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10.身分違いの恋だとしても
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一週間後の火曜日。
いつもの生け込みの仕事のために冴島テクニカルシステムズを訪ねる。台車を押してエレベーターで最上階に上がると、エレベーターホールに小山田さんが待機していた。
「ただ今、社長室は来客中のため役員会議室からお願いします」
「わかりました」
「役員会議室が終わりましたら秘書室までご報告を。社長のお客様はじきにお帰りになられるかと思いますので」
小山田さんからICカードを預かる。
すると社長室のドアが開く音がして、そちらに注目すると、恒松社長が出てくるところだった。ちょうど帰られるところらしい。
「あれ? 春名さん、偶然だね」
「恒松社長、先日は大変お世話になりました。電話でのご挨拶しかできずに申し訳ありません」
「いえいえ、当日はバタバタしてたからね。こちらこそありがとう。ああ、そっか。社長室の花、あれは春名さんが生けていたんだね」
「はい。週に一度、社長室と役員会議室をやらせていただいてます」
「なるほど……。あのさ、もしよかったらちょっと話せない?」
「お話ですか?」
急に言われて、返事に困った。これから生け込みの作業をしなくてはならない。どうやって断ろう。
「うちの会社でも生け込みの仕事をお願いしたいんだ」
「ありがとうございます。それなら、ご都合のいい日に会社へお伺いいたしますが」
ありがたいお話だけれど、どちらにしても立ち話というわけにもいかないだろう。わたしもこの状況だと落ち着かないので、別の日にしてもらうと助かる。
だけど恒松社長は譲らない。強引に話を進めようとしてきた。
「十分もかからないよ。詳しいことは、後日ゆっくりと。それでいいかな?」
「でも……」
生け込みの作業は予備を含めて時間を取っている。十分ぐらいなら問題ないとは思うけれど、よそ様の会社で別の打ち合わせをするのは気が進まない。
「小山田さん、そういうことだから十分ほど役員会議室を貸してくれる? ちなみに冴島社長は電話中でしばらくかかりそうだよ」
「えっ、あの……」
わたしがはっきり断らないのをいいことに、恒松社長は小山田さんにまでそんなことを言う。
「かしこまりました」
小山田さんも立場上だめとは言えない。一礼して秘書室へ戻っていった。
小山田さんがいなくなると、恒松社長は「行こうか」と歩き出す。仕方なくついていくと、そのままふたりで役員会議室に入った。
恒松社長はわたしのために椅子まで引いてくれるので、そこへ座る。
一方、恒松社長は椅子に座らず、テーブルに軽く腰かけるようにして、わたしの隣に立った。そのため、かなり見上げる形になる。
にやりと笑う恒松社長は、いつもとは明らかに違う雰囲気。そして仕事の話そっちのけで、驚くようなことを口にした。
「この間のレセプションの日、春名さん、なんで泣いてたの?」
まさか見られていたなんて!
「いつから気づいていたんですか!?」
「最初から気づいてたよ。春名さんが陰から覗いてたってこと」
「……すみません」
本当のことだから言い訳のしようがない。あのときわたしはとっさに柱のうしろに隠れたのだ。
「それはいいんだよ。別に聞かれて困る話はしてないし、見られても別にどうってことない。率直に聞くよ。春名さんは冴島社長のことが好きなの?」
「それは……」
おつき合いしていますと言ってもいいのだろうか。でもわたしの口から勝手に言っていいのかわからない。冴島さんのお友達にはオープンにできても、仕事関係の人にはどうなのだろう。
「冴島社長は、そこらのベンチャー企業の社長とは違う。あの冴島物産の社長の息子だよ」
「それはわかっています」
「釣り合うって自分で思ってる?」
恒松社長はどうしてそんなことを言うのだろう。冴島社長の相手がわたしなのが不服なのだろうか。
でもどうして? 恒松社長には関係のないことなのに。
「身分が違うのは承知しています。交際に反対する人がいるかもしれません。だとしても、わたしは冴島さんと一緒にいたいと思っています」
もう迷わないと決めた。誰になにを言われても、この恋を貫きたい。
「今はいいけど、将来的に不安にならない? 結婚となると、冴島家の一族はもちろん、冴島物産の重役たちがどう思うかな?」
「それでも──」
「俺はどうかな?」
「はい?」
「俺にはないよ。しがらみとか、冴島社長の背負っている面倒くさいもの全部」
当惑するわたしに恒松社長の手が伸びてくる。輪郭を撫でられているのに、わたしはなにが起こっているのか理解できない。顔が近づいてきて、ようやく頭の片隅で逃げなきゃと思い立ったけれど、身体が硬直したみたいに身動きできなかった。
「逃げないってことは、このままいいってこと?」
「……あ、あの、なぜなんですか? わたしに好意があるわけじゃないのに」
恒松社長はこれまでわたしを口説いたり、誘ってきたりすることはなかった。わざわざわたしに声をかけなくとも、彼のまわりにはセレブできれいな人が山ほどいる。
「それはね、悔しいからだよ。冴島社長はなんでも持ってるのに、春名さんみたいないい子まで手に入れちゃって。それに実は昔から冴島社長のこと、あんまり好きじゃないんだよな」
「でも飲み仲間だって……」
冴島さんはそう言っていた。
いつもの生け込みの仕事のために冴島テクニカルシステムズを訪ねる。台車を押してエレベーターで最上階に上がると、エレベーターホールに小山田さんが待機していた。
「ただ今、社長室は来客中のため役員会議室からお願いします」
「わかりました」
「役員会議室が終わりましたら秘書室までご報告を。社長のお客様はじきにお帰りになられるかと思いますので」
小山田さんからICカードを預かる。
すると社長室のドアが開く音がして、そちらに注目すると、恒松社長が出てくるところだった。ちょうど帰られるところらしい。
「あれ? 春名さん、偶然だね」
「恒松社長、先日は大変お世話になりました。電話でのご挨拶しかできずに申し訳ありません」
「いえいえ、当日はバタバタしてたからね。こちらこそありがとう。ああ、そっか。社長室の花、あれは春名さんが生けていたんだね」
「はい。週に一度、社長室と役員会議室をやらせていただいてます」
「なるほど……。あのさ、もしよかったらちょっと話せない?」
「お話ですか?」
急に言われて、返事に困った。これから生け込みの作業をしなくてはならない。どうやって断ろう。
「うちの会社でも生け込みの仕事をお願いしたいんだ」
「ありがとうございます。それなら、ご都合のいい日に会社へお伺いいたしますが」
ありがたいお話だけれど、どちらにしても立ち話というわけにもいかないだろう。わたしもこの状況だと落ち着かないので、別の日にしてもらうと助かる。
だけど恒松社長は譲らない。強引に話を進めようとしてきた。
「十分もかからないよ。詳しいことは、後日ゆっくりと。それでいいかな?」
「でも……」
生け込みの作業は予備を含めて時間を取っている。十分ぐらいなら問題ないとは思うけれど、よそ様の会社で別の打ち合わせをするのは気が進まない。
「小山田さん、そういうことだから十分ほど役員会議室を貸してくれる? ちなみに冴島社長は電話中でしばらくかかりそうだよ」
「えっ、あの……」
わたしがはっきり断らないのをいいことに、恒松社長は小山田さんにまでそんなことを言う。
「かしこまりました」
小山田さんも立場上だめとは言えない。一礼して秘書室へ戻っていった。
小山田さんがいなくなると、恒松社長は「行こうか」と歩き出す。仕方なくついていくと、そのままふたりで役員会議室に入った。
恒松社長はわたしのために椅子まで引いてくれるので、そこへ座る。
一方、恒松社長は椅子に座らず、テーブルに軽く腰かけるようにして、わたしの隣に立った。そのため、かなり見上げる形になる。
にやりと笑う恒松社長は、いつもとは明らかに違う雰囲気。そして仕事の話そっちのけで、驚くようなことを口にした。
「この間のレセプションの日、春名さん、なんで泣いてたの?」
まさか見られていたなんて!
「いつから気づいていたんですか!?」
「最初から気づいてたよ。春名さんが陰から覗いてたってこと」
「……すみません」
本当のことだから言い訳のしようがない。あのときわたしはとっさに柱のうしろに隠れたのだ。
「それはいいんだよ。別に聞かれて困る話はしてないし、見られても別にどうってことない。率直に聞くよ。春名さんは冴島社長のことが好きなの?」
「それは……」
おつき合いしていますと言ってもいいのだろうか。でもわたしの口から勝手に言っていいのかわからない。冴島さんのお友達にはオープンにできても、仕事関係の人にはどうなのだろう。
「冴島社長は、そこらのベンチャー企業の社長とは違う。あの冴島物産の社長の息子だよ」
「それはわかっています」
「釣り合うって自分で思ってる?」
恒松社長はどうしてそんなことを言うのだろう。冴島社長の相手がわたしなのが不服なのだろうか。
でもどうして? 恒松社長には関係のないことなのに。
「身分が違うのは承知しています。交際に反対する人がいるかもしれません。だとしても、わたしは冴島さんと一緒にいたいと思っています」
もう迷わないと決めた。誰になにを言われても、この恋を貫きたい。
「今はいいけど、将来的に不安にならない? 結婚となると、冴島家の一族はもちろん、冴島物産の重役たちがどう思うかな?」
「それでも──」
「俺はどうかな?」
「はい?」
「俺にはないよ。しがらみとか、冴島社長の背負っている面倒くさいもの全部」
当惑するわたしに恒松社長の手が伸びてくる。輪郭を撫でられているのに、わたしはなにが起こっているのか理解できない。顔が近づいてきて、ようやく頭の片隅で逃げなきゃと思い立ったけれど、身体が硬直したみたいに身動きできなかった。
「逃げないってことは、このままいいってこと?」
「……あ、あの、なぜなんですか? わたしに好意があるわけじゃないのに」
恒松社長はこれまでわたしを口説いたり、誘ってきたりすることはなかった。わざわざわたしに声をかけなくとも、彼のまわりにはセレブできれいな人が山ほどいる。
「それはね、悔しいからだよ。冴島社長はなんでも持ってるのに、春名さんみたいないい子まで手に入れちゃって。それに実は昔から冴島社長のこと、あんまり好きじゃないんだよな」
「でも飲み仲間だって……」
冴島さんはそう言っていた。
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