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逸文 比翼連理 一
しおりを挟むまた来てしまった。
眠れぬ夜になったと覚悟したとき、床を抜け出し、無人の離れ屋に忍び込む。高窓から月明りが入るだけだが、あまりにも親しんだ部屋だから、歩くのに不自由はない。
(姫様はあそこにお座りだった。おれはここだな。)
蠣崎新三郎は、昔と同じ場所の床に座る。上座にあたる、もちろん誰もいない空間に目をやる。黄色味がかった微光のなかに埃が舞っていた。
空き家になってもう二年もたつ。調度のたぐいこそほぼそのままに残してあったが、ひとけが絶えてしまえば、やはり埃臭くも黴臭くもなってくる。
(姫様の匂いが……)
来るたびに、薄まってくるのが悲しい。
この離れ屋に引き寄せられる自分を、新三郎は内心で叱っている。
(亡くなってしまわれたのだ。もう、如何とも仕様がない。こんな場所に来たところで、二度と会えぬ。……未練じゃ! 未練じゃぞ、新三郎!)
だが、ふと懐かしい匂いが漂うときがある。それに気づくと、新三郎は甘美な回想にたちまち沈んでしまう。
この夜は、なぜか、かすかな茶の香りだった。この部屋に染み付いているのだろうか。姫様が立ててくださったお茶をいただき、ときに甘いものもいただいていた。ほんの子どものころは、その菓子がうれしかったものだが、じきにそんなもの以上に、姫様のごく近くで親しく言葉を交わせるのがはるかに喜ばしく、楽しくなった。
(よくお笑いになった。蝦夷島の話などに、お目を輝かせて聞き入ってくださった。……そして、よくお泣きになった。この場所で、おれの前だけで……。)
身分違いでとてもかなうものではないとわかっていたから、新三郎自身が深く心の底に沈めて気づかぬように封じ込めていた恋情が、思いもかけず通じた。姫様こそが、ずっと昔から新三郎を恋う気持ちを抱き続けていたのだという。想いが通じ合ったとわかったときの、天にも昇る心地。そして、……。
温かく、柔らかい躰を、抱きつぶしてしまいそうだった。痛いよ、と遠慮がちにゆっくりと訴える声が、くぐもって湿っていた。肩の肌が白く光り、匂いをたてた。細い頸筋に唇をあてると、小さな悲鳴をあげて震える。
(すべておれのものにしたい、と思った。……すべておれのものにした。なってくださった。おれとひとつになって、何もかも忘れて、投げ出して、瞬時、狂ったようにすらなって、……)
いつからか、姫様は持ち上げた両脚を、動き続ける新三郎の腰に固く回すようになった。極みに至って、意識の糸がぷつりと切れたようになったときも、それを外さない。外せない。小さな呻きをあげながら、下から突き上げるように二、三度腰が動く。新三郎が軽く持ち上げられるときすらあった。そうやって、男の最後の動きと、その終わりを受け止めてくれる。
やがて、全ての力が抜け、足がほどけ、荒い息とともに何かが抜け落ちていく。張り詰めていた両のふくらみが、果てた末にのしかかるようになった新三郎の分厚い胸の下でつぶれる。
弾み切った息を整えようとするあいだも、固く、固く目をつぶっておられた。汗と涙に濡れた頬が、熱に桃色に光ってみえた。
ようやくやや落ち着かれると、すぐ間近にあるこちらの顔に、愛おし気に目をあててくださった。ときに、汗のういた頬に細い指をあててくださる。はにかむ笑みを浮かべられるのが常だった。そんなときも、まだ瞳はきれいに涙に濡れていた。
(新三郎殿……いえ、おぬしさま、か。)
(はい。)
答えると、もう二人の躰の繋がりはほどけていたけれど、また抱きついてこられた。
(おぬしさまが、いる。いらっしゃるのう?)
(はい、おりまする。)髪を撫でた。よい油の匂いを嗅いだ。姫様は、ああ、とうれしげな吐息をまたつかれた。
(つっと、離れてあげませぬよ。)
(なにをおっしゃる? お離れにならないで下され。)
(おぬしさまこそ、おひとりでお帰りにならないで。……どこへ? 松前よ。)
(帰りませぬ。お約束したではござりませぬか。松前にお連れすると。蝦夷島にお渡りをお願いいたしております。……そこで、われら、幾久しく……)
それを聞くと、黙って微笑まれた姫様を、新三郎は思い出していた。うれしい、待ち遠しい、と弾んだ声をあげられたときもあったはずだが、不思議にそのお顔が思い浮かばない。
(もしや、なにかにお気づきじゃったか? ……おれは、どんなに大館の無言の拒絶があろうと、姫様と添う思いは固かった。それに偽りはないつもりじゃった。……けれど、姫様はいつからか、おあきらめになっておられたのではないか? 尊いお血筋とはいえ、落魄の影の差した浪岡北畠のお家と縁を結ぶのを、蝦夷代官家は許せないのだろうと? ただの出仕ならばともかく、妻を迎えるまでに深くつながるは、家の安泰を思えば、いまや出来ぬだろうと? ……そしておれは、結句、父に逆らうことはできぬだろうと?!)
新三郎は無言の悲鳴をあげて、頭を抱えた。
(そうよ、おれは逆らえなかったじゃろう。恣にお身を抱いて、子まで孕ませた。さに知りながら、姫様をみすみす大浦(津軽の新興勢力で、浪岡氏と敵対、一昨年には戦勝した)などに差し出させてしまったのだからな! 母子ともに、いつかきっと取り返す、なんぞというあてどもない約定にすがって、手をこまねいていたのじゃからな!。)
新三郎は呻いた。彼にとりついて離れない自責の念と自己への疑念が、また、身を焼くようだった。
(おれは、おれは卑怯者ではなかったか? わかっていて、姫様を手放したのではないか? 挙句、姫様は子を流され、そのまま亡くなってしまわれた! おれは、さようなことが起きるのも薄々承知していたのではなかったか? 家に逆らうが怖さに!? 蝦夷代官の跡目をとれぬが怖さに……?! 背信者、卑怯者……!)
「若旦那、なんというザマですか?」
部屋の隅の暗闇から、不意に女の声がした。
新三郎は瞬時に緊張し、それだけは帯にねじ込んできた脇差の柄を握って頭を起こした。相手の忍ぶ気配がまるで取れていなかったのに唇を噛んだが、すばやく膝立ちになって、いつでも飛び掛かれる態勢をとった。
「たれか。」
女のものらしい小さな影が動いた。近寄ってくる。
「若旦那。お久しう。」
「……あっ、お前?」
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