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断章 馬と猫(二十五)
しおりを挟むさ栄は、西舘の家宰が送ってきた手紙を読むと、拍子抜けしたような気分になる。
強くなる、などと言ってずいぶん力みかえっていたが、そんな自分が滑稽に思えさえした。
「よろしうございました。ミケは、あまりきちんと繋がれておりませんでしたゆえ、そこかしこに毛が散らばっておりましたので。」
ふくなどは安堵している。
西舘から、猫を是非にと欲しがる家があるのでそちらに回して貰いたい、と言ってきたのだ。
(わたくしの咳のことをご存知になったゆえかもしれぬ。)
そう気づくと、さ栄はまた釈然としない思いもある。また、見張られているかのようだ。
ミケがいなくなるのも、うれしくはない。たしかに自分の膝に乗せてやるのも、一緒に夜着で温もるのもできないが、遠くから眺めているだけで、自分の家の者であるかのように思え、それなりに馴染んではいたのだ。しかし結局は、
「おさびしいでしょうが、やむを得ませぬ。」
天才丸の言うとおりではあるとは思った。
「鼠はまた、……なんとかうまい鼠ワナでも仕掛けましょう。」
「頼む。」
「いつ、先方は取りにお越しで? ご城内から?」
「金木だと聞いた。」
金木舘は、遠く北畠の血を承けた家臣の一族が、代々守っている城砦である。
(あそこに、猫を欲しがるような女のかたがいたかな?)
さ栄には記憶がない。
「三日の後、でございますか。それでは、わたしもミケとは今日で最後になりましょう。後で、挨拶に参ります。」
「おらぬだと?」
すぐに騒ぎになったわけではない。なにぶんにも猫のことだ。つないでいた紐がいつの間にか解けていて、ミケがどこかに行ってしまったとしても、日の沈むまでには、ここに戻ってくる。だから、気づかなかったと詫びるりくを、叱る者はいなかった。
次の日のひるを過ぎると、松蔵がまず慌てだした。
「このあたりに姿がございませぬ。」
「猫じゃからな。そのようなものであろう。」
ふくは答えたが、そろそろ気になりだしていた。明後日には、金木舘から使いが来るというのだ。
りくはすでに西舘を隈なく探したと言う。別の舘にまで足を運んであちらこちらを捜し、城外にまで出たらしい。
青い顔になってふくに詫びるのだが、ふくもいまさら叱るわけにもいかないし、叱ったところでどうしようもない。松蔵も一緒になって頭を下げ、渋い表情をするばかりだ。
天才丸と松蔵はお屋敷のまわりに干し魚を千切って撒いたりしてみたが、期待したようにミケがそれにつられて出てくるということもないままに、日が暮れた。
「明日中に見つからなければ、如何いたしましょうか。」
ふくにたずねられ、さ栄も考え込んだが、
「金木のご使者には、正直にお詫びするよりないな。いなくなってしもうたのだから、いかんともしようがない。ここまで無駄足は心苦しいが……。」
「金木は、まあ、よろしいのでございますよ。」
ふくの心配は、猫の送り主にある。
西舘さまにも、弁解しなければならないではないか。猫をどこかにやってしまいました、と言わないわけにはいかぬ。
「兄上……西舘さまには、わたくしからお詫びいたそう。」
さ栄は、わざとこともなげに言ってみた。そして、ふくの表情があからさまに心配げになるのを見て、心が冷えるのを感じる。
(ふく、さような顔をしないでおくれ! なんということもないではないか。妹が、兄に小さな不始末を詫びる、それだけじゃ!)
そのように言おうとするが、どうも空々しく思えて、妙なことを言ってしまった。
「金木はミケが欲しいと言うてきたわけでもない。別の猫を差し上げるとするか?」
「別の猫? おあてがございましたか? それができれば、西舘にはとりあえず申し上げずともよいかもしれませぬが……。」
ふくも、あるいはまた天才丸が自分の知らぬ間に何とか融通してくれたのではないか、くらいについ思ってしまったが、
「……ない。」
「ございませぬのか。」
「しかし、西舘さまもいずこかの商人から買ったのであろうから……?」
(ああ姫さまは斯様であったわ。)
ふくは内心で溜息をついた。
「唐猫とは、たいへんに高価なものとは、ご存知かと。」
さ栄は目を伏せながら、
「……いかほど?」
と、小さな声で尋ねた。
「まず、一貫文では足りますまい。」
「それでは、アオよりも高いではないか。お馬よりもあの小さなものが高価なのか?」
「お忘れですか。一貫文は、天才丸どのが払われた借銭の利銀のみでございまして。馬一頭を買おうとすれば、アオ程度でも、その三倍くらいはしましょう。ミケも、それと大してかわりのないお値段でございましたでしょうよ。……しかし、なんにいたしましても、このおうちに、さような蓄えはございませぬ。」
さ栄は黙って聞いていたが、ひどく厭な想像に苦しめられている。
「そのように値の張るものを下さったのに、どこぞにやってしもうたわけじゃな?」
ふくもまた、さ栄より早くに思い当たっていた。
(まさか、最初から西舘さまが仕組まれたのではあるまいな?)
「姫さま、あろうことかとは存じますが、……もしも、もしも無理無体を言って来られましても、決して諾われてはなりませぬ!」
「ふく!……それは、ご無礼ではありましょう。さようなこと、ありえぬ。たかが、猫のことではないか。」
(だが、その猫を用立てる金をわたくしは持たぬ。それを返せと万が一に言われたならば、如何にして詫びればよいわけか。)
「……大金ではあるが、西舘さまは、そこまで……そこまで、お心狭くはあられぬよ。お待ちいただけるであろう。」
(待って下さるとして、“利銀”とは如何なるのじゃろう?)
それを思うと、さ栄の躰は熱くなった。今にも「鱗」の痛痒が出そうだ。
「姫さま、ふくはあまりにおいたわしくて、口に出せませぬが、……。」
「……いや、さにむごい真似をされますまい。」
そう、ふくをなだめた。同時に自分に言い聞かせている。そして内心で、より正直な自分が、泣き叫ぶのがわかった。
(兄上は、さ栄の躰をまだ欲しがっておられる! そして、そのためには、どんなむごいことでもなさる!……なさったではないか? いまも変わらぬのではないか?)
最後の夜、さ栄が嫁に出ると知って怒りのあまり忍んできた左衛門尉―小次郎は、抵抗するさ栄を、ついに無理矢理に手籠めにした。
すでに真実を知らされていたさ栄が、実の兄との関係を拒むのを変心と勘違いして許せなかったのだ。暴力を使い、気を喪わせてから、裸に剥いて、犯した。ひとり地獄をすでに眺めていたさ栄は、さらに心身を滅茶苦茶にされた。
あやしい薬の煙で眠らされていたふくにも、それは告げられないままに来た。
兄に強引に犯されたのは、錯覚と無知によって心から望んで一つになっていた罪業を悔恨するのとはまた異なる、堪えられない苦しみとして、さ栄を今も苛んでいる。首を絞めて落とされたのから醒めたとき、男が自分の汗まみれの躰を掻き抱いてもみくちゃにし、胎の内には肉をすでに深く入り込ませていた。頭のなかで真っ黒に爆発した絶望感は、ふと蘇ると、そのときには出せなかった大声で叫びだしたくなるものだ。
(また、あんな目に……? おそろしい! ありえぬ!)
さ栄はこめかみに指を強く当てた。内から迸る悲鳴を、そうやって抑え込んでいる。
「……万が一にもご無体を求められましたら、御所さまに申しあげるよりほかございませぬ。」
目を潤ませながら、ふくは決然とした口調になる。しかし、さ栄は首を静かに振った。
「ならぬ。」
「さよう言われると思いました。じゃが、人倫に背く悪行をなすおひとを、御所さまが重用されてはなりませぬ。お家のためにも。」
「……ふく、今は、上の空の(根拠のない)悪い想像をしたとて何もならぬ。」
そうではあった。ふくは頷いたが、さ栄の方が言わずにいられないことをつい口にだしてしまった。
「……さ栄の躰は、猫一匹。二貫文足らずか。」
「姫さま! 気をしたたに(しっかり)お持ちくださいませ。さようなことをお口に出してはなりませぬ。」
「ああ、すまない。拗ねたようなことを、お前に言うてしもうた。」
さ栄は謝って、ふくを恐縮させたが、肚の中は自分が気づいた事実に冷え切っている。
(いまの世では、何にも銭で値段がついてしまう。……なんと忌まわしいことじゃ!)
ひとの躰にも、誇りにも、市で値がつく。唐猫のミケとて馬のアオとて、ほんとうは自分が銭で売られたくはなかったろう。だが、そのようになってしまっている。そんな世に生きている自分を、さ栄は思った。
「姫さま?」
「……ここで案じていても、詮無い。もう一度、ミケを探そう。」
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