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第十二章 開通の朝
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トンネルの口に着いたとき、山はまだ夜の奥を握っていた。
工事灯のオレンジが雨に押しつぶされ、非常用無線は時々ひしゃげた声だけを吐く。
「作業車と連絡不通。内側の換気シャフト付近でセンサーエラー」
瞬の声が硬い。葛城がロープを張り、救助隊は支点を打った。
「医療は安全線から。——無理な突入はしない」
「必要最小限、最大限に守る」
緋色の目は濡れた黒曜石みたいに強かった。湊はうなずき、ヘルメットの顎紐を締める。
トンネル内は、濡れた肺の中のようだった。
天井パネルの一部が外れ、配管から落ちた水が薄い滝になって路面を走る。作業車は片輪を縁石に乗り上げ、運転席側に傾いている。
「こっちだ! 足が——」
後部座席、若い作業員が膝下を座席フレームに挟まれ、脛のあたりから血と泥が混じっている。
運転席では、別の男がぐったりと頭を垂らし、浅い息をひき、額に灰色の汗。
「酸素、エアウェイ準備。——まずは歩けるかどうか」
湊は後部の青年に声をかけ、顔色と脈を確かめた。
「名前は?」
「……新田」
「新田さん、聞こえる。今から圧迫と包帯で血を抑える。——動かすのは、救助隊の合図で」
緋色は運転席側を覗き込み、瞳孔と首を見た。
「意識曖昧。呼吸浅い。——i-gel(声門上気道)入れる。吸って、楽にして」
彼女は手際よく気道を確保し、BVMで均等に送気した。胸が左右で同じリズムで持ち上がる。
「波形、戻る。SpO₂九四まで上がる」
後部の新田の下腿は変形し、出血は拍動性ではないが多い。足背動脈は弱い。
(クラッシュの気配。解放前に、内側から整える)
湊は止血材を創に充填し、加圧包帯を重ねた。
「緋色先生、輸液と重曹、先に回したい」
「二本取る。——カルチコールも準備」
ふたりの声が水音と工事音のあいだを縫い、葛城の合図が飛ぶ。
「ジャッキ入れる。三分で押し上げ、引き出す!」
湊は新田の肩に顔を寄せた。
「今から車体を持ち上げる。足が抜けるとき痛い。でも、戻ってくる痛みだ。——一緒に吸って、吐く」
ホイッスルが鳴り、鉄が軋む。車体が数センチ、浮く。
湊は包帯の圧を保持したまま、緋色がシーツで下肢を包み、二人で体を引く。
泥が剥がれ、足が外の空気に触れる瞬間、心電図のT波が尖り、脈が跳ねた。
「カリウムくる。——カルチ投与!」
緋色が静脈路から薬を押し、湊は換気の圧をすこし落として胸郭の戻りを待つ。
QRSが一度広がり、そして狭まる。
「戻った。——いい、戻ってる」
運転席の男は、気道が保たれても目を開けない。額に切創、頬に煤。
「COの可能性もある。——高濃度酸素継続、体位保持」
緋色が頷く。
そのとき、トンネルの奥からヘッドライトが滲み、反射ベストの影が駆けてきた。
「湊!」
瞬だった。濡れたヘルメットの下で、目だけが昔のまま少年っぽい。
「シャフト側のダンパー、手動で固着してた。今は抑えた。——出口まで一息で通せる」
「助かる。最短、頼む」
「お前が屋根を呼ぶ間に、道を明ける」
すべてが、短く、正確になった。
担架が運び出され、新田は痛みで顔を歪めながらも親指を立てた。
「……生きてる?」
「生きてる。痛いのは、その証拠」
湊は笑って、緋色と目を合わせた。彼女のヘッドランプが濡れた路面に小さな円を描く。
搬送は、薄い朝の色の中を走った。
病院。処置室。新田には鎮痛と整復固定、運転手には観察下の酸素と血液ガス。
「高カリウム、いまは抑え込めてる。腎機能とCPKで追う」
緋色の声は凪いでいる。
「COHbは軽度。頭部は観察を続ける。——どちらも、今日を越えられる」
引き継ぎが終わるころ、窓の外で雨が細い糸になり、山の肩に淡い金の縁取りが現れた。
瞬から着信。
『ダンパー、復旧。——開通いける』
湊は病棟の非常階段を上って屋上へ出た。緋色もついてくる。
ヘリポートの上に、長いトンネルの出口を越えて朝がのびてくる。二人は傘を一つ開き、その円の中で肩を寄せた。
「返事を」
湊は言葉を慎重に置いた。
緋色は白衣の袖口のインクの点を見つめ、親指でそっと触れた。
「行く。——一年。学べるだけ学んで、戻ってくる場所を自分で選ぶ。その間、ここはあなたが守って」
「守る。朝焼けの手前の色まで」
「毎朝違う、って言ってたよね」
「だから、同じ傘を二本、持っておく」
彼女は笑い、傘の柄に自分の手を重ねた。
下では工事灯が消え、トンネルの中に新しい風が通り始める。
救急車の屋根に残る雨粒が、朝の光を吸って淡く光った。
「必要最小限」
緋色が言う。
「最短」
湊が応える。
言葉は、ひとつの線になって、谷を越えていった。
温泉郷の屋根から湯気が上がる。
町が目を開け、長いトンネルの向こうから、今日の一色目が流れ込んできた。
反射ベストのない場所で会う約束は、もう約束ではなく、朝の一部になっていた。
工事灯のオレンジが雨に押しつぶされ、非常用無線は時々ひしゃげた声だけを吐く。
「作業車と連絡不通。内側の換気シャフト付近でセンサーエラー」
瞬の声が硬い。葛城がロープを張り、救助隊は支点を打った。
「医療は安全線から。——無理な突入はしない」
「必要最小限、最大限に守る」
緋色の目は濡れた黒曜石みたいに強かった。湊はうなずき、ヘルメットの顎紐を締める。
トンネル内は、濡れた肺の中のようだった。
天井パネルの一部が外れ、配管から落ちた水が薄い滝になって路面を走る。作業車は片輪を縁石に乗り上げ、運転席側に傾いている。
「こっちだ! 足が——」
後部座席、若い作業員が膝下を座席フレームに挟まれ、脛のあたりから血と泥が混じっている。
運転席では、別の男がぐったりと頭を垂らし、浅い息をひき、額に灰色の汗。
「酸素、エアウェイ準備。——まずは歩けるかどうか」
湊は後部の青年に声をかけ、顔色と脈を確かめた。
「名前は?」
「……新田」
「新田さん、聞こえる。今から圧迫と包帯で血を抑える。——動かすのは、救助隊の合図で」
緋色は運転席側を覗き込み、瞳孔と首を見た。
「意識曖昧。呼吸浅い。——i-gel(声門上気道)入れる。吸って、楽にして」
彼女は手際よく気道を確保し、BVMで均等に送気した。胸が左右で同じリズムで持ち上がる。
「波形、戻る。SpO₂九四まで上がる」
後部の新田の下腿は変形し、出血は拍動性ではないが多い。足背動脈は弱い。
(クラッシュの気配。解放前に、内側から整える)
湊は止血材を創に充填し、加圧包帯を重ねた。
「緋色先生、輸液と重曹、先に回したい」
「二本取る。——カルチコールも準備」
ふたりの声が水音と工事音のあいだを縫い、葛城の合図が飛ぶ。
「ジャッキ入れる。三分で押し上げ、引き出す!」
湊は新田の肩に顔を寄せた。
「今から車体を持ち上げる。足が抜けるとき痛い。でも、戻ってくる痛みだ。——一緒に吸って、吐く」
ホイッスルが鳴り、鉄が軋む。車体が数センチ、浮く。
湊は包帯の圧を保持したまま、緋色がシーツで下肢を包み、二人で体を引く。
泥が剥がれ、足が外の空気に触れる瞬間、心電図のT波が尖り、脈が跳ねた。
「カリウムくる。——カルチ投与!」
緋色が静脈路から薬を押し、湊は換気の圧をすこし落として胸郭の戻りを待つ。
QRSが一度広がり、そして狭まる。
「戻った。——いい、戻ってる」
運転席の男は、気道が保たれても目を開けない。額に切創、頬に煤。
「COの可能性もある。——高濃度酸素継続、体位保持」
緋色が頷く。
そのとき、トンネルの奥からヘッドライトが滲み、反射ベストの影が駆けてきた。
「湊!」
瞬だった。濡れたヘルメットの下で、目だけが昔のまま少年っぽい。
「シャフト側のダンパー、手動で固着してた。今は抑えた。——出口まで一息で通せる」
「助かる。最短、頼む」
「お前が屋根を呼ぶ間に、道を明ける」
すべてが、短く、正確になった。
担架が運び出され、新田は痛みで顔を歪めながらも親指を立てた。
「……生きてる?」
「生きてる。痛いのは、その証拠」
湊は笑って、緋色と目を合わせた。彼女のヘッドランプが濡れた路面に小さな円を描く。
搬送は、薄い朝の色の中を走った。
病院。処置室。新田には鎮痛と整復固定、運転手には観察下の酸素と血液ガス。
「高カリウム、いまは抑え込めてる。腎機能とCPKで追う」
緋色の声は凪いでいる。
「COHbは軽度。頭部は観察を続ける。——どちらも、今日を越えられる」
引き継ぎが終わるころ、窓の外で雨が細い糸になり、山の肩に淡い金の縁取りが現れた。
瞬から着信。
『ダンパー、復旧。——開通いける』
湊は病棟の非常階段を上って屋上へ出た。緋色もついてくる。
ヘリポートの上に、長いトンネルの出口を越えて朝がのびてくる。二人は傘を一つ開き、その円の中で肩を寄せた。
「返事を」
湊は言葉を慎重に置いた。
緋色は白衣の袖口のインクの点を見つめ、親指でそっと触れた。
「行く。——一年。学べるだけ学んで、戻ってくる場所を自分で選ぶ。その間、ここはあなたが守って」
「守る。朝焼けの手前の色まで」
「毎朝違う、って言ってたよね」
「だから、同じ傘を二本、持っておく」
彼女は笑い、傘の柄に自分の手を重ねた。
下では工事灯が消え、トンネルの中に新しい風が通り始める。
救急車の屋根に残る雨粒が、朝の光を吸って淡く光った。
「必要最小限」
緋色が言う。
「最短」
湊が応える。
言葉は、ひとつの線になって、谷を越えていった。
温泉郷の屋根から湯気が上がる。
町が目を開け、長いトンネルの向こうから、今日の一色目が流れ込んできた。
反射ベストのない場所で会う約束は、もう約束ではなく、朝の一部になっていた。
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