必要最小限の優しさ -二本の傘と一つの判断

yukataka

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第六章 闇のバス

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夕方、山の端で雷が鳴った。長いトンネルの入口は、濡れた鯨の口みたいに黒く開く。
【長峰トンネル内 停電・渋滞 観光バス内で意識障害者あり】
端末の文字を見終わるより早く、湊は救急車のドアを引いた。

非常用灯だけが点いたトンネルは、湿った洞窟だ。ハザードの赤が壁に跳ね、遠くでクラクション。排気ファンが止まって、空気は生煮えのように重い。
「歩ける人は後方の待避所へ!」
湊は声を張り、反射ベストの胸元からAEDを引き出す。バスの中は小さな劇場。天井の灯りは落ち、窓ガラスに雨粒だけが動く。

「おじいちゃんが、急に倒れて……!」
孫らしい少年が濡れた目で見上げる。通路に倒れた男性、顔は灰色、呼吸なし。
「無呼吸、脈なし。CPR開始」
湊は胸骨の中央に手を置き、体重を真上から落とす。押す、戻す、押す、戻す。トンネルの低音が胸骨に伝わる。

「分析します。体を離れてください」
AEDが機械の声で告げ、画面に稲妻のアイコン。
「ショックが必要です」
「クリア!」
スイッチ。男の体が、小さく跳ねた。すぐに圧迫再開。汗が前髪を重くする。
「相棒、バッグバルブ! 小鼻にピンチ、頭後屈。——そう、一定で」

無線の向こうから、氷の縁みたいに澄んだ声。
『外科、斎藤。トンネル入口から徒歩で向かう。二回目のショック後、医師指示でアミオダロン適応。エピは三~五分で』
「了解。心拍再開の兆候なし、圧迫継続」

二回目のショック。圧迫。空気は酸素が薄いみたいに重い。湊の手首に痛みが走るが、指の位置は狂わせない。
三回目の分析。
「ショックが必要です」
「クリア——」
「待って。バッグ止めないで。——今」
いつのまにか、ヘッドランプの白が横にあった。緋色だ。防煙フードに白衣を重ね、額の灯りが心電図の数字を照らす。
「ショック後、アミオダロンいける?」
「指示、お願いします」
『アミオダロン300、静注。以後は蘇生の流れどおり』
緋色は薬を受け取り、無駄のない動きでラインに落とす。
「圧迫、いい。角度も深さも。——続けて」

四回目の分析で、画面の波形が一瞬だけ整った。
「脈、触れる——微弱。呼吸は不十分」
「気道、確保する。——喉頭鏡」
緋色の声は落ち着いていた。ヘッドランプの光が喉の奥を探し、チューブが通る。カフが膨らみ、胸が左右均等に持ち上がる。
「エンドタイダル、上昇。戻ってきた」

バスの車内の空気が、わずかにやわらぐ。孫の少年がすすり泣き、座席の縁を握りしめた手が赤い。
「大丈夫。ここからは、呼吸と心臓の仕事を代わってあげる時間」
湊は少年の肩に触れ、視線を前に戻した。
(ここで戻らせろ。戻って、外へ)

搬送準備。トンネルはまだ動かない。緋色が保安要員に短く指示する。
「車線を一本開ける。待避所へ歩行者を寄せて。——この人は先行搬送」

バスを出ると、闇が一段濃かった。雨がトンネルの口から斜めに吹き込み、路面に細かい川を作る。
そのとき、反対方向からランプをつけた作業車が近づき、運転席からヘルメットの男が降りた。土木事務所の腕章。顔を上げた彼が、湊を見て固まる。
「……湊?」
胸に刺さる名前の発音。兄だ。早瀬 瞬。昔と同じ、低い声。
「久しぶり」
湊は言い、言葉が濡れて重く落ちた。
「現場は通す。優先車線、ここから出口まで確保する」
瞬は仕事の声で周囲に指示を飛ばし、湊の横顔にだけ短く視線を留めた。
「お前は、相変わらず先に走る」
湊は返事をしなかった。返したい言葉は、どれも違う方向を向く。

救急車のハッチが閉まり、サイレンが狭い空間を震わせた。
運転席に飛び乗る前、緋色が湊の肩に触れた。
「今は、帰してから」
「うん」
短い返事が、喉の奥で砕ける。

病院。白い光の中で、モニターの数字が現実に定着する。自発循環は戻った。血圧、まだ低いが保てる。
「ROSC(自発循環再開)、よし。カテ入れる」
緋色は淡々と、しかし目にだけ熱を宿して動いた。
引き渡しのあと、湊は廊下の端で額の汗を拭った。心臓の鼓動は、まだトンネルの低音に引かれている。

「さっきの人——」
緋色が近づいた。ヘッドランプは首から外し、髪は少し解けて頬にかかっている。
「兄です」
「話す?」
「今は——」
湊はポケットの中で、二本の傘の感触を探した。
「今は、呼吸を整える」

緋色は頷くと、紙コップを差し出した。
「温かい。塩入れてある」
口に含むと、体内の空白に色が戻る。
「あなた、ちゃんと戻ってきた」
「戻してくれた」
二人の間に、トンネルの終点みたいな静けさが落ちた。

扉の向こうに、先ほどの老人の家族の泣き声が少しだけ混じる。生の音だ。
湊は小さく息を吐き、緋色を見た。
「終わったら——湯気のある場所で、話をしてもいいですか」
「いい。反射ベスト、なしで」
彼女の返事は短く、確かだった。
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