1 / 26
1
しおりを挟む
「いってらっしゃいませ旦那さま」
豊島数馬が自宅をあとにしようとしていたとき、背後から声をかけられた。
数馬が慌てて振り返ると、こちらへ駆け寄ってくる妻の姿が目に映った。
「見送りはよいと言ったはずだ」
妻の小雪に向かって、数馬は眉間に皺を寄せながら声をかけた。
「大事な身体なのだから、ゆっくり休んでいなさい。私のことなど気にかけなくてよいのだ」
「そういうわけにはいきません!」
数馬が咎めるように言うと、小雪は少し拗ねたような表情を見せた。彼女はどうやら数馬の態度がよほど気に入らなかったらしい。数馬にじとっとした視線を向けながら顔を近づけてきた。
小雪は評判の美女だ。その彼女の美しい顔が、数馬の目の前に迫っている。
いくら自分の妻とはいえ、至近距離から美女に睨みつけられて数馬は困惑してしまう。
「あ、あまり興奮するのはよくないのではないか? 早く中に戻りなさい」
「いいえ! 旦那さまがお勤めに向かうのですから、妻としてしっかりとお見送りさせていただきます」
数馬の困惑をよそに、小雪は責めるような強い口調で言った。
しかし、次の瞬間には今の今まで不機嫌そうにしていた姿はどこへいってしまったのか、小雪は穏やかに微笑みながらゆっくりと自身の腹を撫でる。
「……それに、この子だって。きっと父上のお見送りをしたいはずですから」
小雪の腹は誰が見てもひと目で妊娠をしているとわかるほど膨れ上がっている。
愛おしそうに腹を撫でている妻の姿を眺めながら、数馬はますます戸惑ってしまう。
こういうときにどう声をかけたものかと数馬が思案していると、遠くからドタバタと誰かがこちらに近づいてくる足音が聞こえた。
「まあまあ、どうなさったのですか。朝から騒がしいですよ」
廊下の奥から義母のおそのがやってきた。おそのは数馬の姿を見るなり顔を顰めると、大きくため息をついた。
「──まったく。婿殿はまだいらしたのですか?」
「申し訳ございません。小雪のことがどうにも心配でして」
「小雪のことは母である私がしっかりと見ております。どうか婿殿は安心してお勤めに向かってくださいませ!」
「……え、ええ。それではいってまいります」
おそのにぴしゃりと言われ、数馬は逃げるようにその場から離れた。
おそのは悪い人ではないが、どうにも義理の母だと思うと気が引けてしまう。数馬は逃げるよう足早に自宅を後にして勤め先に向かった。
数馬は今日から二十日間ほど、勤めの都合で自宅には戻れない。
予定通りに業務が終われば、数馬が自宅に帰る頃にはまだ子は小雪の腹の中だとおそのは断言していた。
だが、何事も予定通りにはいかないことを数馬は知っている。小雪は数馬が出かけた直後に産気づく可能性だって否定はできない。
小雪の腹の中にいる子が男児であれば、ゆくゆくは豊島家の家督をつぐ大切な跡取りだ。無事に誕生する瞬間をそばで祈っていたいという気持ちくらいはある。
しかしながら、数馬には父親になるという実感がなかった。
──いっそ勤めの方で問題が起きてしまえばな。予定通りに帰宅が叶わなくなれば、子の誕生に立ち会わなくて済む。
とんでもないことを考えてしまい、数馬はおもわずその場に立ち止まって大きく首を横に振る。
日に日に大きくなっていく小雪の腹を眺めながら、数馬の心の中では不安の感情が育っていった。その感情を取り除きたかったが、不安はますます膨れ上がるばかりだった。
このままでは子の誕生を祝える自信がない。親になるという心構えはどうやったらできるのだろうか。それがここ最近の数馬の大きな悩みであった。
「……そんなことよりも、いまは勤めに集中せねば。子のことは追々考えればよい」
ため息まじりに呟いたあと、数馬は再び勤め先に向かって歩き出した。
豊島数馬が自宅をあとにしようとしていたとき、背後から声をかけられた。
数馬が慌てて振り返ると、こちらへ駆け寄ってくる妻の姿が目に映った。
「見送りはよいと言ったはずだ」
妻の小雪に向かって、数馬は眉間に皺を寄せながら声をかけた。
「大事な身体なのだから、ゆっくり休んでいなさい。私のことなど気にかけなくてよいのだ」
「そういうわけにはいきません!」
数馬が咎めるように言うと、小雪は少し拗ねたような表情を見せた。彼女はどうやら数馬の態度がよほど気に入らなかったらしい。数馬にじとっとした視線を向けながら顔を近づけてきた。
小雪は評判の美女だ。その彼女の美しい顔が、数馬の目の前に迫っている。
いくら自分の妻とはいえ、至近距離から美女に睨みつけられて数馬は困惑してしまう。
「あ、あまり興奮するのはよくないのではないか? 早く中に戻りなさい」
「いいえ! 旦那さまがお勤めに向かうのですから、妻としてしっかりとお見送りさせていただきます」
数馬の困惑をよそに、小雪は責めるような強い口調で言った。
しかし、次の瞬間には今の今まで不機嫌そうにしていた姿はどこへいってしまったのか、小雪は穏やかに微笑みながらゆっくりと自身の腹を撫でる。
「……それに、この子だって。きっと父上のお見送りをしたいはずですから」
小雪の腹は誰が見てもひと目で妊娠をしているとわかるほど膨れ上がっている。
愛おしそうに腹を撫でている妻の姿を眺めながら、数馬はますます戸惑ってしまう。
こういうときにどう声をかけたものかと数馬が思案していると、遠くからドタバタと誰かがこちらに近づいてくる足音が聞こえた。
「まあまあ、どうなさったのですか。朝から騒がしいですよ」
廊下の奥から義母のおそのがやってきた。おそのは数馬の姿を見るなり顔を顰めると、大きくため息をついた。
「──まったく。婿殿はまだいらしたのですか?」
「申し訳ございません。小雪のことがどうにも心配でして」
「小雪のことは母である私がしっかりと見ております。どうか婿殿は安心してお勤めに向かってくださいませ!」
「……え、ええ。それではいってまいります」
おそのにぴしゃりと言われ、数馬は逃げるようにその場から離れた。
おそのは悪い人ではないが、どうにも義理の母だと思うと気が引けてしまう。数馬は逃げるよう足早に自宅を後にして勤め先に向かった。
数馬は今日から二十日間ほど、勤めの都合で自宅には戻れない。
予定通りに業務が終われば、数馬が自宅に帰る頃にはまだ子は小雪の腹の中だとおそのは断言していた。
だが、何事も予定通りにはいかないことを数馬は知っている。小雪は数馬が出かけた直後に産気づく可能性だって否定はできない。
小雪の腹の中にいる子が男児であれば、ゆくゆくは豊島家の家督をつぐ大切な跡取りだ。無事に誕生する瞬間をそばで祈っていたいという気持ちくらいはある。
しかしながら、数馬には父親になるという実感がなかった。
──いっそ勤めの方で問題が起きてしまえばな。予定通りに帰宅が叶わなくなれば、子の誕生に立ち会わなくて済む。
とんでもないことを考えてしまい、数馬はおもわずその場に立ち止まって大きく首を横に振る。
日に日に大きくなっていく小雪の腹を眺めながら、数馬の心の中では不安の感情が育っていった。その感情を取り除きたかったが、不安はますます膨れ上がるばかりだった。
このままでは子の誕生を祝える自信がない。親になるという心構えはどうやったらできるのだろうか。それがここ最近の数馬の大きな悩みであった。
「……そんなことよりも、いまは勤めに集中せねば。子のことは追々考えればよい」
ため息まじりに呟いたあと、数馬は再び勤め先に向かって歩き出した。
0
あなたにおすすめの小説
江戸の夕映え
大麦 ふみ
歴史・時代
江戸時代にはたくさんの随筆が書かれました。
「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三)
そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。
同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。
しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。
剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末
松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰
第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。
本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。
2025年11月28書籍刊行。
なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。
酒と肴と剣と闇
江戸情緒を添えて
江戸は本所にある居酒屋『草間』。
美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。
自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。
多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。
その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。
店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。
【時代小説】 黄昏夫婦
蔵屋
歴史・時代
江戸時代、東北地方の秋田藩は貧かった。
そんな中、真面目なひとりの武士がいた。同僚からは馬鹿にされていたが真面目な男であった。俸禄は低く貧しい。娘二人と実母との4人暮らし。
秋田藩での仕事は勘定方である。
仕事が終わると真っ直ぐ帰宅する。
ただひたすら日中は城中では勘定方の仕事をまじめにして、帰宅すれば論語を読んで知識を習得する。
そんな毎日であった。彼の名前は立花清左衛門。年齢は35歳。
娘は二人いて、一人はとめ15歳。もう一人は梅、8歳。
さて|黄昏《たそがれ》は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯のことを言う。「|黄昏時《たそがれどき)」。 「黄昏れる《たそがれる》」という動詞形もある。
「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略でよく知られていた。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味で日常会話でよく使われた。
今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。
この風習は広く日本で行われている。
「おはようさんです」「これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされている。
「たそかれ」という言葉は『万葉集』に
誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」
— 『万葉集』第10巻2240番
と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。
「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に
「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」
— 『源氏物語』「夕顔」光源氏
と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。
なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。
またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。
漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。
「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。
この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。
それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。
読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。
作家 蔵屋日唱
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜
かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。
徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。
堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる……
豊臣家に味方する者はいない。
西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。
しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。
全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる