えぞのあやめ

とりみ ししょう

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三の段 なやみ  「堺の方」考(一) 

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 世に悪女、毒婦と呼ばれる者がある。淫婦、姦婦、といえば性的な意味を強くもつが、毒婦はそれを兼ねていることが多い。
 天正十年代(ほぼ一五八〇年代にあたる)の松前大舘に住んだ「堺の方」も、伝説には、そのようにある。
 
 この女性には、「傾国」「傾城」という形容も被せられるべきかもしれない。蝦夷島は、この戦国期にあってなお化外の地で、律令体制以来の「国」ではなかったが、「堺の方」はたしかに蝦夷代官蠣崎家による支配を危うくした。松前大舘という中世風の丘城と、その支配者の家を傾けた。
 正史―蝦夷島には元来、乏しいが―には、その存在は皆無に近い。ただ、野史や伝説の中に、まがまがしい影が濃い。
 蠣崎家が代々務めていた蝦夷島代官であった蠣崎新三郎慶広の側室に入り、寵愛をほしいままにすると同時に、家中に不和と対立をまねいた、稀代の悪女として語られる。
 性奔放にして陰険、と後代は称する。矛盾する形容のようだが、それだけどこをとっても悪党だというのだろう。
 みずからの奢侈を楽しむために、慶広をそそのかして無用の戦に駆り立て、同時に過酷なアイノ搾取を実践させたとされる。松前の町にアイノが移住するのを許さなくなったのも、上方生まれ(?)の愛妾のアイノ嫌いを、蠣崎慶広がくんでやったからだという。蝦夷島の人びとの感覚では、上方者はアイノ嫌いに決まっているらしい。アイノの可憐な使用人をさんざんにいたぶるほどに、根っからの蝦夷(アイノ)嫌いであったと伝わり、和人の都府であるべき松前にアイノがいるのが癪に障ったのだと伝わる。
 さらに、隠居の身にあった季広はじめ蠣崎家の男たちともひそかに不貞不倫の関係を結んだとの噂が絶えなかった、ともある。
 むろん後代の伝聞や憶測にもとづく記述に信用のおけるものではないが、代官家に淪落をもたらす淫奔は、当時から囁かれたのであろう。
 賢夫人で知られた慶広正室村上氏は、何度も「堺の方」を蠣崎家から逐うように夫に進言したが、容れられなかったともいう。
 通常ならば知りえない大舘の内部での「堺の方」の悪行は、おそらくこの正室の使用人たちなどから外部に漏れ出たのが最初であろう。(でなければ、単に町雀の噂話に過ぎないものである。真偽定かでないどころではない。)
 ついには古典的な家督争いの劇の立役者となったとなったことが知られる。慶広との間に子を持つことができなかったため、嗣子ではない慶広の二男たる幼童を擁し、家督をとらせようと暗躍したともいわれる。このときは、毒を使ったことが、はるか後年の芝居の題材にもなった。上記の慶広正室の死も、もとはといえば「堺の方」の陰謀がもたらしたものであった。
 しかし、以上は後代の記録やそこから派生したとみられる伝承が独り歩きしたもの、さらにそれにもとづく芸能がつくりだした、まずは虚構である。これら伝説以外に、「堺の方」の実像は必ずしも伝えられていない。
 まったく伝わっていないともいえる。

 こうした人物の例にたがわず、正体は不明といっていい。出自も、生まれ持った名すら(この時代の女性に珍しくはないが)定かではない。
 その呼び名から、当時の泉州堺の出身を当然連想させるが、諸説がある。「堺」という地名は各地にあり、蝦夷地と関係の深かった日本海側にも複数あるため、そちらの出身ではないかとする研究者も少なくない。たとえば、越前と越後の国境そばには上杉方の堺城があり、柴田勝家がここを攻めていた。
 ただ、同時代人が「さかいのかた」を「上方者は利に聡し」と謗ったとの伝承的な記録があるため、(蝦夷地との関係でいえば)敦賀以西の出身であった、少なくともそう称していたことはたしかのようだ。挙止動作はいかにも上方女であった、多弁家でときに狂躁的にまくしたてた、と特徴を記されることもある。
 上方出身であるとして、ではいかなる理由で当時の蝦夷島(蝦夷大島)・松前に至ったのかも不明である。当時、松前には敦賀や近江からの商人の流入があったため、もとはそれらの商家の家族か、ないしはその使用人出身であったと類推されている。(敦賀から流れ着き、大舘の台所女であったところを主人・蠣崎慶広に目をかけられたとの伝 説もある。)
 しかし、であれば「堺の方」という松前大舘での呼び名の由来が、ややわからなくなる。たとえば旧近江国には大津に酒井神社があるが、「堺」ではない。
 ただ、この時代の漢字の当て方はやや恣意的であるので、「さかい」であればよいかもしれない。しかしながら、「堺」以外の漢字が「さかいのかた」を示すのに使われた例が発見されていないのも事実である。
やや古い、泉州堺出身説に、この点ではいくらかの分がある。
 当時の松前と箱館に、当時の堺の豪商今井宗久が出店をもっていたということにはいくらかの可能性があるとされているため、「納屋」(今井の屋号)の関係者、ひょっとすると今井宗久の娘そのひとではないかというのは、かつては有力な見方であった。
 しかしながら、ここまでの特定は、現在ではほぼ否定されているといってよい。
 今井宗久は蝦夷交易をさほど重視していなかったため、蝦夷島での出店の実際の経営は、本店から送った店員に任せていたらしい。今井家として、名目的な主人には、婚姻の縁が遠かった一女(末娘と伝わる)を当てた。この点は今井家の家伝記録にはないが、当時松前に入っていた近江商人(いわゆる「両岸商人」)の記録に、取引相手として「いまいさま御寮人」の記載があり、たしかである。
 この末娘が、かつて「堺の方」と同一人物ではないかとされることがしばしばあった。
 むろん、両者を同一とする証拠はない。納屋今井側の史料に、そうした記述は皆無である。また、いかなる事情があって豪商今井の息女が、当時、せいぜい国人(地方の中小豪族)クラスにすぎない蠣崎家の側室になったというのか、やや想像しにくい。
 ただ、「堺の方」がたしかに商人階層から出たことは推定されている。
 商利にひどく敏感で、みずから松前湊にしばしば姿をみせて商人たちと交流したというから、なんらかの形で交易に関わっていたことがわかる。ただ、松前の商人たちが眉をひそめる、抜け駆けに商利を奪おうとする行為があったらしいことが、この女性の果てのない貪欲を示す材料として、後代の史料に散見される。このあたり、とても豪商今井の者らしいとはいえまい。
 そして、「堺の方」が納屋今井の関係者であるという口伝には、比較的最近、ほぼ決定的にこれを否定するといえる史料が発掘されている。

 
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