魚伏記 ー迷路城の姫君

とりみ ししょう

文字の大きさ
70 / 235

終章 松前大舘の姫君 その四

しおりを挟む
(ちょうど五年、戻らなかったか。)
 松前の浜に立った時、さすがに新三郎にも感慨があった。
 故郷に使いに出されるときにも、いよいよ船べりから松前のごつごつした海岸が見えたときにも、十八歳の若者には何も感動はなかった。
 松前の小さな湊の匂いを思い出したとき、はじめて刺すような思いが胸に迫る。
(姫さまを、お連れしたかった……。)

 いつか姫さまと我が子を取り戻すとの、あてどもない誓いだけにすがって生きようとしていた。それも、八か月もたたぬうちに、さ栄姫の死によって無惨に潰えた。
 浪岡城内でその報を伝えられた時、大御所の前で新三郎は一瞬、なかば喪神したと言っていい。目の前が昏くなった。
 ふたたび視界が明るんだとき、自分の人生に悦びを求めるのは終わった、と当然のように感じていた。これからは、己の与えられた義務を果たすためだけに生きるのだと。
 浪岡御所は、生き残りのための外交に勤しまねばならない。大浦家との小康状態は、絆とすべきさ栄姫の死から半年もたたぬうちに、すでに揺らぎ始めていた。また別の者を送り込む政略結婚を、とは考えにくい状況になってしまった。
 大御所は、「遠交近略」だと考え始めたのだろうか。大浦家と南の境を接する出羽・秋田との仲を固めるため、御所さまの正室を安東家から迎えようとしている。檜山屋形こと安東氏は南部氏の仮想敵国とも言うべき存在であったが、浪岡北畠氏としての自立を守るためには、南部の庇護を頼りにするわけにはいかなくなったのである。
「おぬしの父、蝦夷代官蠣崎若州に間に立って貰いたい。」
(十三、四の頃のおれならば、武者震いしただろう役目じゃな……。)
 その三、四年前が十年も二十年も前のことのように思える。自分も、天才丸や元服のころの己れからは、遠い。
 新三郎は、淡々とその任務を受けた。蠣崎季広がこの政略結婚の仲介役を演じることの、蝦夷代官家にとっての損得勘定をまず考えている。
 新三郎は、そのようになっていた。まずは松前の蠣崎家が、蝦夷島をどう治めていくかであり、それ以外にはもうあまりない。
 さ栄姫の死があった以上、新三郎は変わらざるを得なかった。
(姫さまがご死産の果てに亡くなられたのは、お子を孕ませたおれのせいじゃ。しかし半ばの責は、大浦と、南部と、……浪岡御所とにあろう。大御所さま、大み台さまが大浦に姫さまを差し出さなければ、亡くなられずに済んだのではないか?)
 蠣崎新三郎の頭の中では、すでに敵方である大浦も、味方のはずの南部も、この浪岡御所も、同じものであった。
 自分から姫さまを奪った連中である。生まれて初めて、決して冷めようのない怒りを若者は心の奥に秘めるようになっていた。
 そして、それ以上にうずく思いに、新三郎はしばしばひとり苦悶した。
(おれは、お身を犠牲にする姫さまを止められず、すべてを振り捨ててともに逃げようともできず、……みすみす姫さまを死地に追いやってしもうた。大浦でも浪岡でもない、おれこそが、最後は姫さまを見捨てた。われらの子ごと、死なせてしもうた……!)
 新三郎がかろうじて浪岡御所にとどまって精勤しているのは、この罪障意識からだけだったと言ってよい。御所さまをお守りするのを、さ栄姫さまは望んだはずだ。その想いにだけはこたえなければならない。
 だが、故郷の土を踏んだ時、新三郎ははっきりとわかった。自分の果たすべき役目は、この松前にしかない。浪岡の無事を祈った姫さまのお命じには、必ず従いたい。だが、最後の最後で、お許しを請わなければならないかもしれない。
 
 父との二人だけになった面会で、新三郎は松前のこれからについて腹蔵なく語った。蠣崎が蝦夷島で何を望んでいくべきか、そのためにどのように振舞うべきかの考えで、親子の考えは遠くないことがわかった。
 新三郎は、自分は家督を譲られるのを願っているのを隠さなかった。
「新三郎は、蠣崎若狭守さまの蝦夷島お治めをお助けして参ります。それだけが新三郎の望みと、申しあげておきまする。」
「そして、いずれは、儂の跡を継ぐか。」
「はい。さように願っておりまする。」
 季広は一瞬、父親の顔に戻ったが、すぐにいつもの感情を隠したとらえどころのない表情に戻り、話は変わるが、お前は長泉寺を覚えておるか、と尋ねた。新三郎が少し考え、思い出して肯うと、
「あの長泉寺のある折加内村にも川が流れておるが、いつからだったか、鮭が上らなくなったそうじゃ。永禄五年……か。困ったものじゃ。」
 永禄五年、とは、あの家中の毒殺事件以来と言うのであろう。新三郎は気づいた。
 そして、微笑みながら答える。
「ご案じに及びませぬ。父上の御政道、蝦夷島に一層いきわたり、松前の繁栄とみに増しますれば、いずれ、鮭も戻って参りましょう。」
「さようであろうか。」
「違いありませぬ。……亡きあに上がた、姉上も、それをお望みでございましょう。」
 長い沈黙のあと、げにさようか、と呟くと、季広は立ち上がった。低頭する新三郎にはその表情はうかがえない。
 ただ、声が降ってきた。
「……それも、お前の代になるかもしれぬが。」

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

徳川慶勝、黒船を討つ

克全
歴史・時代
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。 尾張徳川家(尾張藩)の第14代・第17代当主の徳川慶勝が、美濃高須藩主・松平義建の次男・秀之助ではなく、夭折した長男・源之助が継いでおり、彼が攘夷派の名君となっていた場合の仮想戦記を書いてみました。夭折した兄弟が活躍します。尾張徳川家15代藩主・徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬、特に会津藩主・松平容保と会津藩士にリベンジしてもらいます。 もしかしたら、消去するかもしれません。

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら

俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。 赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。 史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。 もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。

【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜

旅する書斎(☆ほしい)
歴史・時代
【第11回歴史・時代小説大賞 読者賞(読者投票1位)受賞】 文化文政の江戸・深川。 人知れず佇む一軒の飯屋――『やわらぎ亭』。 暖簾を掲げるのは、元武家の娘・おし乃。 家も家族も失い、父の形見の包丁一つで町に飛び込んだ彼女は、 「旨い飯で人の心をほどく」を信条に、今日も竈に火を入れる。 常連は、職人、火消し、子どもたち、そして──町奉行・遠山金四郎!? 変装してまで通い詰めるその理由は、一膳に込められた想いと味。 鯛茶漬け、芋がらの煮物、あんこう鍋…… その料理の奥に、江戸の暮らしと誇りが宿る。 涙も笑いも、湯気とともに立ち上る。 これは、舌と心を温める、江戸人情グルメ劇。

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

7番目のシャルル、狂った王国にうまれて【少年期編完結】

しんの(C.Clarté)
歴史・時代
15世紀、狂王と淫妃の間に生まれた10番目の子が王位を継ぐとは誰も予想しなかった。兄王子の連続死で、不遇な王子は14歳で王太子となり、没落する王国を背負って死と血にまみれた運命をたどる。「恩人ジャンヌ・ダルクを見捨てた暗愚」と貶される一方で、「建国以来、戦乱の絶えなかった王国にはじめて平和と正義と秩序をもたらした名君」と評価されるフランス王シャルル七世の少年時代の物語。 歴史に残された記述と、筆者が受け継いだ記憶をもとに脚色したフィクションです。 【カクヨムコン7中間選考通過】【アルファポリス第7回歴史・時代小説大賞、読者投票4位】【講談社レジェンド賞最終選考作】 ※表紙絵は離雨RIU(@re_hirame)様からいただいたファンアートを使わせていただいてます。 ※重複投稿しています。 カクヨム:https://kakuyomu.jp/works/16816927859447599614 小説家になろう:https://ncode.syosetu.com/n9199ey/

高天神攻略の祝宴でしこたま飲まされた武田勝頼。翌朝、事の顛末を聞いた勝頼が採った行動とは?

俣彦
歴史・時代
高天神城攻略の祝宴が開かれた翌朝。武田勝頼が採った行動により、これまで疎遠となっていた武田四天王との関係が修復。一致団結し向かった先は長篠城。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

処理中です...