えぞのあやめ

とりみ ししょう

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五の段 顔  老人(三)

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 だが、やがて、老人は笑いを含んだ声で、
「……もしも、そんな絵空事がまことであれば、ということじゃな。」

 あやめは、火打石をつかった。灯りが再び黄色くともる。
「お代官様は、永禄のときのことはご存じない。もし全てをご存じになれば、どう思われるでしょう。」
「不満だろうと申すか?」
「はい。長兄次兄を廃し、父君に選ばれてご光栄とは思われますまい。志州さまには志州さまの、あの方にはあの方の、御政道のお考えがたしかにおありでございますね。考えが違えば使い捨てられる、というのでは……」
「御寮人。意外じゃな。儂の昔話を面白く聴いてくれていたが? それよりなにより、十四郎に随分よくしてくれたのだが?」
「そういうことではないのでございます。……志州さまは、お子達を、お捨てになってこられた。今からも、そうされようとなさるのですか。」
「……。」
「蝦夷島の和平の大義がござりますからな。それを破ろうとする者は許さぬ。それはよろしいかと存じます。お武家様の御政道の厳しさは、手前ども商人にはうかがいしれませぬ。」
「……。」
「ですが、その巻き添えになった者は、哀れでございましょう。」
「十四郎がそうだというか。……あやめも……?」
「あやめさまも、やはりそうだったか。」
「……あれはまことに、女だてらに代官職が継げぬのが不満だったのだ。そんなことを口にしていたから、疑いが向けられた。」
「南条越中様こそ屠るおつもりでしたから、好都合と存じられたのではありますまいか?」
「……たれが、かな。」
 蝋燭の暗い灯が、老武将の顔をなにか絵のなかの醜い怪物のようにみせていた。
(また、この老人はやるつもりだ。捨てるのは、次は新三郎だ。)
(いまは、わたくしがやらせているとはいえ、……)
(子を食う親だ。鬼ではないか。)
(この温和な、蝦夷島の平穏をひたすらに求めてきた老武人こそ、まことの鬼……。)

「御寮人。もうよいか、儂の尋ねがあった。……どこへ行く?」
「夜明けとともに、船を出しまする。箱館にお入りくださりたくお願いいたします。」
「箱館? そこになにがある。」
「新しきお城がいずれ建ちましょうが、まずは村上さまの館にお入りください。そこが、志州さまのご政庁と存じます。」
「……他人の家じゃが、隠居部屋よりはましか。うむ、納屋が差配してくれたものであろうし。」
「そこで、十四郎さまをお待ちくださいませ。」
「あれは、野盗になってしまったと聞くが。」
「志州さまはとく(すでに)ご存じでございましょう。その程度のものではございませぬ。」
「薄々は知っておった。蝦夷地に威勢を張りつつあると。だが、……」
「十四郎さまは、もう御曹司に非ず。蝦夷地ご宰領さまとお呼びせねばなりますまい。」
「蝦夷地か。アイノどもを連れてくるか。」
「その兵で、蝦夷代官の兵に勝てるのか、とお疑いで?」
「戦とまではいわぬが……」
「たれも、それを望みませぬ。」
 あやめはいい切った。いまは、いつわりのない言葉であった。
(戦わせたくない……。)
「ただ、新しい蝦夷の都は、守られねばなりますまい。そのための兵が要る。それには十分。いや、……それ以上かと。」
「新しい蝦夷の都か。それが御寮人の望みか。」
「畏れ多い。志州さまと、蝦夷地ご宰領さまのお望みと存じますれば、微力を尽くしておりまする。」
「あいわかった。箱館へ連れていけ。」
「申し訳ございませぬ。もう夜が明けますが、手前はいったん船を降りますれば、海路くれぐれもご大事に。納屋の家の者がお世話いたしますので、どうか、ごゆるりと……」
「大舘に戻るか。」
「はい。ご所蔵のお茶道具は追ってお届けいたしましょう。」
「それはよい。新三郎のこと、引き続き、くれぐれも頼む。」
「……」
 あやめはなんといっていいか、わからない。老人の心胆も見えず、自分の心も良くみえない。
「もう一人、息子のことじゃ。十四郎、……」
「おそらく、追って箱館で、御一緒にお目にかかれることになるかと。」
「今日の話、あやつは知っておるのか?」
「いいえ。」
「話すか。」
「ふたつの話、ともにお話しする気はございませぬ。……ご無礼お許しください。とても、気持ちのよい話とは存じませぬ。」
「死んだあやめも武家の女であった。十四郎も武家じゃ。そなたとは受け取り方も違う。」
「……左様でございましょうね。」
「おぬしも、どうやら、十四郎どころか、新三郎にさえ塩染んで(馴染んで)くれたようだ。ならば武家の者になろう。であらば、いまのような話はこれからも」
「わたくしは、蝦夷島からお武家は全部追い出したいくらいに存じておりますよ。」
 あやめはいい放った。
「あのような話は、あってはなりますまい。親が子を食うのでございますか。もしお武家の世はそういうものだと仰るのなら、……志州さま?」
 老人は目を閉じていた。寝息をたてている。
(さきほどのわたくしの言葉は、聞かなかったことにするというわけだな。)
 志摩守はその政庁ごと、すでにあやめの手に半ば落ちたともいえるが、本人はそこでも泰然自若と振る舞うつもりなのだろう。
(そして、また子を食う。わたくしがその手助けをする。)
「ご無礼を申し上げました。お許しくださいませ。寝床をご準備いたしておりますが、そちらにお移りになられませ。」
「……」
 老人は座ったままで、本当に眠りに落ちている様子であった。
 一礼して、船倉から上にあがろうとするあやめの背中に、眠たげな声がかかる。あやめはそのまま、はしごを上る。
「まことに、おぬしにはあやめの怨霊がとり憑いておるのかもしれぬな。いや、あやつの生まれ変わりなのかもしれぬ。」


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