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第2章
第18話「光の層」
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出口を抜けた瞬間、全員が目を細めた。
眩しい。
これまでの層とは、次元が違う明るさだった。第二層の暗闇、第三層の毒霧の薄暗さ、第四層の氷の白さ、第五層の靄。どれも光が足りない環境だった。しかしここは逆だ。光が、多すぎる。
光源が見えない。松明もない。魔道具らしきものもない。壁そのものが、白く輝いている。
「明るい!」
マルコが、顔をほころばせた。
「やっと普通の場所か。ここ、何もなさそうだぞ」
「最高じゃないか」
カインも、周囲を見回した。警戒の色が、明らかに薄れている。危険の匂いがしない。体が、自然と緊張を解こうとしている。
リーナも、ほっとした顔をしていた。第五層の靄の壁を突破した直後の緊張が、ここに来て初めて和らいでいる。
ゴルドだけが、黙って壁を見ていた。
恒一は、その場に座り込んだ。
「恒一、どうした?」
カインが、驚いて振り向いた。
「魔力の回復を優先します」
恒一は、淡々と言った。
「動けますが、今すぐの召喚は難しい状態です。少し待ってください」
「ここで休めるのか?」
「その前に、確認が必要です」
恒一は、目を細めながら通路を観察した。
光が、強い。真昼の屋外で太陽を見上げた時に近い刺激が、前方から来ている。進めば進むほど、光源に近づく感覚がある。壁の発光が均一ではない。濃い箇所と薄い箇所がある。光のムラだ。
「この光……強すぎます」
「明るい方がいいだろ」
カインが、軽い調子で言った。
「第二層の真っ暗闇と比べたら、最高じゃないか」
「短時間なら問題ありません」
「短時間なら?」
「長時間、この明るさの中にいると、目に影響が出ます」
カインの顔から、軽さが消えた。
「目に?」
「網膜への過剰な光刺激です」
恒一は、全員を見ながら説明した。
「最初は問題なく見えます。しかし徐々に視界が歪み始め、色の識別が難しくなります。最終的には、一時的な視力の低下が起きます」
「……それ、目が見えなくなるってことか」
マルコが、声のトーンを落とした。
「一時的にですが、最悪の場合は数時間、回復しません」
全員が、改めて通路を見た。
確かに、目が痛い。先ほどまで気にしていなかったが、言われてみると、目の奥に鈍い痛みがある。
「目がやられたら、戦えない」
ゴルドが、静かに言った。
「そうです」
カインが、真剣な顔になった。
「対策はあるか?」
「あります。ただ……」
恒一は、自分の状態を確認した。
第五層で三台の空気清浄機を同時稼働させた後、リーナの回復魔法で体の疲労は取れた。しかし魔力の残量は、まだ底に近い。召喚を試みれば、成立する可能性はある。だが確実ではない。
「今すぐ召喚する魔力が、ギリギリです」
「なら休め」
カインが、即座に言った。
「俺たちでできることを先にやる。お前はその間に回復しろ」
「……ありがとうございます」
「感謝は後でいい。他に何か確認したいことがあるんだろ?」
恒一は、カインを見た。
よく分かっている。
「この層がなぜ光るのか、理由を確認したいです」
「理由?」
「理由次第では、光以外の危険がある可能性があります」
全員が、静止した。
マルコが、ゆっくりと周囲を見回した。
「……明るくて何もないように見えるけど、違うのか」
「見えていないだけかもしれません」
カインが、腕を組んだ。
「分かった。俺とマルコで周囲を調べる。ゴルド、警戒を頼む」
「ああ」
「リーナは、恒一の隣にいてくれ。何かあれば回復を頼む」
「はい」
カインとマルコが、通路を調べ始めた。
恒一は壁に背をもたれ、目を細めながら観察を続けた。
魔力が、ゆっくりと戻ってくる。
体の奥で、熱が再び灯り始めるような感覚。急いでも意味がない。焦れば消耗が増す。待つことも、今の恒一にできる判断の一つだ。
リーナが、隣に座った。
「無理しないでください」
「していません」
「してます」
「……そうですか」
「さっき、手が震えていました。靄の壁を抜けた後」
「気づいていましたか」
「気づきます」
リーナが、膝の上で手を組んだ。
「回復魔法、もう一度使いましょうか?」
「まだ大丈夫です。魔力は体の休養で回復します。急がせても意味がありません」
「……分かりました。でも、しんどくなったら言ってください」
「はい」
「今度は、本当に言ってください」
「はい」
リーナが、小さく息を吐いた。
「信用しますよ」
恒一は、前を向いたまま頷いた。
通路の壁が、光り続けている。
カインが、壁の近くで何かを発見したようだった。
「恒一、ちょっといいか」
「何ですか」
「壁に、何か生えてる」
カインが、壁を指差した。
恒一は立ち上がり、壁に近づいた。
魔力の消耗で足元がやや頼りないが、歩ける。
壁の表面に、薄い膜のようなものが広がっていた。
緑がかった白。
苔に似ている。
よく見ると、その膜の一つ一つが、微かに光を放っている。
光源は、壁そのものではなく、この生物だった。
「苔です」
恒一が言った。
「苔?」
「壁に生えている生物が、光を発しています。菌類か植物性の生物発光です。火を使わずに光る生き物が、元の世界にも存在します」
「生き物が光るのか」
「はい。深海の魚や洞窟の菌類で確認されています」
カインが、壁に手を伸ばしかけた。
「触っていいか?」
「待ってください」
恒一が、制止した。
ゴルドが、その時口を開いた。
「光苔だ」
全員が、ゴルドを見た。
ゴルドは、壁を見たまま続けた。
「北方の洞窟に生えると、昔聞いたことがある」
「知っているのですか」
「聞いただけだ。ただ……」
ゴルドが、カインの伸ばした手を見た。
「触れると、皮膚に付着する。胞子が出ている」
「胞子」
「日光に当たると、発火する」
沈黙が落ちた。
カインが、ゆっくりと手を引いた。
「……今、触ってないよな俺」
「触れていません」
カインが、安堵の息を吐いた。
「よかった」
「ちょっと待ってくれ」
マルコが、眉をひそめた。
「俺たち、さっきからこの空気を吸ってるんだが。胞子が漂ってるとしたら……」
「可能性はあります」
恒一が、状況を整理しながら言った。
「ただ、この層では光苔が光源になっています。この層の光量は、外の太陽光より弱い。だから今は発火しない」
「問題ないってことか?」
「この層にいる間は、問題ありません」
「じゃあ……」
「外に出た後が、問題です」
全員が、静止した。
「胞子を体に付着させたまま地上に出れば、太陽光で発火します」
マルコが、顔を青くした。
「体が燃えるってことか?」
「付着した箇所が、急激に発熱します。服や髪に大量に付着していた場合、延焼の可能性があります」
「それは……かなりまずいな」
カインが、腕を組んだ。
「二段構えだな、この層の危険は」
「そうです。一つは光による視力へのダメージ。もう一つは、胞子の付着と地上での発火リスクです」
リーナが、自分の服を見た。
「今、胞子が付いていますか」
「空気中に漂っているなら、微量は付いているかもしれません。ただし、拭える量であれば水で落とせる可能性があります」
恒一は、ゴルドを見た。
「ゴルドさん、胞子の除去方法は分かりますか」
「水で落ちると聞いた。水溶性だ」
「確認できますか?」
「できない。昔聞いた話だ。確証はない」
恒一は、記録を取った。
手元の羊皮紙に、文字を書く。
「光苔。生物発光。胞子付着あり。日光で発火。水溶性の可能性あり。ゴルドの証言。未検証」
カインが、ゴルドを見た。
「お前、またよく知ってたな」
「旅をしていた」
「どこを?」
「色々だ」
カインが、苦笑した。
「また聞かれなかったから言わなかったパターンか」
「そうだ」
「お前のそれ、もはや癖だな」
「そうかもしれない」
恒一が、全員に向き直った。
「この層を安全に通過するために、二つの対策が必要です」
「なんだ?」
「一つ、視力の保護。光量を制限するものが必要です」
「もう一つは?」
「胞子の付着を最小限にすること。肌の露出を減らし、出口を出た直後に水で全身を洗浄します」
「水は、荷物にあるか?」
全員が、互いを見た。
カインが、水筒を確認した。
「俺は一リットルある」
マルコ「俺も同じくらい」
リーナ「私は半分くらいです」
ゴルドが、大きな水袋を取り出した。
「三リットルはある」
恒一「私も一リットルあります。合計で六リットル近く。五人で洗浄するには十分です」
「では後は、視力の保護だな」
「召喚を試みます。魔力が、少し戻りました」
恒一は、立ったまま集中した。
体の中の魔力を確認する。
第五層突破直後と比べれば、回復している。
完全ではないが、小型の召喚なら届くはずだ。
試みた。
サングラスが、現れた。
一つ目。
続けて、二つ目。
三つ目。
四つ目が現れた。
五つ目を試みた。
光が、散った。
召喚が成立しない。
「……四つです」
恒一が言った。
「一人分、足りません」
全員が、互いを見た。
誰が使わないか。
ゴルドが、間を置かずに言った。
「俺はいらない」
「目は大丈夫ですか」
「問題ない。目は強い」
「根拠は?」
「昔から、強い光を見ても問題がなかった。理由は分からんが、事実だ」
恒一は、ゴルドを見た。
検証する手段がない。
しかしゴルドが根拠のないことを言う人間でないことは、第四層から分かっている。
「……信じます。ただ、少しでも異常を感じたらすぐに言ってください」
「分かった」
恒一は、残り四つのサングラスを配った。
カインが受け取り、手元でしばらく眺めた。
「なんだ、これは」
「目を保護する道具です。光を七割程度遮断します」
「目の前に当てるのか?」
「耳に引っかけてください。そうすれば、ずれません」
カインが、恐る恐る装着した。
「……おお」
少し間があった。
「暗いのに、ちゃんと見える」
「光量を落としているだけです。視界は確保されます」
「不思議な感覚だな」
マルコが、すぐに装着した。
「これ、目が楽だ。さっきより全然痛くない」
「そうでしょう」
「なんで最初から出してくれなかった」
「魔力が足りませんでした」
「ああ、そうか。すまん」
リーナが、装着しながら自分の顔を触った。
「似合ってますか?」
カインが、リーナを見た。
「似合ってる」
マルコが続けた。
「可愛いぞ」
「そうですか」
リーナが、少し照れた顔をした。
「恒一さんはどう思いますか」
「機能しています」
カインが、額に手を当てた。
「そういうことを聞いてるんじゃないと思うが」
「機能的に問題ありません」
「まあ、いい」
リーナが苦笑した。
恒一が、次の指示を出した。
「胞子の対策として、肌の露出を最小限にしてください。手袋を着用し、外套の前を閉じる。首元も覆えるなら覆ってください」
全員が、装備を整え始めた。
カインが、袖を引き下げながら言った。
「出口を出たら、すぐ水で洗浄するんだったな」
「そうです。装備も含めて。全身を拭ってください」
「順番は?」
「まず顔と手。次に装備の表面。時間をかけすぎず、全体に水をかける形で十分です」
「分かった」
準備が、整いつつあった。
恒一は、もう一つ確認した。
「出口を抜ける時の対策として、遮光カーテンを召喚します」
「まだ召喚できるか?」
「試みます」
集中した。
遮光カーテンが、現れた。
暗い布。
光を通さない素材。
「これを出口に設置します。急激な光量変化は目に大きな負担をかけます。外の光が一度に入ってくるのを防ぐためです」
「細かいな……」
「大事なことです」
マルコとゴルドが、カーテンを出口付近に取り付ける作業を手伝った。
通路の壁に引っかける形で固定する。
完全な遮光にはならないが、急激な光の侵入を緩和できる。
恒一は、それを確認した。
「では、進みます」
全員が、サングラスをかけたまま歩き始めた。
光は強い。
しかしレンズ越しに見ると、圧迫感が全く違う。
目の奥の鈍痛が、消えている。
視界は問題ない。
色の識別もできる。
「これがあるとないとで、全然違うな」
カインが、率直に言った。
「目への刺激が七割以上軽減されます」
「七割か。数字で言われると、なるほどって思う」
「感覚より数字の方が分かりやすいでしょう」
「お前らしい言い方だ」
通路を速やかに進む。
長居しない。
それが、この層での最重要事項だ。
視力へのダメージは、時間に比例して蓄積する。
胞子の付着量も、滞在時間が長くなるほど増える。
立ち止まる理由がない限り、歩き続ける。
光苔が特に密集している箇所があった。
壁一面が、苔で覆われている。
通常の箇所より、明らかに眩しい。
空気が、わずかに揺らいで見えた。
胞子が多く漂っているのかもしれない。
「壁から離れてください」
恒一が言った。
「全員、通路の中央を歩きます。壁に近づかないように」
全員が、自然と中央に寄った。
マルコが、密集した光苔を横目で見ながら歩いた。
「これ、ちょっとだけ触ってみたいんだが」
カインが、即座に右手でマルコの肩を掴んだ。
「駄目だ」
「なんで。ちょっとだけだぞ」
「胞子が付くと言っただろ。地上で燃えるぞ」
「ちょっとだけなら……」
「駄目だ」
マルコが、渋々視線を前に戻した。
「分かった分かった」
「好奇心は理解できますが」
恒一が、前を向いたまま言った。
「後で後悔することになります」
「お前まで言うか」
「事実です」
カインが笑った。
歩き続けた。
通路の先が、少しずつ暗くなってきた。
光苔の密度が、下がっている。
壁の発光が、弱まっている。
出口が近い証拠だ。
そして、遮光カーテンを設置した地点が見えてきた。
全員が、そこで止まった。
「一人ずつ抜けてください」
恒一が言った。
「急がなくていいです。光量の変化に、目を慣らしながら進みます」
リーナが最初に抜けた。
カインが続く。
マルコが続く。
ゴルドが抜ける。
最後に恒一が、カーテンを押さえながら通った。
空気が変わった。
光苔の甘ったるい匂いが、消えた。
石の、乾いた匂い。
普通のダンジョンの空気だ。
全員が、第六層と第七層の間の通路に立っていた。
「……空気が違う」
カインが、深呼吸した。
「楽だな」
「光苔の胞子が、ここには届いていません」
マルコが、目を細めたまま周囲を見回した。
「でも、まだダンジョンの中だな」
「そうです」
「任務は第七層まで到達だもんな」
その言葉が、空気を少し引き締めた。
全員が、前を向いた。
通路の奥に、また階段がある。
下に向かっている。
光はない。
第六層の発光は、ここまで届かない。
ゴルドが松明を持ち直した。
「サングラスは外してください。五分ほど経っています」
全員が、サングラスを外した。
暗い。
急激に視界が変わった。
だが、問題はない。
目の奥の痛みもない。
「洗浄を済ませます」
恒一が言った。
「荷物から水を出して、顔と手を拭います。装備の表面も」
「今ここで?」
「第七層に入る前に済ませます。胞子が残っていた場合、帰路に問題が出ます」
全員が、水を取り出した。
顔を拭う。
手を拭う。
外套の表面を拭う。
カインが、顔を拭いながら言った。
「几帳面だな、本当に」
「今やっておけば、後で考えなくて済みます」
「そうだな。正しいよ」
洗浄が終わった。
全員が、前を向いた。
階段が、目の前にある。
カインが、各自の状態を確認した。
「体力と怪我、確認する。カイン、七割、問題なし。マルコは?」
「同じくらい。足が少し疲れてるけど問題ない」
「リーナ」
「魔力が少し減っています。でも、まだ使えます」
「ゴルド」
「問題ない」
カインが、最後に恒一を見た。
「恒一」
「魔力は回復途中です。小型の召喚なら問題ありません」
「よし。全員いける」
カインが、階段の前に立った。
「俺が先頭。ゴルドが後ろ。恒一とリーナは中央を保て」
「分かりました」
「マルコ、槍を出しておけ」
「もう出てる」
「よし。行くぞ」
五人が、階段を下り始めた。
一段、また一段。
光が、完全に消えた。
恒一が、LEDライトを召喚した。
白い光が、石の通路を照らした。
壁に、何かが刻まれていた。
文字のようなものだ。
これまでの層では見なかった。
恒一は、足を止めて壁に近づいた。
「何かあるか?」
「文字です。ただし、読めません」
「俺も分からない。古い文字だ」
ゴルドが近づいた。
しばらく壁を見た。
「一部だけ、分かる」
「なんと書いてありますか」
「『帰れ』だ」
沈黙。
マルコが、乾いた笑いを出した。
「帰れって……親切だな」
「警告です。記録しておきます」
恒一が、手元の羊皮紙に文字を書いた。
「進みます」
歩き続けた。
通路が、少し広くなってきた。
壁の材質が変わっている。
これまでの層は自然の岩盤だったが、ここは明らかに人の手が加わっている。
石が、規則的に積まれている。
「……誰かが作ったのか、これ」
マルコが、壁を見た。
「遺跡です」
恒一が答えた。
「ここが本来の意味での深層遺跡、ということかもしれません」
「一層から六層は、ただのダンジョンだったのか?」
「その可能性があります。第七層が、遺跡の本体」
「そういうことか……」
カインが、前方に目を向けたまま言った。
「気を抜くなよ。広くなってきた」
通路の先が、開けた。
広間だ。
全員が、入口で立ち止まった。
広い。
天井が高い。
LEDライトの光が、端まで届かない。
横幅も、奥行きも、これまでの層の比ではない。
そして、中央に何かがある。
恒一は、目を細めた。
大きい。
高さは、天井近くまである。
形は、柱のようなものが複数組み合わさっている。
だが、ただの柱ではない。
表面に、入口の壁と同じ文字が刻まれている。
びっしりと。
隙間なく。
発光はしていない。
動いていない。
しかし、音がした。
風の音ではない。
水の音でもない。
低い。
一定ではない。
波のように、大きくなったり小さくなったりしている。
中央の構造物から、出ている。
全員が、動きを止めた。
リーナが、恒一の袖を引いた。
声にならない声で、何かを言おうとしている。
カインが、低い声で言った。
「……これが、第七層か」
「そうです」
恒一は、前を見たまま答えた。
記録を取ろうとした。
手が、羊皮紙の上で止まった。
書くべきことが、多すぎる。
いや、違う。
何を書けばいいのか、まだ分からない。
これまでの層は違った。
第一層は湿気、第二層は暗闇、第三層は毒霧、第四層は寒冷、第五層は瘴気、第六層は光。
どれも、入った瞬間に危険の性質が分かった。
だから対応できた。
しかし、ここは。
広間を見渡した。
構造物を見た。
音を聞いた。
分からない。
これまでの六層で出会ったどの環境とも、どの危険とも、カテゴリが違う。
恒一の中にある知識の引き出しが、対応するものを見つけられていない。
「……恒一」
カインが、静かに言った。
「どう思う」
恒一は、一拍置いた。
「判断できません」
カインが、恒一の顔を見た。
「お前が、判断できないと言うのか」
「今すぐには。情報が足りません」
「情報を集めるには?」
「時間と、調査が必要です」
沈黙。
誰も動かなかった。
音が、また波のように大きくなった。
そして、小さくなった。
マルコが、槍を構えたまま囁いた。
「……今日のところは、戻った方がよくないか」
「そうします」
恒一が、即座に言った。
「今日は情報収集の限界です。一度ギルドに戻り、記録を整理した上で、改めて調査します」
「ギルドは納得するか?」
「到達の確認はできました。第七層に足を踏み入れた記録もあります。しかし、これを正確に報告するには、私自身がまず理解する必要があります」
「それでいい」
カインが、きっぱりと言った。
「無理をする場所じゃない。今日は退く」
ゴルドが、無言で後退した。
それが全員への合図になった。
五人は、来た道を引き返し始めた。
音が、背後で続いている。
恒一は、歩きながら手元の羊皮紙に書いた。
「第七層。広間。中央に大型構造物。石造り。文字刻印あり。音の発生源。性質不明。要継続調査」
書いて、止まった。
「性質不明」。
この六層を通じて、一度も書かなかった言葉だ。
カインが、階段に差し掛かりながら恒一を見た。
「次で決着だな」
「そうです」
「準備できるか?」
恒一は、羊皮紙を折り畳んだ。
「します」
「それでいい」
五人は、第六層への階段を上り始めた。
来た道を戻る。
六つの層を、逆順に抜けていく。
地形は分かっている。
対策も分かっている。
行きより速いはずだ。
だが、恒一の頭の中は、すでに次のことを考えていた。
第七層。
あの構造物。
あの音。
分からないことは、調べるしかない。
調べるためには、何が必要か。
情報。
道具。
時間。
そして、また五人で戻ること。
足が、階段を踏んだ。
第六層の空気が、戻ってきた。
まだ終わっていない。
眩しい。
これまでの層とは、次元が違う明るさだった。第二層の暗闇、第三層の毒霧の薄暗さ、第四層の氷の白さ、第五層の靄。どれも光が足りない環境だった。しかしここは逆だ。光が、多すぎる。
光源が見えない。松明もない。魔道具らしきものもない。壁そのものが、白く輝いている。
「明るい!」
マルコが、顔をほころばせた。
「やっと普通の場所か。ここ、何もなさそうだぞ」
「最高じゃないか」
カインも、周囲を見回した。警戒の色が、明らかに薄れている。危険の匂いがしない。体が、自然と緊張を解こうとしている。
リーナも、ほっとした顔をしていた。第五層の靄の壁を突破した直後の緊張が、ここに来て初めて和らいでいる。
ゴルドだけが、黙って壁を見ていた。
恒一は、その場に座り込んだ。
「恒一、どうした?」
カインが、驚いて振り向いた。
「魔力の回復を優先します」
恒一は、淡々と言った。
「動けますが、今すぐの召喚は難しい状態です。少し待ってください」
「ここで休めるのか?」
「その前に、確認が必要です」
恒一は、目を細めながら通路を観察した。
光が、強い。真昼の屋外で太陽を見上げた時に近い刺激が、前方から来ている。進めば進むほど、光源に近づく感覚がある。壁の発光が均一ではない。濃い箇所と薄い箇所がある。光のムラだ。
「この光……強すぎます」
「明るい方がいいだろ」
カインが、軽い調子で言った。
「第二層の真っ暗闇と比べたら、最高じゃないか」
「短時間なら問題ありません」
「短時間なら?」
「長時間、この明るさの中にいると、目に影響が出ます」
カインの顔から、軽さが消えた。
「目に?」
「網膜への過剰な光刺激です」
恒一は、全員を見ながら説明した。
「最初は問題なく見えます。しかし徐々に視界が歪み始め、色の識別が難しくなります。最終的には、一時的な視力の低下が起きます」
「……それ、目が見えなくなるってことか」
マルコが、声のトーンを落とした。
「一時的にですが、最悪の場合は数時間、回復しません」
全員が、改めて通路を見た。
確かに、目が痛い。先ほどまで気にしていなかったが、言われてみると、目の奥に鈍い痛みがある。
「目がやられたら、戦えない」
ゴルドが、静かに言った。
「そうです」
カインが、真剣な顔になった。
「対策はあるか?」
「あります。ただ……」
恒一は、自分の状態を確認した。
第五層で三台の空気清浄機を同時稼働させた後、リーナの回復魔法で体の疲労は取れた。しかし魔力の残量は、まだ底に近い。召喚を試みれば、成立する可能性はある。だが確実ではない。
「今すぐ召喚する魔力が、ギリギリです」
「なら休め」
カインが、即座に言った。
「俺たちでできることを先にやる。お前はその間に回復しろ」
「……ありがとうございます」
「感謝は後でいい。他に何か確認したいことがあるんだろ?」
恒一は、カインを見た。
よく分かっている。
「この層がなぜ光るのか、理由を確認したいです」
「理由?」
「理由次第では、光以外の危険がある可能性があります」
全員が、静止した。
マルコが、ゆっくりと周囲を見回した。
「……明るくて何もないように見えるけど、違うのか」
「見えていないだけかもしれません」
カインが、腕を組んだ。
「分かった。俺とマルコで周囲を調べる。ゴルド、警戒を頼む」
「ああ」
「リーナは、恒一の隣にいてくれ。何かあれば回復を頼む」
「はい」
カインとマルコが、通路を調べ始めた。
恒一は壁に背をもたれ、目を細めながら観察を続けた。
魔力が、ゆっくりと戻ってくる。
体の奥で、熱が再び灯り始めるような感覚。急いでも意味がない。焦れば消耗が増す。待つことも、今の恒一にできる判断の一つだ。
リーナが、隣に座った。
「無理しないでください」
「していません」
「してます」
「……そうですか」
「さっき、手が震えていました。靄の壁を抜けた後」
「気づいていましたか」
「気づきます」
リーナが、膝の上で手を組んだ。
「回復魔法、もう一度使いましょうか?」
「まだ大丈夫です。魔力は体の休養で回復します。急がせても意味がありません」
「……分かりました。でも、しんどくなったら言ってください」
「はい」
「今度は、本当に言ってください」
「はい」
リーナが、小さく息を吐いた。
「信用しますよ」
恒一は、前を向いたまま頷いた。
通路の壁が、光り続けている。
カインが、壁の近くで何かを発見したようだった。
「恒一、ちょっといいか」
「何ですか」
「壁に、何か生えてる」
カインが、壁を指差した。
恒一は立ち上がり、壁に近づいた。
魔力の消耗で足元がやや頼りないが、歩ける。
壁の表面に、薄い膜のようなものが広がっていた。
緑がかった白。
苔に似ている。
よく見ると、その膜の一つ一つが、微かに光を放っている。
光源は、壁そのものではなく、この生物だった。
「苔です」
恒一が言った。
「苔?」
「壁に生えている生物が、光を発しています。菌類か植物性の生物発光です。火を使わずに光る生き物が、元の世界にも存在します」
「生き物が光るのか」
「はい。深海の魚や洞窟の菌類で確認されています」
カインが、壁に手を伸ばしかけた。
「触っていいか?」
「待ってください」
恒一が、制止した。
ゴルドが、その時口を開いた。
「光苔だ」
全員が、ゴルドを見た。
ゴルドは、壁を見たまま続けた。
「北方の洞窟に生えると、昔聞いたことがある」
「知っているのですか」
「聞いただけだ。ただ……」
ゴルドが、カインの伸ばした手を見た。
「触れると、皮膚に付着する。胞子が出ている」
「胞子」
「日光に当たると、発火する」
沈黙が落ちた。
カインが、ゆっくりと手を引いた。
「……今、触ってないよな俺」
「触れていません」
カインが、安堵の息を吐いた。
「よかった」
「ちょっと待ってくれ」
マルコが、眉をひそめた。
「俺たち、さっきからこの空気を吸ってるんだが。胞子が漂ってるとしたら……」
「可能性はあります」
恒一が、状況を整理しながら言った。
「ただ、この層では光苔が光源になっています。この層の光量は、外の太陽光より弱い。だから今は発火しない」
「問題ないってことか?」
「この層にいる間は、問題ありません」
「じゃあ……」
「外に出た後が、問題です」
全員が、静止した。
「胞子を体に付着させたまま地上に出れば、太陽光で発火します」
マルコが、顔を青くした。
「体が燃えるってことか?」
「付着した箇所が、急激に発熱します。服や髪に大量に付着していた場合、延焼の可能性があります」
「それは……かなりまずいな」
カインが、腕を組んだ。
「二段構えだな、この層の危険は」
「そうです。一つは光による視力へのダメージ。もう一つは、胞子の付着と地上での発火リスクです」
リーナが、自分の服を見た。
「今、胞子が付いていますか」
「空気中に漂っているなら、微量は付いているかもしれません。ただし、拭える量であれば水で落とせる可能性があります」
恒一は、ゴルドを見た。
「ゴルドさん、胞子の除去方法は分かりますか」
「水で落ちると聞いた。水溶性だ」
「確認できますか?」
「できない。昔聞いた話だ。確証はない」
恒一は、記録を取った。
手元の羊皮紙に、文字を書く。
「光苔。生物発光。胞子付着あり。日光で発火。水溶性の可能性あり。ゴルドの証言。未検証」
カインが、ゴルドを見た。
「お前、またよく知ってたな」
「旅をしていた」
「どこを?」
「色々だ」
カインが、苦笑した。
「また聞かれなかったから言わなかったパターンか」
「そうだ」
「お前のそれ、もはや癖だな」
「そうかもしれない」
恒一が、全員に向き直った。
「この層を安全に通過するために、二つの対策が必要です」
「なんだ?」
「一つ、視力の保護。光量を制限するものが必要です」
「もう一つは?」
「胞子の付着を最小限にすること。肌の露出を減らし、出口を出た直後に水で全身を洗浄します」
「水は、荷物にあるか?」
全員が、互いを見た。
カインが、水筒を確認した。
「俺は一リットルある」
マルコ「俺も同じくらい」
リーナ「私は半分くらいです」
ゴルドが、大きな水袋を取り出した。
「三リットルはある」
恒一「私も一リットルあります。合計で六リットル近く。五人で洗浄するには十分です」
「では後は、視力の保護だな」
「召喚を試みます。魔力が、少し戻りました」
恒一は、立ったまま集中した。
体の中の魔力を確認する。
第五層突破直後と比べれば、回復している。
完全ではないが、小型の召喚なら届くはずだ。
試みた。
サングラスが、現れた。
一つ目。
続けて、二つ目。
三つ目。
四つ目が現れた。
五つ目を試みた。
光が、散った。
召喚が成立しない。
「……四つです」
恒一が言った。
「一人分、足りません」
全員が、互いを見た。
誰が使わないか。
ゴルドが、間を置かずに言った。
「俺はいらない」
「目は大丈夫ですか」
「問題ない。目は強い」
「根拠は?」
「昔から、強い光を見ても問題がなかった。理由は分からんが、事実だ」
恒一は、ゴルドを見た。
検証する手段がない。
しかしゴルドが根拠のないことを言う人間でないことは、第四層から分かっている。
「……信じます。ただ、少しでも異常を感じたらすぐに言ってください」
「分かった」
恒一は、残り四つのサングラスを配った。
カインが受け取り、手元でしばらく眺めた。
「なんだ、これは」
「目を保護する道具です。光を七割程度遮断します」
「目の前に当てるのか?」
「耳に引っかけてください。そうすれば、ずれません」
カインが、恐る恐る装着した。
「……おお」
少し間があった。
「暗いのに、ちゃんと見える」
「光量を落としているだけです。視界は確保されます」
「不思議な感覚だな」
マルコが、すぐに装着した。
「これ、目が楽だ。さっきより全然痛くない」
「そうでしょう」
「なんで最初から出してくれなかった」
「魔力が足りませんでした」
「ああ、そうか。すまん」
リーナが、装着しながら自分の顔を触った。
「似合ってますか?」
カインが、リーナを見た。
「似合ってる」
マルコが続けた。
「可愛いぞ」
「そうですか」
リーナが、少し照れた顔をした。
「恒一さんはどう思いますか」
「機能しています」
カインが、額に手を当てた。
「そういうことを聞いてるんじゃないと思うが」
「機能的に問題ありません」
「まあ、いい」
リーナが苦笑した。
恒一が、次の指示を出した。
「胞子の対策として、肌の露出を最小限にしてください。手袋を着用し、外套の前を閉じる。首元も覆えるなら覆ってください」
全員が、装備を整え始めた。
カインが、袖を引き下げながら言った。
「出口を出たら、すぐ水で洗浄するんだったな」
「そうです。装備も含めて。全身を拭ってください」
「順番は?」
「まず顔と手。次に装備の表面。時間をかけすぎず、全体に水をかける形で十分です」
「分かった」
準備が、整いつつあった。
恒一は、もう一つ確認した。
「出口を抜ける時の対策として、遮光カーテンを召喚します」
「まだ召喚できるか?」
「試みます」
集中した。
遮光カーテンが、現れた。
暗い布。
光を通さない素材。
「これを出口に設置します。急激な光量変化は目に大きな負担をかけます。外の光が一度に入ってくるのを防ぐためです」
「細かいな……」
「大事なことです」
マルコとゴルドが、カーテンを出口付近に取り付ける作業を手伝った。
通路の壁に引っかける形で固定する。
完全な遮光にはならないが、急激な光の侵入を緩和できる。
恒一は、それを確認した。
「では、進みます」
全員が、サングラスをかけたまま歩き始めた。
光は強い。
しかしレンズ越しに見ると、圧迫感が全く違う。
目の奥の鈍痛が、消えている。
視界は問題ない。
色の識別もできる。
「これがあるとないとで、全然違うな」
カインが、率直に言った。
「目への刺激が七割以上軽減されます」
「七割か。数字で言われると、なるほどって思う」
「感覚より数字の方が分かりやすいでしょう」
「お前らしい言い方だ」
通路を速やかに進む。
長居しない。
それが、この層での最重要事項だ。
視力へのダメージは、時間に比例して蓄積する。
胞子の付着量も、滞在時間が長くなるほど増える。
立ち止まる理由がない限り、歩き続ける。
光苔が特に密集している箇所があった。
壁一面が、苔で覆われている。
通常の箇所より、明らかに眩しい。
空気が、わずかに揺らいで見えた。
胞子が多く漂っているのかもしれない。
「壁から離れてください」
恒一が言った。
「全員、通路の中央を歩きます。壁に近づかないように」
全員が、自然と中央に寄った。
マルコが、密集した光苔を横目で見ながら歩いた。
「これ、ちょっとだけ触ってみたいんだが」
カインが、即座に右手でマルコの肩を掴んだ。
「駄目だ」
「なんで。ちょっとだけだぞ」
「胞子が付くと言っただろ。地上で燃えるぞ」
「ちょっとだけなら……」
「駄目だ」
マルコが、渋々視線を前に戻した。
「分かった分かった」
「好奇心は理解できますが」
恒一が、前を向いたまま言った。
「後で後悔することになります」
「お前まで言うか」
「事実です」
カインが笑った。
歩き続けた。
通路の先が、少しずつ暗くなってきた。
光苔の密度が、下がっている。
壁の発光が、弱まっている。
出口が近い証拠だ。
そして、遮光カーテンを設置した地点が見えてきた。
全員が、そこで止まった。
「一人ずつ抜けてください」
恒一が言った。
「急がなくていいです。光量の変化に、目を慣らしながら進みます」
リーナが最初に抜けた。
カインが続く。
マルコが続く。
ゴルドが抜ける。
最後に恒一が、カーテンを押さえながら通った。
空気が変わった。
光苔の甘ったるい匂いが、消えた。
石の、乾いた匂い。
普通のダンジョンの空気だ。
全員が、第六層と第七層の間の通路に立っていた。
「……空気が違う」
カインが、深呼吸した。
「楽だな」
「光苔の胞子が、ここには届いていません」
マルコが、目を細めたまま周囲を見回した。
「でも、まだダンジョンの中だな」
「そうです」
「任務は第七層まで到達だもんな」
その言葉が、空気を少し引き締めた。
全員が、前を向いた。
通路の奥に、また階段がある。
下に向かっている。
光はない。
第六層の発光は、ここまで届かない。
ゴルドが松明を持ち直した。
「サングラスは外してください。五分ほど経っています」
全員が、サングラスを外した。
暗い。
急激に視界が変わった。
だが、問題はない。
目の奥の痛みもない。
「洗浄を済ませます」
恒一が言った。
「荷物から水を出して、顔と手を拭います。装備の表面も」
「今ここで?」
「第七層に入る前に済ませます。胞子が残っていた場合、帰路に問題が出ます」
全員が、水を取り出した。
顔を拭う。
手を拭う。
外套の表面を拭う。
カインが、顔を拭いながら言った。
「几帳面だな、本当に」
「今やっておけば、後で考えなくて済みます」
「そうだな。正しいよ」
洗浄が終わった。
全員が、前を向いた。
階段が、目の前にある。
カインが、各自の状態を確認した。
「体力と怪我、確認する。カイン、七割、問題なし。マルコは?」
「同じくらい。足が少し疲れてるけど問題ない」
「リーナ」
「魔力が少し減っています。でも、まだ使えます」
「ゴルド」
「問題ない」
カインが、最後に恒一を見た。
「恒一」
「魔力は回復途中です。小型の召喚なら問題ありません」
「よし。全員いける」
カインが、階段の前に立った。
「俺が先頭。ゴルドが後ろ。恒一とリーナは中央を保て」
「分かりました」
「マルコ、槍を出しておけ」
「もう出てる」
「よし。行くぞ」
五人が、階段を下り始めた。
一段、また一段。
光が、完全に消えた。
恒一が、LEDライトを召喚した。
白い光が、石の通路を照らした。
壁に、何かが刻まれていた。
文字のようなものだ。
これまでの層では見なかった。
恒一は、足を止めて壁に近づいた。
「何かあるか?」
「文字です。ただし、読めません」
「俺も分からない。古い文字だ」
ゴルドが近づいた。
しばらく壁を見た。
「一部だけ、分かる」
「なんと書いてありますか」
「『帰れ』だ」
沈黙。
マルコが、乾いた笑いを出した。
「帰れって……親切だな」
「警告です。記録しておきます」
恒一が、手元の羊皮紙に文字を書いた。
「進みます」
歩き続けた。
通路が、少し広くなってきた。
壁の材質が変わっている。
これまでの層は自然の岩盤だったが、ここは明らかに人の手が加わっている。
石が、規則的に積まれている。
「……誰かが作ったのか、これ」
マルコが、壁を見た。
「遺跡です」
恒一が答えた。
「ここが本来の意味での深層遺跡、ということかもしれません」
「一層から六層は、ただのダンジョンだったのか?」
「その可能性があります。第七層が、遺跡の本体」
「そういうことか……」
カインが、前方に目を向けたまま言った。
「気を抜くなよ。広くなってきた」
通路の先が、開けた。
広間だ。
全員が、入口で立ち止まった。
広い。
天井が高い。
LEDライトの光が、端まで届かない。
横幅も、奥行きも、これまでの層の比ではない。
そして、中央に何かがある。
恒一は、目を細めた。
大きい。
高さは、天井近くまである。
形は、柱のようなものが複数組み合わさっている。
だが、ただの柱ではない。
表面に、入口の壁と同じ文字が刻まれている。
びっしりと。
隙間なく。
発光はしていない。
動いていない。
しかし、音がした。
風の音ではない。
水の音でもない。
低い。
一定ではない。
波のように、大きくなったり小さくなったりしている。
中央の構造物から、出ている。
全員が、動きを止めた。
リーナが、恒一の袖を引いた。
声にならない声で、何かを言おうとしている。
カインが、低い声で言った。
「……これが、第七層か」
「そうです」
恒一は、前を見たまま答えた。
記録を取ろうとした。
手が、羊皮紙の上で止まった。
書くべきことが、多すぎる。
いや、違う。
何を書けばいいのか、まだ分からない。
これまでの層は違った。
第一層は湿気、第二層は暗闇、第三層は毒霧、第四層は寒冷、第五層は瘴気、第六層は光。
どれも、入った瞬間に危険の性質が分かった。
だから対応できた。
しかし、ここは。
広間を見渡した。
構造物を見た。
音を聞いた。
分からない。
これまでの六層で出会ったどの環境とも、どの危険とも、カテゴリが違う。
恒一の中にある知識の引き出しが、対応するものを見つけられていない。
「……恒一」
カインが、静かに言った。
「どう思う」
恒一は、一拍置いた。
「判断できません」
カインが、恒一の顔を見た。
「お前が、判断できないと言うのか」
「今すぐには。情報が足りません」
「情報を集めるには?」
「時間と、調査が必要です」
沈黙。
誰も動かなかった。
音が、また波のように大きくなった。
そして、小さくなった。
マルコが、槍を構えたまま囁いた。
「……今日のところは、戻った方がよくないか」
「そうします」
恒一が、即座に言った。
「今日は情報収集の限界です。一度ギルドに戻り、記録を整理した上で、改めて調査します」
「ギルドは納得するか?」
「到達の確認はできました。第七層に足を踏み入れた記録もあります。しかし、これを正確に報告するには、私自身がまず理解する必要があります」
「それでいい」
カインが、きっぱりと言った。
「無理をする場所じゃない。今日は退く」
ゴルドが、無言で後退した。
それが全員への合図になった。
五人は、来た道を引き返し始めた。
音が、背後で続いている。
恒一は、歩きながら手元の羊皮紙に書いた。
「第七層。広間。中央に大型構造物。石造り。文字刻印あり。音の発生源。性質不明。要継続調査」
書いて、止まった。
「性質不明」。
この六層を通じて、一度も書かなかった言葉だ。
カインが、階段に差し掛かりながら恒一を見た。
「次で決着だな」
「そうです」
「準備できるか?」
恒一は、羊皮紙を折り畳んだ。
「します」
「それでいい」
五人は、第六層への階段を上り始めた。
来た道を戻る。
六つの層を、逆順に抜けていく。
地形は分かっている。
対策も分かっている。
行きより速いはずだ。
だが、恒一の頭の中は、すでに次のことを考えていた。
第七層。
あの構造物。
あの音。
分からないことは、調べるしかない。
調べるためには、何が必要か。
情報。
道具。
時間。
そして、また五人で戻ること。
足が、階段を踏んだ。
第六層の空気が、戻ってきた。
まだ終わっていない。
7
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