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第九章 最短のつくり方
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午後、雨は細くなったが、雲は山の肩に貼りついたままだった。
湊はトンネル南側の待機所で、工具箱みたいな救急ポーチを膝に置き、空になった紙コップの底を指で弾いた。工事灯のオレンジが路面に帯を引き、先導の車両が時々その帯を横切る。兄の瞬がコーンを並べ直し、腕章を袖で拭った。
「今夜は静かで終わればいい」
瞬が言う。
「静かな夜は、だいたい嵐の前触れ」
湊が返したとき、端末が震えた。
【温泉旅館“白雨” 女性突然のろれつ障害・右片麻痺】
二人は同時に顔を上げた。
旅館の客室。紫のセーターの女性が布団の縁にもたれ、右手は布の上でほどけたように動かない。口角がわずかに下がり、言葉がからまる。
「かわ……しま……?」
付き添いの夫が泣きそうな目でこちらを見る。
「発症はいつ?」
「さっきの夕方、餃子を落とした時間——たぶん、六時二十分」
湊は腕時計を見た。いま六時五十八分。
「FAST評価します。笑ってみせてください」
女性の口角の左右差がはっきりする。
「両腕を前に上げて」
右腕がすぐに沈む。
「ことばは、『今日は雨です』」
「……きょ……ら、あめ……」
「血糖を測ります」
ピッ。数値は正常。
(脳卒中、時間勝負)
湊は無線を押した。
「外来、斎藤。発症六時二十分、現在五十八分。右片麻痺・失語。血糖は正常。血圧一八八の九八、SpO₂九六。——頭位三十度で搬送開始。CT・CTA準備を」
『了解。降圧は急ぐな。酸素は維持。静脈路は二本。——時間を稼ごう』
エレベーターホールで瞬が待っていた。ヘルメットを押し上げ、短く問う。
「通す?」
「最短がいる」
「工事帯、五分だけ止める。反対からは入れるな。出口まで先導する」
兄の声は、硬いが温度があった。
救急車内。湊は女性の頭側に座り、肩にブランケットを掛けて手を握った。
「佐伯さん、いまが山です。息は浅く長く。私が話しかけるたびに、左手で合図してください」
女性の左指が、小さく上下する。
無線が入る。
『外科、斎藤。血栓回収の準備も声かけた。——着いたらすぐCT。発症時刻は受付で復唱する』
「了解。——兄貴、道は?」
『先導車、ついた。トンネルは一本線。合図に合わせて突っ込め』
トンネルの口に近づくと、雨粒がヘッドライトの光に乱舞した。オレンジの工事灯が、川みたいに路面を流れる。瞬が先導車から身を乗り出し、掌を上げる。
「来い!」
湊はサイレンを短く一段上げ、闇に滑り込んだ。
トンネル内は工事で片側の天井パネルが外され、銀色の骨組みがむき出しになっている。風がない。音だけが前に進む。
女性の呼吸が一瞬浅くなり、湊は姿勢を直した。
「佐伯さん、吸って——吐いて。いいです、その調子。いまは山道の真ん中、もう半分」
相棒が血圧を読み上げ、ラインの固定を強める。モニターの波形は従順だが、時間は従順ではない。
出口の白が近づく。瞬の先導車が左右に強くスイングし、待避所の車を遠ざける。
(最短は、こうやって作る)
救急外来の自動ドアがひらき、白い光が世界を塗り替える。
「外科、斎藤!」
緋色がストレッチャーに並走し、湊の報告を途中で拾う。
「発症時刻、十八時二十分。現在七時十二分。右片麻痺、失語。INR不明、糖正常」
「そのままCT。——造影も!」
扉が閉まり、CT室の唸りが遠くで回り始める。湊は廊下で呼吸を整え、壁の時計の秒針を目で追った。
五分が、油の上を歩くように長い。
緋色が戻ってきた。目は速く、声は平ら。
「出血なし。左M1、閉塞。——血栓回収へ」
「間に合った」
「あなたと、あなたの兄のおかげ」
緋色の口元が、ほんのわずか緩む。
「ここからは屋根の仕事。あなたは息を整えて」
手術室へ向かう緋色の背中に、湊は短く言った。
「屋根、頼んだ」
「任される」
待合のベンチ。湊は自販機の塩スープを両手で温め、窓の雨を見た。
「お前、たまには頼れ」
隣に腰を下ろしたのは瞬だ。濡れたヘルメットを膝に立て、足元の水滴がつぶれていく。
「頼ったつもりだけど」
「いや、もっと。最短は一人で作ると曲がる。二人でやると、まっすぐになる」
兄の言葉は、昔より少し丸くなっていた。
湊は笑って頷いた。
「まっすぐ過ぎても、山は嫌う」
「だから、傾け方を覚えろ」
手術室のランプが、ひとつ消えた。緋色がキャップを外して現れる。
「再開通、良好。麻痺は薄く戻ってきてる。言葉は、今夜よりは明日」
湊の胸の奥で、何かがやわらかくほどけた。
「ありがとう」
「最短の、共同作業」
三人で立っていると、自動ドアの向こうで雨が小やみになった。
瞬が立ち上がる。
「工事に戻る。——お前、今度うちに顔出せ。母さん、カレー作って待ってる」
「了解。必要最小限、守る」
「それは最小限じゃない。最大値だ」
兄は笑って去った。
緋色が横で小さく息を吐き、袖口のインクの点を親指でこすった。
「今夜、ほんの少しだけ、屋根を高くできた気がする」
「じゃあ、俺は道をもう一段、広くする」
二人の間に、雨上がりの匂いが満ちた。遠くで救急ベルが鳴る。
湊はポケットの二本の傘を確かめ、緋色と目を合わせた。
「行こう」
「うん」
湊はトンネル南側の待機所で、工具箱みたいな救急ポーチを膝に置き、空になった紙コップの底を指で弾いた。工事灯のオレンジが路面に帯を引き、先導の車両が時々その帯を横切る。兄の瞬がコーンを並べ直し、腕章を袖で拭った。
「今夜は静かで終わればいい」
瞬が言う。
「静かな夜は、だいたい嵐の前触れ」
湊が返したとき、端末が震えた。
【温泉旅館“白雨” 女性突然のろれつ障害・右片麻痺】
二人は同時に顔を上げた。
旅館の客室。紫のセーターの女性が布団の縁にもたれ、右手は布の上でほどけたように動かない。口角がわずかに下がり、言葉がからまる。
「かわ……しま……?」
付き添いの夫が泣きそうな目でこちらを見る。
「発症はいつ?」
「さっきの夕方、餃子を落とした時間——たぶん、六時二十分」
湊は腕時計を見た。いま六時五十八分。
「FAST評価します。笑ってみせてください」
女性の口角の左右差がはっきりする。
「両腕を前に上げて」
右腕がすぐに沈む。
「ことばは、『今日は雨です』」
「……きょ……ら、あめ……」
「血糖を測ります」
ピッ。数値は正常。
(脳卒中、時間勝負)
湊は無線を押した。
「外来、斎藤。発症六時二十分、現在五十八分。右片麻痺・失語。血糖は正常。血圧一八八の九八、SpO₂九六。——頭位三十度で搬送開始。CT・CTA準備を」
『了解。降圧は急ぐな。酸素は維持。静脈路は二本。——時間を稼ごう』
エレベーターホールで瞬が待っていた。ヘルメットを押し上げ、短く問う。
「通す?」
「最短がいる」
「工事帯、五分だけ止める。反対からは入れるな。出口まで先導する」
兄の声は、硬いが温度があった。
救急車内。湊は女性の頭側に座り、肩にブランケットを掛けて手を握った。
「佐伯さん、いまが山です。息は浅く長く。私が話しかけるたびに、左手で合図してください」
女性の左指が、小さく上下する。
無線が入る。
『外科、斎藤。血栓回収の準備も声かけた。——着いたらすぐCT。発症時刻は受付で復唱する』
「了解。——兄貴、道は?」
『先導車、ついた。トンネルは一本線。合図に合わせて突っ込め』
トンネルの口に近づくと、雨粒がヘッドライトの光に乱舞した。オレンジの工事灯が、川みたいに路面を流れる。瞬が先導車から身を乗り出し、掌を上げる。
「来い!」
湊はサイレンを短く一段上げ、闇に滑り込んだ。
トンネル内は工事で片側の天井パネルが外され、銀色の骨組みがむき出しになっている。風がない。音だけが前に進む。
女性の呼吸が一瞬浅くなり、湊は姿勢を直した。
「佐伯さん、吸って——吐いて。いいです、その調子。いまは山道の真ん中、もう半分」
相棒が血圧を読み上げ、ラインの固定を強める。モニターの波形は従順だが、時間は従順ではない。
出口の白が近づく。瞬の先導車が左右に強くスイングし、待避所の車を遠ざける。
(最短は、こうやって作る)
救急外来の自動ドアがひらき、白い光が世界を塗り替える。
「外科、斎藤!」
緋色がストレッチャーに並走し、湊の報告を途中で拾う。
「発症時刻、十八時二十分。現在七時十二分。右片麻痺、失語。INR不明、糖正常」
「そのままCT。——造影も!」
扉が閉まり、CT室の唸りが遠くで回り始める。湊は廊下で呼吸を整え、壁の時計の秒針を目で追った。
五分が、油の上を歩くように長い。
緋色が戻ってきた。目は速く、声は平ら。
「出血なし。左M1、閉塞。——血栓回収へ」
「間に合った」
「あなたと、あなたの兄のおかげ」
緋色の口元が、ほんのわずか緩む。
「ここからは屋根の仕事。あなたは息を整えて」
手術室へ向かう緋色の背中に、湊は短く言った。
「屋根、頼んだ」
「任される」
待合のベンチ。湊は自販機の塩スープを両手で温め、窓の雨を見た。
「お前、たまには頼れ」
隣に腰を下ろしたのは瞬だ。濡れたヘルメットを膝に立て、足元の水滴がつぶれていく。
「頼ったつもりだけど」
「いや、もっと。最短は一人で作ると曲がる。二人でやると、まっすぐになる」
兄の言葉は、昔より少し丸くなっていた。
湊は笑って頷いた。
「まっすぐ過ぎても、山は嫌う」
「だから、傾け方を覚えろ」
手術室のランプが、ひとつ消えた。緋色がキャップを外して現れる。
「再開通、良好。麻痺は薄く戻ってきてる。言葉は、今夜よりは明日」
湊の胸の奥で、何かがやわらかくほどけた。
「ありがとう」
「最短の、共同作業」
三人で立っていると、自動ドアの向こうで雨が小やみになった。
瞬が立ち上がる。
「工事に戻る。——お前、今度うちに顔出せ。母さん、カレー作って待ってる」
「了解。必要最小限、守る」
「それは最小限じゃない。最大値だ」
兄は笑って去った。
緋色が横で小さく息を吐き、袖口のインクの点を親指でこすった。
「今夜、ほんの少しだけ、屋根を高くできた気がする」
「じゃあ、俺は道をもう一段、広くする」
二人の間に、雨上がりの匂いが満ちた。遠くで救急ベルが鳴る。
湊はポケットの二本の傘を確かめ、緋色と目を合わせた。
「行こう」
「うん」
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