140 / 210
五の段 顔 老人(三)
しおりを挟む
だが、やがて、老人は笑いを含んだ声で、
「……もしも、そんな絵空事がまことであれば、ということじゃな。」
あやめは、火打石をつかった。灯りが再び黄色くともる。
「お代官様は、永禄のときのことはご存じない。もし全てをご存じになれば、どう思われるでしょう。」
「不満だろうと申すか?」
「はい。長兄次兄を廃し、父君に選ばれてご光栄とは思われますまい。志州さまには志州さまの、あの方にはあの方の、御政道のお考えがたしかにおありでございますね。考えが違えば使い捨てられる、というのでは……」
「御寮人。意外じゃな。儂の昔話を面白く聴いてくれていたが? それよりなにより、十四郎に随分よくしてくれたのだが?」
「そういうことではないのでございます。……志州さまは、お子達を、お捨てになってこられた。今からも、そうされようとなさるのですか。」
「……。」
「蝦夷島の和平の大義がござりますからな。それを破ろうとする者は許さぬ。それはよろしいかと存じます。お武家様の御政道の厳しさは、手前ども商人にはうかがいしれませぬ。」
「……。」
「ですが、その巻き添えになった者は、哀れでございましょう。」
「十四郎がそうだというか。……あやめも……?」
「あやめさまも、やはりそうだったか。」
「……あれはまことに、女だてらに代官職が継げぬのが不満だったのだ。そんなことを口にしていたから、疑いが向けられた。」
「南条越中様こそ屠るおつもりでしたから、好都合と存じられたのではありますまいか?」
「……たれが、かな。」
蝋燭の暗い灯が、老武将の顔をなにか絵のなかの醜い怪物のようにみせていた。
(また、この老人はやるつもりだ。捨てるのは、次は新三郎だ。)
(いまは、わたくしがやらせているとはいえ、……)
(子を食う親だ。鬼ではないか。)
(この温和な、蝦夷島の平穏をひたすらに求めてきた老武人こそ、まことの鬼……。)
「御寮人。もうよいか、儂の尋ねがあった。……どこへ行く?」
「夜明けとともに、船を出しまする。箱館にお入りくださりたくお願いいたします。」
「箱館? そこになにがある。」
「新しきお城がいずれ建ちましょうが、まずは村上さまの館にお入りください。そこが、志州さまのご政庁と存じます。」
「……他人の家じゃが、隠居部屋よりはましか。うむ、納屋が差配してくれたものであろうし。」
「そこで、十四郎さまをお待ちくださいませ。」
「あれは、野盗になってしまったと聞くが。」
「志州さまはとく(すでに)ご存じでございましょう。その程度のものではございませぬ。」
「薄々は知っておった。蝦夷地に威勢を張りつつあると。だが、……」
「十四郎さまは、もう御曹司に非ず。蝦夷地ご宰領さまとお呼びせねばなりますまい。」
「蝦夷地か。アイノどもを連れてくるか。」
「その兵で、蝦夷代官の兵に勝てるのか、とお疑いで?」
「戦とまではいわぬが……」
「たれも、それを望みませぬ。」
あやめはいい切った。いまは、いつわりのない言葉であった。
(戦わせたくない……。)
「ただ、新しい蝦夷の都は、守られねばなりますまい。そのための兵が要る。それには十分。いや、……それ以上かと。」
「新しい蝦夷の都か。それが御寮人の望みか。」
「畏れ多い。志州さまと、蝦夷地ご宰領さまのお望みと存じますれば、微力を尽くしておりまする。」
「あいわかった。箱館へ連れていけ。」
「申し訳ございませぬ。もう夜が明けますが、手前はいったん船を降りますれば、海路くれぐれもご大事に。納屋の家の者がお世話いたしますので、どうか、ごゆるりと……」
「大舘に戻るか。」
「はい。ご所蔵のお茶道具は追ってお届けいたしましょう。」
「それはよい。新三郎のこと、引き続き、くれぐれも頼む。」
「……」
あやめはなんといっていいか、わからない。老人の心胆も見えず、自分の心も良くみえない。
「もう一人、息子のことじゃ。十四郎、……」
「おそらく、追って箱館で、御一緒にお目にかかれることになるかと。」
「今日の話、あやつは知っておるのか?」
「いいえ。」
「話すか。」
「ふたつの話、ともにお話しする気はございませぬ。……ご無礼お許しください。とても、気持ちのよい話とは存じませぬ。」
「死んだあやめも武家の女であった。十四郎も武家じゃ。そなたとは受け取り方も違う。」
「……左様でございましょうね。」
「おぬしも、どうやら、十四郎どころか、新三郎にさえ塩染んで(馴染んで)くれたようだ。ならば武家の者になろう。であらば、いまのような話はこれからも」
「わたくしは、蝦夷島からお武家は全部追い出したいくらいに存じておりますよ。」
あやめはいい放った。
「あのような話は、あってはなりますまい。親が子を食うのでございますか。もしお武家の世はそういうものだと仰るのなら、……志州さま?」
老人は目を閉じていた。寝息をたてている。
(さきほどのわたくしの言葉は、聞かなかったことにするというわけだな。)
志摩守はその政庁ごと、すでにあやめの手に半ば落ちたともいえるが、本人はそこでも泰然自若と振る舞うつもりなのだろう。
(そして、また子を食う。わたくしがその手助けをする。)
「ご無礼を申し上げました。お許しくださいませ。寝床をご準備いたしておりますが、そちらにお移りになられませ。」
「……」
老人は座ったままで、本当に眠りに落ちている様子であった。
一礼して、船倉から上にあがろうとするあやめの背中に、眠たげな声がかかる。あやめはそのまま、はしごを上る。
「まことに、おぬしにはあやめの怨霊がとり憑いておるのかもしれぬな。いや、あやつの生まれ変わりなのかもしれぬ。」
「……もしも、そんな絵空事がまことであれば、ということじゃな。」
あやめは、火打石をつかった。灯りが再び黄色くともる。
「お代官様は、永禄のときのことはご存じない。もし全てをご存じになれば、どう思われるでしょう。」
「不満だろうと申すか?」
「はい。長兄次兄を廃し、父君に選ばれてご光栄とは思われますまい。志州さまには志州さまの、あの方にはあの方の、御政道のお考えがたしかにおありでございますね。考えが違えば使い捨てられる、というのでは……」
「御寮人。意外じゃな。儂の昔話を面白く聴いてくれていたが? それよりなにより、十四郎に随分よくしてくれたのだが?」
「そういうことではないのでございます。……志州さまは、お子達を、お捨てになってこられた。今からも、そうされようとなさるのですか。」
「……。」
「蝦夷島の和平の大義がござりますからな。それを破ろうとする者は許さぬ。それはよろしいかと存じます。お武家様の御政道の厳しさは、手前ども商人にはうかがいしれませぬ。」
「……。」
「ですが、その巻き添えになった者は、哀れでございましょう。」
「十四郎がそうだというか。……あやめも……?」
「あやめさまも、やはりそうだったか。」
「……あれはまことに、女だてらに代官職が継げぬのが不満だったのだ。そんなことを口にしていたから、疑いが向けられた。」
「南条越中様こそ屠るおつもりでしたから、好都合と存じられたのではありますまいか?」
「……たれが、かな。」
蝋燭の暗い灯が、老武将の顔をなにか絵のなかの醜い怪物のようにみせていた。
(また、この老人はやるつもりだ。捨てるのは、次は新三郎だ。)
(いまは、わたくしがやらせているとはいえ、……)
(子を食う親だ。鬼ではないか。)
(この温和な、蝦夷島の平穏をひたすらに求めてきた老武人こそ、まことの鬼……。)
「御寮人。もうよいか、儂の尋ねがあった。……どこへ行く?」
「夜明けとともに、船を出しまする。箱館にお入りくださりたくお願いいたします。」
「箱館? そこになにがある。」
「新しきお城がいずれ建ちましょうが、まずは村上さまの館にお入りください。そこが、志州さまのご政庁と存じます。」
「……他人の家じゃが、隠居部屋よりはましか。うむ、納屋が差配してくれたものであろうし。」
「そこで、十四郎さまをお待ちくださいませ。」
「あれは、野盗になってしまったと聞くが。」
「志州さまはとく(すでに)ご存じでございましょう。その程度のものではございませぬ。」
「薄々は知っておった。蝦夷地に威勢を張りつつあると。だが、……」
「十四郎さまは、もう御曹司に非ず。蝦夷地ご宰領さまとお呼びせねばなりますまい。」
「蝦夷地か。アイノどもを連れてくるか。」
「その兵で、蝦夷代官の兵に勝てるのか、とお疑いで?」
「戦とまではいわぬが……」
「たれも、それを望みませぬ。」
あやめはいい切った。いまは、いつわりのない言葉であった。
(戦わせたくない……。)
「ただ、新しい蝦夷の都は、守られねばなりますまい。そのための兵が要る。それには十分。いや、……それ以上かと。」
「新しい蝦夷の都か。それが御寮人の望みか。」
「畏れ多い。志州さまと、蝦夷地ご宰領さまのお望みと存じますれば、微力を尽くしておりまする。」
「あいわかった。箱館へ連れていけ。」
「申し訳ございませぬ。もう夜が明けますが、手前はいったん船を降りますれば、海路くれぐれもご大事に。納屋の家の者がお世話いたしますので、どうか、ごゆるりと……」
「大舘に戻るか。」
「はい。ご所蔵のお茶道具は追ってお届けいたしましょう。」
「それはよい。新三郎のこと、引き続き、くれぐれも頼む。」
「……」
あやめはなんといっていいか、わからない。老人の心胆も見えず、自分の心も良くみえない。
「もう一人、息子のことじゃ。十四郎、……」
「おそらく、追って箱館で、御一緒にお目にかかれることになるかと。」
「今日の話、あやつは知っておるのか?」
「いいえ。」
「話すか。」
「ふたつの話、ともにお話しする気はございませぬ。……ご無礼お許しください。とても、気持ちのよい話とは存じませぬ。」
「死んだあやめも武家の女であった。十四郎も武家じゃ。そなたとは受け取り方も違う。」
「……左様でございましょうね。」
「おぬしも、どうやら、十四郎どころか、新三郎にさえ塩染んで(馴染んで)くれたようだ。ならば武家の者になろう。であらば、いまのような話はこれからも」
「わたくしは、蝦夷島からお武家は全部追い出したいくらいに存じておりますよ。」
あやめはいい放った。
「あのような話は、あってはなりますまい。親が子を食うのでございますか。もしお武家の世はそういうものだと仰るのなら、……志州さま?」
老人は目を閉じていた。寝息をたてている。
(さきほどのわたくしの言葉は、聞かなかったことにするというわけだな。)
志摩守はその政庁ごと、すでにあやめの手に半ば落ちたともいえるが、本人はそこでも泰然自若と振る舞うつもりなのだろう。
(そして、また子を食う。わたくしがその手助けをする。)
「ご無礼を申し上げました。お許しくださいませ。寝床をご準備いたしておりますが、そちらにお移りになられませ。」
「……」
老人は座ったままで、本当に眠りに落ちている様子であった。
一礼して、船倉から上にあがろうとするあやめの背中に、眠たげな声がかかる。あやめはそのまま、はしごを上る。
「まことに、おぬしにはあやめの怨霊がとり憑いておるのかもしれぬな。いや、あやつの生まれ変わりなのかもしれぬ。」
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる