123 / 226
補遺 やつらの足音がきこえる (十七)
しおりを挟む
りくは、誰もいない土間に風を入れていた。
この空屋敷の、かつての台所だ。離れに申し訳程度についていたそれよりも、かなり広い。ただ、それらしい調度は喪われ、火の落ちて久しいカマドにせよ、職人がかなり手を入れなければならなかった。だいぶ台所らしくなってきたが、長い時間出入りを塞いであったから、まだ埃っぽい。
「お離れのご飯も、こちらで用意するんで?」
ふくにそう尋ねると、いずれな、と言う返事だった。蠣崎家が移ってくるはずの屋敷を、人が住めるようにする手伝いをしてくれと、松蔵とりくは命じられていた。
「お掃除は大変ですが、あちらからも人は来るんでございますか。」
そうでなければ、色々な荷物を積み上げた倉庫同然の空き家を、人の住みかに戻せない。離れ一つをそうするのに、三年前、この松蔵と天才丸少年がどれだけ苦労したことか。
「むろんです。職人も入る。」
「おふくさまはよくご存じで。このたびのご差配を?」
「まさか。左様の面倒を、蠣崎さまたちのために?」
ふくは笑った。隣に新三郎たちが来てくれるのを喜んでいるわりに、この御所の女房だった武家の後家には、蝦夷足軽などを率いた蠣崎のような小身の家を軽く見る癖が抜けない。ただ、このとき笑ったのは、やや痛快な思いがあるからだった。
「お離れの大工仕事じゃと言うと、不思議にすぐに通って、内館や北館の職人を差し向けて下さる。それを、こちらに回して差し上げるのよ。」
「ほう? 何故でございます?」
わかっているくせに、松蔵がいかにもいぶかる様子を見せると、ふくは、さあね、と誤魔化したが、もちろんりくもそれは知っている。
(左衛門尉は、姫さまにご執心なのじゃ。嫌われたくないと思うて、いろいろと構いおる。)
りくは、いやらしいな、と思っている。どうして放っておいてやらないのだろうと、英明で鳴らし、現に奸智に長けてもいたと言わざるを得ない左衛門尉の、ひどい愚かさが不思議だった。むかし抱いた女、それも決して大っぴらにできない相手に、今や三郡の主になった男が、かくもまとわりつくように拘るものかと思った。
(ありえぬ相手ではないか。ご当人はまだ知らぬこととは言え……。)
りくはそこで、ふと躓く。
ありえぬ相手への執心と言えば、自分はどうなる。
(……あたしは違う。若旦那と姫さまが仕合せになってくれればよいと願っている。それだけじゃ。それすら、ありえぬ相手同士のことであったが……。)
中世的権威を戦国の津軽に現出させたようだったこの浪岡城にも「川原御所の乱」以来、静謐と安定は消し飛んでしまった。知られざる下剋上は、この浪岡北畠氏の居城にも、乱世の風を立たせている。それは堅固な秩序の緩みではあったが、一面では勝手次第―つまり、自由の空気が吹き込んできたとも言えるのだ。
(北畠の姫さまを、蝦夷島の代官の息子が娶ることとて、もはやありえぬではないのではないか。)
そう思うと、りくは複雑な気分に襲われる。悲しい色がそこにあるのにまた気づき、首を振った。
りくが大好きな二人が、心の奥に蔵した思いを遂げ、うれしく睦合う。その姿を想像すると、泣きたくなるほどの胸の痛みがあるのだ。猫を隠してしまったときの、あの気持ちが蘇るのである。
新三郎がやさしく髪を撫でるのが姫さまではなくて、自分になっていると想像して、はじめて気が落ち着く。新三郎の固い胸に寄り添うのは、自分でなければならない気がする。寄り添いたい。
(あたしも、へんだ。)
りくはまた頭を振って、運び込まれた台所の調度の荷に手をかけた。蠣崎家の使用人たちは、昼前には来ると言ったくせに、まだ現れない。
そのとき、りくは背を伸ばした。緊張が全身に走る。
遠い場所に、銃声を聞いた。
この空屋敷の、かつての台所だ。離れに申し訳程度についていたそれよりも、かなり広い。ただ、それらしい調度は喪われ、火の落ちて久しいカマドにせよ、職人がかなり手を入れなければならなかった。だいぶ台所らしくなってきたが、長い時間出入りを塞いであったから、まだ埃っぽい。
「お離れのご飯も、こちらで用意するんで?」
ふくにそう尋ねると、いずれな、と言う返事だった。蠣崎家が移ってくるはずの屋敷を、人が住めるようにする手伝いをしてくれと、松蔵とりくは命じられていた。
「お掃除は大変ですが、あちらからも人は来るんでございますか。」
そうでなければ、色々な荷物を積み上げた倉庫同然の空き家を、人の住みかに戻せない。離れ一つをそうするのに、三年前、この松蔵と天才丸少年がどれだけ苦労したことか。
「むろんです。職人も入る。」
「おふくさまはよくご存じで。このたびのご差配を?」
「まさか。左様の面倒を、蠣崎さまたちのために?」
ふくは笑った。隣に新三郎たちが来てくれるのを喜んでいるわりに、この御所の女房だった武家の後家には、蝦夷足軽などを率いた蠣崎のような小身の家を軽く見る癖が抜けない。ただ、このとき笑ったのは、やや痛快な思いがあるからだった。
「お離れの大工仕事じゃと言うと、不思議にすぐに通って、内館や北館の職人を差し向けて下さる。それを、こちらに回して差し上げるのよ。」
「ほう? 何故でございます?」
わかっているくせに、松蔵がいかにもいぶかる様子を見せると、ふくは、さあね、と誤魔化したが、もちろんりくもそれは知っている。
(左衛門尉は、姫さまにご執心なのじゃ。嫌われたくないと思うて、いろいろと構いおる。)
りくは、いやらしいな、と思っている。どうして放っておいてやらないのだろうと、英明で鳴らし、現に奸智に長けてもいたと言わざるを得ない左衛門尉の、ひどい愚かさが不思議だった。むかし抱いた女、それも決して大っぴらにできない相手に、今や三郡の主になった男が、かくもまとわりつくように拘るものかと思った。
(ありえぬ相手ではないか。ご当人はまだ知らぬこととは言え……。)
りくはそこで、ふと躓く。
ありえぬ相手への執心と言えば、自分はどうなる。
(……あたしは違う。若旦那と姫さまが仕合せになってくれればよいと願っている。それだけじゃ。それすら、ありえぬ相手同士のことであったが……。)
中世的権威を戦国の津軽に現出させたようだったこの浪岡城にも「川原御所の乱」以来、静謐と安定は消し飛んでしまった。知られざる下剋上は、この浪岡北畠氏の居城にも、乱世の風を立たせている。それは堅固な秩序の緩みではあったが、一面では勝手次第―つまり、自由の空気が吹き込んできたとも言えるのだ。
(北畠の姫さまを、蝦夷島の代官の息子が娶ることとて、もはやありえぬではないのではないか。)
そう思うと、りくは複雑な気分に襲われる。悲しい色がそこにあるのにまた気づき、首を振った。
りくが大好きな二人が、心の奥に蔵した思いを遂げ、うれしく睦合う。その姿を想像すると、泣きたくなるほどの胸の痛みがあるのだ。猫を隠してしまったときの、あの気持ちが蘇るのである。
新三郎がやさしく髪を撫でるのが姫さまではなくて、自分になっていると想像して、はじめて気が落ち着く。新三郎の固い胸に寄り添うのは、自分でなければならない気がする。寄り添いたい。
(あたしも、へんだ。)
りくはまた頭を振って、運び込まれた台所の調度の荷に手をかけた。蠣崎家の使用人たちは、昼前には来ると言ったくせに、まだ現れない。
そのとき、りくは背を伸ばした。緊張が全身に走る。
遠い場所に、銃声を聞いた。
0
あなたにおすすめの小説
ユキノホタル ~名もなき遊女と芸者のものがたり~
蒼あかり
歴史・時代
親に売られ遊女になったユキ。一家離散で芸者の道に踏み入った和歌。
二度と会えなくても忘れないと誓う和歌。
彼の幸せを最後に祈るユキ。
願う形は違えども、相手を想う気持ちに偽りはない。
嘘と欲と金が渦巻く花街で、彼女たちの思いだけが真実の形。
二人の少女がそれでも愛を手に入れ、花街で生きた証の物語。
※ ハッピーエンドではありません。
※ 詳しい下調べはおこなっておりません。作者のつたない記憶の中から絞り出しましたので、歴史の中の史実と違うこともあるかと思います。その辺をご理解のほど、よろしくお願いいたします。
強いられる賭け~脇坂安治軍記~
恩地玖
歴史・時代
浅井家の配下である脇坂家は、永禄11年に勃発した観音寺合戦に、織田・浅井連合軍の一隊として参戦する。この戦を何とか生き延びた安治は、浅井家を見限り、織田方につくことを決めた。そんな折、羽柴秀吉が人を集めているという話を聞きつけ、早速、秀吉の元に向かい、秀吉から温かく迎えられる。
こうして、秀吉の家臣となった安治は、幾多の困難を乗り越えて、ついには淡路三万石の大名にまで出世する。
しかし、秀吉亡き後、石田三成と徳川家康の対立が決定的となった。秀吉からの恩に報い、石田方につくか、秀吉子飼いの武将が従った徳川方につくか、安治は決断を迫られることになる。
熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)
MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。
マルチバース豊臣家の人々
かまぼこのもと
歴史・時代
1600年9月
後に天下人となる予定だった徳川家康は焦っていた。
ーーこんなはずちゃうやろ?
それもそのはず、ある人物が生きていたことで時代は大きく変わるのであった。
果たして、この世界でも家康の天下となるのか!?
そして、豊臣家は生き残ることができるのか!?
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる