残業帰りのカフェで──止まった恋と、動き出した身体と心

yukataka

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第2章「常連客の笑顔」

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翌日の夜も、亜季は残業だった。
今日は午後九時に仕事を終えることができた。昨日よりは早い。でも、疲れは変わらない。
「お疲れ様です」
オフィスを出て、エレベーターに乗る。今日は終電まで一時間近くある。珍しく余裕がある夜だった。
駅に向かって歩きながら、亜季は自然とあのカフェの方向に足が向いていた。
(また、行ってみようかな)
昨日見た男性のことを思い出す。窓際の席で、パソコンに向かっていた人。微笑んで、手を振ってくれた人。
今日もいるだろうか。
そんなことを考えている自分に、少し驚く。誰かに会いたいと思うなんて、久しぶりだった。
「CAFÉ LUMIÈRE」の前に着くと、ガラス越しに店内を覗き込んだ。
いた。
窓際の席に、昨日と同じ男性が座っていた。今日はグレーのニットを着て、やっぱりパソコンに向かっている。
亜季は一瞬躊躇した。
(入っていいのかな)
変な考えだと自分でも思う。ここは公共のカフェだ。誰が入ってもいい。でも、まるで誰かに会いに行くような気持ちになっていた。
深呼吸をして、扉を開ける。
「いらっしゃいませ」
店主の声が聞こえる。亜季が入ると、店主は少し驚いた様子で笑った。
「今日は早いですね」
「ええ、珍しく」
そう答えながら、いつもの席に向かう。窓際の男性は、こちらに気づいて顔を上げた。
目が合う。
男性は微笑んで、軽く会釈をした。亜季も会釈を返す。
「ホットコーヒーをお願いします」
「かしこまりました」
席に座って、コートを脱ぐ。今日は少し落ち着いて座れる。終電まで時間があるから、焦る必要がない。
スマートフォンを出すと、会社のメールが何件か届いていた。でも、今は見たくない。仕事のことは、明日考えればいい。
コーヒーが運ばれてきた。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
カップを両手で包んで、一口飲む。温かさが体に染み渡る。
ふと、隣の席から声がかけられた。
「いつもお疲れ様です」
顔を上げると、窓際の男性が立っていた。手にはコーヒーカップを持っている。
「あ、えっと…」
亜季は戸惑った。話しかけられるとは思っていなかった。
「すみません、急に話しかけて。でも、よくお見かけするので」
男性は落ち着いた声で言った。押し付けがましさはない。ただ、自然に話しかけてきた。
「あ、はい。私もよくここに来るので」
「やっぱり。僕もここの常連なんです」
男性は穏やかに笑った。
「あの、よかったら…隣、座ってもいいですか?一人で飲むのも飽きてきて」
亜季は一瞬躊躇した。でも、断る理由も思いつかなかった。
「…どうぞ」
「ありがとうございます」
男性は亜季の向かいの席に座った。近くで見ると、思ったより若く見える。でも、目元には少し疲れが見える。
「佐久間悠斗といいます。フリーランスでデザインの仕事をしています」
「高梨亜季です。広告代理店で働いています」
「広告関係なんですね。それは…大変そうですね」
悠斗は同情するような表情を浮かべた。
「ええ、まあ。毎日残業で」
「このカフェに来るのも、仕事帰りですか?」
「そうです。終電前に少しだけ」
「僕もです。家で仕事してると、どうしても煮詰まってしまって。だから夜はここで作業するようにしてるんです」
悠斗はパソコンを指差した。画面には、何かのデザインが映っている。
「デザインって、どんな?」
「主にWebデザインです。企業のサイトとか、アプリのUIとか。たまにパンフレットのデザインもやります」
「それは、一人で全部?」
「基本的には。たまに、大きいプロジェクトだと他のデザイナーと組むこともありますけど」
悠斗はコーヒーを一口飲んだ。
「高梨さんは、広告代理店でどんな仕事を?」
「企画とプランニングです。クライアントの要望を聞いて、広告の企画を立てて、制作チームに指示を出す感じです」
「それは…責任重そうですね」
「重いです。クライアントからの無理な要求も多いし、納期はいつもギリギリだし」
亜季は少し愚痴っぽくなってしまった。でも、悠斗は嫌な顔をせずに聞いていた。
「わかります。僕も、クライアントから『もっとオシャレに』とか『若者っぽく』とか、曖昧な指示をもらうことが多くて。何度も修正して、結局最初の案に戻ったりとか」
「わかります!それ、すごくわかります」
亜季は思わず声を上げた。
「『最初の案が良かった』って言われると、じゃあ最初から言ってくださいって思いますよね」
「本当に。時間の無駄ですよね」
二人は顔を見合わせて笑った。
初めて会った人なのに、妙に話しやすい。仕事の話をしているだけなのに、共感できることが多い。
「高梨さんは、広告の仕事、好きですか?」
悠斗が急に聞いた。
「好き…ですかね?」
亜季は少し考えた。
「昔は好きでした。大学で広告を学んで、この業界に入って。最初の頃は、自分の企画が形になるのが楽しくて」
「今は?」
「今は…わからないです。ただ、やらなきゃいけないことをこなしているだけ、みたいな」
そう言ってから、亜季は少し後悔した。初対面の人に、こんなネガティブなことを言ってしまって。
でも、悠斗は優しく微笑んだ。
「わかります。僕も、フリーランスになったばかりの頃は楽しかったです。自分の好きなデザインができるって思って。でも、現実は違って」
「どう違うんですか?」
「結局、クライアントの言いなりなんですよね。自分の好きなデザインじゃなくて、クライアントが求めるデザイン。それが必ずしも良いデザインとは限らない」
悠斗は少し苦笑した。
「でも、それで食べていかなきゃいけないから。好きなことを仕事にするって、難しいですね」
「本当に」
亜季はコーヒーを飲んだ。少しぬるくなっていた。
「でも、佐久間さんは、フリーランスで続けてるんですよね?」
「ええ。会社員時代もあったんですけど、組織に馴染めなくて。上司との関係とか、社内政治とか、そういうのが苦手で」
「わかります。私も、社内の調整が一番疲れます」
「ですよね。だから、一人でやる方が気楽だなって思って独立しました。収入は不安定ですけど、自分のペースで仕事ができるのは楽です」
悠斗は窓の外を見た。
「でも、たまに孤独を感じます。一人で仕事してると、誰とも話さない日が続いたりして」
「それも、わかります」
亜季も窓の外を見た。夜の街は、冷たい光に照らされている。
「私も、会社では人と話すけど、仕事の話だけ。プライベートな話はほとんどしないし」
「休日は?」
「一人で過ごすことが多いです。洗濯して、掃除して、録画したドラマ見て。それで終わり」
そう言ってから、亜季は自分の生活の寂しさに気づいた。
「…寂しい生活ですね、私」
「そんなことないですよ」
悠斗は優しく言った。
「僕も同じです。休日は、家で仕事の続きをするか、こうやってカフェに来るか。友達と会うこともあるけど、みんな結婚したり子供ができたりで、だんだん疎遠になってきて」
「わかります。私も、友達はみんな結婚してて。会うと『いい人いないの?』って聞かれるのが…」
「辛いですよね」
悠斗は共感するように頷いた。
「僕も、親戚の集まりとか行くと『結婚しないの?』って言われます。もう三十六なのに、まだ独身だって」
「三十六…私は三十四です」
「じゃあ、同世代ですね」
悠斗は微笑んだ。
二人はしばらく黙って、コーヒーを飲んだ。
沈黙は、気まずくなかった。むしろ、心地よかった。
店内には、静かなジャズが流れている。他の客も、それぞれの時間を過ごしている。
「あの」
亜季が口を開いた。
「また、ここで会ったら…話してもいいですか?」
悠斗は少し驚いた表情を見せた。それから、嬉しそうに笑った。
「もちろんです。僕も、誰かと話せるのは嬉しいです」
「よかった」
亜季はほっとした。
それから、二人はまた少し話をした。好きな音楽のこと、最近見た映画のこと、仕事の愚痴のこと。
時計を見ると、もう十時半を過ぎていた。
「あ、もうこんな時間」
亜季は慌てて立ち上がった。
「帰らないと」
「そうですね。僕ももう少ししたら帰ります」
悠斗も立ち上がった。
「今日は、ありがとうございました。楽しかったです」
「こちらこそ。また、ここで会いましょう」
「はい」
亜季は会計を済ませて、店を出た。
外はもう真っ暗で、冷たい風が吹いていた。でも、心は温かかった。
駅に向かって歩きながら、亜季は今日のことを思い返していた。
悠斗という名前。フリーランスのデザイナー。三十六歳。独身。
共通点が多い。話しやすい。一緒にいて、緊張しない。
(また、会いたいな)
そう思った。
電車に乗って、窓に映る自分の顔を見る。今日は、笑顔だった。
家に着いて、シャワーを浴びて、ベッドに入る。
スマートフォンを見ると、美咲から連絡が来ていた。
『今度の日曜、やっぱり会えない?久しぶりに話したいな』
亜季は少し考えて、返信した。
『ごめん、やっぱり仕事で。また今度ね』
嘘だった。日曜日は空いている。でも、今は誰にも会いたくなかった。
誰にも、今日のことを話したくなかった。
悠斗との会話は、自分だけの秘密にしておきたかった。
部屋の灯りを消して、目を閉じる。
悠斗の笑顔が浮かぶ。優しい声が聞こえる。
(また、明日も会えるかな)
そう思いながら、亜季は眠りについた。
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