必要最小限の優しさ -二本の傘と一つの判断

yukataka

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第十一章 開通前夜

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雨はやまないが、粒が細くなった。
早瀬家の食卓では、母のカレーが湯気を立てていた。木のテーブルに四つの皿。瞬は反射ベストを椅子にかけ、緋色は白衣のまま裾を揃える。湊はスプーンを握り、湯気を眺めた。

「辛さ、今日は控えめにしたよ」
母はそう言いながら、湊の皿に福神漬けをそっと足す。
「控えめのほうが、現場前の胃にはやさしい」
緋色が笑うと、母は目を細めた。
「お医者さんも大変ねえ。うちのは口が減らないから、助かる」

瞬が咳払いして、資料の束を開いた。
「明け方四時、換気ダンパーの最終試運転。片側ずつ閉じて流量測定。——救急は両側待機。緊急車両の動線は俺が切る。ここで詰まったら町ごと止まる」
湊は頷く。
「その間、病院の屋根は広げておく」
緋色が白衣の袖口を見て、小さなインクの点に親指を当てた。消えない星みたいに、そこにある。

母はカレーの鍋を消して、四人を見回した。
「工事も病院も、終わったら朝ごはん食べに戻っておいで。塩むすび、山ほど握っとくから」
「塩は正義」
湊が言うと、瞬が鼻で笑った。
「お前は塩しか言わない」
「塩は最短路の潤滑油」
緋色は小さく肩をすくめ、スプーンを置いた。
「潤滑油は、こぼすと滑る」

テーブルの真ん中で、湊のポケットから抜いた端末が震えた。
【共同浴場“梅の湯” 湯送り管の破裂 数名熱傷の疑い】
瞬が立ち上がる。
「湊、南側から回れ。俺は道路規制を敷く。——緋色さん、病院へ連絡を」
三人の視線がぶつかり、すぐにほどけた。母が玄関まで二本の傘を持って走る。

共同浴場の裏手は、白い霧に包まれていた。送湯管が裂け、熱い蒸気が低い音をたてて吐き出す。床は濡れ、滑る。
「こちら葛城救助隊。蒸気は止めに入る。医療は安全圏で待機!」
救助隊がバルブへ向かう間、湊は屋外に誘導された客たちを見渡した。前腕に赤い斑点、ふくらはぎに線状の白斑。衣服の下に熱がこもる。

「衣服を無理に剥がさないで。金属のアクセサリーは外します。冷たい流水で長めに冷やす」
湊はガーデンホースを広げ、温度を確かめてから腕へ流した。
「痛い……」
女の子が歯を食いしばる。緋色が膝をついて目線を合わせた。
「ヒーローのシール、今日も出せる。——吸って、吐いて。痛み止め、入れるね」
鎮痛を確保し、清潔なラップを薄く巻く。広範囲に及ばないこと、気道障害がないことを確認し、重症度を区分。
「赤一、黄二、緑四。搬送順はこの順で」
湊がタグをととのえると、葛城の声が飛んだ。
「蒸気止まった。中に二人、転倒で動けない!」

室内は床がぬれて、湯気がゆっくりと下りてくる。高温の霧は消えたが、滑りやすい。
「頭を打っているかも」
一人は高齢女性。後頭部にたんこぶ、吐き気を訴える。頸椎保護で担架へ。
もう一人の男性は足首の変形。
「冷やしながら固定。——病院に連絡」

緋色が無線を耳に当てる。
『外来、斎藤。熱傷軽中等度数名、頭部打撲一、足関節骨折一。——受け入れ可能。処置室一と三を温めておいて』
「了解。搬送開始」

引き継ぎを終え、病院の廊下に湿った靴音が重なった。
緋色が息を整えながら言う。
「湯の町での火傷は、湯気の逆襲。——でも、器の中だけで燃えさせた」
「葛城たちのバルブが速かった」
湊が頷いたとき、瞬からの通話が割り込んだ。
『換気ダンパーにセンサー異常。工事は時間が押す。——明け方四時の開放、十分遅らせる。救急は両側で待機継続』
「了解。事故のリスクは?」
『低くない。——山が水を吐ききれていない』

通話が切れた廊下は、やけに静かに感じられた。
緋色は窓の外の闇を見た。雨は細く、だが途切れない。
「開通前の夜は、たいてい何かが起きる」
「起こさないのが仕事だけど、起きたときの最短は、もう用意する」

二人が外へ出ようとしたとき、廊下の端で電灯が一瞬だけ瞬いた。低い揺れ。足元が針の頭ほど震えた。
「いま、揺れた?」
「微震。——嫌な予感のサイズ」
湊のポケットで端末が鳴る。瞬の短い文面。
【トンネル内で作業車一台、連絡取れず。通信乱れ】
視界の奥で、非常用灯がぱちぱちと灯り直す。

湊は緋色を見た。
「行く」
「行こう」
二人は反射ベストと白衣を掴み、夜の雨の中へ駆け出した。
遠く、山の方角で、雷にも似た低い音がした。
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