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第1章
第3話 「生き延びるための選択」
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朝、恒一は目を覚ました。
体が痛い。藁を詰めただけの寝床は、寝返りを打つたびに体に食い込んだ。腰と肩に鈍い痛みが残っている。背中には、藁の跡がついているだろう。
窓の隙間から、薄い光が差し込んでいる。時刻は分からない。時計がない。太陽の位置から判断するしかない。おそらく、朝の六時から七時の間だ。
恒一は、体を起こした。
服は作業着のまま。着替えはない。洗濯もできていない。汗と埃で汚れている。このまま着続ければ、皮膚病のリスクが高まる。だが、選択肢はない。
水を飲みたいが、部屋に水はない。喉が渇いている。昨夜、水を飲まなかったからだ。脱水症状の初期段階かもしれない。
恒一は、革袋を確認した。
銀貨七枚。
支援金のすべてだ。
宿代が一泊、銀貨一枚。食事は別料金と言われた。おそらく、一食で銀貨一枚程度だろう。
一日二食として、銀貨三枚。
七枚では、二日分にしかならない。
一週間という猶予は、実質的には二日程度しかない。
恒一は、計算を修正した。
食事を一日一食に減らせば、四日。
宿を出て野宿すれば、七日。
だが、野宿は危険だ。魔物がいるという話を聞いた。街の外は、さらに危険だろう。
選択肢は、限られている。
今日中に、金を稼ぐ方法を見つける必要がある。
恒一は、部屋を出た。
一階に降りる。
受付の男が、粗末なパンと水の入った木製のコップを差し出した。
「朝飯だ。銀貨一枚追加だ」
恒一は、革袋から銀貨を取り出した。
残りは、六枚。
パンは硬く、表面にカビの跡がある。緑色の斑点が、いくつか見える。食べても大丈夫だろうか。
恒一は、カビの部分を避けて食べることにした。ナイフがないため、手で千切る。固い。顎が疲れる。
水は濁っている。煮沸されていないだろう。微生物が混入している可能性が高い。だが、飲まないわけにはいかない。
恒一は、少しずつ飲んだ。胃が受け付けるか、様子を見る。
味はしない。ただ、腹を満たすためのものだ。
栄養価も低い。ビタミンもミネラルも不足している。長期的には、栄養失調になる。
この世界で生きるには、食事の質を改善する必要がある。だが、それは後回しだ。今は、生き延びることが優先だ。
食事を終え、恒一はギルドへ向かった。
街は、朝から活気があった。
市場には人が集まり、商人たちが声を張り上げている。
「新鮮な魚だよ! 今朝獲れたばかりだ!」
魚は、すでに目が濁っている。新鮮ではない。嘘をついている。だが、誰も気にしていない。騙されているのか、分かっていて買っているのか。
「野菜! 安いよ!」
野菜は、しおれている。虫食いも多い。葉物野菜は、変色している。
人々は、それでも買っていく。選択肢がないのだ。
恒一は、値段を確認した。
魚一匹、銅貨五枚。
野菜一束、銅貨三枚。
銀貨一枚が、銅貨十枚に相当するらしい。つまり、魚は銀貨半分。野菜は銀貨三割。
高い。
それでも、人々は買っている。食べなければ、死ぬからだ。
恒一は、この世界の食糧事情を改めて確認した。
保存技術がない。
流通が限定的。
腐敗が日常的。
冷蔵庫がない世界では、食料は数時間で傷む。特に夏場は、致命的だ。肉や魚は、一日持たない。野菜も、すぐにしおれる。
パンのようなものは日持ちするが、栄養価が低い。カビも生えやすい。
この世界の人々は、常に食料不足と腐敗のリスクに晒されている。
だから、食料保存の需要があるはずだ。
だが、魔法では解決できないのだろう。この世界の魔法は、戦闘向きだからだ。
恒一の魔法は、違う。
生活用品を召喚できる。
冷蔵庫を召喚できれば、食料を保存できる。
それが、この世界で価値を持つかどうか。
試す価値はある。
ギルドに到着した。
建物の中は、すでに多くの冒険者で賑わっていた。武装した男たち。魔法使いらしき者たち。誰もが、自信に満ちた表情をしている。
恒一は、依頼掲示板に向かった。
羊皮紙が何枚も貼られている。他の冒険者たちが、それを眺めている。
「魔物討伐。報酬、金貨二枚」
「護衛任務。報酬、金貨一枚」
「ダンジョン探索。報酬、金貨五枚」
どれも戦闘系だ。報酬は高いが、命の危険がある。
恒一の魔法では、対応できない。
他の依頼を探す。
掲示板の端。人目につかない場所に、小さな羊皮紙が貼られていた。
「荷物運搬。報酬、銀貨三枚」
銀貨三枚。金貨の三割だ。報酬は低いが、戦闘は不要だろう。
ただし、体力が必要だ。重い荷物を運ぶ仕事は、慣れていない者には厳しい。
他にも探す。
「井戸掃除。報酬、銀貨二枚」
銀貨二枚。さらに低い。だが、これも戦闘は不要だ。
もう一枚。
「食料保存の相談。商人ギルベルト。報酬、銀貨五枚」
銀貨五枚。
金貨一枚が銀貨十枚に相当するらしい。つまり、この依頼の報酬は金貨半分。最低レベルだ。
だが、「食料保存」という言葉が気になった。
これなら、冷蔵庫が使えるかもしれない。
恒一は、羊皮紙を剥がした。
周囲の冒険者が、チラリと見る。誰も声をかけてこない。興味がないのだろう。報酬が低すぎる。
恒一は、受付に持っていく。
「この依頼を受けます」
受付の女性が、眉をひそめた。
「……これですか?」
「問題がありますか?」
「いえ、ただ……誰も受けない依頼なので」
女性は、ギルドカードを確認した。
「あなた、昨日登録した転移者の方ですね。異界家電召喚……」
声に、微かな嘲笑が混じる。
「理由は?」
恒一は、端的に尋ねた。
「誰も受けない理由です」
女性が、少し驚いた表情を見せた。普通なら、こんな質問はしないのだろう。
「報酬が安すぎるんです。それに、食料保存なんて魔法でどうにかできるものじゃありませんから。保存魔法なんて、存在しないんです」
保存魔法は、存在しない。
つまり、この世界の魔法体系には、時間を止める、腐敗を防ぐ、といった概念がないのだろう。
戦闘向きの魔法ばかりだからだ。
「分かりました」
「まあ、試してみるのもいいかもしれません。失敗しても、誰も困りませんから」
恒一は、何も言わなかった。
依頼書を受け取り、ギルドを出た。
後ろで、冒険者たちの笑い声が聞こえた。
「あいつ、あの依頼受けたのか」
「どうせ、何もできないだろ」
「銀貨五枚のために、時間の無駄だな」
恒一は、足を止めなかった。
笑われることには、慣れている。
商人ギルベルトの店は、市場の一角にあった。
食料品を扱う店らしい。だが、店の前には異臭が漂っている。
腐敗臭だ。
生ゴミと、腐った肉と、変質した油の匂いが混ざっている。
恒一は、店に入った。
中年の男が、頭を抱えていた。四十代半ば。太り気味だが、顔色は悪い。睡眠不足だろう。
周囲には、傷んだ野菜や肉が山積みになっている。野菜は変色し、肉は粘液を帯びている。どれも、もう売り物にはならない。
「また駄目だ……これじゃ、商売にならない」
男が、独り言を呟いている。
恒一は、声をかけた。
「ギルドから来ました。依頼を受けた者です」
男が、顔を上げた。疲れた目で、恒一を見る。
「ああ、来てくれたのか。でも……」
男の視線が、恒一の服装を見る。武器も防具もない。魔法使いらしい装備もない。ただの作業着だ。
「あんた、魔法使いか?」
「はい」
「どんな魔法だ?」
「召喚系です」
「召喚? それで、食料保存の何が解決できるんだ?」
恒一は、淡々と答えた。
「試してみないと分かりません。ただ、失敗しても損はないはずです」
男が、ため息をついた。肩を落とし、諦めたような表情だ。
「まあ、そうだな。どうせ、これは捨てるしかないんだ」
男が、腐りかけた肉の塊を指差した。血が滴り、表面には蝿がたかっている。
「これを、何とかできるか?」
恒一は、肉を観察した。
表面に粘液が付着している。変色も始まっている。悪臭がする。腐敗の初期段階だ。
細菌が繁殖している。もう数時間で、完全に食べられなくなる。
「保存するだけなら、できるかもしれません」
「本当か?」
男の目に、わずかな期待の光が灯った。
「やってみます」
恒一は、店の奥の広いスペースに移動した。
魔法を使うのは、これが初めてだ。
どうやって発動するのか。
恒一は、体の中の感覚に集中した。
昨日、鑑定のときに感じた温かい流れ。それが、まだ体の中に残っている。
魔力、というものだろうか。
恒一は、意識をそこに向けた。
何を召喚するか。
食料を保存する。腐敗を止める。温度を下げる。細菌の活動を抑制する。
冷蔵庫だ。
恒一は、冷蔵庫を思い浮かべた。
倉庫にあった試作品。自分が関わった設計。省電力型の冷蔵庫。コンプレッサーの効率を改善し、断熱材を最適化した。
あの冷蔵庫を、召喚する。
魔力が、動いた。
体の中から、何かが引き出される感覚。温かい流れが、体の外へ向かう。
空間が、歪んだ。
目の前の空気が、揺らぐ。光が屈折し、色が滲む。
そして――
光が、収束する。
目の前に、冷蔵庫が現れた。
白い筐体。取っ手。コンセントのないコード。
見覚えがある。倉庫にあった試作品だ。型番も、開発年月日も、すべて一致している。
ギルベルトが、目を丸くした。
「な、何だこれは……!」
「冷蔵庫です」
恒一は、冷蔵庫のドアを開けた。
内部から、冷気が漏れ出す。ひんやりとした空気が、顔に当たる。
動いている。電源がないのに、稼働している。
魔力で動いているのだろうか。
恒一は、体の中の魔力を確認した。
減っている。
召喚と維持に、魔力を消費している。流れ続けている。止まらない。
このままでは、魔力が尽きる。どのくらい持つだろうか。
恒一は、計算した。
現在の消費速度。体内の魔力総量。回復速度。
おそらく、八時間程度が限界だ。
「これで、腐敗の進行を遅らせることができます」
恒一は、肉を冷蔵庫の中に入れた。
「温度が下がれば、細菌の活動が抑制されます。数日は保存できるはずです」
ギルベルトが、冷蔵庫に手を当てた。
「冷たい……本当に冷えてる!」
男の表情が、変わった。驚きと、喜びと、困惑が混ざっている。
「これは……すごい! こんな魔法、見たことがない!」
男が、興奮した様子で冷蔵庫を調べる。扉を開けたり閉めたり、内部を覗いたり。
恒一は、冷蔵庫の内部を確認した。
容量は、それほど大きくない。試作品だからだ。省電力を優先したため、サイズを小さくした。
入るのは、肉が数キロ程度。野菜も少し。
「ただし、制限があります」
「制限?」
「この冷蔵庫は、私が魔力を供給している間しか維持できません。それと、容量に限りがあります」
恒一は、体の中の魔力を再確認した。
まだ減り続けている。一定の速度で、流出している。
「どのくらい持つんだ?」
「今日一杯、でしょうか」
実際には八時間程度だが、安全マージンを取って伝えた。
「一日か……」
ギルベルトが、考え込む。顎に手を当て、視線を冷蔵庫と肉に向ける。
「でも、一日でも助かる。普通なら、数時間で駄目になるんだ。これなら、夕方まで売れる」
男が、他の食料も冷蔵庫に入れ始めた。
野菜、魚、チーズ。次々と詰め込んでいく。
冷蔵庫が、いっぱいになる。
「ありがとう。本当に助かった」
ギルベルトが、革袋を差し出した。
「約束の報酬だ。銀貨五枚」
恒一は、袋を受け取った。
重みがある。銀貨五枚。
これで、宿代と食費が数日分確保できた。
「また明日も来てくれるか?」
「明日も?」
「ああ。毎日、食料は腐る。毎日、これを使わせてほしいんだ」
恒一は、考えた。
毎日、銀貨五枚。
一週間で、銀貨三十五枚。金貨三枚以上だ。
戦闘系の依頼より報酬は低いが、安全だ。命の危険がない。再現性もある。毎日、同じ作業を繰り返せばいい。
「分かりました。ただし、条件があります」
「条件?」
「私の魔力には限界があります。一日に維持できる時間は、限られています」
「どのくらいだ?」
「おそらく、八時間程度です」
恒一は、体の感覚から計算した。
魔力の消費速度。回復速度。限界値。
八時間が、安全な範囲だ。それ以上は、魔力枯渇のリスクがある。
「八時間……十分だ。その間に、売れるものは売る。残ったら、また明日冷やせばいい」
「では、契約します」
恒一は、ギルベルトと握手を交わした。
男の手は、大きくて温かかった。商人の手だ。
これで、当面の生活費は確保できた。
夕方、恒一は宿に戻った。
体が重い。魔力を使い切ったからだろう。八時間、冷蔵庫を維持し続けた。
魔力が、ほぼ空になっている。頭痛がする。視界が少し霞む。魔力枯渇の症状だろうか。
部屋に入り、ベッドに横になる。
今日の結果を整理する。
――冷蔵庫の召喚に成功した。
――魔力消費は予想通り。八時間が限界。
――報酬は安いが、安全で再現性がある。
――毎日続ければ、生活は成り立つ。
だが、課題もある。
――魔力の限界が明確になった。
――冷蔵庫は壊れる可能性がある。
――修理の方法が分からない。
――他の家電を試していない。
――この仕事だけでは、成長がない。
恒一は、今後の方針を考えた。
一、当面はギルベルトの依頼を続ける。生活の安定が最優先。
二、魔力の回復と消費を記録する。データを取る。
三、他の依頼も探す。収入源を複数確保する。
四、この世界の技術水準を調査する。何が不足しているか把握する。
優先順位は、明確だ。
まず、生活を安定させる。
次に、情報を集める。
そして、次の一手を考える。
恒一は、目を閉じた。
疲労が、体を包む。魔力の消費は、思った以上に体力を奪う。
だが、悪くない。
この世界で、生き延びる方法が見えてきた。
戦わなくても、生きていける。
評価されなくても、必要とされる。
それで、十分だ。
恒一は、静かに眠りについた。
体が痛い。藁を詰めただけの寝床は、寝返りを打つたびに体に食い込んだ。腰と肩に鈍い痛みが残っている。背中には、藁の跡がついているだろう。
窓の隙間から、薄い光が差し込んでいる。時刻は分からない。時計がない。太陽の位置から判断するしかない。おそらく、朝の六時から七時の間だ。
恒一は、体を起こした。
服は作業着のまま。着替えはない。洗濯もできていない。汗と埃で汚れている。このまま着続ければ、皮膚病のリスクが高まる。だが、選択肢はない。
水を飲みたいが、部屋に水はない。喉が渇いている。昨夜、水を飲まなかったからだ。脱水症状の初期段階かもしれない。
恒一は、革袋を確認した。
銀貨七枚。
支援金のすべてだ。
宿代が一泊、銀貨一枚。食事は別料金と言われた。おそらく、一食で銀貨一枚程度だろう。
一日二食として、銀貨三枚。
七枚では、二日分にしかならない。
一週間という猶予は、実質的には二日程度しかない。
恒一は、計算を修正した。
食事を一日一食に減らせば、四日。
宿を出て野宿すれば、七日。
だが、野宿は危険だ。魔物がいるという話を聞いた。街の外は、さらに危険だろう。
選択肢は、限られている。
今日中に、金を稼ぐ方法を見つける必要がある。
恒一は、部屋を出た。
一階に降りる。
受付の男が、粗末なパンと水の入った木製のコップを差し出した。
「朝飯だ。銀貨一枚追加だ」
恒一は、革袋から銀貨を取り出した。
残りは、六枚。
パンは硬く、表面にカビの跡がある。緑色の斑点が、いくつか見える。食べても大丈夫だろうか。
恒一は、カビの部分を避けて食べることにした。ナイフがないため、手で千切る。固い。顎が疲れる。
水は濁っている。煮沸されていないだろう。微生物が混入している可能性が高い。だが、飲まないわけにはいかない。
恒一は、少しずつ飲んだ。胃が受け付けるか、様子を見る。
味はしない。ただ、腹を満たすためのものだ。
栄養価も低い。ビタミンもミネラルも不足している。長期的には、栄養失調になる。
この世界で生きるには、食事の質を改善する必要がある。だが、それは後回しだ。今は、生き延びることが優先だ。
食事を終え、恒一はギルドへ向かった。
街は、朝から活気があった。
市場には人が集まり、商人たちが声を張り上げている。
「新鮮な魚だよ! 今朝獲れたばかりだ!」
魚は、すでに目が濁っている。新鮮ではない。嘘をついている。だが、誰も気にしていない。騙されているのか、分かっていて買っているのか。
「野菜! 安いよ!」
野菜は、しおれている。虫食いも多い。葉物野菜は、変色している。
人々は、それでも買っていく。選択肢がないのだ。
恒一は、値段を確認した。
魚一匹、銅貨五枚。
野菜一束、銅貨三枚。
銀貨一枚が、銅貨十枚に相当するらしい。つまり、魚は銀貨半分。野菜は銀貨三割。
高い。
それでも、人々は買っている。食べなければ、死ぬからだ。
恒一は、この世界の食糧事情を改めて確認した。
保存技術がない。
流通が限定的。
腐敗が日常的。
冷蔵庫がない世界では、食料は数時間で傷む。特に夏場は、致命的だ。肉や魚は、一日持たない。野菜も、すぐにしおれる。
パンのようなものは日持ちするが、栄養価が低い。カビも生えやすい。
この世界の人々は、常に食料不足と腐敗のリスクに晒されている。
だから、食料保存の需要があるはずだ。
だが、魔法では解決できないのだろう。この世界の魔法は、戦闘向きだからだ。
恒一の魔法は、違う。
生活用品を召喚できる。
冷蔵庫を召喚できれば、食料を保存できる。
それが、この世界で価値を持つかどうか。
試す価値はある。
ギルドに到着した。
建物の中は、すでに多くの冒険者で賑わっていた。武装した男たち。魔法使いらしき者たち。誰もが、自信に満ちた表情をしている。
恒一は、依頼掲示板に向かった。
羊皮紙が何枚も貼られている。他の冒険者たちが、それを眺めている。
「魔物討伐。報酬、金貨二枚」
「護衛任務。報酬、金貨一枚」
「ダンジョン探索。報酬、金貨五枚」
どれも戦闘系だ。報酬は高いが、命の危険がある。
恒一の魔法では、対応できない。
他の依頼を探す。
掲示板の端。人目につかない場所に、小さな羊皮紙が貼られていた。
「荷物運搬。報酬、銀貨三枚」
銀貨三枚。金貨の三割だ。報酬は低いが、戦闘は不要だろう。
ただし、体力が必要だ。重い荷物を運ぶ仕事は、慣れていない者には厳しい。
他にも探す。
「井戸掃除。報酬、銀貨二枚」
銀貨二枚。さらに低い。だが、これも戦闘は不要だ。
もう一枚。
「食料保存の相談。商人ギルベルト。報酬、銀貨五枚」
銀貨五枚。
金貨一枚が銀貨十枚に相当するらしい。つまり、この依頼の報酬は金貨半分。最低レベルだ。
だが、「食料保存」という言葉が気になった。
これなら、冷蔵庫が使えるかもしれない。
恒一は、羊皮紙を剥がした。
周囲の冒険者が、チラリと見る。誰も声をかけてこない。興味がないのだろう。報酬が低すぎる。
恒一は、受付に持っていく。
「この依頼を受けます」
受付の女性が、眉をひそめた。
「……これですか?」
「問題がありますか?」
「いえ、ただ……誰も受けない依頼なので」
女性は、ギルドカードを確認した。
「あなた、昨日登録した転移者の方ですね。異界家電召喚……」
声に、微かな嘲笑が混じる。
「理由は?」
恒一は、端的に尋ねた。
「誰も受けない理由です」
女性が、少し驚いた表情を見せた。普通なら、こんな質問はしないのだろう。
「報酬が安すぎるんです。それに、食料保存なんて魔法でどうにかできるものじゃありませんから。保存魔法なんて、存在しないんです」
保存魔法は、存在しない。
つまり、この世界の魔法体系には、時間を止める、腐敗を防ぐ、といった概念がないのだろう。
戦闘向きの魔法ばかりだからだ。
「分かりました」
「まあ、試してみるのもいいかもしれません。失敗しても、誰も困りませんから」
恒一は、何も言わなかった。
依頼書を受け取り、ギルドを出た。
後ろで、冒険者たちの笑い声が聞こえた。
「あいつ、あの依頼受けたのか」
「どうせ、何もできないだろ」
「銀貨五枚のために、時間の無駄だな」
恒一は、足を止めなかった。
笑われることには、慣れている。
商人ギルベルトの店は、市場の一角にあった。
食料品を扱う店らしい。だが、店の前には異臭が漂っている。
腐敗臭だ。
生ゴミと、腐った肉と、変質した油の匂いが混ざっている。
恒一は、店に入った。
中年の男が、頭を抱えていた。四十代半ば。太り気味だが、顔色は悪い。睡眠不足だろう。
周囲には、傷んだ野菜や肉が山積みになっている。野菜は変色し、肉は粘液を帯びている。どれも、もう売り物にはならない。
「また駄目だ……これじゃ、商売にならない」
男が、独り言を呟いている。
恒一は、声をかけた。
「ギルドから来ました。依頼を受けた者です」
男が、顔を上げた。疲れた目で、恒一を見る。
「ああ、来てくれたのか。でも……」
男の視線が、恒一の服装を見る。武器も防具もない。魔法使いらしい装備もない。ただの作業着だ。
「あんた、魔法使いか?」
「はい」
「どんな魔法だ?」
「召喚系です」
「召喚? それで、食料保存の何が解決できるんだ?」
恒一は、淡々と答えた。
「試してみないと分かりません。ただ、失敗しても損はないはずです」
男が、ため息をついた。肩を落とし、諦めたような表情だ。
「まあ、そうだな。どうせ、これは捨てるしかないんだ」
男が、腐りかけた肉の塊を指差した。血が滴り、表面には蝿がたかっている。
「これを、何とかできるか?」
恒一は、肉を観察した。
表面に粘液が付着している。変色も始まっている。悪臭がする。腐敗の初期段階だ。
細菌が繁殖している。もう数時間で、完全に食べられなくなる。
「保存するだけなら、できるかもしれません」
「本当か?」
男の目に、わずかな期待の光が灯った。
「やってみます」
恒一は、店の奥の広いスペースに移動した。
魔法を使うのは、これが初めてだ。
どうやって発動するのか。
恒一は、体の中の感覚に集中した。
昨日、鑑定のときに感じた温かい流れ。それが、まだ体の中に残っている。
魔力、というものだろうか。
恒一は、意識をそこに向けた。
何を召喚するか。
食料を保存する。腐敗を止める。温度を下げる。細菌の活動を抑制する。
冷蔵庫だ。
恒一は、冷蔵庫を思い浮かべた。
倉庫にあった試作品。自分が関わった設計。省電力型の冷蔵庫。コンプレッサーの効率を改善し、断熱材を最適化した。
あの冷蔵庫を、召喚する。
魔力が、動いた。
体の中から、何かが引き出される感覚。温かい流れが、体の外へ向かう。
空間が、歪んだ。
目の前の空気が、揺らぐ。光が屈折し、色が滲む。
そして――
光が、収束する。
目の前に、冷蔵庫が現れた。
白い筐体。取っ手。コンセントのないコード。
見覚えがある。倉庫にあった試作品だ。型番も、開発年月日も、すべて一致している。
ギルベルトが、目を丸くした。
「な、何だこれは……!」
「冷蔵庫です」
恒一は、冷蔵庫のドアを開けた。
内部から、冷気が漏れ出す。ひんやりとした空気が、顔に当たる。
動いている。電源がないのに、稼働している。
魔力で動いているのだろうか。
恒一は、体の中の魔力を確認した。
減っている。
召喚と維持に、魔力を消費している。流れ続けている。止まらない。
このままでは、魔力が尽きる。どのくらい持つだろうか。
恒一は、計算した。
現在の消費速度。体内の魔力総量。回復速度。
おそらく、八時間程度が限界だ。
「これで、腐敗の進行を遅らせることができます」
恒一は、肉を冷蔵庫の中に入れた。
「温度が下がれば、細菌の活動が抑制されます。数日は保存できるはずです」
ギルベルトが、冷蔵庫に手を当てた。
「冷たい……本当に冷えてる!」
男の表情が、変わった。驚きと、喜びと、困惑が混ざっている。
「これは……すごい! こんな魔法、見たことがない!」
男が、興奮した様子で冷蔵庫を調べる。扉を開けたり閉めたり、内部を覗いたり。
恒一は、冷蔵庫の内部を確認した。
容量は、それほど大きくない。試作品だからだ。省電力を優先したため、サイズを小さくした。
入るのは、肉が数キロ程度。野菜も少し。
「ただし、制限があります」
「制限?」
「この冷蔵庫は、私が魔力を供給している間しか維持できません。それと、容量に限りがあります」
恒一は、体の中の魔力を再確認した。
まだ減り続けている。一定の速度で、流出している。
「どのくらい持つんだ?」
「今日一杯、でしょうか」
実際には八時間程度だが、安全マージンを取って伝えた。
「一日か……」
ギルベルトが、考え込む。顎に手を当て、視線を冷蔵庫と肉に向ける。
「でも、一日でも助かる。普通なら、数時間で駄目になるんだ。これなら、夕方まで売れる」
男が、他の食料も冷蔵庫に入れ始めた。
野菜、魚、チーズ。次々と詰め込んでいく。
冷蔵庫が、いっぱいになる。
「ありがとう。本当に助かった」
ギルベルトが、革袋を差し出した。
「約束の報酬だ。銀貨五枚」
恒一は、袋を受け取った。
重みがある。銀貨五枚。
これで、宿代と食費が数日分確保できた。
「また明日も来てくれるか?」
「明日も?」
「ああ。毎日、食料は腐る。毎日、これを使わせてほしいんだ」
恒一は、考えた。
毎日、銀貨五枚。
一週間で、銀貨三十五枚。金貨三枚以上だ。
戦闘系の依頼より報酬は低いが、安全だ。命の危険がない。再現性もある。毎日、同じ作業を繰り返せばいい。
「分かりました。ただし、条件があります」
「条件?」
「私の魔力には限界があります。一日に維持できる時間は、限られています」
「どのくらいだ?」
「おそらく、八時間程度です」
恒一は、体の感覚から計算した。
魔力の消費速度。回復速度。限界値。
八時間が、安全な範囲だ。それ以上は、魔力枯渇のリスクがある。
「八時間……十分だ。その間に、売れるものは売る。残ったら、また明日冷やせばいい」
「では、契約します」
恒一は、ギルベルトと握手を交わした。
男の手は、大きくて温かかった。商人の手だ。
これで、当面の生活費は確保できた。
夕方、恒一は宿に戻った。
体が重い。魔力を使い切ったからだろう。八時間、冷蔵庫を維持し続けた。
魔力が、ほぼ空になっている。頭痛がする。視界が少し霞む。魔力枯渇の症状だろうか。
部屋に入り、ベッドに横になる。
今日の結果を整理する。
――冷蔵庫の召喚に成功した。
――魔力消費は予想通り。八時間が限界。
――報酬は安いが、安全で再現性がある。
――毎日続ければ、生活は成り立つ。
だが、課題もある。
――魔力の限界が明確になった。
――冷蔵庫は壊れる可能性がある。
――修理の方法が分からない。
――他の家電を試していない。
――この仕事だけでは、成長がない。
恒一は、今後の方針を考えた。
一、当面はギルベルトの依頼を続ける。生活の安定が最優先。
二、魔力の回復と消費を記録する。データを取る。
三、他の依頼も探す。収入源を複数確保する。
四、この世界の技術水準を調査する。何が不足しているか把握する。
優先順位は、明確だ。
まず、生活を安定させる。
次に、情報を集める。
そして、次の一手を考える。
恒一は、目を閉じた。
疲労が、体を包む。魔力の消費は、思った以上に体力を奪う。
だが、悪くない。
この世界で、生き延びる方法が見えてきた。
戦わなくても、生きていける。
評価されなくても、必要とされる。
それで、十分だ。
恒一は、静かに眠りについた。
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ゆる~い感じののんびりほんわかなんでやねん路線の地味系主人公です。
気楽に読めるものを目指しています。よろしくお願いします。毎週土曜日更新予定です。
異世界配信中。幼馴染みに捨てられた俺に、神々(視聴者)がコメントしてくるんだが。
葉月
ファンタジー
コルネ村で、幼なじみであり恋人でもあったユリアナと、ささやかな幸福を分かち合って生きていたロイド。
だがある日、ユリアナは女神の愛子として目覚め、国王の命により王都へと連れ去られる。
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魔力0の貴族次男に転生しましたが、気功スキルで補った魔力で強い魔法を使い無双します
burazu
ファンタジー
事故で命を落とした青年はジュン・ラオールという貴族の次男として生まれ変わるが魔力0という鑑定を受け次男であるにもかかわらず継承権最下位へと降格してしまう。事実上継承権を失ったジュンは騎士団長メイルより剣の指導を受け、剣に気を込める気功スキルを学ぶ。
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異世界最底辺職だった俺、実は全スキルに適性Sだった件~追放されたので田舎でスローライフしてたら、気づいたら英雄扱いされてた~
えりぽん
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最底辺職「雑用士」として勇者パーティーを支えていたレオンは、ある日突然「無能」と罵られ追放される。
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田舎でのんびり生きるつもりが、いつの間にか魔物を絶滅させ、王女を救い、国を動かす存在に――?
本人まったく自覚なし。にもかかわらず、世界が勝手に彼を「伝説」と呼びはじめる。
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精霊さんと一緒にスローライフ ~異世界でも現代知識とチートな精霊さんがいれば安心です~
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かわいい精霊さんと送る、スローライフ。
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突然、蒼牙の刃から追放された冒険者・ハルト。
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