24 / 28
第2章
第24話「試練」
しおりを挟む
「始めます」
恒一が、声に出した。
鎖の前だ。
六本の鎖。
それぞれが壁から伸びて、アルティアの体に繋がっている。
表面に刻まれた文様が、わずかに光っている。
鎖が、揺れた。
次の瞬間、部屋の空気が変わった。
温度ではない。
圧力でもない。
何かが、変わった。
視界が、歪んだ。
「始まった」
アルティアの声が、どこか遠くから聞こえた。
「見えているものは、鎖が作り出したものだ。実際に起きていることではない」
「……分かりました」
恒一が答えた。
しかし次の瞬間、部屋ではない場所に立っていた。
第五層だった。
瘴気が満ちている。
視界が霞む。
鼻の奥に刺激がある。
しかし、空気清浄機がない。
恒一の手の平に、何も来なかった。
当然だ。
召喚できない。
しかしこれまで、第五層で空気清浄機なしに立ったことはなかった。
次に、第六層に立っていた。
光苔の密集地帯だ。
発光が強い。
目が痛い。
しかし、サングラスがない。
第四層。
寒い。
手が震える。
電気毛布がない。
光景が次々と変わった。
各層の、最も厳しい場所に立たされた。
道具なしで、一人で。
「道具がなければ、お前はここでは何もできない」
声ではなかった。
意味が、直接伝わってきた。
鎖からだ。
「道具があったから、ここまで来られた。道具がなければ、お前はただの人間だ」
恒一が、その光景を見た。
否定しようとした。
しかし、止まった。
「……そうです」
声に出した。
「道具がなければ、今の私はここの各層を一人では突破できません。それは事実です」
「ただし」
「道具を呼び出したのは私です。どれを使うか、どう使うか、いつ使うか、全部私が判断しました。道具がなくなっても、その判断をした者はまだここにいます」
「道具なしの私は弱い。しかし、道具なしの私が何者でもないということにはなりません」
光景が、消えた。
部屋が戻った。
一本の鎖が、音もなく、床に落ちた。
「……一つ目だ」
アルティアの声が聞こえた。
すぐに、視界が変わった。
広間だ。
四人が去った後の広間。
一人残された自分がいる。
時間が経過していく。
一日。
二日。
三日。
食料が減っていく。
水が減っていく。
仲間が、来ない。
「仲間は来ない。封鎖された。お前は一人だ。このまま、一人で終わる」
鎖の意味が、直接届いた。
恒一が、その光景を見た。
怖かった。
「……怖いです」
声に出した。
否定しなかった。
「仲間が来なければ、ここで終わる可能性はあります。それは事実です」
「ただし」
「怖いということは、信じているということです。信じていなければ、期待しない。期待しなければ、失われることも怖くない」
「……一人でいることが怖いのではありません。信じている人たちに会えなくなることが、怖いのです」
光景が消えた。
二本目の鎖が落ちた。
アルティアが静かに見ている。
何も言わない。
三度目の視界が来た。
元の世界だ。
しかし霞がかかっている。
輪郭がはっきりしない。
遠い光景だった。
「お前はガルダムの計画のために呼ばれた。道具として選ばれた。お前の意志など、最初から関係なかった」
「……ガルダムの道具として選ばれた、というのは事実です」
恒一が言った。
「ただし、今の私が何をするかは私が決めます。ガルダムが決めることではありません」
「本当にそう思っているか。元の世界に戻りたくないのか」
鎖の問いが、届いた。
恒一が、止まった。
長い間、止まった。
「……戻りたいかどうかを、今まで考えてこなかった」
声に出した。
「考えることを、避けていた」
「……正直に言います。分かりません。戻りたいかどうか、今の私には答えられません」
「ただし」
「今ここで終わっていないことがあります。アルティアさんがいます。仲間がいます。それが終わるまでは、ここにいます。終わった後のことは、その時に考えます」
光景が消えた。
三本目の鎖が落ちた。
アルティアが、無言で三本の鎖を見た。
視界が変わった。
部屋だ。
しかし、空気が違う。
重い。
冷たい。
これまでの試練とは、質が違う。
影が、床から立ち上がった。
形は人に近い。
しかし、顔がない。
色がない。
ただ、黒い輪郭だけがある。
輪郭の内側に、何もない。
まるで影だけが自立して動いているようだった。
「……何ですか、これは」
「四つ目だ」
アルティアの声が聞こえた。
「今度は、言葉では終わらない」
影が動いた。
速かった。
恒一が反応する前に、影の腕が恒一の胸に触れた。
痛みはなかった。
しかし、何かが削られた。
「……っ」
声が出た。
頭の中が、少し重くなった。
何か大切なものが薄くなったような感覚だった。
具体的に何が減ったのかが分からない。
分からないことが、余計に不安だった。
「怪我はしない」
アルティアの声が言った。
「しかし、受け続ければ動けなくなる。精神が削られていく」
「どうすれば終わりますか」
「倒せ」
「武器がありません。魔法も使えません」
「それでも、倒せ」
影が再び動いた。
恒一が動いた。
まず、影の動きを見た。
速さを測った。
方向を把握しようとした。
影が腕を振った。
恒一が後退した。
間に合わなかった。
肩に触れられた。
また、何かが削られた。
頭が重くなる。
「……考えます」
声に出した。
自分に言い聞かせるように。
「影の動きに規則性があるか、確認します」
影が動く。
恒一が避ける。
三度目で気づいた。
影は最初、必ず右から来る。
右を避けた。
避けられた。
しかし影は止まらない。
また来た。
今度は左から来た。
「……規則性が変化する」
避けようとした。
当たった。
また削られた。
何度目か、数えるのをやめた。
影の動きを読もうとした。
読めない。
読めないまま当たり続けた。
頭が重い。
足が重い。
どこも痛くないのに、動けなくなってきていた。
思考の速度が落ちている気がした。
「恒一」
アルティアの声だった。
「……まだです」
「無理をするな」
「無理かどうか、まだ分かりません」
影が来た。
両方から、同時に来た。
右は避けた。
左は当たった。
膝をついた。
影が、また立った。
また来ようとしている。
恒一が、膝をついたまま影を見た。
考えた。
考えようとした。
しかし頭が重くて、いつものように考えがまとまらない。
「……武器がない」
声に出した。
「魔法がない。速さでも勝てない。知識でも勝てない」
「では、何で戦うか」
影に、顔がない。
感情がない。
ただ動く。
それだけの存在だ。
恒一が、その事実を見た。
「……感情がないなら」
何かが、頭の中で繋がった。
「感情のない動きは、感情のある行動を予測できない」
立ち上がった。
影が来た。
今度は、恒一は避けなかった。
前に出た。
影がぶつかった。
削られた。
しかし恒一は止まらなかった。
影の方向に、体ごと踏み込んだ。
影の腕を掴もうとした。
掴めなかった。
しかし触れた瞬間、影が動きを一瞬だけ止めた。
「……触れることができる」
影が形を変えた。
不規則に動いた。
恒一が追いかけた。
読もうとするのをやめた。
付いていった。
予測ではなく、反応で動いた。
体が先に動くまで待った。
考えてから動くのではなく、動いてから考えた。
削られた。
それでも前に出た。
削られた。
それでも前に出た。
踏み込んだ。
触れた。
また触れた。
また触れた。
影の動きが、乱れた。
「……勝つのではなく、止めることを目標にします」
影が小さくなった。
形が崩れ始めた。
輪郭が揺れた。
恒一が、さらに前に出た。
また触れた。
また触れた。
影が、床に溶けた。
音もなく、消えた。
恒一が、その場に立っていた。
手が震えていた。
足が重かった。
頭がまだ重い。
しかし、立っていた。
四本目の鎖が、ゆっくりと床に落ちた。
「……倒しました」
「……そうだ」
アルティアが、少し間を置いてから言った。
「武器も魔法も使わずに、どうやった」
「感情のない動きは、感情のある行動を予測できない、と考えました。論理で対抗するのではなく、感情的に動くことで、かえって読まれにくくなると」
「……感情を、武器にした」
「そう言えるかもしれません」
アルティアが、何も言わなかった。
しばらく経ってから、静かに言った。
「……半分を越えた」
少し間があった。
恒一が息を整えた。
頭の重さが、少しずつ和らいでいく。
視界が、また変わった。
「……五つ目、ですか」
「そうだ」
アルティアの声が言った。
「今度は、違う種類だ」
部屋の中に、霧のようなものが広がっていた。
形がない。
色がない。
ただ、そこにある。
「何ですか、これは」
「感情の試練だ」
恒一が「……感情の」
「そうだ。お前は今まで、常に冷静を保ってきた。感情より判断を優先してきた。鎖は、それを知っている」
「何をすれば、終わりますか」
「感情を、表に出すことだ」
「……それだけですか」
「それだけだ。ただし、お前にとってそれが最も難しい可能性がある」
霧が、動いた。
霧の中に、光景が浮かんだ。
アルティアの部屋だ。
しかし、鎖が全て落ちている。
アルティアが床に倒れている。
「……アルティアさん」
恒一が「大丈夫ですか」
と言おうとした。
言葉が、出なかった。
霧が反応した。
アルティアの影が、薄くなり始めた。
「……感情を出せ、ということですか」
霧が答えない。
アルティアの声が、遠くから届いた。
「……感情を出すことは、お前にとって何が問題なのだ」
「問題があるとは、思っていません」
「しかし、出せていない」
恒一が「……出し方が、分かりません」
しばらく、沈黙があった。
「この世界に来て、嬉しかったことがあったか」
「……ありました」
「何が嬉しかった」
恒一が、少し考えた。
「仲間が戻ってくると言ってくれた時です。カインさんが「信じる」と言った時です」
「その時、どう思った」
「……安心しました」
「それだけか」
「……嬉しかったです」
霧が少し薄くなった。
しかし、アルティアの影はまだ薄いままだ。
「怒ったことはあるか」
「……あったかもしれません」
「あったか」
「……あります」
「何に怒った」
恒一が「……ガルダムに、だと思います」
「思います、ではなく」
恒一が止まった。
少し間があった。
「……ガルダムに、怒っています」
はっきりと言った。
「なぜ」
「アルティアさんを何百年も閉じ込めていたからです。転移者を道具のように扱っているからです。そして、私を計画の一部として呼んだからです」
「……怒っています。はっきりと」
霧が、また少し薄くなった。
しかし、まだ終わらない。
「悲しかったことはあるか」
「……」
恒一が止まった。
「この世界に来てから。あるいは、来る前でもいい」
長い沈黙があった。
「……あります」
声が、少し小さくなった。
「何が悲しかった」
恒一が「……今は、言えません」
「言えない、とはどういうことだ」
「……言葉にすると、崩れる気がします」
霧が、強くなった。
アルティアの影が、さらに薄くなった。
アルティアの声が「……言葉にしなくていい」
少し間があった。
「感じるだけでいい」
「感じる、とは」
「今、悲しいと思っていることを、そのまま持っていろ。言葉にしなくていい。ただ、目を逸らすな」
恒一が、目を閉じた。
暗闇の中に、何かがあった。
形のないものだった。
大きくも小さくもない。
どこかから持ってきたものではなく、最初からそこにあったものだ。
ずっとそこにあったのに、見ないようにしていたものだ。
「……あります」
声が出た。
少し、違う声だった。
いつもと、少し違う。
「目を逸らさずに、持っています」
霧が、動いた。
アルティアの影が、少し濃くなった。
「もう少しだ」
アルティアが言った「今、お前はどういう状態だ」
「……怖いです」
恒一が言った。
「怒っています。悲しいです。安心したいと思っています」
「全部、今感じているのか」
「……はい。全部、今同時にあります」
「それを、出せ。声に出せ」
「……怖いです」
「それだけか」
「……仲間に、会いたいです」
霧が薄くなった。
「……一人は、きつかったです」
言葉が、出てきた。
誰かに言うつもりはなかった。
準備していた言葉ではなかった。
ただ、出てきた。
出てきてから、恒一は少し驚いた。
自分がそう思っていたことに、気づいていなかった。
「一人は、きつかったです」
もう一度、言った。
霧が、消えた。
アルティアの影が、消えた。
部屋が戻った。
アルティアがそこにいた。
鎖の間の、いつもの場所に。
いつもと変わらない場所に。
五本目の鎖が、床に落ちた。
恒一は、その場に立っていた。
「……終わりましたか」
「そうだ」
少し間があった。
「今、お前が言ったことは、本当のことか」
「はい」
「一人は、きつかった、というのも」
「……はい」
アルティアが「……そうか」
それだけ言った。
部屋の中に、静かな時間が流れた。
「残り一本だ。しかし、今日はここまでだ」
「なぜですか」
「声が違う」
恒一が、自分の声を意識した。
いつもと違った。
少し、掠れていた。
少し、細かった。
「……そうですね」
「座れ。食料を食べろ。水を飲め。最後の試練は、明日だ」
恒一が、床に座った。
壁に背を預けた。
足が重かった。
どこにも行っていない。
ずっとこの部屋にいた。
しかし、重かった。
体ではなく、別の何かが重かった。
食料を取り出した。
食べた。
水を飲んだ。
五本の鎖が、床に落ちている。
最後の一本だけが、まだアルティアに繋がっていた。
「アルティアさん」
「なんだ」
「今日の試練の内容を、見ていましたか」
「……見えた。全部」
「そうですか」
しばらく、沈黙があった。
「……恒一」
「はい」
「一人は、きつかっただろう」
「……はい」
また、はっきりと言った。
今度は、すぐに言えた。
「そうか」
「よくやった」
アルティアが言った。
「四度目だ」
「そうですね」
アルティアが目を閉じた。
恒一も、壁にもたれたまま目を閉じた。
あと一本、ある。
明日、最後の試練を受ける。
どんな試練かは、分からない。
鎖が、恒一の内側を読んで、決める。
「……おやすみなさい」
声に出した。
今日は、誰に向けているか、少し分かった気がした。
恒一が、声に出した。
鎖の前だ。
六本の鎖。
それぞれが壁から伸びて、アルティアの体に繋がっている。
表面に刻まれた文様が、わずかに光っている。
鎖が、揺れた。
次の瞬間、部屋の空気が変わった。
温度ではない。
圧力でもない。
何かが、変わった。
視界が、歪んだ。
「始まった」
アルティアの声が、どこか遠くから聞こえた。
「見えているものは、鎖が作り出したものだ。実際に起きていることではない」
「……分かりました」
恒一が答えた。
しかし次の瞬間、部屋ではない場所に立っていた。
第五層だった。
瘴気が満ちている。
視界が霞む。
鼻の奥に刺激がある。
しかし、空気清浄機がない。
恒一の手の平に、何も来なかった。
当然だ。
召喚できない。
しかしこれまで、第五層で空気清浄機なしに立ったことはなかった。
次に、第六層に立っていた。
光苔の密集地帯だ。
発光が強い。
目が痛い。
しかし、サングラスがない。
第四層。
寒い。
手が震える。
電気毛布がない。
光景が次々と変わった。
各層の、最も厳しい場所に立たされた。
道具なしで、一人で。
「道具がなければ、お前はここでは何もできない」
声ではなかった。
意味が、直接伝わってきた。
鎖からだ。
「道具があったから、ここまで来られた。道具がなければ、お前はただの人間だ」
恒一が、その光景を見た。
否定しようとした。
しかし、止まった。
「……そうです」
声に出した。
「道具がなければ、今の私はここの各層を一人では突破できません。それは事実です」
「ただし」
「道具を呼び出したのは私です。どれを使うか、どう使うか、いつ使うか、全部私が判断しました。道具がなくなっても、その判断をした者はまだここにいます」
「道具なしの私は弱い。しかし、道具なしの私が何者でもないということにはなりません」
光景が、消えた。
部屋が戻った。
一本の鎖が、音もなく、床に落ちた。
「……一つ目だ」
アルティアの声が聞こえた。
すぐに、視界が変わった。
広間だ。
四人が去った後の広間。
一人残された自分がいる。
時間が経過していく。
一日。
二日。
三日。
食料が減っていく。
水が減っていく。
仲間が、来ない。
「仲間は来ない。封鎖された。お前は一人だ。このまま、一人で終わる」
鎖の意味が、直接届いた。
恒一が、その光景を見た。
怖かった。
「……怖いです」
声に出した。
否定しなかった。
「仲間が来なければ、ここで終わる可能性はあります。それは事実です」
「ただし」
「怖いということは、信じているということです。信じていなければ、期待しない。期待しなければ、失われることも怖くない」
「……一人でいることが怖いのではありません。信じている人たちに会えなくなることが、怖いのです」
光景が消えた。
二本目の鎖が落ちた。
アルティアが静かに見ている。
何も言わない。
三度目の視界が来た。
元の世界だ。
しかし霞がかかっている。
輪郭がはっきりしない。
遠い光景だった。
「お前はガルダムの計画のために呼ばれた。道具として選ばれた。お前の意志など、最初から関係なかった」
「……ガルダムの道具として選ばれた、というのは事実です」
恒一が言った。
「ただし、今の私が何をするかは私が決めます。ガルダムが決めることではありません」
「本当にそう思っているか。元の世界に戻りたくないのか」
鎖の問いが、届いた。
恒一が、止まった。
長い間、止まった。
「……戻りたいかどうかを、今まで考えてこなかった」
声に出した。
「考えることを、避けていた」
「……正直に言います。分かりません。戻りたいかどうか、今の私には答えられません」
「ただし」
「今ここで終わっていないことがあります。アルティアさんがいます。仲間がいます。それが終わるまでは、ここにいます。終わった後のことは、その時に考えます」
光景が消えた。
三本目の鎖が落ちた。
アルティアが、無言で三本の鎖を見た。
視界が変わった。
部屋だ。
しかし、空気が違う。
重い。
冷たい。
これまでの試練とは、質が違う。
影が、床から立ち上がった。
形は人に近い。
しかし、顔がない。
色がない。
ただ、黒い輪郭だけがある。
輪郭の内側に、何もない。
まるで影だけが自立して動いているようだった。
「……何ですか、これは」
「四つ目だ」
アルティアの声が聞こえた。
「今度は、言葉では終わらない」
影が動いた。
速かった。
恒一が反応する前に、影の腕が恒一の胸に触れた。
痛みはなかった。
しかし、何かが削られた。
「……っ」
声が出た。
頭の中が、少し重くなった。
何か大切なものが薄くなったような感覚だった。
具体的に何が減ったのかが分からない。
分からないことが、余計に不安だった。
「怪我はしない」
アルティアの声が言った。
「しかし、受け続ければ動けなくなる。精神が削られていく」
「どうすれば終わりますか」
「倒せ」
「武器がありません。魔法も使えません」
「それでも、倒せ」
影が再び動いた。
恒一が動いた。
まず、影の動きを見た。
速さを測った。
方向を把握しようとした。
影が腕を振った。
恒一が後退した。
間に合わなかった。
肩に触れられた。
また、何かが削られた。
頭が重くなる。
「……考えます」
声に出した。
自分に言い聞かせるように。
「影の動きに規則性があるか、確認します」
影が動く。
恒一が避ける。
三度目で気づいた。
影は最初、必ず右から来る。
右を避けた。
避けられた。
しかし影は止まらない。
また来た。
今度は左から来た。
「……規則性が変化する」
避けようとした。
当たった。
また削られた。
何度目か、数えるのをやめた。
影の動きを読もうとした。
読めない。
読めないまま当たり続けた。
頭が重い。
足が重い。
どこも痛くないのに、動けなくなってきていた。
思考の速度が落ちている気がした。
「恒一」
アルティアの声だった。
「……まだです」
「無理をするな」
「無理かどうか、まだ分かりません」
影が来た。
両方から、同時に来た。
右は避けた。
左は当たった。
膝をついた。
影が、また立った。
また来ようとしている。
恒一が、膝をついたまま影を見た。
考えた。
考えようとした。
しかし頭が重くて、いつものように考えがまとまらない。
「……武器がない」
声に出した。
「魔法がない。速さでも勝てない。知識でも勝てない」
「では、何で戦うか」
影に、顔がない。
感情がない。
ただ動く。
それだけの存在だ。
恒一が、その事実を見た。
「……感情がないなら」
何かが、頭の中で繋がった。
「感情のない動きは、感情のある行動を予測できない」
立ち上がった。
影が来た。
今度は、恒一は避けなかった。
前に出た。
影がぶつかった。
削られた。
しかし恒一は止まらなかった。
影の方向に、体ごと踏み込んだ。
影の腕を掴もうとした。
掴めなかった。
しかし触れた瞬間、影が動きを一瞬だけ止めた。
「……触れることができる」
影が形を変えた。
不規則に動いた。
恒一が追いかけた。
読もうとするのをやめた。
付いていった。
予測ではなく、反応で動いた。
体が先に動くまで待った。
考えてから動くのではなく、動いてから考えた。
削られた。
それでも前に出た。
削られた。
それでも前に出た。
踏み込んだ。
触れた。
また触れた。
また触れた。
影の動きが、乱れた。
「……勝つのではなく、止めることを目標にします」
影が小さくなった。
形が崩れ始めた。
輪郭が揺れた。
恒一が、さらに前に出た。
また触れた。
また触れた。
影が、床に溶けた。
音もなく、消えた。
恒一が、その場に立っていた。
手が震えていた。
足が重かった。
頭がまだ重い。
しかし、立っていた。
四本目の鎖が、ゆっくりと床に落ちた。
「……倒しました」
「……そうだ」
アルティアが、少し間を置いてから言った。
「武器も魔法も使わずに、どうやった」
「感情のない動きは、感情のある行動を予測できない、と考えました。論理で対抗するのではなく、感情的に動くことで、かえって読まれにくくなると」
「……感情を、武器にした」
「そう言えるかもしれません」
アルティアが、何も言わなかった。
しばらく経ってから、静かに言った。
「……半分を越えた」
少し間があった。
恒一が息を整えた。
頭の重さが、少しずつ和らいでいく。
視界が、また変わった。
「……五つ目、ですか」
「そうだ」
アルティアの声が言った。
「今度は、違う種類だ」
部屋の中に、霧のようなものが広がっていた。
形がない。
色がない。
ただ、そこにある。
「何ですか、これは」
「感情の試練だ」
恒一が「……感情の」
「そうだ。お前は今まで、常に冷静を保ってきた。感情より判断を優先してきた。鎖は、それを知っている」
「何をすれば、終わりますか」
「感情を、表に出すことだ」
「……それだけですか」
「それだけだ。ただし、お前にとってそれが最も難しい可能性がある」
霧が、動いた。
霧の中に、光景が浮かんだ。
アルティアの部屋だ。
しかし、鎖が全て落ちている。
アルティアが床に倒れている。
「……アルティアさん」
恒一が「大丈夫ですか」
と言おうとした。
言葉が、出なかった。
霧が反応した。
アルティアの影が、薄くなり始めた。
「……感情を出せ、ということですか」
霧が答えない。
アルティアの声が、遠くから届いた。
「……感情を出すことは、お前にとって何が問題なのだ」
「問題があるとは、思っていません」
「しかし、出せていない」
恒一が「……出し方が、分かりません」
しばらく、沈黙があった。
「この世界に来て、嬉しかったことがあったか」
「……ありました」
「何が嬉しかった」
恒一が、少し考えた。
「仲間が戻ってくると言ってくれた時です。カインさんが「信じる」と言った時です」
「その時、どう思った」
「……安心しました」
「それだけか」
「……嬉しかったです」
霧が少し薄くなった。
しかし、アルティアの影はまだ薄いままだ。
「怒ったことはあるか」
「……あったかもしれません」
「あったか」
「……あります」
「何に怒った」
恒一が「……ガルダムに、だと思います」
「思います、ではなく」
恒一が止まった。
少し間があった。
「……ガルダムに、怒っています」
はっきりと言った。
「なぜ」
「アルティアさんを何百年も閉じ込めていたからです。転移者を道具のように扱っているからです。そして、私を計画の一部として呼んだからです」
「……怒っています。はっきりと」
霧が、また少し薄くなった。
しかし、まだ終わらない。
「悲しかったことはあるか」
「……」
恒一が止まった。
「この世界に来てから。あるいは、来る前でもいい」
長い沈黙があった。
「……あります」
声が、少し小さくなった。
「何が悲しかった」
恒一が「……今は、言えません」
「言えない、とはどういうことだ」
「……言葉にすると、崩れる気がします」
霧が、強くなった。
アルティアの影が、さらに薄くなった。
アルティアの声が「……言葉にしなくていい」
少し間があった。
「感じるだけでいい」
「感じる、とは」
「今、悲しいと思っていることを、そのまま持っていろ。言葉にしなくていい。ただ、目を逸らすな」
恒一が、目を閉じた。
暗闇の中に、何かがあった。
形のないものだった。
大きくも小さくもない。
どこかから持ってきたものではなく、最初からそこにあったものだ。
ずっとそこにあったのに、見ないようにしていたものだ。
「……あります」
声が出た。
少し、違う声だった。
いつもと、少し違う。
「目を逸らさずに、持っています」
霧が、動いた。
アルティアの影が、少し濃くなった。
「もう少しだ」
アルティアが言った「今、お前はどういう状態だ」
「……怖いです」
恒一が言った。
「怒っています。悲しいです。安心したいと思っています」
「全部、今感じているのか」
「……はい。全部、今同時にあります」
「それを、出せ。声に出せ」
「……怖いです」
「それだけか」
「……仲間に、会いたいです」
霧が薄くなった。
「……一人は、きつかったです」
言葉が、出てきた。
誰かに言うつもりはなかった。
準備していた言葉ではなかった。
ただ、出てきた。
出てきてから、恒一は少し驚いた。
自分がそう思っていたことに、気づいていなかった。
「一人は、きつかったです」
もう一度、言った。
霧が、消えた。
アルティアの影が、消えた。
部屋が戻った。
アルティアがそこにいた。
鎖の間の、いつもの場所に。
いつもと変わらない場所に。
五本目の鎖が、床に落ちた。
恒一は、その場に立っていた。
「……終わりましたか」
「そうだ」
少し間があった。
「今、お前が言ったことは、本当のことか」
「はい」
「一人は、きつかった、というのも」
「……はい」
アルティアが「……そうか」
それだけ言った。
部屋の中に、静かな時間が流れた。
「残り一本だ。しかし、今日はここまでだ」
「なぜですか」
「声が違う」
恒一が、自分の声を意識した。
いつもと違った。
少し、掠れていた。
少し、細かった。
「……そうですね」
「座れ。食料を食べろ。水を飲め。最後の試練は、明日だ」
恒一が、床に座った。
壁に背を預けた。
足が重かった。
どこにも行っていない。
ずっとこの部屋にいた。
しかし、重かった。
体ではなく、別の何かが重かった。
食料を取り出した。
食べた。
水を飲んだ。
五本の鎖が、床に落ちている。
最後の一本だけが、まだアルティアに繋がっていた。
「アルティアさん」
「なんだ」
「今日の試練の内容を、見ていましたか」
「……見えた。全部」
「そうですか」
しばらく、沈黙があった。
「……恒一」
「はい」
「一人は、きつかっただろう」
「……はい」
また、はっきりと言った。
今度は、すぐに言えた。
「そうか」
「よくやった」
アルティアが言った。
「四度目だ」
「そうですね」
アルティアが目を閉じた。
恒一も、壁にもたれたまま目を閉じた。
あと一本、ある。
明日、最後の試練を受ける。
どんな試練かは、分からない。
鎖が、恒一の内側を読んで、決める。
「……おやすみなさい」
声に出した。
今日は、誰に向けているか、少し分かった気がした。
10
あなたにおすすめの小説
才能に打ち砕かれた日から、僕の最強は始まった
雷覇
ファンタジー
ワノクニ、蒼神流・蒼月道場。
天城蒼真は幼き頃から剣を学び、努力を重ねてきた。
だがある日、異世界から来た「勇者」瀬名隼人との出会いが、すべてを変える。
鍛錬も経験もない隼人は、生まれながらの天才。
一目見ただけで蒼真と幼馴染の朱音の剣筋を見切り、打ち破った。
朱音は琴音の命で、隼人の旅に同行することを決意する。
悔しさを抱えた蒼真は、道場を後にする。
目指すは“修羅の山”――魔族が封印され、誰も生きて戻らぬ死地へと旅立つ。
異世界転移したので旅してみました
松石 愛弓
ファンタジー
ある日、目覚めたらそこは異世界で。勇者になってと頼まれたり、いろんな森や町を旅してみることにしました。
ゆる~い感じののんびりほんわかなんでやねん路線の地味系主人公です。
気楽に読めるものを目指しています。よろしくお願いします。毎週土曜日更新予定です。
異世界配信中。幼馴染みに捨てられた俺に、神々(視聴者)がコメントしてくるんだが。
葉月
ファンタジー
コルネ村で、幼なじみであり恋人でもあったユリアナと、ささやかな幸福を分かち合って生きていたロイド。
だがある日、ユリアナは女神の愛子として目覚め、国王の命により王都へと連れ去られる。
突然、日常を奪われ、運命に引き裂かれたロイドは、抗う術も持たぬまま、否応なく大きな流れへと呑み込まれていく。
これは、奪われたものを取り戻すため、そして理不尽な運命に抗おうとする、一人の少年の物語である。
俺のスキルが回復魔『法』じゃなくて、回復魔『王』なんですけど?
八神 凪
ファンタジー
ある日、バイト帰りに熱血アニソンを熱唱しながら赤信号を渡り、案の定あっけなくダンプに轢かれて死んだ
『壽命 懸(じゅみょう かける)』
しかし例によって、彼の求める異世界への扉を開くことになる。
だが、女神アウロラの陰謀(という名の嫌がらせ)により、異端な「回復魔王」となって……。
異世界ペンデュース。そこで彼を待ち受ける運命とは?
精霊さんと一緒にスローライフ ~異世界でも現代知識とチートな精霊さんがいれば安心です~
舞
ファンタジー
かわいい精霊さんと送る、スローライフ。
異世界に送り込まれたおっさんは、精霊さんと手を取り、スローライフをおくる。
夢は優しい国づくり。
『くに、つくりますか?』
『あめのぬぼこ、ぐるぐる』
『みぎまわりか、ひだりまわりか。それがもんだいなの』
いや、それはもう過ぎてますから。
魔力0の貴族次男に転生しましたが、気功スキルで補った魔力で強い魔法を使い無双します
burazu
ファンタジー
事故で命を落とした青年はジュン・ラオールという貴族の次男として生まれ変わるが魔力0という鑑定を受け次男であるにもかかわらず継承権最下位へと降格してしまう。事実上継承権を失ったジュンは騎士団長メイルより剣の指導を受け、剣に気を込める気功スキルを学ぶ。
その気功スキルの才能が開花し、自然界より魔力を吸収し強力な魔法のような力を次から次へと使用し父達を驚愕させる。
「クビにされた俺、幸運スキルでスローライフ満喫中」
チャチャ
ファンタジー
突然、蒼牙の刃から追放された冒険者・ハルト。
だが、彼にはS級スキル【幸運】があった――。
魔物がレアアイテムを落とすのも、偶然宝箱が見つかるのも、すべて彼のスキルのおかげ。
だが、仲間は誰一人そのことに気づかず、無能呼ばわりしていた。
追放されたハルトは、肩の荷が下りたとばかりに、自分のためだけの旅を始める。
訪れる村で出会う人々。偶然拾う伝説級の装備。
そして助けた少女は、実は王国の姫!?
「もう面倒ごとはごめんだ」
そう思っていたハルトだったが、幸運のスキルが運命を引き寄せていく――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる