットの練習台になっていた。
「めぐる、これ」
じっとふたりの会話を聞いていた伊央が古典の教科書を差し出した。
「いいの?」
「うん、めぐるの友達だから」
ぼそぼそと言う伊央に、めぐるは「ありがとう」と微笑んだ。
古典の教科書を受け取ると、伊央は照れくささを隠すように下を向く。
ある程度はめぐるに心を許していても、まだ自分の感情を素直に表現しきれない。人とのかかわり合いを極力避けてきた伊央は、感情の起伏というものにうまく対処する余裕が備わっていなかった。
「ありがとう、二限目が終わったら返しにくるから」
梅村がめぐるから手渡された古典の教科書を掲げ、はつらつとした笑顔を伊央に向けた。
伊央はおずおずと顔をあげると、梅村に「わかった」と言って小さく頷いた。
「おお! 雫石くんと話せた! なんかすげえうれしい!」
「おおげさだよ、梅村くん」
めぐるは悪ノリしそうな梅村を牽制する。悪気がないのはわかるのだが、自覚がないというのも困りものだ。
案の定、伊央は小難しい顔をし、またそっぽを向いてしまった。
「あー、雫石くん、悪い。でもからかっているわけじゃないから。うちのクラスの連中もみんな雫石くんと話したがってるよ。それだけ人目を引いて、魅力があるってことだから」
梅村は誤解を解こうと必死だ。しかし伊央が振り向くことはなかった。肩を落とした梅村を、めぐるは心から憐れんだ。
「信じられないかもしれないけど、話してみたかったのは本当なんだよ。雫石くんが俺の知ってる人によく似てるんだ。名前はなんだったかな。中学のときに通ってた夏期講習の英語の先生なんだけど……」
梅村は首をひねりながら記憶をたどる。だが大人数で行う十二日間の講習だったため、講師の名前まで気に留めておらず、どうしても思い出せない。そこへ伊央が素っ気ない声で言い放った。
「世の中に似てる人がいたって不思議じゃないよ」
「それはそうだけど、声まで似ていたからびっくりしたんだよ」
伊央の声は中性的な見た目とは違ってわりと低めだ。澄んだ声質で、耳に心地いい。
「僕は誰にも似ていない!」
突然、椅子の脚が床に擦れる大きな音がして、伊央が立ちあがった。まっすぐ前を見据え、拒絶の意志をあらわにしている。強力なバリアを張って誰も寄せつけない。めぐるですら、その迫力に身体が強張るほどだった。
「どこ行くの?」
めぐるがそう口にしたときには伊央は席を離れていて、教室のうしろの出入口に向かっていた。
とっさにめぐるは伊央のあとを追った。そのあとを梅村も追いかけた。
「雫石くん、待ってよ」
梅村が言いながら伊央の背中に向けて言うが、伊央は振り向きもしない。
「梅村くん、ここはわたしにまかせて」
伊央は他人とのかかわり合いを好まない。梅村が追いかければ追いかけるほど、逃げまわってしまうような気がした
「わかった。代わりに謝っておいてよ。でも俺、そんなに変なこと言ったかな?」
「さあ?」
めぐるはそれだけ言うと伊央が歩いていったほうへ目を向ける。伊央の姿はもう廊下にはなかった。
めぐるは廊下を歩きながら考えていた。
外はまだ雨が降っている。いったん弱まった雨がまた本降りになっていた。この悪天候ではこの間過ごした非常階段にはいないだろう。屋根があるといっても、風が強いのでびしょ濡れになってしまう。
なんとなく、まだこの校舎にいるような気がした。伊央の声を感じるのだ。彼の心の叫びがめぐるのなかに今も入り込んできている。
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