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第七章 湯気の境界
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雨上がりの夜、温泉街の足湯には、湯気と提灯がゆっくり混ざっていた。
湊はパーカーの袖をまくり、足を沈める。石の縁はひんやりして、湯は心臓に届くほど温い。
「反射ベスト、今日は置いてきた」
緋色が隣に座り、カーディガンの袖を肘まで上げる。耳たぶの金の点が灯りを拾った。
「忘れ物、ない?」
「二本目は持ってる」
ベンチ脇には折り畳み傘が二本、柄を揃えて立てかけてある。
しばらく、湯の音だけを聞いた。蒸気が肌を撫で、心拍が歩幅を合わせる。
「トンネルで、兄に会った」
湊が言うと、緋色の視線がやさしく動いた。
「土木の人?」
「早瀬 瞬。昔から、正しいことを言う才能がある。俺はだいたい、先に走る才能でぶつかる」
湊は言葉を探し、湯の底を指で撫でた。
「父が倒れたとき、俺は実習で別の町にいた。戻れなかった。兄は横で見てた。救急に電話した兄は、救える線を一つでも増やすために道を開け続けたって、あとで知った。……それからずっと、俺は“最短を作る側”になろうって思った」
「約束の、一本目」
緋色が傘の柄を見た。
「二本目は?」
「元相棒。夜勤明けに、いつも『忘れた』って俺の傘を奪っていった。……大雪の出動で、彼は戻らなかった。救助中の二次崩落。あの日から俺は、二本持つ」
緋色は言葉を選ぶように、指で湯面を切った。
「ありがとう。聞かせてくれて」
それから、彼女は自分の話を短く付け足した。
「父は病院に来る前に途切れた。だから私は、屋根の下を速くする。あなたは、屋根までの道を速くする。——並ぶと、ちょうどいい」
湊は笑い、湯の上で息を吐いた。二人分の湯気が、ほどよく重なる。
そのとき、路地の方から怒鳴り声と、焦げた匂いが風に乗った。
「すみません! 火——いや、油がはねて、娘が!」
小さな食堂の入口。父親が幼い女の子を抱えて飛び出してくる。前腕に赤い水滴、皮膚がむけかけている。
二人は足湯から同時に立ち上がった。緋色は走りながらカーディガンを脱いで包帯代わりに折り、湊はポーチを肩に引っかける。
「水道は?」
「裏に——」
湊は蛇口を全開にし、ぬるい流水を細く長く当てた。
「氷は使わない。長めに冷やす。——大丈夫、ここに置いて、腕は上から」
女の子の肩が小刻みに震える。緋色は視線の高さを合わせ、穏やかに息を合わせた。
「吸って、吐いて。ほら、湯気みたいに。——えらい」
湊は父親に短く伝える。
「範囲は手のひら二つ分くらい。深さは部分層。今は痛みを下げるのが先。清潔なラップあります?」
「キッチンに」
「薄くかけましょう。——救急車は呼びます。処置と鎮痛のために病院へ」
ラップを巻く手は、湊も緋色も無駄がない。緋色は女の子の耳元で言った。
「ヒーローのシール、病院の引き出しに隠してある。がんばった人にしか渡さない」
女の子の目に、涙とは別の光が宿る。
車両到着。引き継ぎの最中、父親が深く頭を下げた。
「ありがとうございます……」
「うちの町の湯気は、火傷以外で温かいのがいいので」
湊が軽く冗談を言うと、緋色は目だけで笑った。
食堂の表に静けさが戻ると、空に薄い星が見えた。足湯へ戻ると、湯はさっきより少し温度を落としている。
二人は再び腰を下ろし、湯気の境界を眺めた。
「あなたの先に走る癖、今日は好き」
緋色がぽつりと言う。
「理由は?」
「止まるべきところで止まれるから。——三分で戻った夜から、少し信じてる」
湊は頷き、胸の硬さが溶けていくのを感じた。
「兄には連絡する?」
「する。次の休みに。トンネルの夜間閉鎖の話、多分彼から来る」
「夜間閉鎖?」
「換気設備の全面点検で、数時間、完全に止まる。緊急車両だけは抜けられるけど、片側からしか入れない時間がある。——事故が一個でも重なると、町ごと詰む」
緋色は湯の中で足先をぎゅっと丸めた。
「じゃあ、その夜は屋根の下を広げておく。手術室を、トンネルの出口にする」
二人は黙って提灯を見上げた。橙が風でわずかに揺れ、湯気の輪郭だけが濃くなる。
湊はポケットに手を入れ、二本の傘の先をそっと並べた。
「約束を、見える場所に置いておく」
緋色は頷いた。
「そして、必要最小限を、必要十分に」
足湯の表面に、星が二つだけ映った。
湊はパーカーの袖をまくり、足を沈める。石の縁はひんやりして、湯は心臓に届くほど温い。
「反射ベスト、今日は置いてきた」
緋色が隣に座り、カーディガンの袖を肘まで上げる。耳たぶの金の点が灯りを拾った。
「忘れ物、ない?」
「二本目は持ってる」
ベンチ脇には折り畳み傘が二本、柄を揃えて立てかけてある。
しばらく、湯の音だけを聞いた。蒸気が肌を撫で、心拍が歩幅を合わせる。
「トンネルで、兄に会った」
湊が言うと、緋色の視線がやさしく動いた。
「土木の人?」
「早瀬 瞬。昔から、正しいことを言う才能がある。俺はだいたい、先に走る才能でぶつかる」
湊は言葉を探し、湯の底を指で撫でた。
「父が倒れたとき、俺は実習で別の町にいた。戻れなかった。兄は横で見てた。救急に電話した兄は、救える線を一つでも増やすために道を開け続けたって、あとで知った。……それからずっと、俺は“最短を作る側”になろうって思った」
「約束の、一本目」
緋色が傘の柄を見た。
「二本目は?」
「元相棒。夜勤明けに、いつも『忘れた』って俺の傘を奪っていった。……大雪の出動で、彼は戻らなかった。救助中の二次崩落。あの日から俺は、二本持つ」
緋色は言葉を選ぶように、指で湯面を切った。
「ありがとう。聞かせてくれて」
それから、彼女は自分の話を短く付け足した。
「父は病院に来る前に途切れた。だから私は、屋根の下を速くする。あなたは、屋根までの道を速くする。——並ぶと、ちょうどいい」
湊は笑い、湯の上で息を吐いた。二人分の湯気が、ほどよく重なる。
そのとき、路地の方から怒鳴り声と、焦げた匂いが風に乗った。
「すみません! 火——いや、油がはねて、娘が!」
小さな食堂の入口。父親が幼い女の子を抱えて飛び出してくる。前腕に赤い水滴、皮膚がむけかけている。
二人は足湯から同時に立ち上がった。緋色は走りながらカーディガンを脱いで包帯代わりに折り、湊はポーチを肩に引っかける。
「水道は?」
「裏に——」
湊は蛇口を全開にし、ぬるい流水を細く長く当てた。
「氷は使わない。長めに冷やす。——大丈夫、ここに置いて、腕は上から」
女の子の肩が小刻みに震える。緋色は視線の高さを合わせ、穏やかに息を合わせた。
「吸って、吐いて。ほら、湯気みたいに。——えらい」
湊は父親に短く伝える。
「範囲は手のひら二つ分くらい。深さは部分層。今は痛みを下げるのが先。清潔なラップあります?」
「キッチンに」
「薄くかけましょう。——救急車は呼びます。処置と鎮痛のために病院へ」
ラップを巻く手は、湊も緋色も無駄がない。緋色は女の子の耳元で言った。
「ヒーローのシール、病院の引き出しに隠してある。がんばった人にしか渡さない」
女の子の目に、涙とは別の光が宿る。
車両到着。引き継ぎの最中、父親が深く頭を下げた。
「ありがとうございます……」
「うちの町の湯気は、火傷以外で温かいのがいいので」
湊が軽く冗談を言うと、緋色は目だけで笑った。
食堂の表に静けさが戻ると、空に薄い星が見えた。足湯へ戻ると、湯はさっきより少し温度を落としている。
二人は再び腰を下ろし、湯気の境界を眺めた。
「あなたの先に走る癖、今日は好き」
緋色がぽつりと言う。
「理由は?」
「止まるべきところで止まれるから。——三分で戻った夜から、少し信じてる」
湊は頷き、胸の硬さが溶けていくのを感じた。
「兄には連絡する?」
「する。次の休みに。トンネルの夜間閉鎖の話、多分彼から来る」
「夜間閉鎖?」
「換気設備の全面点検で、数時間、完全に止まる。緊急車両だけは抜けられるけど、片側からしか入れない時間がある。——事故が一個でも重なると、町ごと詰む」
緋色は湯の中で足先をぎゅっと丸めた。
「じゃあ、その夜は屋根の下を広げておく。手術室を、トンネルの出口にする」
二人は黙って提灯を見上げた。橙が風でわずかに揺れ、湯気の輪郭だけが濃くなる。
湊はポケットに手を入れ、二本の傘の先をそっと並べた。
「約束を、見える場所に置いておく」
緋色は頷いた。
「そして、必要最小限を、必要十分に」
足湯の表面に、星が二つだけ映った。
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