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二の段 蠣崎家のほうへ 帰郷(二)
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夜になった。陽が沈んでからだいぶたって、城より戻った宗久は疲れている様子だった。三年ぶりにみたあやめの顔をみても、それほどうれしげにも見えぬ。
二人だけになったのに、記憶にある、末娘にどこか甘い父親の様子にはならない。
(無理もない。わたくしのせい。)
あやめは胸が裂けるように痛い。自分自身でこのたびの身の上を詳しく手紙に書きおくったわけではないが、表向きのことは番頭の弥兵衛が、裏も含めての事情はコハルが伝えているだろう。
宗久にしたところで、それだけに、この不幸なことになった娘にどんな顔をしてやればいいのか、わからないのだ。
「よく戻った。」
とだけ、いってやれた。
あやめは平伏する。
「ご存じではございましょうが、まず、このようなものを預かって参りました。」
新三郎から託された書状を父に差し出した。その内容はわかっているが、手が震えるのを感じる。
宗久は誰からのものかを知ったらしい。
(汚らわしい、と思っていらっしゃる。その通りだ! そして、その汚らわしい者に、この一年というもの、犯されてきたのがこのわたくしだ!)
「このたびは、今井の家名を汚してしまいました。申し訳もございません。どのようなご処断もうけまする。」
あやめは、口ばかりではなかった。宗久が咎めたて、罰をくわえるのならば、受けるつもりである。
蝦夷島の長の妾になれとは、よもや父に命じられていない。出店そのものが危うくされる羽目に陥っている。松前納屋のこの不始末に、宗久が見切りをつけるほどならば、あやめの「図」自体が崩れるであろうから、もとも子もないのだと覚悟していた。
なお無言の宗久が似つかわしくもない荒い仕草で書状を開き、目を通しているのが、低頭したあやめには気配でわかる。
「そなたに……」宗久は、小さくみえる痩せた肩を見つめながら、声を絞り出すように告げた。「……咎はなかろう。」
宗久は、もとから、あやめには聡すぎるがゆえに妙に稚ないところが多いと危惧していた。このたびのことは、だからそうなったともいえないが。
いずれにせよ、罪科もない初心な娘を好きなように弄んだ蠣崎家の者どもを、くだんの十四郎とかいう異相の男ともども、まとめて擂り潰してやりたいほどの怒りをおぼえている。
あとは、娘がただ哀れであった。
あやめは、ありがたき幸せ、と呟くのがやっとで、しばらくは平伏の姿勢のまま、宗久の言葉を待つ。
「あやめ。……このまま堺に、いや、上方に戻らぬのか。」
あやめは、父に抱きついて泣きたいほどの気持ちになったが、姿勢を保った。こういってもらえた以上は、話を進めねばならない。顔をあげた。
「そのお言葉を賜り、あやめの不始末をお許し下さったかにも思え、まことにありがたき幸せに存じます。しかし、……」
あやめは微笑んで、首を振った。
「松前の出店のことが気に掛ってのことであろう。だが、弥兵衛はすでにこちらにおる。手代、丁稚、小女に至るまで、上方に引き揚げさせるだけならば、さほどに難しくもなかろう。蔵のもの、家屋敷であれば、そうさな、久しぶりに船が沈んだと思えばよい。」
宗久は、からりと笑って見せた。
「松前で抱えた者も少なくございませぬ。取引の深い、近江者の商人や蝦夷商人もおりますので……。」
「蝦夷島の者どもなど」どうでもよかろう、といいかけて、宗久は口をつぐむ。
蝦夷島の連中への怒りは抑えられないが、店の者一人ひとりを守るは主人の務め、取引相手は大事、と教えたし、 あやめの気持ちを逆なでしたくはなかった。父親として手放しでうれしいとも感じなかったが、異相の若侍との間の情の濃やかさについては、コハルにすでに教えられている。
「大旦那様。お疲れのところをお目通りお願いいたしましたのは、他でもございませぬ。」
あやめは笑顔を消して、宗久に向かい合う。
「お願いがございます。」
「何ぞ。」
「あやめは、蠣崎新三郎以下の蠣崎家の者どもに、報いを受けさせてやるつもりでございます。お力をお貸しくださいませぬでしょうか。」
「報い、か。それは松前納屋を引き揚げて消え失せてやる、ということでは済まぬのだな?」
「左様に存じます。……それでは、とても足りませぬ。」
あやめは凄い笑いを浮かべた。
父親は、痛ましい気持ちにしかならない。だが、話は聞いてやりたい。まさかこの娘が、今井の牢人どもを松前に差し向けろ、などとはいうまいとは思っているが、力を貸せ、とはどういうことか。
「さて、どのように、報いを受けさせる?」
諾否はあとにしてまず説明をさせよう、というのが宗久の商談である。
「位打ち、を考えました。」
「いわんとする意は通じた。そして、この宗久に頼み、というのもおおかた類推がついたわ。」
公家社会の常套手段の真似をしようというの
だろう。分不相応な高い位を与えて有頂天にさせ、いつのまにか、その者を自滅させるという陰険な手法である。
すでに新しい権力者秀吉は、信長の茶頭であった魚屋(納屋)千利休、天王寺屋津田宗及、それにこの納屋今井宗久の三人の堺商人を、旧主から継受する形で側に召し抱えている。宗久の口から、蠣崎にしかるべき職位―それが官位であるのか、あるいは可能性は薄いが羽柴公方(幕府)の職であるのかはまだわからぬが、―を推挙するのはたやすい。
譜代の家臣に乏しい新興の秀吉政権は、人心を得るのには拙速ぎみであるから、北辺の武家が臣下になりたいといえば、すぐにそれなりに遇してくれよう。僻遠の地から東国を抑える意味も、ゆくゆくは小さくはない。
「が、その手はどうか。」
「と、申されますと?」
「位打ちとは、木曽義仲の例を引くでもなく、蝦夷の田舎侍どもにはいかにも効きそうであるが、松前の代官である何某なる者に何か官位でもくれてやれば、それまでのことではないのか。何某はありがたく官位を押しいただいて、ますます増長するばかりではないか。」
宗久は、先ほどその文を読まされた、蠣崎新三郎などという名を口にするのも厭わしい。
(蝦夷島などにもましな祐筆はおるらしい。こうした書状の礼は踏んではおった。……本人か? だが、たとえ文字を知らぬ蛮夷でなかろうと、わが娘を踏みつけにしておるのは、許せぬ。それに、官位を斡旋してやるとは、いかなる考えか?)
「おっしゃるとおりにございましょう。しかし、むく犬の群れに一本の骨を投げてやるにも、やりかたがございます。どの犬に投げてやるかが、大事でござりましょう。」
「……豺狼の群れは、骨を争って互いに噛みつきあう、か。」
あやめは頷いた。
「しかし、蝦夷代官は、家中の心服を得てはおるようではないか。意見できる弟に腹を切らせ、反抗の芽も摘んだようだ。非道の者じゃが、それだけに、いまいましいことよ、愚鈍でもなさげじゃな。」
宗久は丁寧に書式を踏んだ手紙を、無造作に横に投げ捨てた。あやめは黙ってまた低頭した。
「歯向かえる器量の持ち主が、松前におるのか?」
「はい。しかるべき時に、最も飢えた犬に骨を投げてやりたいと存じます。」
「最も飢えた犬……? その目星は、もうついておるようじゃな?」
「はい。」
いかにも暗い嗤いのうかんだあやめの顔をみて、宗久は、あっ、と思った。
「……あやめ、まさかお前、我が家から思いついたわけではあるまいな?」
これにはあやめがはっとしたようであったが、滅相もございませぬ、と首を大きく振った。内心で慌てているのは、そういわれて気づいたが、いかにも返事がしにくいからだ。
「……父上が、蠣崎の誰をご念頭にあげられましたかは存じませぬが、おそらく、あやめの愚考をお見抜きでしょう。その者、さすがに今の代官に勝るとも劣らぬ器量をもち、そして、飢えております。」
「であろうな。」
宗久も愉快な話題ではないので、深追いはしない。
「そして、相食んだ獣の群れには、猟師が鉄砲を撃ちかけて仕留めましょう。」
「そこまでが、そなたの図か。」
猟師とは、蠣崎十四郎なる者であろう。
「いかがでございましょう。」
故織田右大臣信長公をはじめ、多くの大名と渡り合った、この父の意見は聞いておきたい。
「些か、気の長い話にならぬか。」
「やむをえません。……一年、いや二年は待たねばなりますまい。ただ、無為には過ぎませぬ。その間、手筈を」
「そなたは、それで」宗久は口をはさんだ。「……それで、よいのか。その間、つらくはないのか。」
あやめは、宗久の口調にまた、はっとする。娘の身を案じてくれている。
「父上……」
「松前などに戻らなくても、そなたの図は如何様にも描けるのではあるまいか。」
「父上、かたじけなく存じまする。あやめの不孝をどうかお許しくださいませ。」
あやめは低頭した。
「ただ、どうかご心配くださいますな。あやめは、すでに毀(こぼ)れておりますれば。」
「毀れておる、とは何じゃ。」
「父上の前で申し上げるべきにはないと存じますが、心が割れてしまっておりますようで、大抵のことはもう苦に感じませぬ。」
宗久の顔にみるみる血が上った。
「松前などに戻ってはならぬ。」
しかし、あやめはさびしい笑いを顔に張り付けていて、それは娘の、父が最も見たくない顔であった。
「戻らねば、割れた茶碗を接ぐことができませぬ。」
「茶碗だと。」
「割れた茶器もうまく接げば、割れる前を上回る値がついたりするではございませぬか。」
「蝦夷島でなければ、接げぬか?」
あやめは頷いた。
「父上、わたくしは蝦夷島にて宝物を見つけました。その宝物を置き去りにして、上方に戻れませぬ。どうかあやめの我が儘を、いま一度お許しください。」
「たからもの、とは、十四郎なる不実者のことか。」
「不実……」
あやめの目に、はじめて涙が光るのがみえた。
「左様でございましょうな。」
しかし、とあやめは首を軽く振った。目は潤んでいるが、泣くまいとこらえているのがわかる。
「お言葉ながら、父上。……蠣崎十四郎さまは、あやめとの約定をたしかに破られました。しかし、いま、あやめは、新たな誓いをいただいて参りました。破れた約定も、いまは、……いまは、絆に……新たな、絆になりましてござりまする。」
宗久は眼を閉じた。
たしかにあやめの心が割れているのだとすれば、それを接げるのは、その十四郎とやらしかないのだろう。松前などに戻して、塗炭の苦しみを舐めさせることには、宗久自身が耐えられない。だが、手元に置いたところで、あやめの心は修復できないのも、たしかのようだった。
であれば、おのれの好きなようにさせるしかないのではないか。
「よかろう。力を貸そう。松前に戻るがよい。」
「まことに、まことに、ありがたき……」
「いや、これは今井家の商いと考えられるな。蝦夷地交易を、すべて今井の物にできるかもしれぬ。……お前の図にはそこまで入っておらんのか。」
「大旦那様。ご明察にございます。蝦夷地は天下にこの上ない宝をくれまする。我が図がなれば、それらはすべて大蔵法眼今井宗久さまのご裁量のままになりましょう。……つまり、納屋のお店に決して損はさせませぬ。」
「いうたな。」
宗久はこのときはじめて微笑んだ。
二人だけになったのに、記憶にある、末娘にどこか甘い父親の様子にはならない。
(無理もない。わたくしのせい。)
あやめは胸が裂けるように痛い。自分自身でこのたびの身の上を詳しく手紙に書きおくったわけではないが、表向きのことは番頭の弥兵衛が、裏も含めての事情はコハルが伝えているだろう。
宗久にしたところで、それだけに、この不幸なことになった娘にどんな顔をしてやればいいのか、わからないのだ。
「よく戻った。」
とだけ、いってやれた。
あやめは平伏する。
「ご存じではございましょうが、まず、このようなものを預かって参りました。」
新三郎から託された書状を父に差し出した。その内容はわかっているが、手が震えるのを感じる。
宗久は誰からのものかを知ったらしい。
(汚らわしい、と思っていらっしゃる。その通りだ! そして、その汚らわしい者に、この一年というもの、犯されてきたのがこのわたくしだ!)
「このたびは、今井の家名を汚してしまいました。申し訳もございません。どのようなご処断もうけまする。」
あやめは、口ばかりではなかった。宗久が咎めたて、罰をくわえるのならば、受けるつもりである。
蝦夷島の長の妾になれとは、よもや父に命じられていない。出店そのものが危うくされる羽目に陥っている。松前納屋のこの不始末に、宗久が見切りをつけるほどならば、あやめの「図」自体が崩れるであろうから、もとも子もないのだと覚悟していた。
なお無言の宗久が似つかわしくもない荒い仕草で書状を開き、目を通しているのが、低頭したあやめには気配でわかる。
「そなたに……」宗久は、小さくみえる痩せた肩を見つめながら、声を絞り出すように告げた。「……咎はなかろう。」
宗久は、もとから、あやめには聡すぎるがゆえに妙に稚ないところが多いと危惧していた。このたびのことは、だからそうなったともいえないが。
いずれにせよ、罪科もない初心な娘を好きなように弄んだ蠣崎家の者どもを、くだんの十四郎とかいう異相の男ともども、まとめて擂り潰してやりたいほどの怒りをおぼえている。
あとは、娘がただ哀れであった。
あやめは、ありがたき幸せ、と呟くのがやっとで、しばらくは平伏の姿勢のまま、宗久の言葉を待つ。
「あやめ。……このまま堺に、いや、上方に戻らぬのか。」
あやめは、父に抱きついて泣きたいほどの気持ちになったが、姿勢を保った。こういってもらえた以上は、話を進めねばならない。顔をあげた。
「そのお言葉を賜り、あやめの不始末をお許し下さったかにも思え、まことにありがたき幸せに存じます。しかし、……」
あやめは微笑んで、首を振った。
「松前の出店のことが気に掛ってのことであろう。だが、弥兵衛はすでにこちらにおる。手代、丁稚、小女に至るまで、上方に引き揚げさせるだけならば、さほどに難しくもなかろう。蔵のもの、家屋敷であれば、そうさな、久しぶりに船が沈んだと思えばよい。」
宗久は、からりと笑って見せた。
「松前で抱えた者も少なくございませぬ。取引の深い、近江者の商人や蝦夷商人もおりますので……。」
「蝦夷島の者どもなど」どうでもよかろう、といいかけて、宗久は口をつぐむ。
蝦夷島の連中への怒りは抑えられないが、店の者一人ひとりを守るは主人の務め、取引相手は大事、と教えたし、 あやめの気持ちを逆なでしたくはなかった。父親として手放しでうれしいとも感じなかったが、異相の若侍との間の情の濃やかさについては、コハルにすでに教えられている。
「大旦那様。お疲れのところをお目通りお願いいたしましたのは、他でもございませぬ。」
あやめは笑顔を消して、宗久に向かい合う。
「お願いがございます。」
「何ぞ。」
「あやめは、蠣崎新三郎以下の蠣崎家の者どもに、報いを受けさせてやるつもりでございます。お力をお貸しくださいませぬでしょうか。」
「報い、か。それは松前納屋を引き揚げて消え失せてやる、ということでは済まぬのだな?」
「左様に存じます。……それでは、とても足りませぬ。」
あやめは凄い笑いを浮かべた。
父親は、痛ましい気持ちにしかならない。だが、話は聞いてやりたい。まさかこの娘が、今井の牢人どもを松前に差し向けろ、などとはいうまいとは思っているが、力を貸せ、とはどういうことか。
「さて、どのように、報いを受けさせる?」
諾否はあとにしてまず説明をさせよう、というのが宗久の商談である。
「位打ち、を考えました。」
「いわんとする意は通じた。そして、この宗久に頼み、というのもおおかた類推がついたわ。」
公家社会の常套手段の真似をしようというの
だろう。分不相応な高い位を与えて有頂天にさせ、いつのまにか、その者を自滅させるという陰険な手法である。
すでに新しい権力者秀吉は、信長の茶頭であった魚屋(納屋)千利休、天王寺屋津田宗及、それにこの納屋今井宗久の三人の堺商人を、旧主から継受する形で側に召し抱えている。宗久の口から、蠣崎にしかるべき職位―それが官位であるのか、あるいは可能性は薄いが羽柴公方(幕府)の職であるのかはまだわからぬが、―を推挙するのはたやすい。
譜代の家臣に乏しい新興の秀吉政権は、人心を得るのには拙速ぎみであるから、北辺の武家が臣下になりたいといえば、すぐにそれなりに遇してくれよう。僻遠の地から東国を抑える意味も、ゆくゆくは小さくはない。
「が、その手はどうか。」
「と、申されますと?」
「位打ちとは、木曽義仲の例を引くでもなく、蝦夷の田舎侍どもにはいかにも効きそうであるが、松前の代官である何某なる者に何か官位でもくれてやれば、それまでのことではないのか。何某はありがたく官位を押しいただいて、ますます増長するばかりではないか。」
宗久は、先ほどその文を読まされた、蠣崎新三郎などという名を口にするのも厭わしい。
(蝦夷島などにもましな祐筆はおるらしい。こうした書状の礼は踏んではおった。……本人か? だが、たとえ文字を知らぬ蛮夷でなかろうと、わが娘を踏みつけにしておるのは、許せぬ。それに、官位を斡旋してやるとは、いかなる考えか?)
「おっしゃるとおりにございましょう。しかし、むく犬の群れに一本の骨を投げてやるにも、やりかたがございます。どの犬に投げてやるかが、大事でござりましょう。」
「……豺狼の群れは、骨を争って互いに噛みつきあう、か。」
あやめは頷いた。
「しかし、蝦夷代官は、家中の心服を得てはおるようではないか。意見できる弟に腹を切らせ、反抗の芽も摘んだようだ。非道の者じゃが、それだけに、いまいましいことよ、愚鈍でもなさげじゃな。」
宗久は丁寧に書式を踏んだ手紙を、無造作に横に投げ捨てた。あやめは黙ってまた低頭した。
「歯向かえる器量の持ち主が、松前におるのか?」
「はい。しかるべき時に、最も飢えた犬に骨を投げてやりたいと存じます。」
「最も飢えた犬……? その目星は、もうついておるようじゃな?」
「はい。」
いかにも暗い嗤いのうかんだあやめの顔をみて、宗久は、あっ、と思った。
「……あやめ、まさかお前、我が家から思いついたわけではあるまいな?」
これにはあやめがはっとしたようであったが、滅相もございませぬ、と首を大きく振った。内心で慌てているのは、そういわれて気づいたが、いかにも返事がしにくいからだ。
「……父上が、蠣崎の誰をご念頭にあげられましたかは存じませぬが、おそらく、あやめの愚考をお見抜きでしょう。その者、さすがに今の代官に勝るとも劣らぬ器量をもち、そして、飢えております。」
「であろうな。」
宗久も愉快な話題ではないので、深追いはしない。
「そして、相食んだ獣の群れには、猟師が鉄砲を撃ちかけて仕留めましょう。」
「そこまでが、そなたの図か。」
猟師とは、蠣崎十四郎なる者であろう。
「いかがでございましょう。」
故織田右大臣信長公をはじめ、多くの大名と渡り合った、この父の意見は聞いておきたい。
「些か、気の長い話にならぬか。」
「やむをえません。……一年、いや二年は待たねばなりますまい。ただ、無為には過ぎませぬ。その間、手筈を」
「そなたは、それで」宗久は口をはさんだ。「……それで、よいのか。その間、つらくはないのか。」
あやめは、宗久の口調にまた、はっとする。娘の身を案じてくれている。
「父上……」
「松前などに戻らなくても、そなたの図は如何様にも描けるのではあるまいか。」
「父上、かたじけなく存じまする。あやめの不孝をどうかお許しくださいませ。」
あやめは低頭した。
「ただ、どうかご心配くださいますな。あやめは、すでに毀(こぼ)れておりますれば。」
「毀れておる、とは何じゃ。」
「父上の前で申し上げるべきにはないと存じますが、心が割れてしまっておりますようで、大抵のことはもう苦に感じませぬ。」
宗久の顔にみるみる血が上った。
「松前などに戻ってはならぬ。」
しかし、あやめはさびしい笑いを顔に張り付けていて、それは娘の、父が最も見たくない顔であった。
「戻らねば、割れた茶碗を接ぐことができませぬ。」
「茶碗だと。」
「割れた茶器もうまく接げば、割れる前を上回る値がついたりするではございませぬか。」
「蝦夷島でなければ、接げぬか?」
あやめは頷いた。
「父上、わたくしは蝦夷島にて宝物を見つけました。その宝物を置き去りにして、上方に戻れませぬ。どうかあやめの我が儘を、いま一度お許しください。」
「たからもの、とは、十四郎なる不実者のことか。」
「不実……」
あやめの目に、はじめて涙が光るのがみえた。
「左様でございましょうな。」
しかし、とあやめは首を軽く振った。目は潤んでいるが、泣くまいとこらえているのがわかる。
「お言葉ながら、父上。……蠣崎十四郎さまは、あやめとの約定をたしかに破られました。しかし、いま、あやめは、新たな誓いをいただいて参りました。破れた約定も、いまは、……いまは、絆に……新たな、絆になりましてござりまする。」
宗久は眼を閉じた。
たしかにあやめの心が割れているのだとすれば、それを接げるのは、その十四郎とやらしかないのだろう。松前などに戻して、塗炭の苦しみを舐めさせることには、宗久自身が耐えられない。だが、手元に置いたところで、あやめの心は修復できないのも、たしかのようだった。
であれば、おのれの好きなようにさせるしかないのではないか。
「よかろう。力を貸そう。松前に戻るがよい。」
「まことに、まことに、ありがたき……」
「いや、これは今井家の商いと考えられるな。蝦夷地交易を、すべて今井の物にできるかもしれぬ。……お前の図にはそこまで入っておらんのか。」
「大旦那様。ご明察にございます。蝦夷地は天下にこの上ない宝をくれまする。我が図がなれば、それらはすべて大蔵法眼今井宗久さまのご裁量のままになりましょう。……つまり、納屋のお店に決して損はさせませぬ。」
「いうたな。」
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