土 砂留め 役人

黒蜜きな粉

文字の大きさ
2 / 26

しおりを挟む
 勤め先である町奉行所に数馬が到着すると、そこにはすでに上役の片倉かたくらの姿があった。

「──これは片倉さま。遅くなり大変申し訳ございません!」
 
 数馬は慌てて片倉に近づきながら頭を下げると、謝罪の言葉を口にする。
 まさか奉行所への到着が片倉よりも遅くなるとは思っていなかった。これでも早く顔を出したつもりだったのだ。
 
「よいのだよいのだ。私が早すぎただけなのだからな」
「……はあ、ですが」

 全身から冷や汗が吹き出てしまう。頭を下げながら、数馬は片倉からの叱責を覚悟していた。
 しかし、片倉はそんな数馬の心の内を見透かしているのか、穏やかな声で顔を上げるように言ってきた。

「年寄りはどうにも早起きをしてしまうのだ。なにも気にすることはない」

 数馬が恐る恐る顔を上げると、けらけらと明るく笑っている片倉と目が合った。

 数馬が豊島家の家督を継いだのは昨年のことだ。
 義父は数馬を豊島家に迎え入れると、すぐに自身の後継者に指名した。幕府から正式に数馬が豊島家の後継と認められると、足腰の弱っていた義父は早々に隠居をしてしまった。
 数馬は婿入りから息をつく暇もなく義父の役職を継ぎ、片倉の補佐をすることになった。

「小雪殿は臨月だろう? お前は身重の妻が心配でたまらないのだろうなあ」

 冷汗をかいて怯えている数馬を安心させるように、片倉は優しく声をかけてくる。
 豊島家の婿養子となり、何もかもが手探り状態の数馬にとって救いだったのは、こうして片倉が温かく受け入れてくれたことだった。
 片倉は義父が後継と認めたのであれば信頼に足ると、勤めに慣れず四苦八苦している数馬を大らかに見守ってくれている。
 そんな片倉に失望されることだけは避けたい。数馬はその気持ちを強く胸に抱いて日々の勤めに向き合っている。

「こうして勤めにやってくることですら後ろ髪を引かれる思いだというのはわかっているぞ。おおかた小雪殿が心配でなかなか家を出られなかったのであろう?」
「……さすが片倉さま。すべてお見通しでございますね」

 数馬は愛想笑いを浮かべながら、心にもないことを口にした。
 片倉に嘘はつきたくないが、がっかりされることは嫌で妻の身を案じる殊勝な夫のふりをしてしまった。

 たしかに、数馬は身重の小雪のことを心配している。だが、それは数馬が婿として豊島家の後継を作るという役割を果たせるのかを案じているのであって、妻を労わってのことではない。
 
「私が無理を言って此度の巡回にはお前を連れて行くと決めたのだ。もうすぐ子が産まれるというのにすまなかった。そばを離れるのはさぞかし辛い思いをさせているのだろうな」
「いえいえ、お気になさらないでくださいませ」

 片倉があまりにすまなそうに言うので、数馬は慌てて手を横に振った。

「片倉さまのお供させていただけて私は光栄でございます。それに、予定通りにこちらに戻って来られるのであれば、出産には間に合うだろうと言われておりますので」
「……順調にいけば、な」
 
 片倉が珍しく渋い顔をしてぼやいた。
 その様子を怪訝に思った数馬は、片倉にどういうことかと尋ねようとした。だが、話し込む二人の元へ奉行所の者たちが集って来たため、質問をすることができなくなってしまった。
しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

【時代小説】 黄昏夫婦

蔵屋
歴史・時代
 江戸時代、東北地方の秋田藩は貧かった。  そんな中、真面目なひとりの武士がいた。同僚からは馬鹿にされていたが真面目な男であった。俸禄は低く貧しい。娘二人と実母との4人暮らし。  秋田藩での仕事は勘定方である。  仕事が終わると真っ直ぐ帰宅する。 ただひたすら日中は城中では勘定方の仕事をまじめにして、帰宅すれば論語を読んで知識を習得する。   そんな毎日であった。彼の名前は立花清左衛門。年齢は35歳。  娘は二人いて、一人はとめ15歳。もう一人は梅、8歳。  さて|黄昏《たそがれ》は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯のことを言う。「|黄昏時《たそがれどき)」。 「黄昏れる《たそがれる》」という動詞形もある。    「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略でよく知られていた。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味で日常会話でよく使われた。  今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。  この風習は広く日本で行われている。  「おはようさんです」「これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされている。  「たそかれ」という言葉は『万葉集』に 誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」 — 『万葉集』第10巻2240番 と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。  「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に 「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」 — 『源氏物語』「夕顔」光源氏 と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。  なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。  またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。 漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。  「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。  この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。  それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。  読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。  作家 蔵屋日唱    

剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末

松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰 第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。 本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。 2025年11月28書籍刊行。 なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。 酒と肴と剣と闇 江戸情緒を添えて 江戸は本所にある居酒屋『草間』。 美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。 自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。 多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。 その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。 店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

江戸の夕映え

大麦 ふみ
歴史・時代
江戸時代にはたくさんの随筆が書かれました。 「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三) そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。 同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。 しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。

江戸『古道具 藍凪屋 〜再生と縁結いの物語〜』

藍舟めいな
歴史・時代
捨てられた道具に命を吹き込め。算盤娘と天才職人が贈る、痛快再生譚! 大坂の商才 × 長崎の技術 × 庄内の祈り。 神田お玉が池の古道具屋『藍凪屋(あいなぎや)』、本日開店。 文化十四年、江戸。 泥にまみれ、捨てられたガラクタを、異国の技で「勝色(かちいろ)」へと蘇らせる天才職人・徳三。 その価値を冷徹に見抜き、江戸の「粋」へとプロデュースする算盤娘・おめい。 吹き溜まりの裏長屋から、二人の「余所者」が江戸の価値観をひっくり返す! 捨てられた道具に新しい命を吹き込み、絶たれた「縁」を再び結ぶ、再生の物語。 「うちが売ってるんは物やなくて、職人の執念と、それを持つ人の『格』なんですわ」 どん底から江戸の頂点を目指す、痛快・職人再生サクセスストーリー! ※カクヨムで先読み可能です

処理中です...