えぞのあやめ

とりみ ししょう

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七の段 死闘  再会(三)

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(あやめは、戻って参りましたよ、お方さま。)
 この部屋に北の方が来たことは少ないが、呼びかけてみる。
「堺の方」の部屋は、なにも変わりがないようであった。
(お方さまがここにお越しになったのは、……ご官位を得られぬと知って、おやかたさまが問いただしに来られたときか。また叱られはせぬか、ひどい目にあわぬか、とご心配くださいましたな? なんとおやさしい。)
(そのありがたい、慈しみ深い方を、わたくしは、自分の買わせた大砲で……。)
(お方さまはご立派です。わたくしなら、夫が側女を囲っている場所にわざわざ来たいとは思わない。)
 そこで新三郎のことを考えそうになって、あやめは気をそらそうと考えた。
(そうだ、あなた様はもう、出てこられませぬか?)
 あやめは亡霊にも心中で呼びかけてみる。
 今日、あれほど人死にが出た場所であるが、死臭に呼ばれて亡霊がさまよい出てくることはないようだった。あやめはふっと笑う。
(やはり、おやかたさまにお祓いを受けてしまわれましたか?)
 あやめはどうしても、新三郎に考えが行ってしまう。

 あの夜、新三郎にはじめて積極的に抱かれようとして、瘧りの発作のような震えが起きてしまった。
(いまなら、わかる。わたくしは、あの頃から、もうおやかたさまに恋しておった。たくさんのむごい行いの果てに、ふたりで向き合うた末だから、すぐには気づけなかったけれども。憎んでいる、許せない、それなのに愛おしくてならぬ。……だから、心がもたなくなってしまったのよ。十四郎さまが大切、恋しい、好きじゃという気持ちと、我らふたりの仇敵のはずのおやかたさまに惹かれ、泥む(惚れこむ)思い、現に愛される(可愛がられる)悦びとに、身も心も真っ二つに裂けてしもうた。)
(いまも、裂けている。)
(さきほど、やっと、十四郎さまに会えた。十四郎さま! あのお顔。あのお声。うれしくて、うれしくて、泣きそうだった。飛びついて抱き締めたかった。誰が見ていたってかまわぬ、そうしたかった。)
(それなのに、できなかった。)
(頭の中の帳面が閉じぬ。蝦夷島の主になろうとされている十四郎さまと、誰にも縛られていない元の納屋のあやめとして会えた。この喜びで、帳簿は閉じるはずなのに……。)
 あやめの頭の中の帳簿の片側は、どす黒い死の色をした文字で埋め尽くされていた。これに対応して半自動的に埋められるはずの片側の項目が、まったく足りない。
(おやかたさまのお命が助かるのが必要じゃ。)
 あやめは、新三郎の生還がない限り、自分の心は砕けてしまうのだろうと確信している。十四郎と新三郎の二人が、どんな形であれ揃って生きていてほしいのだ。
(たとえこのあと、お方さまを殺したわたくしなどは、二度とお目にかかれなくてもいい。ご無事であってほしい。)
(今日、お決めにならなければならない。さもなければ、あのひとは、死ぬ。)
 もしも新三郎が討ち死にすれば、……とあやめは震える思いで考え、内心で結論している。
(そのときは死のう。今度こそ、自害してしまおう。多くの人を死に追いやった、この罪業深い身を滅ぼす。)
 戦場を見たことで、あやめの長い間引きずっている死への念慮は、一層強まっていた。
(十四郎さまに会えた。わたくしは、もうそれで十分。)
(あの方には、アシリレラもいる。あの子のほうが、わたくしのような女よりも、蝦夷島の主には妻に相応しい。あの子も、きっと喜んでくれる。)
(わたくしはおやかたさまを裏切り、十四郎さまも裏切った。如何あろうとて、死ぬべきじゃろう?)
(そうすれば、楽になれる。もう、この世の悦びも苦しみも味わいたくない。それには、疲れ果ててしもうたよ。……)
(コハル? ……コハル、すまないの。もう一度お前に会いたかったが、できそうにない。わたくしは、強くはなれなかったよ。)
「あやめ、死んではならぬ。」
(おやかたさま?)
 あやめはいつの間にか、すわったまま眠っていたらしい。新三郎の声がした、と思って振りかえると、十四郎が立っていた。

「ご宰領さま?」
「十四郎だ。」
 十四郎は笑った。
(おやかたさまからご返答があったか?)
 あやめはまずそれを思って勢いこんだが、なにもいわぬうちからそれを察した十四郎は、悲し気に首を振った。まだだ、と。
「ご返事がないので、入ってしまったが、よろしかったかな?」
 ご無礼いたしました、とあやめは場を譲る。まだ寝具は敷いていないが、躰が固くなった。隣室には、警護の役でご坊たちも控えているのだ。だが、
(十四郎さまは、最初の夜などは、見張りがいるとお気づきの上で、わたくしを裸にされた。)
(まさか、いまも……?)
(いや、そもそもわたくしの躰は、こんな思いで、まだ、……また?)
「……今宵は、服喪じゃから。」
 あやめの様子に気づいた十四郎は、また悲しい顔になったが、当然のようにいった。
 戦のあとでこそ、若い十四郎は想い人を前に、欲望を押さえつけるのに苦労している。だが、前にあんなことになったあやめに、しかも今宵この場で、無理強いはできない。
(そのような真似をすれば、新三郎兄と何も変わらぬ。)
「ただ、あやめ殿……あやめと少し、お話がしたい。よろしいな?」
「……勿論でございます。お目にかかりとうございました。」
(ほんとうに、そう思ってくれている。なのに、避けた。)
 十四郎は、それだけにあやめの心中は乱れていて、辛いのだと知った。
「わたくしも、ご宰領さまとお話ししたいことが、たくさんございます。」
「おう、楽しい話を聞かせてくだされ。」
「……」
 何の気なしの言葉にあやめが黙り込んだのをみて、十四郎はすこし慌てた。覚悟を決めて、いい足す。
「つらい話でもいい。」
「……」
「あやめ?」
 あやめの目は赤くなっている。先ほどまで夢うつつで自害を考えていた。何をどう話しはじめても、そこに触れそうになる。
(思いもよらなかった。十四郎さまと二人で会えて、わたくしにはつらい話ばかり思い浮かぶとは!)
「ならば、おれから話そう。……あやめ、よく無事でいてくれた。あれから、苦しい思いもたくさんあっただろう。それなのに、生きて、こうして、おれに会いに来てくれた。礼をいう。あやめが無事でいてくれなければ、おれは一体如何すればよいというのか。生きている甲斐がない。それだけを恐れていた。いまは、それが有り難いばかりだ。」
「わたくしなど……」あやめは震える。「勿体ない。わたくしなど、もう、如何様になってしまってもよいのでございます。十四郎さまのことは、ほぼ成られた。蝦夷島の大義は、あなた様のほうにあるのが、明白に。これで十分でございます。」
「どこにも行かないでくれ、あやめ!」
 十四郎は叫んだ。死なないでくれ、という意味だ。
「あやめ、なにを考えているのか、わかる。だが、よもや、愚かな真似はやめてくれ。」
「わたくしは」
「おれをひとりにしないでくれ。兄上も喜ばれぬ。絶対に許さぬ。」
「ご宰領様、わたくしは、罪業深い。お武家でもないのに、これほどたくさんの人を殺してしまいました。」
「殺したのは、おれだろう? あやめが見ていないところでも、山ほどの人を殺した。……合戦だった。それで許してくれぬか。」
「あなた様のご運命も、わたくしが変えてしまったのでございますよ。愚かなわたくしの恋心ゆえの早合点で、御兄上様とあなた様の仲を壊してしまった。あなた様は遠流になることもなかったのです。そのあとも、おやかたさまと北のかたさまがあなた様とわたくしをお見守り下さったのは、文にお書きしましたね? わたくしは、お方さまの仰ったは、まことと信じております。」
「おれも、左様だったと思う。……そのお気持ちを裏切ったのは、おれだ。おれの我が儘で、全てが狂った。あやめの苦しみも、すべておれのせいだった。」
「いえ、わたくしどもの罪です。……いえ、それも大半は納屋のあやめの罪。あなたを、復讐に引き入れてしまった。……やはり、隠せるものなら、恥は隠し通すべきだったのに!」
「あやめの恥ではない。隠すべきでもなかった。」
「……それにしても、どうして、ここまで来てしまったのか。勘違いに勘違いを重ねて、おやかたさまを憎むままでもよかった。それでも、ただあなた様との幸せな暮らしをひっそり追うだけでよい、となぜわたくしは思えなかったのか……?」
「兄上は、あやめにひどい真似をした。復讐は、まずはそれに対してであったよな?」
「……!」
 十四郎の顔つきが厳しくなっている。あやめの嘆きは自分のものとして突き刺さるが、あのとき、あやめの震える背中を目にしたときの怒りまで否定されてしまっては、自分のやってきたことはどうなると思えた。
 あやめの知らぬ蝦夷地でも、多くの仲間を喪った。故地ともいうべき場所が滅びるのを目にした痛みも、あやめにわかってもらえるものでもない。だが、それらがもしも、あやめが説いた蝦夷島の明日の大義という一点に収斂するのであれば、と願って、ここまで来た。
(それなのにいまのあやめは、全てを悔い、……兄上のことばかり気にしているのではないか?)
 十四郎は、はじめてあやめを憎いと感じた。自分はあやめに裏切られていたと思え、それを何度否定しても、浮き上がってくる苦いものを消せぬままに、ついに口にした。
「あやめ、……いまは、兄上のほうを慕っているのだな。」
 あやめは蒼白になった。ずっと先から覚悟していたとはいえ、十四郎本人にそれを突き付けられると、気が遠くなるほどの衝撃を受ける。
「わたくしは!……わたくしは、十四郎さま、あなた様をずっとお慕いしています!」
「……だが、兄上も、か。」
 あやめは、十四郎の顔の真ん中に空白が生じたような表情に、内心で悲鳴をあげた。
 十四郎は、がたがたと小さく震え出した女の肩をみつめている。いろいろな思いが同時に起き、もつれ果てた末に、逆に感情の失せたようになった目になっているのが自分でわかった。
 ひどいことをおれはしている。あやめに対して、そんな風に振る舞えるおれか、とも思った。そして、こんなときでもあやめは美しいと愛おしさも突き上げた。
 しかし、不思議な無感動に十四郎は支配されていた。
(おれは、なぜこのあやめと、ここまで深い仲になってしまったのだろうな?)
 後悔するのではなく、それ自体が独立した問いとして自分の前に投げされた気分で、十四郎はぼんやりと考えはじめている。


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