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断章 馬と猫(二十六)
しおりを挟む夜が来た。
りくは台所の隅で眠っている。松蔵は、もとは馬屋だったらしい場所に自分で部屋をこしらえていたが、りくは土間の片隅に筵を敷いて寝起きしていた。冬はひどく寒いが、板戸をたて、風を遮って何とか過ごす。
目を覚ました。すっと立ち上がると、落ち着いた様子で真っ暗な外に出る。もっとも、雪明りがあった。
離れの横にある本体だった家屋は、いまは空き家である。御所が蔵代わりに使っているだけで、人気はない。入り口には鍵をかけ、出入り勝手にはならないようにしているはずであった。
だが、らくに忍び込める場所を、りくは見つけていた。廃屋になりかけていたから、そうした箇所がどうしてもある。無人の六間の広間に入り、なかは空で軽いらしい指物が部屋の隅にあるのを押し動かして、それを足掛かりに軽々と天井裏に入った。大きめの籠が伏せてあった。それを外すと、猫の目が光った。
「ごめんよ……。」
つぶやくと、片手でミケを抱いた。下の気配をうかがい、慎重に降りる。餌の器を袂から出すと、お食べ、とうながす。
「腹が減ったねえ。いっぱい食べて、しばらく遊ぶんだ。」
そのとき、ぎくりとした。咄嗟に先の尖った投げものに、懐の中で手がかかるが、自制した。気配から、誰かがわかったからだ。
「……ここに隠していたのか。」
灯もないが、天才丸は夜目が効くらしい。もっとも、雪に反射した月明かりが青く、少年の無表情を浮かび上がらせている。
「若旦那?」
「あの隙間、通るのに苦労した。」
擦り切れてしまったのか、着物の袖を持ち上げて、気にする素振りだ。
(しまった。つけられるなんて……!)
りくはまず、職業人としての失敗を恥じたが、その次には、ひどい狼狽がやってきた。
(見つけられた! ……えらいことになった!)
(いや、えらいことはこのあたしが起こしたんだが……。)
「りく、なんでこんな真似をした……かは、聞かぬ。まずは、ミケをこっちに連れてこい。」
りくは猫を抱きしめた。厭だ、と思った。
「……そんなに、ミケと別れるのが厭か?」
そうだろうな、と天才丸は思う。
ミケがいなくなったとき、真っ先にりくを疑ったわけではない。それは畜生のことだから、どこに迷うかわからぬし、お城の中とは言え、金目のものが四つ足で歩いていれば見逃さない盗人もいよう。ただ、りくが常にひとりであちらこちらを探していたのには、最初は危ないことだと彼女の身をまず案じてやり、そして、やがて気づかされた。
(おれや、松蔵が探す場所を先回りしていやがるんじゃないか?)
りくがミケをどこかに隠し、そこから他の者が探す先を知っては頻繁に移動させていると考えれば、こうも猫一匹が探し出せないのにも納得がいく。この空き家とて、りくには入れぬはずの場所だが、猫ならば入り込むとも思い、真っ先に探したのだ。天井裏にも気を配ったが、気づけなかった。
「ひょっとすると、台所に隠したときもあったんだろう?」
りくは屈んでミケを守るように抱きしめる姿勢のままで、しかし、そこは素直に頷いた。
「りく。お前、可愛がっているからな、ミケを。それは手放したくないだろう。……さびしいんだ、お前?」
こやつは身よりがない、と天才丸は思い出した。孤児はこの世に多いのであまり気にも留めなかったが、離れているとは言え立派な親きょうだいに恵まれている自分などとは違う、深いさびしさがある娘なのだ。
「……じゃがな、その猫は姫さまのもので、……西舘さまにお返ししないといけない。姫さまはお困りじゃぞ。」
「……。」
「さあ、戻せ。……連れてこっちに来い。案じるな、黙っていてやる。今なら、おふくにも、……姫さまにも言わん。たれだって、気の迷いはある。ご主人を欺く斯様な真似、二度としなければよい。」
「厭だ。あたしのだ。」
りくは、小さな声で言った。
「馬鹿を申すな。ミケはな、姫さまのお猫さまじゃよ。お前のじゃない。」
りくは泣き出した。嘘だ、このあたしが、と驚いた気持ちがあるが、ほんとうに、涙が止まらない。
「ミケは、……あたしたちのものだ。」
その言葉が口をついたとき、自分が何故こんなに悲しいのかがわかる気がした。
猫が来たのは、ここにいる天才丸がふと思いついたのを、自分が西舘の密偵もどきに伝えたからこそだと思っている。この子は、あたしたち二人がここに連れてきた、あたしたち二人のものなのだ。絶対に手放したくない。
「あたしのもの。あたしのものだ。」
りくはしゃくりあげながら何度も繰り返したが、もうそれは、ミケのことを言っているのではない。
「姫さまのものじゃない。」
「いや、姫さまのものなんじゃよ。」
「……!」
いつの間にかこちらに近づいていた天才丸が、屈みこんで、ミケの頭を撫でた。
「これは、姫さまが貰ったものだから、明日、お返しするまでは姫さまのものじゃ。」
力が抜けたようになったりくの腕からミケを抱きとると、
「りく、お前はさびしくて、つらいだろうよ。毎日ここで忙しくて、お城の他のものとの付き合いも、ままならぬ。ミケだけが遊び相手、話し相手じゃったな。」
りくは涙に濡れた顔を振った。
(若旦那、違うんだ。ミケだけじゃない。じゃから、あたしは……。)
「それがいなくなる。斯様な真似したくなるのは、……おれは、わかる気がするよ。おれとて、雪が降ると、まだ松前が恋しくてな! 男のくせに情けないが、……さびしいよ。またあにうえ方や姉上がたに会いたい。生意気な弟どもと喧嘩したい。おふくろ様に、もっともっとと勧めて貰って、干し鮭をもう一度、腹いっぱい食いたいものじゃ。親父どのも、怖いばかりでもなくてな。……すまぬ。お前はいつ親を亡くしたのじゃ? ……そうか、さほどに長く、一人でおったのか。おれには、わかりはしないな。じゃが、……お前には、松じいがおるよな?」
「松じいなんぞ!」
「……だと。むごいことを言いおる、な?」
りくは勿論、先ほどから気づいていたが、松蔵も部屋の中に入ってきていた。驚くふりをする気も起きないが、若旦那の前で何をしにきやがったかと思う。
「若旦那、どうかお目こぼしください。雪も降ったってのに、このおうちを追い出されたら、こいつは凍え死に、飢え死にしちまう。」
「懸念に及ばぬ。左様にならぬように、おれはここに来たのじゃ。」
「お許しを。こいつの不始末は、わしのせいでもある。お咎めがあるとしたら、わしも一緒にお願いします。こいつの親に、あの世で申し訳がたたんので。」
「松じいは、お前の身を案じて、おれのところに来たのよ。これほど探しても見つからぬはおかしい、きっとりくがとんでもない真似をしやがったに違いない、と言い出したときには、驚いたぞ。」
そうか、松蔵にまず見破られていたかと、りくは悔しい。
(松蔵のやつが、姫さまのお咳のことを西舘に流しやがったんだ。余計な真似を……。そのうえ、若旦那の前で恥をかかせやがって。)
「お前には、松じいもいるし、おれもそばにいるじゃないか?」
あっ、とりくは息を呑んだが、すぐに冷静になった。
「若旦那はお武家で、御所さまのご猶子とやらにおなりになるかもしれぬ人でしょう。りくなんぞとは分際が違います。」
「うむ、そうだな。」
あっさりと天才丸は頷いたが、しかし、つづけた。
「じゃが、同じ姫さまの郎党じゃ。お前には、おふくも、蠣崎の二人も、その家の連中も、同じ郎党の、おもひどち(仲間)じゃろう? おれも、左様に思っている。たとえ元服しても、北畠さまの姫さまにお仕えする身は、変わらぬからな。」
りくは、泣き疲れた、ぼんやりとした顔でそれを聞いていた。
「……さて、冷える。こんなところに長居はできぬ。帰るぞ。」
「若旦那、まことに、あたしにはお咎めなしでよろしいんで?」
「姫さまに嘘は申し上げられぬ。じゃが、猫のことはもう、こちらからは何も申し上げぬ。おれはそれで、よろしいのよ。……お前は、困るのか?」
「……ええ、若旦那に大きな借りを作っちまったから。」
「りく!」
松蔵が怒鳴った。
少女がどんな心持ちなのか、この男は本人以上に読み切っている。
姫さまの咳の話を、りくが研ぎ師に伝えなかったときに、ありていが知れていた。猫が失せたとき、舌打ちしながらも、憐れでならぬ気持ちが湧いた。
この稼業に生まれてしまったのであれば、とうてい望んではならぬことを、りくは望みかけている。
天才丸が先ほどりくに掛けた言葉は、松蔵がりくが怪しいと告げたときに耳にして、これだけはせめて聞かせてやりたいと思ったのだ。
(この若旦那のお気持ちに触れろ。それだけで、果報と思うがよい。……それだけしか、もうないのじゃから。)
「若旦那。こやつ、もう無礼打ちしてやってください。あんな真似をしながら、そしておやさしいばかりのご沙汰をいただきながら、りくっ、なんじゃそのご無礼な言いざまは?」
天才丸は笑った。
「たしかに、貸しだな。返して貰えればありがたいが。」
「お返ししますよ。」
(なんだ、こいつらは。)
松蔵は若者たちの会話に妙な意味を汲んでしまいそうになったが、そうした不潔な意味はないらしい。
「……若旦那は、姫さまにただ、黙っていてくだされば結構。たぶん、たれも損はしません。」
(はて、こいつは……?)
何者なんだろう、と天才丸ははじめてりくの素性を疑う気持ちを少し起こした。
暗がりの中で松蔵を振り向くと、この老下男には、それらしい雰囲気しかない。りくの世間知らずで無礼な態度に赤くなったり青くなったり忙しいようだ。
(この松じいが子供の頃から知る娘じゃ。まあ、へんなことはなかろう。)
そして、女とはわからぬものじゃ、と少年の人生でこれまで何度か感じたことを、また思った。
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