10 / 12
第十章 反転する風
しおりを挟む
夕方、病院のカフェで紙コップの縁を指でなぞっていると、緋色の携帯が震えた。
彼女は短く話を聞き、目を伏せてからコーヒーに視線を落とす。
「都心の大学病院。血管外科フェローのポスト。——返事はまだしてない」
湊は言葉を選んだ。
「いい話だ」
「いいけど、遠い」
二人の間に、湯気のない沈黙が置かれた。
端末が割り込む。
【長峰トンネル南口でマイクロバス故障。車内に咳嗽・呼吸苦を訴える者多数。エンジンルームから白煙】
湊は立ち上がり、反射ベストを掴んだ。緋色は白衣の裾を払う。
「続きは、屋根の下で」
「了解。——行こう」
トンネル内は、反転した風の袋だった。排気ファンの工事で通風が弱い。白煙が床すれすれに滞り、ヘッドライトが乳白色の壁を作る。消防がホースを構え、救助隊がロープを張る。
「ここから先、ホットゾーン。救命士はロープ内、消防の後ろ。——SCBA(空気呼吸器)なしでの突入はしない」
葛城の指示。湊は頷き、ロープ際の“呼吸できるポケット”へ膝をついた。
マイクロバスから次々と避難してくる客。高齢者が咳き込み、指先が紫がかる。
「歩ける人はこの白線の外、頭を上げず低い姿勢で!」
緑と黄のタグを配りつつ、湊は耳を澄ます。
(ヒューヒュー……)
ゼーゼーではない、笛のような高音。バスの最後尾、若い女性が両手で胸を抱え、肩で呼吸していた。
「吸えない……出ない……」
喘息。吸入器は持っていないという。
「酸素、マスクで。——MDIある?」
相棒が救急バッグからサルブタモールの定量噴霧式(MDI)を取り出す。スペーサーがない。
湊は500mlのペットボトルの底をナイフで切り、切り口をテープで保護して即席スペーサーを作った。ボトル口にMDIを差し、底の広口を女性の口鼻に当てる。
「一回押したら、四回ゆっくり吸う。——吸って、止めて、吐く」
一回、二回。胸郭の動きがわずかに深くなり、SpO₂は88から92へ。
「いい。——もう二回」
バスの運転席では、運転手が胸を押さえて座り込んでいる。皮膚が灰色で冷たい。
「胸が、割れる……」
湊はモニターを当て、波形を見る。広いQRS、血圧低下。胸壁は不安定に見え、吸気で陥没する部分(フレイルチェスト)がある。
「酸素高流量、胸部固定。——救助がフロントを広げたらすぐボード搬送!」
『外科、斎藤。胸部鈍的外傷、ドレーン適応あり。——到着次第、胸腔穿刺も視野』
緋色の声が無線で冷たく光った。
消防のスプレッダが前部をこじ開け、葛城が合図する。
「今だ、引き出せ!」
湊は頸椎を保持し、ストレッチャーへ移す。呼吸音は右が乏しく、頸静脈の怒張がわずか。
(緊張性か——いや、まだ境目。病院まで持たせる)
搬送車内。喘息の女性はSpO₂が95まで戻り、肩呼吸が落ち着き始めた。
運転手は不穏。湊は胸部を帯で固定し、微温のブランケットで熱を逃がさないよう包む。
「外来、到着まで五分。——斎藤先生、右の呼吸音弱い。SpO₂九二、血圧八十台」
『受ける。——到着したらそのまま処置室、第五肋間前腋窩線で胸腔ドレーン』
扉が開くや、緋色が並走する。髪は低い位置で結ばれ、ヘッドランプが白い円を切る。
「右、音なし。皮下気腫あり」
彼女は迷わず穿刺点を消毒し、皮膚切開。クランプが肋骨の下縁をこえる手応え、次の瞬間、プシューと空気が抜ける音。
「胸が、楽……」
運転手の目に色が戻り、波形が収束する。
「ドレーン、固定。——ありがとう、間に合った」
処置の合間に、喘息の女性が運び込まれる。緋色は一瞥し、指示を飛ばす。
「ネブライザーに切り替え、ステロイドIV。——あなた、即席スペーサー、綺麗だった」
「コインランドリー仕込みで」
二人の間に短い笑いが生まれ、すぐ仕事に戻る。
雨は再び強くなり、夜は深くなった。
ひと段落のあと、緋色が屋上のヘリポートに湊を誘った。風は冷たく、山の肩が濃紺で重なっている。
二人はそれぞれの傘を開き、円の中に入った。
「さっきの話」
緋色が言う。
「行けば、きっと腕は上がる。行かない理由は——ここにある」
湊は風に背を向け、傘の角度を少し傾けて彼女の肩に雨が落ちないようにした。
「行ってほしい。本気で。……でも、俺はここに残る。朝焼けと、トンネルと、この町の最短のために」
緋色は黙っていた。雨粒が傘の骨で跳ね、円の内側に小さな波紋を描く。
「遠いのは、嫌いじゃない。私は『最小限』をやめないし、あなたは『最短』をやめない。——その二本の線が、離れても、毎回つなぎ直せるなら」
「二本の傘みたいに」
「そう。片方が忘れても、もう片方が持っている」
彼女は白衣の袖口のインクの点を親指でこすった。消えない。
「返事は、まだしない。——町の工事が終わる夜まで保留」
「開通の夜、屋根の下で聞く」
「約束」
遠く、工事灯がオレンジの線を描く。風向きが変わり、反転していたトンネルの風がようやく前へ動き出した。
彼女は短く話を聞き、目を伏せてからコーヒーに視線を落とす。
「都心の大学病院。血管外科フェローのポスト。——返事はまだしてない」
湊は言葉を選んだ。
「いい話だ」
「いいけど、遠い」
二人の間に、湯気のない沈黙が置かれた。
端末が割り込む。
【長峰トンネル南口でマイクロバス故障。車内に咳嗽・呼吸苦を訴える者多数。エンジンルームから白煙】
湊は立ち上がり、反射ベストを掴んだ。緋色は白衣の裾を払う。
「続きは、屋根の下で」
「了解。——行こう」
トンネル内は、反転した風の袋だった。排気ファンの工事で通風が弱い。白煙が床すれすれに滞り、ヘッドライトが乳白色の壁を作る。消防がホースを構え、救助隊がロープを張る。
「ここから先、ホットゾーン。救命士はロープ内、消防の後ろ。——SCBA(空気呼吸器)なしでの突入はしない」
葛城の指示。湊は頷き、ロープ際の“呼吸できるポケット”へ膝をついた。
マイクロバスから次々と避難してくる客。高齢者が咳き込み、指先が紫がかる。
「歩ける人はこの白線の外、頭を上げず低い姿勢で!」
緑と黄のタグを配りつつ、湊は耳を澄ます。
(ヒューヒュー……)
ゼーゼーではない、笛のような高音。バスの最後尾、若い女性が両手で胸を抱え、肩で呼吸していた。
「吸えない……出ない……」
喘息。吸入器は持っていないという。
「酸素、マスクで。——MDIある?」
相棒が救急バッグからサルブタモールの定量噴霧式(MDI)を取り出す。スペーサーがない。
湊は500mlのペットボトルの底をナイフで切り、切り口をテープで保護して即席スペーサーを作った。ボトル口にMDIを差し、底の広口を女性の口鼻に当てる。
「一回押したら、四回ゆっくり吸う。——吸って、止めて、吐く」
一回、二回。胸郭の動きがわずかに深くなり、SpO₂は88から92へ。
「いい。——もう二回」
バスの運転席では、運転手が胸を押さえて座り込んでいる。皮膚が灰色で冷たい。
「胸が、割れる……」
湊はモニターを当て、波形を見る。広いQRS、血圧低下。胸壁は不安定に見え、吸気で陥没する部分(フレイルチェスト)がある。
「酸素高流量、胸部固定。——救助がフロントを広げたらすぐボード搬送!」
『外科、斎藤。胸部鈍的外傷、ドレーン適応あり。——到着次第、胸腔穿刺も視野』
緋色の声が無線で冷たく光った。
消防のスプレッダが前部をこじ開け、葛城が合図する。
「今だ、引き出せ!」
湊は頸椎を保持し、ストレッチャーへ移す。呼吸音は右が乏しく、頸静脈の怒張がわずか。
(緊張性か——いや、まだ境目。病院まで持たせる)
搬送車内。喘息の女性はSpO₂が95まで戻り、肩呼吸が落ち着き始めた。
運転手は不穏。湊は胸部を帯で固定し、微温のブランケットで熱を逃がさないよう包む。
「外来、到着まで五分。——斎藤先生、右の呼吸音弱い。SpO₂九二、血圧八十台」
『受ける。——到着したらそのまま処置室、第五肋間前腋窩線で胸腔ドレーン』
扉が開くや、緋色が並走する。髪は低い位置で結ばれ、ヘッドランプが白い円を切る。
「右、音なし。皮下気腫あり」
彼女は迷わず穿刺点を消毒し、皮膚切開。クランプが肋骨の下縁をこえる手応え、次の瞬間、プシューと空気が抜ける音。
「胸が、楽……」
運転手の目に色が戻り、波形が収束する。
「ドレーン、固定。——ありがとう、間に合った」
処置の合間に、喘息の女性が運び込まれる。緋色は一瞥し、指示を飛ばす。
「ネブライザーに切り替え、ステロイドIV。——あなた、即席スペーサー、綺麗だった」
「コインランドリー仕込みで」
二人の間に短い笑いが生まれ、すぐ仕事に戻る。
雨は再び強くなり、夜は深くなった。
ひと段落のあと、緋色が屋上のヘリポートに湊を誘った。風は冷たく、山の肩が濃紺で重なっている。
二人はそれぞれの傘を開き、円の中に入った。
「さっきの話」
緋色が言う。
「行けば、きっと腕は上がる。行かない理由は——ここにある」
湊は風に背を向け、傘の角度を少し傾けて彼女の肩に雨が落ちないようにした。
「行ってほしい。本気で。……でも、俺はここに残る。朝焼けと、トンネルと、この町の最短のために」
緋色は黙っていた。雨粒が傘の骨で跳ね、円の内側に小さな波紋を描く。
「遠いのは、嫌いじゃない。私は『最小限』をやめないし、あなたは『最短』をやめない。——その二本の線が、離れても、毎回つなぎ直せるなら」
「二本の傘みたいに」
「そう。片方が忘れても、もう片方が持っている」
彼女は白衣の袖口のインクの点を親指でこすった。消えない。
「返事は、まだしない。——町の工事が終わる夜まで保留」
「開通の夜、屋根の下で聞く」
「約束」
遠く、工事灯がオレンジの線を描く。風向きが変わり、反転していたトンネルの風がようやく前へ動き出した。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】冷徹執事は、つれない侍女を溺愛し続ける。
たまこ
恋愛
公爵の専属執事ハロルドは、美しい容姿に関わらず氷のように冷徹であり、多くの女性に思いを寄せられる。しかし、公爵の娘の侍女ソフィアだけは、ハロルドに見向きもしない。
ある日、ハロルドはソフィアの真っ直ぐすぎる内面に気付き、恋に落ちる。それからハロルドは、毎日ソフィアを口説き続けるが、ソフィアは靡いてくれないまま、五年の月日が経っていた。
※『王子妃候補をクビになった公爵令嬢は、拗らせた初恋の思い出だけで生きていく。』のスピンオフ作品ですが、こちらだけでも楽しめるようになっております。
狼隊長さんは、私のやわはだのトリコになりました。
汐瀬うに
恋愛
目が覚めたら、そこは獣人たちの国だった。
元看護師の百合は、この世界では珍しい“ヒト”として、狐の婆さんが仕切る風呂屋で働くことになる。
与えられた仕事は、獣人のお客を湯に通し、その体を洗ってもてなすこと。
本来ならこの先にあるはずの行為まで求められてもおかしくないのに、百合の素肌で背中を撫でられた獣人たちは、皆ふわふわの毛皮を揺らして眠りに落ちてしまうのだった。
人間の肌は、獣人にとって子犬の毛並みのようなもの――そう気づいた時には、百合は「眠りを売る“やわはだ嬢”」として静かな人気者になっていた。
そんな百合の元へある日、一つの依頼が舞い込む。
「眠れない狼隊長を、あんたの手で眠らせてやってほしい」
戦場の静けさに怯え、目を閉じれば仲間の最期がよみがえる狼隊長ライガ。
誰よりも強くあろうとする男の震えに触れた百合は、自分もまた失った人を忘れられずにいることを思い出す。
やわらかな人肌と、眠れない心。
静けさを怖がるふたりが、湯気の向こうで少しずつ寄り添っていく、獣人×ヒトの異世界恋愛譚。
[こちらは以前あげていた「やわはだの、お風呂やさん」の改稿ver.になります]
子持ち愛妻家の極悪上司にアタックしてもいいですか?天国の奥様には申し訳ないですが
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
胸がきゅんと、甘い音を立てる。
相手は、妻子持ちだというのに。
入社して配属一日目。
直属の上司で教育係だって紹介された人は、酷く人相の悪い人でした。
中高大と女子校育ちで男性慣れしてない私にとって、それだけでも恐怖なのに。
彼はちかよんなオーラバリバリで、仕事の質問すらする隙がない。
それでもどうにか仕事をこなしていたがとうとう、大きなミスを犯してしまう。
「俺が、悪いのか」
人のせいにするのかと叱責されるのかと思った。
けれど。
「俺の顔と、理由があって避け気味なせいだよな、すまん」
あやまってくれた彼に、胸がきゅんと甘い音を立てる。
相手は、妻子持ちなのに。
星谷桐子
22歳
システム開発会社営業事務
中高大女子校育ちで、ちょっぴり男性が苦手
自分の非はちゃんと認める子
頑張り屋さん
×
京塚大介
32歳
システム開発会社営業事務 主任
ツンツンあたまで目つき悪い
態度もでかくて人に恐怖を与えがち
5歳の娘にデレデレな愛妻家
いまでも亡くなった妻を愛している
私は京塚主任を、好きになってもいいのかな……?
婚約破棄したら食べられました(物理)
かぜかおる
恋愛
人族のリサは竜種のアレンに出会った時からいい匂いがするから食べたいと言われ続けている。
婚約者もいるから無理と言い続けるも、アレンもしつこく食べたいと言ってくる。
そんな日々が日常と化していたある日
リサは婚約者から婚約破棄を突きつけられる
グロは無し
エリート警察官の溺愛は甘く切ない
日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。
両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉
噂の聖女と国王陛下 ―婚約破棄を願った令嬢は、溺愛される
柴田はつみ
恋愛
幼い頃から共に育った国王アランは、私にとって憧れであり、唯一の婚約者だった。
だが、最近になって「陛下は聖女殿と親しいらしい」という噂が宮廷中に広まる。
聖女は誰もが認める美しい女性で、陛下の隣に立つ姿は絵のようにお似合い――私など必要ないのではないか。
胸を締め付ける不安に耐えかねた私は、ついにアランへ婚約破棄を申し出る。
「……私では、陛下の隣に立つ資格がありません」
けれど、返ってきたのは予想外の言葉だった。
「お前は俺の妻になる。誰が何と言おうと、それは変わらない」
噂の裏に隠された真実、幼馴染が密かに抱き続けていた深い愛情――
一度手放そうとした運命の絆は、より強く絡み合い、私を逃がさなくなる。
転移先で日本語を読めるというだけで最強の男に囚われました
桜あずみ
恋愛
異世界に転移して2年。
言葉も話せなかったこの国で、必死に努力して、やっとこの世界に馴染んできた。
しかし、ただ一つ、抜けなかった癖がある。
──ふとした瞬間に、日本語でメモを取ってしまうこと。
その一行が、彼の目に留まった。
「この文字を書いたのは、あなたですか?」
美しく、完璧で、どこか現実離れした男。
日本語という未知の文字に強い関心を示した彼は、やがて、少しずつ距離を詰めてくる。
最初はただの好奇心だと思っていた。
けれど、気づけば私は彼の手の中にいた。
彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。
毎日19時に更新予定です。
イケメン警視、アルバイトで雇った恋人役を溺愛する。
楠ノ木雫
恋愛
蒸発した母の借金を擦り付けられた主人公瑠奈は、お見合い代行のアルバイトを受けた。だが、そのお見合い相手、矢野湊に借金の事を見破られ3ヶ月間恋人役を務めるアルバイトを提案された。瑠奈はその報酬に飛びついたが……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる